工房を出た時、グンヒルダの右肩は空いたままだった。
工具袋はアルマニアが持っている。
ニンはグンヒルダの左肩へ止まり、ギンはアルマニアの頭の上で、革紐へ嘴を引っかけていた。
「肩より、頭の方が重いです」
「あたしに返すかい?」
「工具袋の話です」
「ギンの話じゃなかったのか」
グンヒルダは左手でニンの胸を撫でた。
半刻だけとはいえ、久しぶりに工房の仕事へ触れられたためか、神殿を出た時より足取りが軽い。
右腕も自然に振れている。
だからといって、工具袋を返してよい理由にはならなかった。
「今日は検品と指示だけです」
「分かってるよ」
「右手で工具を持たない」
「分かってる」
「半刻ごとに休む」
「三度も言わなくていい」
「三度とも返事が違いました」
「細かいね」
「仕事でしょう?」
グンヒルダが言葉に詰まる。
少し後ろを歩いていた神官戦士が、笑いを押し殺すように咳払いした。
「次の課題は神殿へ戻ってからですか?」
アルマニアが尋ねる。
「もう伝えた」
「願うべき時に選べるか、ですね」
「そうだ」
「訓練用の負傷者が待っているのですか?」
「都合よく傷ついて待つ者はいない」
「では、どうやって確かめるんです?」
「必要な時が来れば分かる」
「来なければ?」
「来ない方がよい」
神官戦士はそれきり答えなかった。
職人街を抜け、マイリーの神殿へ続く緩い坂へ差しかかる。
通りには、荷車の車輪が石畳を鳴らす音と、工房から漏れる槌音が重なっていた。
その中へ、ひときわ甲高い金属音が混じった。
ギンとニンが、同時に翼を広げる。
「伏せて!」
グンヒルダの声が飛んだ。
坂の上から下ってきた二輪の荷車が、右へ大きく傾いた。
車軸から抜けた鉄の留め栓が石畳を跳ね、右の車輪が外れる。
荷台の角が地面を削り、積まれていた木箱が片側へ滑った。
一番大きな荷は、人の胸ほどもある円い砥石だった。
太い縄で荷台へ縛られているが、その縄が軋み、一本ずつ毛羽立っていく。
荷車の脇を歩いていた幼い徒弟が、何が起きたか分からないまま立ち尽くしていた。
後ろから、年長の荷運びが飛びつく。
徒弟を突き飛ばした直後、傾いた荷台の鉄金具が若者の左腿を打った。
身体が回り、石畳へ倒れる。
砥石を留めた縄が、一本切れた。
「砥石へ触るんじゃない!」
駆け寄ろうとした職人たちを、グンヒルダが止めた。
「低い側を持ち上げたら、残った縄が切れる。左の車輪へ車止めを入れな! 荷台の後ろへは誰も立つな!」
十六歳の少女の声だった。
だが、何をすれば荷が落ちるかを知っている職人の声でもあった。
近くの工房から二人が木の楔を持ち出し、残った車輪の前後へ打ち込む。
別の男が、荷台の高い側へ太い支柱を差し入れた。
グンヒルダは右手を出しかけ、途中で止める。
代わりに左手で、支柱を置く場所を指した。
「そこじゃ浅い! 敷石の継ぎ目へ入れな!」
アルマニアは、飛び立った二羽の目を借りた。
ギンの目には、傾いた荷車と、砥石の下から外へ伸びる切れかけの縄が見える。
ニンの目には、倒れた若者と、その脇で泣いている徒弟が映っていた。
荷車の下に、人はいない。
砥石の転がる先にも、残っている者はいない。
必要なことだけを確かめ、二羽との感覚を浅くする。
二つの空を見ながら、傷ついた一人を診ることはできない。
「左からなら近づけるか」
神官戦士がグンヒルダへ聞いた。
「楔が入った。支柱も利いてる。今なら」
「アルマニア」
「はい」
二人は荷車の左側から、倒れた若者へ駆け寄った。
◇
若者は意識を失っていなかった。
だが、顔から血の気が引き、息が浅く速い。
左腿の布が裂け、その下から流れ出した血が石畳を濡らしていた。
アルマニアは工具袋を下ろし、自分の外套を脱いだ。
きれいな内側をたたみ、傷口へ押し当てる。
布が、すぐに重くなった。
「名前を言えますか?」
「ロ、ロット……」
「息苦しさは?」
「ない……あいつは?」
若者の目が、泣いている徒弟を探して動く。
「無事です。あなたが押し出しました」
「そう、か……」
安堵した途端、身体から力が抜けた。
「眠らないでください。僕を見て」
アルマニアは両手へ力を込める。
血は止まらない。
傷がどこまで深いのか、骨まで届いているのか、アルマニアには分からなかった。
押さえた布を外せば確かめられる。
だが、確かめている間にも血は失われる。
「何が分かる」
向かいへ膝をついた神官戦士が聞いた。
「出血が続いています。呼びかけには答えます。頭と胸を打った様子はありません」
「分からないことは?」
「傷の深さ。骨と血管の状態。どこまで治癒が届くか」
「なら、すべて分かるまで待つか」
昨日の工房で、アルマニアは祈らなかった。
グンヒルダの手には、急いで塞がなければ失われる傷がなかったからだ。
いまは違う。
分からないことを一つずつ確かめている間にも、目の前の若者から命が流れ出している。
治癒の祈りが、折れた骨も、流れた血も、その後の休養もすべて解決するとは限らない。
それでも、いま閉じるべき傷はある。
「待ちません」
アルマニアは、傷を押さえた両手を離さなかった。
神聖魔法には、発動体も複雑な身振りもいらない。
血に濡れた手で傷を押さえたまま、信じる神へ願うことができる。
「勇をもって人を守る者を見守りたもう、戦神マイリーよ。この者から失われゆく命をつなぎ、再び立つ力を与えたまえ——キュアー・ウーンズ」
温かな光が、アルマニアの手の下へ生まれた。
外套へ染み込んでいた血が金色に照らされる。
掌の奥で、裂けた肉が寄り、流れ続けていた血の勢いが弱まった。
光が消えても、アルマニアはすぐに手を離さなかった。
「祈りは届いたぞ」
神官戦士が言う。
「はい」
「なら、いつまで押さえる」
「止まったことを確かめるまでです」
若者の呼吸は、まだ速い。
顔色も戻っていない。
治癒が届いたことと、立ち上がれることは違う。
アルマニアはゆっくりと片手だけを上げ、布の下を確かめた。
傷は閉じている。
新しい血も、ほとんどにじまない。
それでも、汚れた外套をそのまま巻きつけはしなかった。
「きれいな布を」
グンヒルダが、左手だけで自分の腰袋を外した。
「工具袋の横。油を染み込ませてない布が入ってる」
アルマニアは片手で袋を開き、畳まれた白布を取り出した。
傷へ当て、革紐で留める。
若者が上体を起こそうとした。
「動かないで」
「荷を……親方に、届けないと」
「車輪が外れています」
「直せば」
「あなたが直す必要はありません」
「でも、俺の仕事だ」
アルマニアは、グンヒルダを見た。
昨日と同じ言葉だった。
自分の工房。
自分の仕事。
だから戻りたい。
グンヒルダは、若者ではなく傾いた荷車を見ている。
「今日、あの荷車は動かせないよ」
「車輪を戻せば」
「留め栓が痩せてる。軸穴も広がってる。車輪だけ戻したら、次は坂の途中で丸ごと抜ける」
彼女は左手で、石畳へ転がった鉄の栓を拾い上げた。
「運ぶなら別の荷車へ積み替える。あんたが寝ていてもできる仕事だ」
若者は何か言い返そうとしたが、唇から声が出なかった。
身体が小さく震えている。
「担架がいります」
アルマニアが言うと、通り沿いの店主が木戸を外して持ってきた。
毛布を重ね、その上へ若者を横たえる。
神官戦士と荷運びの一人が、前後を持ち上げた。
「僕も持ちます」
「お前は隣を歩け」
「ですが」
「顔色と呼吸を見る者が必要だ。運ぶことだけが仕事ではない」
アルマニアは頷き、担架の脇へついた。
グンヒルダは、その場に残る。
「来ないんですか?」
「荷車を動かす前に、親方へ壊れた場所を見せる。誰かが留め栓だけ取り替えたら、また同じことが起きるからね」
「右手は?」
「使わないよ」
「半刻は?」
「あんたが戻るまでに終わらせる」
「それは時間ではありません」
「怪我人を先に見な!」
翡翠色の三つ編みが飛んでくる前に、アルマニアは担架を追った。
◇
若者は、マイリー神殿の施療院へ運び込まれた。
神官が布を外し、傷と脚の動きを確かめる。
骨は折れていなかった。
治癒の祈りによって深い傷も閉じている。
だが、失った血と身体の震えが戻るまで、少なくとも今日は寝台から下ろさないと言われた。
「治ったのに?」
若者が尋ねる。
「傷が閉じたのです」
アルマニアは答えた。
「荷を運べる身体へ戻ったとは、まだ誰も言っていません」
「あの小さい職人と、同じことを言うんだな」
「彼女に教わりました」
「怖い師匠だ」
「師匠ではありません。相棒です」
自分で言ってから、少しだけ落ち着かない。
グンヒルダがいないうちでよかったと思った。
寝台の向こうから、小さな足音が近づく。
助けられた徒弟が、荷運びの親方に連れられてきた。
泣き腫らした目で若者の顔を確かめると、寝台の脇へ座り込む。
「ロット兄ちゃん、ごめん」
「お前が謝るなよ」
「でも」
「次は、音がしたら先に逃げろ」
「兄ちゃんも」
「俺は……」
若者がアルマニアを見る。
「寝ていてください」
「だそうだ」
二人が笑ったのを確かめ、アルマニアは診察室の外へ出た。
廊下には、神官戦士が待っていた。
腕を組み、壁へ背を預けている。
「課題だったんですか?」
「事故を起こした覚えはない」
「そうではなく」
「必要な時が来た。お前は選んだ。なら、確認はする」
男は二人の名前を書いた木片を取り出した。
グンヒルダの欄は、まだ空いている。
「なぜ願った」
「血が失われ続けていたからです」
「傷の深さも分からなかった」
「分かるまで待つことが、いまは一番危険でした」
「昨日は、分からぬまま祈らなかった」
「昨日は待てました。今日は待つほど悪くなりました」
「荷車は、完全には安全になっていなかったぞ」
「グンヒルダが、左からなら近づけると言いました」
「自分では確かめなかったのか」
「ギンとニンの目で、人が下にいないことだけは見ました。でも、荷の支え方は僕よりグンヒルダの方が分かります」
自分で全部を確かめてから動けば、遅れる。
専門家の判断を待たずに飛び込めば、救助する者まで荷の下敷きになる。
今回は、グンヒルダが荷車を止めた。
アルマニアは傷を止めた。
「祈りが届かなければ、どうした」
「押さえ続け、すぐ運びました」
「届いたあとは?」
「押さえて、傷を覆い、運びました」
「同じではないか」
「はい」
アルマニアは、血の染みた自分の外套を見た。
「祈りは、ほかの仕事をしなくてよくなる魔法ではありません」
「では、何のために願った」
「神殿まで生きて運ぶ時間をつなぐためです」
神官戦士は木片へ羽根筆を走らせた。
プリースト技能の欄に、新しい段階は加えられなかった。
代わりに、昨日、工房で記された言葉の隣へ、一行が書き足された。
願うべき時には、すべてを知るまで待たない。
ただし、祈りへすべてを預けない。
「合格ですか?」
「一度、必要な時を選んだ」
「なら、覚えたところですね」
「そうだ」
「できたではなく?」
「一度の事故で、すべての傷を見極められると思うか」
「思いません」
「なら、聞くな」
聞き慣れた答えだった。
廊下の向こうから、工具袋を抱えた荷運びの親方と並んで、グンヒルダが歩いてくる。
彼女の両肩は空いていた。
「自分で持たなかったんですね」
「約束だろ」
「覚えていたんですか?」
「相棒がうるさいからね」
グンヒルダは、神官戦士の木片をのぞき込んだ。
「覚えたまで?」
「はい」
「よろしい」
「そこは、グンヒルダが決めるんですか?」
「相棒が眠ってないか、起こす役だからね」
荷運びの親方が、工具袋をアルマニアへ渡した。
代わりに、戻ってきたニンがグンヒルダの左肩へ降りる。
ギンはアルマニアの頭へ止まった。
「やはり、頭の方が重いです」
「工具袋と取り替えるかい?」
「ギンの話です」
「聞こえたら、つつかれるよ」
言われた直後、頭へ嘴が落ちてきた。
アルマニアは工具袋を抱え、神殿の廊下を逃げる。
グンヒルダは右手を使わず、左手だけで三つ編みを投げた。
今度は、誰も彼女を止めなかった。