翌朝、精霊使いの講師は四人を王都ファン南の雑木林へ連れ出した。
昨日の小川から、さらに半刻ほど歩いた場所である。
緩やかな丘の斜面には、土を盛って作った古い炭焼き窯がいくつも残されていた。使われなくなって久しいらしく、焚き口には枯れ草が生え、崩れかけた石の間から細い木の根が伸びている。
講師は三方へ分かれる小道の前で足を止めた。
「昨日、通訳をしろと言われたな」
「言いましたわ」
シャーナシアが当然のように答える。
「精霊の返事を、わたくしにも分かるように。都合の悪い部分を省かず、勝手に意味を足さず、簡潔に伝えなさい」
「注文が増えていませんか?」
「一晩かけて整理したのです」
「アルに眠る時間を残してあげてよ」
ミレナが苦笑する。
「わたくしは部屋まで押しかけていません」
「窓の外で剣を振っていたでしょう」
「朝の鍛錬ですわ」
「ギンとニンが、うるさそうにしていました」
二羽の鴉は、少し離れた枝へ並んでいる。
シャーナシアが見上げると、揃って顔を背けた。
講師は咳払いを一つした。
「今日はシャーナシアが進路を決める。アルマニアは精霊から受け取ったものを、すべて共通語へ直せ。ミレナは代わりに答えるな」
「質問は?」
「してよい」
「危険を見つけた場合は?」
「止めろ。ただし、何を見つけたかはアルマニアに言わせろ」
ミレナは少しだけ口を尖らせた。
アルマニアより先に答えを言わない。
彼女にとっても、簡単な課題ではないらしい。
「グンヒルダは?」
「壊れそうな物があれば止めろ」
「そりゃ、いつもと同じだね」
グンヒルダは長柄戦槌を肩へ担ぎ、三本の小道を順に見た。
左は下草が深く、右は乾いた石が多い。中央の道だけが広く、荷車の轍らしい窪みが丘の裏へ続いている。
「丘の向こうに、青い布を巻いた杭がある。四人で触れて戻ってこい」
「昨日と同じではありませんの?」
「昨日は、精霊の返事を自分で決めない課題だった。今日は、その返事を他人へ渡す課題だ」
講師は小道の脇にある切り株へ腰を下ろした。
「進め」
◇
アルマニアはメイジスタッフを右手に持ち、左手を空けた。
風は丘の右から左へ吹いている。
木の葉が擦れ、乾いた草の穂が揺れていた。
精霊語で、風へ呼びかける。
「この三つの道から、君たちは何を運んできましたか。僕たちが進む場所を決めるために、教えてください」
頬を撫でた風が、三つにほどけた。
左の道から来る風は冷たい。
湿った苔と、腐りかけた落ち葉の匂いが混じっている。細かな羽音もあった。
中央の道からは、乾いた土と煤の匂い。
その奥に、わずかな温かさがある。
右の道から来る風は最も強い。石の粉と枯れ草を巻き上げ、何度もアルマニアの外套を引いた。
しかし、丘の向こうから何を運んできたのかは分からなかった。
アルマニアは目を開ける。
「左は湿っています。中央には古い炭焼き窯があります。右が一番、通りやすそうです」
「待って」
ミレナが即座に止めた。
「今の三つ、全部、風が言ったの?」
昨日も聞かれた問いだった。
アルマニアは、自分の報告を一つずつほどいた。
「左から、湿った苔と落ち葉の匂いが来ました。羽音もあります」
「湿っているのは?」
「僕の判断です」
「中央は?」
「乾いた土と煤の匂い。それから、少し温かい風です。炭焼き窯だと考えたのは、ここに窯跡があると知っているからです」
「右」
「風が最も強いです。ただし、石の粉と枯れ草以外に、丘の向こうから運ばれたものは分かりません」
シャーナシアが眉を寄せた。
「ずいぶん長くなりましたわね」
「省かないようにすると、こうなります」
「だからといって、全部を同じ重さで並べないでくださる?」
「では、どう伝えれば?」
「それを考えるのが通訳でしょう」
シャーナシアは三つの道を見比べる。
「今すぐ進むべきでない根拠はありますの?」
「ありません」
「右が安全だという根拠は?」
「風が強いことだけです。人が歩きやすいとは限りません」
「なら、右から見ます。風が通る理由を、目で確かめますわ」
決めたのはシャーナシアだった。
アルマニアの報告を受け取り、自分で選んだ。
四人は右の道へ入った。
先頭はミレナ。
次にシャーナシア、アルマニア、グンヒルダと続く。
ギンとニンは枝から枝へ移り、四人の頭上を離れなかった。
道はすぐに細くなった。
右手の斜面が崩れ、石と土が小道へ流れ込んでいる。風は、その崩れた斜面を駆け上がっていた。
「風が通りやすい理由は、これですね」
「人は通りにくいですわね」
シャーナシアが足元の石を蹴り除けようとする。
「踏むんじゃないよ」
最後尾から、グンヒルダが言った。
「その石が下の土を止めてる。抜いたら、上の二つも落ちる」
シャーナシアは靴を戻した。
「先に言いなさい」
「踏む前に言ったよ」
「アルマニア。報告」
「風が強いことは分かりました。でも、通れるとは伝えていません」
「分かっていますわ。確認しただけです」
「今、僕のせいにしようとしませんでした?」
「していません」
右の道は、十歩先で完全に崩れていた。
四人は引き返す。
失敗ではない。
分かったことを使い、進めないと判断し、戻っただけである。
分かれ道へ戻る途中、風向きが変わった。
先ほどまで右から左へ抜けていた風が、一度止まる。
次の瞬間、中央の道から細く吹いた。
煤。
湿った羊毛。
焦げた油。
そして、喉の奥へ貼りつくような苦い匂い。
アルマニアは足を止めた。
「待ってください」
四人が止まる。
ミレナは何があったか聞かなかった。
アルマニアが伝えるのを待っている。
「中央から来た風が変わりました。煤と、濡れた羊毛と、焦げた油の匂いがあります。苦い煙も混じっています」
「火ですの?」
「火が見えたわけではありません。温かさは、さっきより強いです」
「人は?」
「分かりません」
答えた直後、風が途切れた。
アルマニアは左手を広げる。
風の精霊がいなくなったのではない。
中央の道の奥で、流れが塞がれている。
わずかに漏れた空気だけが、苦い匂いを外へ運んできた。
「奥で、風が通れなくなっています。どこかに狭い隙間はあります。でも、その先へ抜けていません」
「それは精霊の返事?」
ミレナが尋ねる。
「風が奥へ入らず、押し戻されています。何かが塞いでいるというのは、僕の判断です」
ミレナは中央の道へ膝をついた。
柔らかい土に、靴跡が残っている。
一人分。
丘の奥へ向かう跡はあるが、戻ってくる跡はない。
「新しい。今朝のものだと思う」
グンヒルダが煤のついた小枝を拾った。
「古い煤じゃない。指で擦ると油が残る」
シャーナシアは、切り株に座る講師を振り返った。
「これは実習の仕掛けですの?」
「違う」
「では、課題は中止です」
「杭へ行かなくてよいのか」
「人がいるかもしれないのでしょう?」
「いないかもしれない」
「その場合は、道草を食って実習に遅れただけですわ。いる場合に見捨てれば、取り戻せません」
シャーナシアは剣の柄へ手を置いた。
「中央を調べます。ミレナ、先導なさい。グンヒルダは窯の状態を。アルマニアは、分かったことを一つも抱え込まず伝え続けなさい」
「はい」
四人は中央の道へ入った。
◇
丘の裏には、現役の炭焼き窯が一基だけ残っていた。
半円形に盛られた土の表面から、細い煙が何本も立っている。
焚き口の前には、薪を積んだ手車が横倒しになっていた。車輪が外れ、崩れた薪が入口を塞いでいる。
その隙間から、毛織りの上着を着た腕が見えた。
「人がいます!」
シャーナシアが駆け出しかける。
「止まって!」
ミレナの声が飛んだ。
「風下。正面から入ったら煙を吸う」
シャーナシアは足を止め、すぐに右へ回った。
アルマニアも風上へ移動する。
精霊へ問いかける。
「この窯の周りで、君たちが通れる場所を教えてください。煙を外へ運ぶために、どこを開ければよいか確かめたい」
風が土の表面を撫でる。
左側では、熱に押し返された。
上では、細い煙とともに空へ抜けている。
右の斜面では、石の継ぎ目へ吸い込まれ、すぐに戻ってきた。
「右側に、風が入って戻る隙間があります。上へは抜けていません」
「穴を開ければよいのですわね」
「まだです」
アルマニアは、シャーナシアの言葉を止めた。
「風が入る隙間があるだけです。そこを壊して窯がどうなるかは、分かりません」
グンヒルダが長柄戦槌を下ろす。
石を叩かず、柄の先で土を少しずつ削った。
煤けた平石が現れる。
「空気穴だ。根が押して、蓋がずれてる。そのまま引き抜いたら上が崩れるよ」
「どうすれば?」
「先に支える」
グンヒルダは、横倒しになった手車から外れた車軸を拾った。
シャーナシアへ渡す。
「こいつを石の下へ入れて、あたしが押さえたところで持ち上げな」
「命令なさい。持ち上げるのは得意ですわ」
「知ってるよ。だから任せる」
グンヒルダが土へ膝をつき、車軸の先を石の下へ導いた。
シャーナシアが腰を落とす。
「今だ」
車軸が軋んだ。
平石が持ち上がる。
グンヒルダは素早く二本の薪を隙間へ差し込み、石の重さを受けた。
「離していい」
風が空気穴へ流れ込んだ。
しかし、すぐには煙を運ばない。
窯の中に溜まった熱へ押し返され、地面近くで渦を巻く。
アルマニアは左手を伸ばした。
「風の精霊たち。開いた穴から入り、上の煙出しまで抜けてください。中に溜まった苦い煙を、一緒に外へ運んでほしい」
草が伏せた。
細い風が、石の隙間へ吸い込まれる。
窯の上から出ていた煙が、一度大きく膨らんだ。
黒い塊が空へ上がり、横へ流されていく。
「通りました」
「中は安全ですの?」
「分かりません。風が穴から上へ抜けたことだけです。地面近くには、まだ苦い匂いが残っています」
「なら、待ちます」
シャーナシアは剣を抜かなかった。
腕が見えている。
今すぐ引き出したいはずだった。
それでも、アルマニアの分からないを削らず受け取った。
ミレナが細引きを取り出し、輪を作る。
「身体へ近づかなくても、腕へ掛けられる」
「わたくしが引きます」
「ゆっくりね。薪が崩れたら止めて」
ミレナが槍の石突きへ縄の輪を掛け、倒れた男の腕まで伸ばした。
輪が肘を越える。
グンヒルダは薪の山を見張り、動きそうな一本を指差した。
「そこへ足を置くんじゃないよ。右から引きな」
シャーナシアが縄を握る。
一歩ずつ後ろへ下がった。
男の肩が薪の隙間を抜ける。
煤で黒くなった顔が現れた。
咳はない。
だが、胸はわずかに動いている。
完全に風上へ運んでから、アルマニアは膝をついた。
口元へ頬を寄せ、呼吸を確かめる。
額に傷がある。
荷車が倒れたときに打ったらしい。
「息はあります。頭に傷があります」
「治せる?」
ミレナが聞く。
「傷へは願えます。でも、煙を吸ったことまで奇跡へ預けません。まず、きれいな空気を」
「うん」
アルマニアは男の頭を横へ向けた。
襟を緩め、呼吸を妨げないようにする。
それから戦神マイリーへ祈った。
傷を閉じるためではない。
男が自分で息を続け、神殿まで運ばれる時間をつなぐために。
淡い光が額の傷へ沈む。
しばらくして、男が激しく咳き込んだ。
ミレナが肩を支え、吐き出した煤を拭う。
「話さなくていいよ。息をして」
男は何度か呼吸し、ようやく掠れた声を出した。
「窯が……急に、詰まって……」
「もう大丈夫ですわ」
シャーナシアが言い切る。
アルマニアには、まだ大丈夫かどうかは分からない。
だが、今の言葉は精霊の通訳ではなかった。
助けると決めた者が、助けられる者へ渡す約束だった。
◇
近くの炭焼き小屋から仲間が呼ばれ、男は戸板へ乗せられた。
学院の治療室ではなく、マイリー神殿へ運ぶことになった。
実習用の杭には、誰も触れていない。
それでも講師は、記録板を開いた。
「今日、風の精霊は何を教えた」
「匂いと、温かさと、流れが途切れる場所です」
「人が倒れていることは?」
「教えていません。足跡を見つけたのはミレナです。新しい煤を確かめたのはグンヒルダ。調べると決めたのはシャーナシアです」
「煙を外へ出したのは?」
「風の精霊です。ただし、グンヒルダが空気穴を見つけ、シャーナシアが開けてくれたから通れました」
「お前は何をした」
アルマニアは少し考えた。
「精霊から受け取ったものを、皆へ渡しました。僕が考えたことと、分からないことも分けて」
講師は記録板へ三本の線を引いた。
受け取ったもの。
考えたこと。
分からないこと。
「精霊の言葉を人間の言葉へ置き換えると、必ず術者の考えが混ざる。考えを混ぜるなとは言わん。混ぜた場所を隠すな」
「はい」
「分からないと言えば、頼りなく見える。急いでいる時ほど、省きたくなる」
シャーナシアが腕を組んだ。
「省かれた方が困りますわ。分からないなら、わたくしが決めます」
「全部を決めたがるんだね」
グンヒルダが笑う。
「決める役を任されたのです。当然でしょう」
ミレナはアルマニアの髪についた煤を払い、講師の記録板をのぞき込んだ。
「今日は、できたまで?」
「二度、同じ間違いをしなかった。分からないものを残したまま、仲間が使える言葉へ直した。精霊へも、風にできる仕事を頼んだ」
講師の羽根筆が、技能欄へ新しい段階を書き加える。
シャーマン、二レベル。
「任せられるまでは?」
アルマニアが尋ねる。
「まだ遠い」
「聞くまでもなかったね」
ミレナが笑った。
「でも、今日は私が代わりに答えなくても、ちゃんと届いた」
「質問はしてくれました」
「質問くらいするよ。一人で全部を話せるようになるのが、仲間になることじゃないからね」
帰り支度を始めたところで、ギンが炭焼き小屋の裏から鳴いた。
ニンも地面へ降り、灰の上を何度もつついている。
グンヒルダが近づいた。
壁際には、倒れた男が使っていたらしい小さな道具が並んでいた。
火掻き棒。
木槌。
煤払いの刷毛。
どれも大きさの順に揃えられ、灰を拭われている。
「あの人が並べたんでしょうか?」
「倒れる前に、わざわざ道具を磨いたって?」
グンヒルダは灰へ目を落とした。
小さな足跡があった。
アルマニアの親指ほどしかない。
裸足の跡が、道具の前から炭焼き小屋の壁へ続き、板の隙間で消えている。
「何ですの、これ」
シャーナシアが尋ねる。
アルマニアは風へ意識を向けた。
けれど、何も返らない。
小屋の周りを流れる風は、煤と木の匂いを運ぶだけだった。
「分かりません」
今度は、それだけを答えた。
分からないものを、知っている何かへ急いで置き換えない。
講師は足跡を見下ろし、わずかに口元を緩めた。
「なら、明日はそれを確かめろ」
小屋の板壁の向こうで、何か小さなものが、木槌を一度だけ鳴らした。