魔法戦士養成学校の万能戦士   作:駄文亭

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第20話 今、願う

 工房を出た時、グンヒルダの右肩は空いたままだった。

 

 工具袋はアルマニアが持っている。

 

 ニンはグンヒルダの左肩へ止まり、ギンはアルマニアの頭の上で、革紐へ嘴を引っかけていた。

 

「肩より、頭の方が重いです」

 

「あたしに返すかい?」

 

「工具袋の話です」

 

「ギンの話じゃなかったのか」

 

 グンヒルダは左手でニンの胸を撫でた。

 

 半刻だけとはいえ、久しぶりに工房の仕事へ触れられたためか、神殿を出た時より足取りが軽い。

 

 右腕も自然に振れている。

 

 だからといって、工具袋を返してよい理由にはならなかった。

 

「今日は検品と指示だけです」

 

「分かってるよ」

 

「右手で工具を持たない」

 

「分かってる」

 

「半刻ごとに休む」

 

「三度も言わなくていい」

 

「三度とも返事が違いました」

 

「細かいね」

 

「仕事でしょう?」

 

 グンヒルダが言葉に詰まる。

 

 少し後ろを歩いていた神官戦士が、笑いを押し殺すように咳払いした。

 

「次の課題は神殿へ戻ってからですか?」

 

 アルマニアが尋ねる。

 

「もう伝えた」

 

「願うべき時に選べるか、ですね」

 

「そうだ」

 

「訓練用の負傷者が待っているのですか?」

 

「都合よく傷ついて待つ者はいない」

 

「では、どうやって確かめるんです?」

 

「必要な時が来れば分かる」

 

「来なければ?」

 

「来ない方がよい」

 

 神官戦士はそれきり答えなかった。

 

 職人街を抜け、マイリーの神殿へ続く緩い坂へ差しかかる。

 

 通りには、荷車の車輪が石畳を鳴らす音と、工房から漏れる槌音が重なっていた。

 

 その中へ、ひときわ甲高い金属音が混じった。

 

 ギンとニンが、同時に翼を広げる。

 

「伏せて!」

 

 グンヒルダの声が飛んだ。

 

 坂の上から下ってきた二輪の荷車が、右へ大きく傾いた。

 

 車軸から抜けた鉄の留め栓が石畳を跳ね、右の車輪が外れる。

 

 荷台の角が地面を削り、積まれていた木箱が片側へ滑った。

 

 一番大きな荷は、人の胸ほどもある円い砥石だった。

 

 太い縄で荷台へ縛られているが、その縄が軋み、一本ずつ毛羽立っていく。

 

 荷車の脇を歩いていた幼い徒弟が、何が起きたか分からないまま立ち尽くしていた。

 

 後ろから、年長の荷運びが飛びつく。

 

 徒弟を突き飛ばした直後、傾いた荷台の鉄金具が若者の左腿を打った。

 

 身体が回り、石畳へ倒れる。

 

 砥石を留めた縄が、一本切れた。

 

「砥石へ触るんじゃない!」

 

 駆け寄ろうとした職人たちを、グンヒルダが止めた。

 

「低い側を持ち上げたら、残った縄が切れる。左の車輪へ車止めを入れな! 荷台の後ろへは誰も立つな!」

 

 十六歳の少女の声だった。

 

 だが、何をすれば荷が落ちるかを知っている職人の声でもあった。

 

 近くの工房から二人が木の楔を持ち出し、残った車輪の前後へ打ち込む。

 

 別の男が、荷台の高い側へ太い支柱を差し入れた。

 

 グンヒルダは右手を出しかけ、途中で止める。

 

 代わりに左手で、支柱を置く場所を指した。

 

「そこじゃ浅い! 敷石の継ぎ目へ入れな!」

 

 アルマニアは、飛び立った二羽の目を借りた。

 

 ギンの目には、傾いた荷車と、砥石の下から外へ伸びる切れかけの縄が見える。

 

 ニンの目には、倒れた若者と、その脇で泣いている徒弟が映っていた。

 

 荷車の下に、人はいない。

 

 砥石の転がる先にも、残っている者はいない。

 

 必要なことだけを確かめ、二羽との感覚を浅くする。

 

 二つの空を見ながら、傷ついた一人を診ることはできない。

 

「左からなら近づけるか」

 

 神官戦士がグンヒルダへ聞いた。

 

「楔が入った。支柱も利いてる。今なら」

 

「アルマニア」

 

「はい」

 

 二人は荷車の左側から、倒れた若者へ駆け寄った。

 

     ◇

 

 若者は意識を失っていなかった。

 

 だが、顔から血の気が引き、息が浅く速い。

 

 左腿の布が裂け、その下から流れ出した血が石畳を濡らしていた。

 

 アルマニアは工具袋を下ろし、自分の外套を脱いだ。

 

 きれいな内側をたたみ、傷口へ押し当てる。

 

 布が、すぐに重くなった。

 

「名前を言えますか?」

 

「ロ、ロット……」

 

「息苦しさは?」

 

「ない……あいつは?」

 

 若者の目が、泣いている徒弟を探して動く。

 

「無事です。あなたが押し出しました」

 

「そう、か……」

 

 安堵した途端、身体から力が抜けた。

 

「眠らないでください。僕を見て」

 

 アルマニアは両手へ力を込める。

 

 血は止まらない。

 

 傷がどこまで深いのか、骨まで届いているのか、アルマニアには分からなかった。

 

 押さえた布を外せば確かめられる。

 

 だが、確かめている間にも血は失われる。

 

「何が分かる」

 

 向かいへ膝をついた神官戦士が聞いた。

 

「出血が続いています。呼びかけには答えます。頭と胸を打った様子はありません」

 

「分からないことは?」

 

「傷の深さ。骨と血管の状態。どこまで治癒が届くか」

 

「なら、すべて分かるまで待つか」

 

 昨日の工房で、アルマニアは祈らなかった。

 

 グンヒルダの手には、急いで塞がなければ失われる傷がなかったからだ。

 

 いまは違う。

 

 分からないことを一つずつ確かめている間にも、目の前の若者から命が流れ出している。

 

 治癒の祈りが、折れた骨も、流れた血も、その後の休養もすべて解決するとは限らない。

 

 それでも、いま閉じるべき傷はある。

 

「待ちません」

 

 アルマニアは、傷を押さえた両手を離さなかった。

 

 神聖魔法には、発動体も複雑な身振りもいらない。

 

 血に濡れた手で傷を押さえたまま、信じる神へ願うことができる。

 

「勇をもって人を守る者を見守りたもう、戦神マイリーよ。この者から失われゆく命をつなぎ、再び立つ力を与えたまえ——キュアー・ウーンズ」

 

 温かな光が、アルマニアの手の下へ生まれた。

 

 外套へ染み込んでいた血が金色に照らされる。

 

 掌の奥で、裂けた肉が寄り、流れ続けていた血の勢いが弱まった。

 

 光が消えても、アルマニアはすぐに手を離さなかった。

 

「祈りは届いたぞ」

 

 神官戦士が言う。

 

「はい」

 

「なら、いつまで押さえる」

 

「止まったことを確かめるまでです」

 

 若者の呼吸は、まだ速い。

 

 顔色も戻っていない。

 

 治癒が届いたことと、立ち上がれることは違う。

 

 アルマニアはゆっくりと片手だけを上げ、布の下を確かめた。

 

 傷は閉じている。

 

 新しい血も、ほとんどにじまない。

 

 それでも、汚れた外套をそのまま巻きつけはしなかった。

 

「きれいな布を」

 

 グンヒルダが、左手だけで自分の腰袋を外した。

 

「工具袋の横。油を染み込ませてない布が入ってる」

 

 アルマニアは片手で袋を開き、畳まれた白布を取り出した。

 

 傷へ当て、革紐で留める。

 

 若者が上体を起こそうとした。

 

「動かないで」

 

「荷を……親方に、届けないと」

 

「車輪が外れています」

 

「直せば」

 

「あなたが直す必要はありません」

 

「でも、俺の仕事だ」

 

 アルマニアは、グンヒルダを見た。

 

 昨日と同じ言葉だった。

 

 自分の工房。

 

 自分の仕事。

 

 だから戻りたい。

 

 グンヒルダは、若者ではなく傾いた荷車を見ている。

 

「今日、あの荷車は動かせないよ」

 

「車輪を戻せば」

 

「留め栓が痩せてる。軸穴も広がってる。車輪だけ戻したら、次は坂の途中で丸ごと抜ける」

 

 彼女は左手で、石畳へ転がった鉄の栓を拾い上げた。

 

「運ぶなら別の荷車へ積み替える。あんたが寝ていてもできる仕事だ」

 

 若者は何か言い返そうとしたが、唇から声が出なかった。

 

 身体が小さく震えている。

 

「担架がいります」

 

 アルマニアが言うと、通り沿いの店主が木戸を外して持ってきた。

 

 毛布を重ね、その上へ若者を横たえる。

 

 神官戦士と荷運びの一人が、前後を持ち上げた。

 

「僕も持ちます」

 

「お前は隣を歩け」

 

「ですが」

 

「顔色と呼吸を見る者が必要だ。運ぶことだけが仕事ではない」

 

 アルマニアは頷き、担架の脇へついた。

 

 グンヒルダは、その場に残る。

 

「来ないんですか?」

 

「荷車を動かす前に、親方へ壊れた場所を見せる。誰かが留め栓だけ取り替えたら、また同じことが起きるからね」

 

「右手は?」

 

「使わないよ」

 

「半刻は?」

 

「あんたが戻るまでに終わらせる」

 

「それは時間ではありません」

 

「怪我人を先に見な!」

 

 翡翠色の三つ編みが飛んでくる前に、アルマニアは担架を追った。

 

     ◇

 

 若者は、マイリー神殿の施療院へ運び込まれた。

 

 神官が布を外し、傷と脚の動きを確かめる。

 

 骨は折れていなかった。

 

 治癒の祈りによって深い傷も閉じている。

 

 だが、失った血と身体の震えが戻るまで、少なくとも今日は寝台から下ろさないと言われた。

 

「治ったのに?」

 

 若者が尋ねる。

 

「傷が閉じたのです」

 

 アルマニアは答えた。

 

「荷を運べる身体へ戻ったとは、まだ誰も言っていません」

 

「あの小さい職人と、同じことを言うんだな」

 

「彼女に教わりました」

 

「怖い師匠だ」

 

「師匠ではありません。相棒です」

 

 自分で言ってから、少しだけ落ち着かない。

 

 グンヒルダがいないうちでよかったと思った。

 

 寝台の向こうから、小さな足音が近づく。

 

 助けられた徒弟が、荷運びの親方に連れられてきた。

 

 泣き腫らした目で若者の顔を確かめると、寝台の脇へ座り込む。

 

「ロット兄ちゃん、ごめん」

 

「お前が謝るなよ」

 

「でも」

 

「次は、音がしたら先に逃げろ」

 

「兄ちゃんも」

 

「俺は……」

 

 若者がアルマニアを見る。

 

「寝ていてください」

 

「だそうだ」

 

 二人が笑ったのを確かめ、アルマニアは診察室の外へ出た。

 

 廊下には、神官戦士が待っていた。

 

 腕を組み、壁へ背を預けている。

 

「課題だったんですか?」

 

「事故を起こした覚えはない」

 

「そうではなく」

 

「必要な時が来た。お前は選んだ。なら、確認はする」

 

 男は二人の名前を書いた木片を取り出した。

 

 グンヒルダの欄は、まだ空いている。

 

「なぜ願った」

 

「血が失われ続けていたからです」

 

「傷の深さも分からなかった」

 

「分かるまで待つことが、いまは一番危険でした」

 

「昨日は、分からぬまま祈らなかった」

 

「昨日は待てました。今日は待つほど悪くなりました」

 

「荷車は、完全には安全になっていなかったぞ」

 

「グンヒルダが、左からなら近づけると言いました」

 

「自分では確かめなかったのか」

 

「ギンとニンの目で、人が下にいないことだけは見ました。でも、荷の支え方は僕よりグンヒルダの方が分かります」

 

 自分で全部を確かめてから動けば、遅れる。

 

 専門家の判断を待たずに飛び込めば、救助する者まで荷の下敷きになる。

 

 今回は、グンヒルダが荷車を止めた。

 

 アルマニアは傷を止めた。

 

「祈りが届かなければ、どうした」

 

「押さえ続け、すぐ運びました」

 

「届いたあとは?」

 

「押さえて、傷を覆い、運びました」

 

「同じではないか」

 

「はい」

 

 アルマニアは、血の染みた自分の外套を見た。

 

「祈りは、ほかの仕事をしなくてよくなる魔法ではありません」

 

「では、何のために願った」

 

「神殿まで生きて運ぶ時間をつなぐためです」

 

 神官戦士は木片へ羽根筆を走らせた。

 

 プリースト技能の欄に、新しい段階は加えられなかった。

 

 代わりに、昨日、工房で記された言葉の隣へ、一行が書き足された。

 

 願うべき時には、すべてを知るまで待たない。

 

 ただし、祈りへすべてを預けない。

 

「合格ですか?」

 

「一度、必要な時を選んだ」

 

「なら、覚えたところですね」

 

「そうだ」

 

「できたではなく?」

 

「一度の事故で、すべての傷を見極められると思うか」

 

「思いません」

 

「なら、聞くな」

 

 聞き慣れた答えだった。

 

 廊下の向こうから、工具袋を抱えた荷運びの親方と並んで、グンヒルダが歩いてくる。

 

 彼女の両肩は空いていた。

 

「自分で持たなかったんですね」

 

「約束だろ」

 

「覚えていたんですか?」

 

「相棒がうるさいからね」

 

 グンヒルダは、神官戦士の木片をのぞき込んだ。

 

「覚えたまで?」

 

「はい」

 

「よろしい」

 

「そこは、グンヒルダが決めるんですか?」

 

「相棒が眠ってないか、起こす役だからね」

 

 荷運びの親方が、工具袋をアルマニアへ渡した。

 

 代わりに、戻ってきたニンがグンヒルダの左肩へ降りる。

 

 ギンはアルマニアの頭へ止まった。

 

「やはり、頭の方が重いです」

 

「工具袋と取り替えるかい?」

 

「ギンの話です」

 

「聞こえたら、つつかれるよ」

 

 言われた直後、頭へ嘴が落ちてきた。

 

 アルマニアは工具袋を抱え、神殿の廊下を逃げる。

 

 グンヒルダは右手を使わず、左手だけで三つ編みを投げた。

 

 今度は、誰も彼女を止めなかった。

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