血の染みは、一晩では落ちなかった。
マイリー神殿の洗い場で、アルマニアは外套を水へ浸している。
昨日、荷車の下で傷ついたロットの血だ。
石鹸をつけ、何度も揉み洗いした。
それでも外套の内側には、掌ほどの染みが残っている。
「それ以上やったら、布の方が先に傷むよ」
背後からグンヒルダが言った。
右腕の固定は外れているが、今日も工具袋は持っていない。
代わりに、洗い場の縁へ干してあった外套を指先でつまみ、日の光へ透かした。
「まだ残っています」
「昨日のことまで洗って消えるわけじゃないさ」
「消したいわけではありません」
「なら、残しておきな。次に血を見た時、昨日より早く手が動く」
グンヒルダは外套を絞ろうとした。
アルマニアが先に取り上げる。
「右手を使いました」
「布をつまんだだけだよ」
「半刻続ければ、洗濯も仕事になります」
「あんたは、あたしの親方かい?」
「相棒です」
「相棒ってのは、朝から小言を言う役だったかね」
「眠っていたら起こす役です」
「起きてるよ!」
洗い場の入口から、重い咳払いが聞こえた。
鎖帷子を着た神官戦士が、丸盾を抱えて立っている。
「元気なら、巡回へ出るぞ」
「今日は実習ですか?」
「神殿の仕事だ」
「違いは?」
「お前の都合に合わせて怪我人が出ない」
「実習でも、出ない方がよいのでは?」
「口が回るなら歩け」
アルマニアは濡れた外套を干し、メイジスタッフを取った。
ギンとニンが洗い場の屋根から飛び下りる。
一羽はアルマニアの肩へ。
もう一羽はグンヒルダの左肩へ止まった。
「今日は何を見ればいいんです?」
石造りの回廊を抜けながら、アルマニアが尋ねた。
「人だ」
「もっと具体的に」
「傷を見ろ。周りを見ろ。自分が何を願おうとしているか見ろ」
「三つあります」
「一つずつ見ろ」
神官戦士はそれ以上説明しなかった。
◇
朝の王都ファンは、門から入った荷と人が大通りへ広がる時間だった。
荷車、行商人、工房へ急ぐ徒弟が行き交い、石畳の上で車輪と靴音が重なっている。
神官戦士は、怪我人を探して歩いているわけではなかった。
露店の間へ荷物がはみ出していれば退けさせる。
走り回る子供がいれば、荷車の通る側へ出ないよう声をかける。
井戸の周りが濡れていれば、砂を撒くよう店主へ頼む。
「治す前に、怪我を減らすのも神殿の仕事なんですね」
「治癒の奇跡は、転びやすい石畳を平らにはせん」
グンヒルダが、欠けた敷石へしゃがみ込んだ。
指先で縁をなぞり、白墨で印をつける。
「これは石そのものより、下が沈んでるね。上だけ取り替えても、また傾くよ」
「右手を使っています」
「印をつけただけだよ」
「さっきも聞きました」
「相棒がうるさい」
グンヒルダが立ち上がった時、通りの先で女の悲鳴が上がった。
続いて、何かが倒れる音。
人の輪が一気に広がり、その中央で短刀が朝日を弾いた。
「道を空けろ!」
神官戦士が駆け出す。
ギンとニンが同時にアルマニアの肩から飛び立った。
人の頭上へ上がった二羽の目を借りる。
一方の景色に、革袋を抱えた男が映った。
髭を伸ばし、汚れた外套を着ている。
右手には短刀。
その前へ、革鎧を着た若い衛兵が立っていた。
左腕の小盾を前へ出し、剣はまだ鞘に収めている。
もう一方の景色では、露店の女主人が空になった腰紐を握り、青い顔で立っていた。
盗まれた革袋を、男が抱えている。
「短刀を捨てろ!」
衛兵が叫んだ。
男は後ろへ下がる。
背後には果物を積んだ露店があり、逃げ道はない。
「近づくな!」
「袋を置け。武器も捨てろ。まだ誰も斬っていない」
「黙れ!」
男が前へ出た。
短刀が横へ走る。
衛兵は小盾で受けようとしたが、刃が縁を滑り、右の前腕を裂いた。
革鎧の袖へ血が広がる。
それでも衛兵は剣を抜かなかった。
小盾を男の胸へ押しつける。
男の身体が後ろへ倒れ、露店の角へ激突した。
積まれていた木箱が崩れた。
割れた板の鉄金具が、男の脇腹を深く切り裂く。
短刀が石畳を滑った。
「武器は右!」
アルマニアが叫ぶ。
グンヒルダが人の間を抜け、転がった短刀を靴で踏む。
神官戦士は倒れた男と衛兵の間へ立ち、周囲を見渡した。
「ほかに仲間は?」
「見える範囲にはいません」
アルマニアは二羽との感覚を浅くした。
群衆の外。
露店の裏。
屋根の上。
逃げる者も、新たな武器を持って近づく者もいない。
二つの空を見ながら、二人の傷を診ることはできない。
「ギン、ニン。上を見ていて」
二羽へ周囲の警戒を任せ、自分の目へ戻る。
衛兵は右腕を左手で押さえていた。
指の間から血が流れているが、自分で立っている。
呼吸も乱れていない。
一方、倒れた男の外套の下には、急速に赤い染みが広がっていた。
顔色が白い。
口は動いているのに、声が出ていない。
「衛兵さんを先に!」
革袋を盗まれた女主人が叫んだ。
「そいつは盗人だよ! 短刀まで抜いたんだ!」
周りからも声が上がる。
「自業自得だ!」
「衛兵を斬ったんだぞ!」
「放っておけ!」
「アルマニア」
神官戦士が、二人の間から退いた。
「どちらから見る」
昨日、傷ついた者は一人だった。
今日は二人いる。
一人は人を守ろうとして傷ついた。
もう一人は盗み、短刀を振るい、その果てに倒れた。
どちらが正しいかは考えるまでもないが、傷は正しい順に深くなるわけではなかった。
「倒れた男からです」
群衆がどよめいた。
アルマニアは、すぐには膝をつかなかった。
「手を縛ってください」
神官戦士が男の短刀を遠くへ蹴り、腰の細引きを抜いた。
グンヒルダは踏んでいた短刀を拾い、露店の台へ置く。
刃が届かず、誰かが不用意に触れない場所だ。
「左の腰にも何か入ってる」
彼女が言った。
神官戦士が外套の上から確かめ、小さな鞘に入った作業用の小刀を抜き取る。
それも短刀の隣へ置いた。
男の両手が腹の前で縛られる。
「何を待った」
「治したあと、もう一度誰かを傷つけないことです」
「よし。見ろ」
アルマニアは男の脇へ膝をついた。
脇腹の傷は深い。
血が外套を濡らし、石畳の目地へ流れ込んでいる。
掌を重ね、布の上から強く押さえた。
「聞こえますか?」
男の瞼がわずかに動く。
「名前は?」
返事はない。
呼吸が浅くなっている。
傷の奥まで見ている時間はなかった。
「布を」
グンヒルダが、自分の腰袋から白布を出した。
昨日、ロットへ使ったものと同じ、油を染み込ませていない布だ。
アルマニアは血に濡れた外套をめくり、布を直接傷へ当てた。
手を離した一瞬で、白布へ赤が広がる。
「そいつへ奇跡を使うのかい!」
女主人の声が震えた。
「はい」
「あたしの金を盗んだんだよ! あの衛兵さんも斬った!」
「見ています」
「なら——」
「傷を治しても、盗まなかったことにはなりません」
アルマニアは手を離さない。
「衛兵を斬ったことも消えません。生きて、返すものを返して、裁きを受けてもらいます」
女主人は口を閉じたが、怒りも恐怖も消えてはいなかった。
アルマニアは目の前の傷へ意識を戻す。
罪をなかったことにするためではない。
武器を取り上げられ、戦いが終わったあとに死なせるためでもない。
「勇をもって人を守る者を見守りたもう、戦神マイリーよ。この者から失われゆく命をつなぎ、再び立つ力を与えたまえ——キュアー・ウーンズ」
温かな光が、血に濡れた白布を透かした。
掌の下で、裂けた傷が寄っていく。
血の流れが弱まり、やがて止まった。
光が消える。
アルマニアは片手だけを上げ、布の下を確かめた。
傷は閉じている。
だが、男の顔色は戻っていない。
流れた血まで戻ったわけではなかった。
「傷を上にして横向きに。急に起こさないでください」
神官戦士と、駆けつけた別の衛兵が身体を支える。
両手を縛ったまま、呼吸を妨げない姿勢へ変えた。
「次は?」
神官戦士が聞く。
「衛兵さんです」
若い衛兵は、露店の柱へ背を預けて座っていた。
右腕を押さえる左手が震えている。
アルマニアが近づくと、衛兵は倒れた男を見た。
「そいつを、先に治したのか」
「あなたは、自分で傷を押さえて待てました」
「俺は正しかったからじゃないのか」
「正しい人から先に血が止まるなら、そうしました」
一瞬、衛兵が目を丸くする。
それから、痛みに顔をしかめながら笑った。
「神官ってのは、もっと優しい言い方をするものじゃないのか」
「神官戦士科の途中です」
「なら、これから覚えてくれ」
アルマニアは衛兵の左手をゆっくり外した。
傷は前腕の外側を走っている。
深いが、指は動く。
押さえている間に、血の勢いも弱まっていた。
「剣を握れますか?」
「右では、しばらく無理だな」
「今日は握らないでください」
「あいつを連れていかないと」
「ほかの衛兵が来ています」
「俺が捕まえた」
「だから、あなたが連れていかなければならない理由にはなりません」
「さっきの盗人と同じ扱いか」
「傷が閉じたことと、仕事へ戻れることは違います」
グンヒルダが、後ろで小さく笑った。
「怖い相棒だろ?」
「あんたの相棒か」
「そうさ」
「苦労してるな」
「どっちが?」
二人が同時に聞いた。
衛兵は答えず、痛む腕を差し出した。
アルマニアは新しい布を当て、ずれないよう巻いていく。
治癒の奇跡は使わなかった。
傷は押さえれば待てる。
神殿までも遠くない。
残っている力を、使えるからという理由だけで使い切る必要はなかった。
◇
倒れた男と若い衛兵は、別々の担架でマイリー神殿へ運ばれた。
男の手首には縄が残り、担架の左右を二人の衛兵が歩いている。
盗まれた革袋は、立ち会った衛兵の手から女主人へ返された。
女主人は中身を確かめると、深く息を吐いた。
それから担架の男を見た。
「あいつ、助かるのかい?」
「傷は閉じました」
「だからって、許す気はないよ」
「許さなくてよいと思います」
アルマニアが答えると、女主人は眉を上げた。
「神官が、そんなことを言うのかい?」
「許すかどうかを、僕が決めることではありません」
彼女の金を盗まれた恐怖。
短刀を向けられた怒り。
それまで治癒の祈りで消してしまうことはできない。
「僕がしたのは、傷を治したことだけです」
「だけ、か」
「はい」
「ずいぶん大きな、だけだね」
女主人は革袋を腰紐へ結び直した。
今度は一度引いて終わらせず、結び目を二度確かめる。
その手はまだ震えていた。
「礼は言わないよ」
「僕へ言う必要はありません」
「そいつを助けたことにだよ」
彼女は担架へ背を向け、自分の露店へ戻っていった。
アルマニアは追わなかった。
それでも、待てない傷を待たせなかった。
待てる傷へは、待てるだけの手当てをした。
罪と傷を、一つのものとして扱わなかった。
◇
神殿へ戻ると、若い衛兵の腕は神官によって縫われた。
数日は剣を握らず、傷が開かないことを確かめてから訓練へ戻すと決められた。
盗みを働いた男は、施療院の奥にある寝台へ寝かされている。
命に危険はない。
意識を取り戻せば衛兵の詰所へ移され、盗みと傷害について取り調べを受けることになった。
廊下の長椅子へ、アルマニアとグンヒルダが並んで座る。
神官戦士は二人の前に立ち、実習記録を開いた。
「なぜ、盗人から治した」
「待てなかったからです」
「衛兵は正しいことをした」
「はい」
「盗人は短刀を振るった」
「はい」
「なら、迷わなかったか」
「迷いました」
アルマニアは、自分の手を見た。
昨日とは違う血が、爪の間へ残っている。
「でも、迷ったことと、待たせてよいことは別です」
「あの男を許したのか」
「いいえ」
「なら、なぜマイリーへ立つ力を願った」
「戦いは、もう終わっていたからです」
短刀は離れていた。
隠していた小刀も取り上げた。
両手は縛られていた。
倒れた男は、もう誰かを傷つけようとしている敵ではなかった。
傷つき、放っておけば死ぬ一人の人間だった。
「生きて、したことへ責任を負ってもらうためです」
「責任を負わせるのは、お前の仕事か」
「衛兵と役人の仕事です」
「なら、お前の仕事は?」
「そこまで生きてつなぐことです」
神官戦士の羽根筆が動いた。
昨日までの記録には、こうある。
願うべき時には、すべてを知るまで待たない。
ただし、祈りへすべてを預けない。
その下へ、新しい一行が加えられた。
傷を治すことと、罪を許すことは同じではない。
「昨日は、覚えたまででした」
アルマニアが言う。
「そうだ」
「今日は?」
「異なる傷、異なる理由を前に、もう一度選んだ」
「では、できた?」
「一度目よりはな」
「任せられる、までは?」
「明日、確かめる」
神官戦士は記録を閉じた。
「南門へ来い。神官戦士科、最後の実習だ」
「負傷者は?」
「いる」
「最初から?」
「お前たちだ」
アルマニアは隣を見た。
グンヒルダも同時にこちらを見ている。
「また組むんですか?」
「神官戦士科が終わるまで、その組だ」
「あたしの右手は、もうだいぶ動くよ」
「動くことと、長柄戦槌を振ってよいことは違います」
「明日までに治ってるかもしれないだろ」
「治っていても、確認してからです」
「やっぱり、あんたが神官戦士になったのは間違いだったかね」
「プリースト技能は、入学前から持っています」
「今より口うるさくなかっただろ」
グンヒルダが立ち上がる。
右手で三つ編みをつかみ、軽く振った。
アルマニアは身構えたが、三つ編みは飛んでこない。
彼女は右肩の具合を確かめると、今度は左手へ持ち替えた。
「明日までは、こっちだね」
「その判断なら、任せられます」
「言うようになったじゃないか!」
翡翠色の三つ編みが飛ぶ。
アルマニアは長椅子から立ち上がり、神殿の廊下を逃げた。
頭上ではギンとニンが翼を広げ、どちらへ逃げるべきか、別々の方向から見ている。
だが、逃げる身体は一つしかない。
最後には、アルマニアが自分で一つを選ばなければならなかった。