魔法戦士養成学校の万能戦士   作:駄文亭

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第21話 戦いのあと

 血の染みは、一晩では落ちなかった。

 

 マイリー神殿の洗い場で、アルマニアは外套を水へ浸している。

 

 昨日、荷車の下で傷ついたロットの血だ。

 

 石鹸をつけ、何度も揉み洗いした。

 

 それでも外套の内側には、掌ほどの染みが残っている。

 

「それ以上やったら、布の方が先に傷むよ」

 

 背後からグンヒルダが言った。

 

 右腕の固定は外れているが、今日も工具袋は持っていない。

 

 代わりに、洗い場の縁へ干してあった外套を指先でつまみ、日の光へ透かした。

 

「まだ残っています」

 

「昨日のことまで洗って消えるわけじゃないさ」

 

「消したいわけではありません」

 

「なら、残しておきな。次に血を見た時、昨日より早く手が動く」

 

 グンヒルダは外套を絞ろうとした。

 

 アルマニアが先に取り上げる。

 

「右手を使いました」

 

「布をつまんだだけだよ」

 

「半刻続ければ、洗濯も仕事になります」

 

「あんたは、あたしの親方かい?」

 

「相棒です」

 

「相棒ってのは、朝から小言を言う役だったかね」

 

「眠っていたら起こす役です」

 

「起きてるよ!」

 

 洗い場の入口から、重い咳払いが聞こえた。

 

 鎖帷子を着た神官戦士が、丸盾を抱えて立っている。

 

「元気なら、巡回へ出るぞ」

 

「今日は実習ですか?」

 

「神殿の仕事だ」

 

「違いは?」

 

「お前の都合に合わせて怪我人が出ない」

 

「実習でも、出ない方がよいのでは?」

 

「口が回るなら歩け」

 

 アルマニアは濡れた外套を干し、メイジスタッフを取った。

 

 ギンとニンが洗い場の屋根から飛び下りる。

 

 一羽はアルマニアの肩へ。

 

 もう一羽はグンヒルダの左肩へ止まった。

 

「今日は何を見ればいいんです?」

 

 石造りの回廊を抜けながら、アルマニアが尋ねた。

 

「人だ」

 

「もっと具体的に」

 

「傷を見ろ。周りを見ろ。自分が何を願おうとしているか見ろ」

 

「三つあります」

 

「一つずつ見ろ」

 

 神官戦士はそれ以上説明しなかった。

 

     ◇

 

 朝の王都ファンは、門から入った荷と人が大通りへ広がる時間だった。

 

 荷車、行商人、工房へ急ぐ徒弟が行き交い、石畳の上で車輪と靴音が重なっている。

 

 神官戦士は、怪我人を探して歩いているわけではなかった。

 

 露店の間へ荷物がはみ出していれば退けさせる。

 

 走り回る子供がいれば、荷車の通る側へ出ないよう声をかける。

 

 井戸の周りが濡れていれば、砂を撒くよう店主へ頼む。

 

「治す前に、怪我を減らすのも神殿の仕事なんですね」

 

「治癒の奇跡は、転びやすい石畳を平らにはせん」

 

 グンヒルダが、欠けた敷石へしゃがみ込んだ。

 

 指先で縁をなぞり、白墨で印をつける。

 

「これは石そのものより、下が沈んでるね。上だけ取り替えても、また傾くよ」

 

「右手を使っています」

 

「印をつけただけだよ」

 

「さっきも聞きました」

 

「相棒がうるさい」

 

 グンヒルダが立ち上がった時、通りの先で女の悲鳴が上がった。

 

 続いて、何かが倒れる音。

 

 人の輪が一気に広がり、その中央で短刀が朝日を弾いた。

 

「道を空けろ!」

 

 神官戦士が駆け出す。

 

 ギンとニンが同時にアルマニアの肩から飛び立った。

 

 人の頭上へ上がった二羽の目を借りる。

 

 一方の景色に、革袋を抱えた男が映った。

 

 髭を伸ばし、汚れた外套を着ている。

 

 右手には短刀。

 

 その前へ、革鎧を着た若い衛兵が立っていた。

 

 左腕の小盾を前へ出し、剣はまだ鞘に収めている。

 

 もう一方の景色では、露店の女主人が空になった腰紐を握り、青い顔で立っていた。

 

 盗まれた革袋を、男が抱えている。

 

「短刀を捨てろ!」

 

 衛兵が叫んだ。

 

 男は後ろへ下がる。

 

 背後には果物を積んだ露店があり、逃げ道はない。

 

「近づくな!」

 

「袋を置け。武器も捨てろ。まだ誰も斬っていない」

 

「黙れ!」

 

 男が前へ出た。

 

 短刀が横へ走る。

 

 衛兵は小盾で受けようとしたが、刃が縁を滑り、右の前腕を裂いた。

 

 革鎧の袖へ血が広がる。

 

 それでも衛兵は剣を抜かなかった。

 

 小盾を男の胸へ押しつける。

 

 男の身体が後ろへ倒れ、露店の角へ激突した。

 

 積まれていた木箱が崩れた。

 

 割れた板の鉄金具が、男の脇腹を深く切り裂く。

 

 短刀が石畳を滑った。

 

「武器は右!」

 

 アルマニアが叫ぶ。

 

 グンヒルダが人の間を抜け、転がった短刀を靴で踏む。

 

 神官戦士は倒れた男と衛兵の間へ立ち、周囲を見渡した。

 

「ほかに仲間は?」

 

「見える範囲にはいません」

 

 アルマニアは二羽との感覚を浅くした。

 

 群衆の外。

 

 露店の裏。

 

 屋根の上。

 

 逃げる者も、新たな武器を持って近づく者もいない。

 

 二つの空を見ながら、二人の傷を診ることはできない。

 

「ギン、ニン。上を見ていて」

 

 二羽へ周囲の警戒を任せ、自分の目へ戻る。

 

 衛兵は右腕を左手で押さえていた。

 

 指の間から血が流れているが、自分で立っている。

 

 呼吸も乱れていない。

 

 一方、倒れた男の外套の下には、急速に赤い染みが広がっていた。

 

 顔色が白い。

 

 口は動いているのに、声が出ていない。

 

「衛兵さんを先に!」

 

 革袋を盗まれた女主人が叫んだ。

 

「そいつは盗人だよ! 短刀まで抜いたんだ!」

 

 周りからも声が上がる。

 

「自業自得だ!」

 

「衛兵を斬ったんだぞ!」

 

「放っておけ!」

 

「アルマニア」

 

 神官戦士が、二人の間から退いた。

 

「どちらから見る」

 

 昨日、傷ついた者は一人だった。

 

 今日は二人いる。

 

 一人は人を守ろうとして傷ついた。

 

 もう一人は盗み、短刀を振るい、その果てに倒れた。

 

 どちらが正しいかは考えるまでもないが、傷は正しい順に深くなるわけではなかった。

 

「倒れた男からです」

 

 群衆がどよめいた。

 

 アルマニアは、すぐには膝をつかなかった。

 

「手を縛ってください」

 

 神官戦士が男の短刀を遠くへ蹴り、腰の細引きを抜いた。

 

 グンヒルダは踏んでいた短刀を拾い、露店の台へ置く。

 

 刃が届かず、誰かが不用意に触れない場所だ。

 

「左の腰にも何か入ってる」

 

 彼女が言った。

 

 神官戦士が外套の上から確かめ、小さな鞘に入った作業用の小刀を抜き取る。

 

 それも短刀の隣へ置いた。

 

 男の両手が腹の前で縛られる。

 

「何を待った」

 

「治したあと、もう一度誰かを傷つけないことです」

 

「よし。見ろ」

 

 アルマニアは男の脇へ膝をついた。

 

 脇腹の傷は深い。

 

 血が外套を濡らし、石畳の目地へ流れ込んでいる。

 

 掌を重ね、布の上から強く押さえた。

 

「聞こえますか?」

 

 男の瞼がわずかに動く。

 

「名前は?」

 

 返事はない。

 

 呼吸が浅くなっている。

 

 傷の奥まで見ている時間はなかった。

 

「布を」

 

 グンヒルダが、自分の腰袋から白布を出した。

 

 昨日、ロットへ使ったものと同じ、油を染み込ませていない布だ。

 

 アルマニアは血に濡れた外套をめくり、布を直接傷へ当てた。

 

 手を離した一瞬で、白布へ赤が広がる。

 

「そいつへ奇跡を使うのかい!」

 

 女主人の声が震えた。

 

「はい」

 

「あたしの金を盗んだんだよ! あの衛兵さんも斬った!」

 

「見ています」

 

「なら——」

 

「傷を治しても、盗まなかったことにはなりません」

 

 アルマニアは手を離さない。

 

「衛兵を斬ったことも消えません。生きて、返すものを返して、裁きを受けてもらいます」

 

 女主人は口を閉じたが、怒りも恐怖も消えてはいなかった。

 

 アルマニアは目の前の傷へ意識を戻す。

 

 罪をなかったことにするためではない。

 

 武器を取り上げられ、戦いが終わったあとに死なせるためでもない。

 

「勇をもって人を守る者を見守りたもう、戦神マイリーよ。この者から失われゆく命をつなぎ、再び立つ力を与えたまえ——キュアー・ウーンズ」

 

 温かな光が、血に濡れた白布を透かした。

 

 掌の下で、裂けた傷が寄っていく。

 

 血の流れが弱まり、やがて止まった。

 

 光が消える。

 

 アルマニアは片手だけを上げ、布の下を確かめた。

 

 傷は閉じている。

 

 だが、男の顔色は戻っていない。

 

 流れた血まで戻ったわけではなかった。

 

「傷を上にして横向きに。急に起こさないでください」

 

 神官戦士と、駆けつけた別の衛兵が身体を支える。

 

 両手を縛ったまま、呼吸を妨げない姿勢へ変えた。

 

「次は?」

 

 神官戦士が聞く。

 

「衛兵さんです」

 

 若い衛兵は、露店の柱へ背を預けて座っていた。

 

 右腕を押さえる左手が震えている。

 

 アルマニアが近づくと、衛兵は倒れた男を見た。

 

「そいつを、先に治したのか」

 

「あなたは、自分で傷を押さえて待てました」

 

「俺は正しかったからじゃないのか」

 

「正しい人から先に血が止まるなら、そうしました」

 

 一瞬、衛兵が目を丸くする。

 

 それから、痛みに顔をしかめながら笑った。

 

「神官ってのは、もっと優しい言い方をするものじゃないのか」

 

「神官戦士科の途中です」

 

「なら、これから覚えてくれ」

 

 アルマニアは衛兵の左手をゆっくり外した。

 

 傷は前腕の外側を走っている。

 

 深いが、指は動く。

 

 押さえている間に、血の勢いも弱まっていた。

 

「剣を握れますか?」

 

「右では、しばらく無理だな」

 

「今日は握らないでください」

 

「あいつを連れていかないと」

 

「ほかの衛兵が来ています」

 

「俺が捕まえた」

 

「だから、あなたが連れていかなければならない理由にはなりません」

 

「さっきの盗人と同じ扱いか」

 

「傷が閉じたことと、仕事へ戻れることは違います」

 

 グンヒルダが、後ろで小さく笑った。

 

「怖い相棒だろ?」

 

「あんたの相棒か」

 

「そうさ」

 

「苦労してるな」

 

「どっちが?」

 

 二人が同時に聞いた。

 

 衛兵は答えず、痛む腕を差し出した。

 

 アルマニアは新しい布を当て、ずれないよう巻いていく。

 

 治癒の奇跡は使わなかった。

 

 傷は押さえれば待てる。

 

 神殿までも遠くない。

 

 残っている力を、使えるからという理由だけで使い切る必要はなかった。

 

     ◇

 

 倒れた男と若い衛兵は、別々の担架でマイリー神殿へ運ばれた。

 

 男の手首には縄が残り、担架の左右を二人の衛兵が歩いている。

 

 盗まれた革袋は、立ち会った衛兵の手から女主人へ返された。

 

 女主人は中身を確かめると、深く息を吐いた。

 

 それから担架の男を見た。

 

「あいつ、助かるのかい?」

 

「傷は閉じました」

 

「だからって、許す気はないよ」

 

「許さなくてよいと思います」

 

 アルマニアが答えると、女主人は眉を上げた。

 

「神官が、そんなことを言うのかい?」

 

「許すかどうかを、僕が決めることではありません」

 

 彼女の金を盗まれた恐怖。

 

 短刀を向けられた怒り。

 

 それまで治癒の祈りで消してしまうことはできない。

 

「僕がしたのは、傷を治したことだけです」

 

「だけ、か」

 

「はい」

 

「ずいぶん大きな、だけだね」

 

 女主人は革袋を腰紐へ結び直した。

 

 今度は一度引いて終わらせず、結び目を二度確かめる。

 

 その手はまだ震えていた。

 

「礼は言わないよ」

 

「僕へ言う必要はありません」

 

「そいつを助けたことにだよ」

 

 彼女は担架へ背を向け、自分の露店へ戻っていった。

 

 アルマニアは追わなかった。

 

 それでも、待てない傷を待たせなかった。

 

 待てる傷へは、待てるだけの手当てをした。

 

 罪と傷を、一つのものとして扱わなかった。

 

     ◇

 

 神殿へ戻ると、若い衛兵の腕は神官によって縫われた。

 

 数日は剣を握らず、傷が開かないことを確かめてから訓練へ戻すと決められた。

 

 盗みを働いた男は、施療院の奥にある寝台へ寝かされている。

 

 命に危険はない。

 

 意識を取り戻せば衛兵の詰所へ移され、盗みと傷害について取り調べを受けることになった。

 

 廊下の長椅子へ、アルマニアとグンヒルダが並んで座る。

 

 神官戦士は二人の前に立ち、実習記録を開いた。

 

「なぜ、盗人から治した」

 

「待てなかったからです」

 

「衛兵は正しいことをした」

 

「はい」

 

「盗人は短刀を振るった」

 

「はい」

 

「なら、迷わなかったか」

 

「迷いました」

 

 アルマニアは、自分の手を見た。

 

 昨日とは違う血が、爪の間へ残っている。

 

「でも、迷ったことと、待たせてよいことは別です」

 

「あの男を許したのか」

 

「いいえ」

 

「なら、なぜマイリーへ立つ力を願った」

 

「戦いは、もう終わっていたからです」

 

 短刀は離れていた。

 

 隠していた小刀も取り上げた。

 

 両手は縛られていた。

 

 倒れた男は、もう誰かを傷つけようとしている敵ではなかった。

 

 傷つき、放っておけば死ぬ一人の人間だった。

 

「生きて、したことへ責任を負ってもらうためです」

 

「責任を負わせるのは、お前の仕事か」

 

「衛兵と役人の仕事です」

 

「なら、お前の仕事は?」

 

「そこまで生きてつなぐことです」

 

 神官戦士の羽根筆が動いた。

 

 昨日までの記録には、こうある。

 

 願うべき時には、すべてを知るまで待たない。

 

 ただし、祈りへすべてを預けない。

 

 その下へ、新しい一行が加えられた。

 

 傷を治すことと、罪を許すことは同じではない。

 

「昨日は、覚えたまででした」

 

 アルマニアが言う。

 

「そうだ」

 

「今日は?」

 

「異なる傷、異なる理由を前に、もう一度選んだ」

 

「では、できた?」

 

「一度目よりはな」

 

「任せられる、までは?」

 

「明日、確かめる」

 

 神官戦士は記録を閉じた。

 

「南門へ来い。神官戦士科、最後の実習だ」

 

「負傷者は?」

 

「いる」

 

「最初から?」

 

「お前たちだ」

 

 アルマニアは隣を見た。

 

 グンヒルダも同時にこちらを見ている。

 

「また組むんですか?」

 

「神官戦士科が終わるまで、その組だ」

 

「あたしの右手は、もうだいぶ動くよ」

 

「動くことと、長柄戦槌を振ってよいことは違います」

 

「明日までに治ってるかもしれないだろ」

 

「治っていても、確認してからです」

 

「やっぱり、あんたが神官戦士になったのは間違いだったかね」

 

「プリースト技能は、入学前から持っています」

 

「今より口うるさくなかっただろ」

 

 グンヒルダが立ち上がる。

 

 右手で三つ編みをつかみ、軽く振った。

 

 アルマニアは身構えたが、三つ編みは飛んでこない。

 

 彼女は右肩の具合を確かめると、今度は左手へ持ち替えた。

 

「明日までは、こっちだね」

 

「その判断なら、任せられます」

 

「言うようになったじゃないか!」

 

 翡翠色の三つ編みが飛ぶ。

 

 アルマニアは長椅子から立ち上がり、神殿の廊下を逃げた。

 

 頭上ではギンとニンが翼を広げ、どちらへ逃げるべきか、別々の方向から見ている。

 

 だが、逃げる身体は一つしかない。

 

 最後には、アルマニアが自分で一つを選ばなければならなかった。

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