第四期の最初の実習場は、教室ではなかった。
王都ファンの南を流れる小川だった。
川幅は六歩ほど。前夜に雨は降っておらず、水は澄んでいる。深いところでも大人の腰までは届かないように見えた。
対岸には、白い布を巻いた杭が一本立っている。
アルマニアたちの前には、小さな木箱と、二十歩ほどの麻縄が置かれていた。
「箱の中身は、乾燥させた薬草と火口だ」
精霊使いの講師は、川岸の石へ腰を下ろしたまま言った。
白髪の混じった髪を短く切り、革の上衣には金属の留め具を一つも使っていない。足元には杖が置かれているが、手に取る様子はなかった。
「箱を濡らさず、四人全員で対岸の杭へ触れろ。橋を架けてもよい。縄を使ってもよい。精霊へ力を借りてもよい」
シャーナシアが川を見渡した。
「それだけですの?」
「それだけだ」
「わたくしが箱を持って跳べば終わりますわ」
「四人全員で、と言った」
「では、一人ずつ抱えて渡ります」
「川へ入る前に、水の精霊へ道を尋ねろ」
シャーナシアは、いかにも面倒そうにアルマニアを見た。
「だそうですわ」
「シャーナシアも尋ねてよいんですよ」
「わたくしは精霊語を話しません」
「では、ミレナ姉さんも——」
「アルがやって」
ミレナは笑っている。
ただし、助けるつもりの笑顔ではなかった。
深緑の外套を脱いで箱の横へ置き、ショートスピアの石突きで地面の固さを確かめている。
グンヒルダは長柄戦槌を肩から下ろし、麻縄を指でしごいた。
「水に濡れたら少し縮むね。傷んじゃいないけど、身体へ直接巻くなら当て布がいるよ」
「まだ渡り方は決めていません」
「だから、決める前に調べてるんだろ」
アルマニアは、メイジスタッフを右手へ持ち替えた。
左手を空ける。
ソフトレザーに金属は使われていない。精霊へ呼びかけるための条件は満たしている。
ギンとニンは、川岸に立つ二本の柳へ一羽ずつ止まった。
まず、自分の目で川を見る。
左手側は、白い小石が川底まで見えていた。流れは速く、細かな波が絶えず立っている。
正面は、水面が穏やかだった。ただし、川底は青黒く、深さが分からない。
右手側には大きな岩があり、その後ろだけ水が丸く淀んでいる。
どこも渡れそうで、どこにも危険がある。
アルマニアは目を閉じ、精霊語で呼びかけた。
「この川にいる水の精霊たち。僕たちは向こう岸へ渡りたい。通るべき道を教えてください」
水音が近くなる。
目を閉じているのに、川面のきらめきが見えた。
小さな光が寄り集まり、ほどけ、また別の場所で結ばれていく。人の顔も、指差す腕もない。それでも、正面から少し左へ外れたところに、ひときわ強い流れがあった。
冷たい何かが足首へ巻きつき、対岸へ引く。
真っすぐに近い。
最も強く、最もはっきりした返事だった。
アルマニアは目を開けた。
「分かりました」
「何が?」
ミレナが聞く。
「あそこです。一番強く応えてくれました」
アルマニアは川へ入った。
一歩目は、足首までだった。
二歩目で、膝まで沈んだ。
三歩目を置いた瞬間、川底の小石が靴の下から一斉に逃げた。
「アル!」
身体が横を向く。
冷たい流れが両脚の間へ入り、足をさらった。
倒れるより先に、ソフトレザーの襟が後ろへ引かれた。
シャーナシアが片手でアルマニアを岸へ放り戻す。
アルマニアは尻から草地へ落ちた。
「何が道ですの!」
「今、確かに——」
「アルマニア」
ミレナの声が低くなった。
「水の精霊は、何て言ったの」
「向こう岸への道は、あそこだと」
「言葉で?」
アルマニアは答えかけて、止まった。
聞こえたのは水音だった。
見えたのは、強く集まる光だった。
感じたのは、足首を引く冷たさだった。
どこにも、人が渡るための道だという言葉はなかった。
「……いいえ」
「じゃあ、何が分かったの?」
「あの場所で、水の精霊が強く応えました」
「それだけ?」
「それだけです」
川岸に座った講師は、助け起こそうとも、叱ろうともしなかった。
「最初の失敗だ」
「精霊は、嘘をついたんですか?」
「精霊が、いつ道を教えた」
アルマニアは濡れた脚衣を見下ろした。
「僕が、返事を決めました」
「そうだ。お前は道を欲しがった。強い反応を見つけた。二つを勝手につなげた」
シャーナシアは眉を寄せる。
「ずいぶん紛らわしい返事ですこと」
「質問した側が、欲しい意味を足したの」
ミレナが言った。
「水が一番強く動くところは、水にとって通りやすいところだよ。人が歩きやすい場所とは限らない」
グンヒルダが長柄戦槌の柄で、足元の石を軽く叩いた。
高い音が一つ鳴る。
「石だって、叩けば音は返すよ。でも、高い音がしたから絶対に割れない、なんて言い出したら、そいつは職人じゃない」
「精霊使いも同じですか?」
「そこはミレナに聞きな」
「同じだよ」
ミレナはしゃがみ、濡れたアルマニアの脚衣を絞った。
「感じたものと、自分が考えた意味を分けるの。分けたあとで、他に見えるものと合わせる」
「もう一度、尋ねてもよいですか?」
講師が川を示した。
「それを決めるのは、水ではない」
川は変わらず流れている。
失敗したアルマニアを笑いもせず、次の問いを待ってもいない。
アルマニアは岸へ座り直した。
今度は目を閉じる前に、何を知りたいのかを考えた。
向こう岸へ渡る道。
それは、人間が欲しい答えである。
水に分かるのは、水の動きだ。
「この川にいる水の精霊たち。君たちの流れが速い場所と、弱まる場所を知りたい。僕たちの足を取られにくいところを探すために、力を貸してください」
すぐには何も変わらなかった。
アルマニアは待った。
一度目は、呼びかけた直後に最も強いものへ飛びついた。
今度は、川全体の水音を聞く。
左手側では、白い小石へぶつかった水が細かく跳ねていた。
正面の青黒い場所では、表面こそ静かだが、底へ沈むような冷たさがある。
右手の岩の後ろでは、流れが輪を作って同じ場所へ戻っている。
さらに上流。
川が緩く曲がるところに、細く長く、力の弱まる帯があった。
だが、一つではない。
静かな場所は、いくつもある。
アルマニアは目を開けた。
「流れが弱い場所は三つあります」
「渡る場所は?」
シャーナシアが聞く。
「まだ分かりません」
「今度は、ずいぶん頼りない返事ですわね」
「今のところ、分かったのは水の流れだけです」
ミレナが小さく笑った。
「うん。それでいいよ」
「ギン。上から、上流の曲がりを見てください」
黒い翼が柳から離れた。
アルマニアは川へ入らず、その場へ膝をついたままギンの目を借りる。
上空から見ると、水の色が違っていた。
正面の静かな場所は、岸近くから急に濃い青へ変わっている。流れが弱いのではなく、深いため表面が乱れていない。
右手の岩の後ろは浅いが、対岸まで続かない。岩を過ぎれば、再び速い流れへ出る。
上流の曲がりには、白っぽい帯が斜めに伸びていた。
砂と細かな砂利が積もっている。
「上流に、浅そうな帯があります。こちらの岸から、対岸へ斜めに続いています」
アルマニアは自分の目へ戻った。
「浅そう、ですか?」
グンヒルダが聞く。
「上からは、川底が白く見えました」
「じゃあ、浅いと決めたわけじゃないね」
「はい。見えたのは、白い川底です」
「少しは覚えたようだ」
グンヒルダは長柄戦槌を担ぎ直した。
四人は上流へ移動した。
ミレナが岸の草を分ける。水際に生えた細い草は、すべて下流へ寝ていたが、白い帯の始まりだけは揺れが小さい。
ショートスピアの石突きを水へ入れる。
「一歩目は脛。二歩目は膝くらい」
「向こうまで同じですか?」
「ここからじゃ分からない。だから、私が先に確かめる」
「一人では行かせません」
「さっき流された人が言う?」
「流されたからです」
ミレナは言い返そうとして、口を閉じた。
第三期の最後に、彼女は道を見る役を引き受けた。
アルマニアは、道を見る者を一人で危険へ出すつもりはなかった。
「順番を決めます」
四人がアルマニアを見る。
「最初はミレナ。渡れる場所を確かめてください」
「うん」
「シャーナシアは、こちらで縄を持ってください。ミレナが足を取られたら引き戻す」
「わたくしが先ではなくて?」
「流れに耐える力は、岸に残す方が使えます」
「よろしいでしょう」
「ミレナが対岸へ着いたら、縄をあの柳へ回します。そのあと、シャーナシアに渡ってもらいます」
「それから?」
「対岸ではシャーナシアが縄を支え、こちらでは僕が支えます。グンヒルダは箱を背負って渡ってください」
「あたしが三番目かい」
「足場の石に異常があれば、教えてください。箱を運べて、石の状態も見られるのはグンヒルダです」
「両方いっぺんにはできないよ」
「渡る前に見て、渡っている間は箱をお願いします」
「なら、任された」
「僕は最後に渡ります」
麻縄をミレナの胸の下へ回し、外套を畳んだ当て布を挟む。
シャーナシアは余った縄を腰へ回し、両足を開いて立った。
「いつでもよくてよ」
ミレナが川へ入る。
槍の石突きで一歩先を探り、白い帯の上へ足を置く。
一歩。
二歩。
三歩目で、砂利がわずかに崩れた。
「止まって」
ミレナは足を戻した。
水の流れが、崩れた場所だけ細く速くなる。
アルマニアにも分かった。
水は危険だと言ったのではない。
ただ、空いた隙間へ流れ込んだ。
「半歩、上流へ」
アルマニアが言う。
「そこは流れが弱いです」
ミレナが槍で確かめる。
「川底も固い。そっちへ移るね」
彼女は斜めに川を横切り、対岸へ着いた。
縄が柳の幹へ回される。
次にシャーナシアが渡った。剣を鞘へ収め、片手で縄をつかみ、水を割って進む。
流れが膝へ当たっても、歩幅さえ変えない。
「これなら、最初からわたくしが全員を運べたのではなくて?」
「道が分かったから、そう言えるんです」
「次は箱ごと放り投げますわよ」
「中身が薬草です」
「濡れなければ合格でしょう」
「壊したら失格だと思います」
「思う、ではなく聞いておきなさい」
講師は答えなかった。
グンヒルダが木箱を背負う。
渡る前に、長柄戦槌の柄で水面から出た平たい石を叩いた。
一つだけ、鈍い音が返る。
「その石は踏まない方がいい。中に割れ目があるよ」
「見ただけでは分かりませんでした」
「水にも分からないさ。流れるのに、石の中身まで知る必要はないからね」
グンヒルダは長柄戦槌を岸へ残した。
両手で縄を握る。
精霊魔法は使えない姿勢だが、今の彼女に必要なのは魔法ではなかった。
白い帯を一歩ずつ進み、鈍い音のした石だけを避ける。
箱は一度も水面へ触れず、対岸へ渡った。
最後に、アルマニアが縄をつかんだ。
両手が塞がる。
もう精霊へ呼びかける身振りはできない。
ギンとニンが上空を旋回しているが、その目も借りなかった。
自分の足元を、自分の目で見る。
一歩目。
二歩目。
最初に道だと思った強い流れが、すぐ下流にある。
冷たさが足首へ巻きついた。
今度は、それを対岸へ導く手とは考えなかった。
水は、ただ流れている。
「右足を半歩、上流へ」
対岸のミレナが言う。
アルマニアは従った。
「次は真っすぐですわ」
シャーナシアが縄を張る。
「最後の石は踏むんじゃないよ」
グンヒルダが箱を下ろしながら声をかける。
アルマニアの靴が最後の浅瀬を抜けた。
四人で、白い布を巻いた杭へ触れる。
木箱の蓋を開けると、薬草も火口も乾いたままだった。
◇
講師は橋を渡らず、川下の飛び石を使って対岸へ来た。
シャーナシアの視線が険しくなる。
「最初から、あちらを使えばよかったのでは?」
「実習にならない」
「尋ねなければ教えないという点では、精霊とよく似ていますわね」
「私は、人間が何を聞きたがるか知っている。精霊は知らない」
講師はアルマニアへ向き直った。
「水の精霊に、道は分かったか」
「分かりません」
「何を教わった」
「流れが強い場所と、弱い場所です」
「それだけか」
「はい。それをミレナの地形判断と、ギンの目で見た川底へ合わせました。グンヒルダが石の割れ目を見つけ、シャーナシアが縄を支えてくれました」
「精霊は役に立たなかったか」
「役に立ちました。でも、渡る場所を決めたのは水の精霊ではありません」
「誰だ」
「僕たちです」
講師は頷いた。
「精霊の反応を、人間に分かる意味へ置き換える。それが精霊使いの仕事の一つだ」
川面を、小さな葉が流れていく。
岩へ当たり、向きを変え、淀みで一度回ってから下流へ消えた。
「だが、置き換える時には、術者の願いが混ざる。自分の欲しい答えを先に決めれば、精霊の声を借りて自分へ命じることになる」
「精霊を従わせたつもりで、自分の思い込みに従っていたんですね」
「今日のお前は、そうだ」
「修了には、ほど遠いですね」
「初日に修了しようとするな」
グンヒルダがアルマニアの肩を叩いた。
「まずは、覚えただね」
「まだ、できたではないんですか?」
「一度やり直しただけで、人へ任せられると思うかい?」
「思いません」
「なら、よろしい」
ミレナが濡れた脚衣を指差した。
「帰ったら着替えてね」
「もう乾き始めています」
「水の精霊に乾かしてもらう?」
「水へ頼む仕事ではないと思います」
「少しは分けられるようになったね」
シャーナシアが腕を組む。
「明日は、わたくしにも分かる頼み方をなさい。あなた一人だけ黙って目を閉じていると、待たされている側は退屈ですわ」
「精霊語を覚えますか?」
「あなたが通訳なさい」
「返事を決めずに、ですか?」
「当然でしょう。わたくしへ都合の悪い部分を省いたら、川へ投げ込みますわよ」
ギンとニンが、そろって鳴いた。
アルマニアには、その声の意味が分かる。
しかし、それも三人で積み重ねてきたから分かるのであって、鴉の一声が人間の言葉に聞こえるわけではない。
第四期の最初の記録には、技能の段階ではなく、三つの短い文が残った。
感じたものと、考えた意味を分けること。
精霊が答えられることだけを頼むこと。
返事だけへ、人の命を預けないこと。
水は、アルマニアたちが去ったあとも流れ続けた。
頼まれたからではない。
そこに川があり、水の精霊が暮らしているからだった。