魔法戦士養成学校の万能戦士   作:駄文亭

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第25話 頼んでいない仕事

 翌朝、炭焼き小屋の床には、昨日より多くの足跡が残っていた。

 

 どれもアルマニアの親指ほどしかない。

 

 灰の上を何度も往復し、壁際の道具棚と、横倒しになった手車の間を行き来している。

 

 手車は起こされていた。

 

 外れた車輪も、車軸へ戻されている。

 

「触るんじゃないよ」

 

 グンヒルダの声が飛んだ。

 

 車輪へ手を伸ばしかけていたシャーナシアが止まる。

 

「昨日、さんざん触れましたわ」

 

「昨日は外れてた。今日は直したように見える」

 

「直っているのではなくて?」

 

「だから、確かめるまで触るなって言ってるのさ」

 

 グンヒルダは長柄戦槌を小屋の外へ置き、工具袋だけを持って手車へ近づいた。

 

 車輪を回さず、まず車軸の端を覗き込む。

 

 本来なら車輪を留めているはずの木栓が、半分だけ差し込まれていた。

 

 昨日折れた古い木栓である。

 

 表から見える部分は煤を拭われ、割れ目が下へ向けられている。知らずに荷を積めば、最初の曲がり角で抜け落ちるだろう。

 

「直ってないね。元へ戻しただけだ」

 

 グンヒルダは木栓を指先で抜いた。

 

 力を込める必要もなかった。

 

「見た目だけなら、昨日より立派ですわ」

 

「見た目を直す仕事じゃないよ」

 

 工具袋から赤い紐を取り出し、折れた木栓へ結ぶ。

 

「これは壊れてる。赤い印は、使うなって意味だ。誰が片づけたか知らないが、もう一度しまわれたら困る」

 

 小屋の板壁から、木槌を鳴らす音がした。

 

 こつん。

 

 グンヒルダが顔を上げる。

 

「聞いてたのかい?」

 

 返事はない。

 

 アルマニアはメイジスタッフを右手へ持ち、左手を空けた。

 

 昨日は風の精霊へ意識を向けた。

 

 今日は違う。

 

 煤けた壁。

 

 踏み固められた床。

 

 何度も火を焚かれた炉。

 

 屋根を支える黒い梁。

 

 小屋そのものへ、精霊の気配が染み込んでいる。

 

 土や木に宿るものとは異なる。

 

 床を掃き、道具を戻し、消えかけた火を守る。人がこの場所で繰り返した営みが、長い時間をかけて一つの形を得ていた。

 

「ブラウニーだ」

 

 入口に立つ講師が言った。

 

「建物へ宿る精霊ですか?」

 

「そうだ。今は炭焼き小屋と呼ばれているが、昔は三家族が暮らした共同の仕事場だったらしい。中央の梁だけは、建て直す前から残っている」

 

 講師は、煤で黒くなった太い梁を見上げた。

 

「人が何十年も暮らし、働き、同じ仕事を繰り返すうちに宿ることがある。風や水の精霊とは違い、帰るべき精霊界を持たない。この建物が、あれの世界だ」

 

「小さな足で、ずいぶん働き者ですこと」

 

 シャーナシアが道具棚を見る。

 

 火掻き棒も、木槌も、煤払いの刷毛も、大きさの順に並んでいた。

 

「昨日の事故も、そのブラウニーが起こしたの?」

 

 ミレナの声から、いつもの柔らかさが消える。

 

「まだ分からない」

 

 講師は答えた。

 

「神殿で炭焼き職人から話を聞いた。半年前から、朝になると床が掃かれ、道具が片づけられていたそうだ。礼として、夜ごと小皿へ山羊乳を入れていた」

 

 小屋の隅に、浅い木皿がある。

 

 中身は空だった。

 

「車輪が緩んでいることには、三日前から気づいていた。直すための新しい木栓も削り始めていたが、昨日は急ぎの荷が入り、古い木栓を差したまま使った」

 

「では、事故の原因はブラウニーではないのですね」

 

「自分の判断が原因だと、本人も認めている」

 

 グンヒルダが手車の下へ身を屈めた。

 

 車台の裏へ、新しい木栓が紐で結びつけられている。

 

 形はほぼ整っているが、先端だけが太い。

 

「こいつを見つけて、最後まで削れなかったんだろうね」

 

「ブラウニーがですか?」

 

「刃物を使った跡はない。粗い石へ擦りつけたんだ。道具の扱いを見て覚えても、何が足りないかまでは分からなかったらしい」

 

 グンヒルダは新しい木栓を外し、古いものと並べた。

 

「助けようとはした。だけど、任せられる仕事じゃなかった」

 

 壁の向こうで、また木槌が鳴る。

 

 こつん。

 

 今度は、先ほどより小さかった。

 

     ◇

 

「では、姿を見せなさい」

 

 シャーナシアが小屋の中央で命じた。

 

 何も起きなかった。

 

「聞こえているのでしょう?」

 

 返事はない。

 

「殿下が呼ぶより、アルが頼んだ方がいいと思います」

 

「なぜですの?」

 

「精霊語で話せるからですよ」

 

「わたくしの共通語は、精霊へ通じないほど拙くありません」

 

「言葉の上手い下手じゃないよ」

 

 ミレナは笑いをこらえながら、アルマニアの背を押した。

 

「今日はアルの課題だから」

 

 アルマニアは小屋の床へ膝をついた。

 

 どこへ向かって話せばよいのかは分からない。

 

 壁にも、梁にも、床にも気配がある。

 

 昨日、風へ問いかけたときと同じだった。

 

 自分が欲しい返事を、先に決めてはならない。

 

「ここにいるブラウニー。昨日、道具を片づけたのは君ですか?」

 

 しばらく待つ。

 

 木槌が二度鳴った。

 

 こつん。

 

 こつん。

 

「二回は、はい、ですか?」

 

 また二度鳴る。

 

「一回は、いいえ?」

 

 今度は一度だけだった。

 

 シャーナシアが腕を組む。

 

「姿を見せずとも、話はできますわね」

 

「まず、頼みを聞いてくれるか確かめます」

 

 アルマニアは道具棚を見た。

 

「昨日使った道具を、元の場所へ戻してくれますか?」

 

 木槌が二度鳴る。

 

 棚の下で、何かが素早く動いた。

 

 煤払いの刷毛が一本消える。

 

 次に目へ入ったときには、壁の釘へ掛けられていた。

 

 火掻き棒が床を滑り、炉の脇へ戻る。

 

 赤い紐を結ばれた古い木栓まで、手車へ向かって転がり始めた。

 

「待ってください!」

 

 アルマニアが止める。

 

 木栓は床の途中で動かなくなった。

 

「それは戻してはいけません」

 

 壁から、一度だけ音が返る。

 

「いいえ、ですか?」

 

 一度。

 

「僕は、道具を元の場所へ戻してほしいと頼みました」

 

 二度。

 

「でも、それは壊れています」

 

 二度。

 

「壊れていると知っていた?」

 

 二度。

 

「それでも、僕が戻せと言ったから?」

 

 二度。

 

 アルマニアは口を閉じた。

 

 ブラウニーは、頼みを間違えたのではない。

 

 頼んだとおりに動いた。

 

 壊れた道具を元へ戻すよう頼んだのは、アルマニアだった。

 

「今の失敗は、誰のもの?」

 

 ミレナが尋ねる。

 

「僕です」

 

「精霊が危ないことをしたんじゃないの?」

 

「僕の頼み方が、危ない仕事を含んでいました」

 

「なら、どう直す?」

 

 アルマニアは、赤い紐の木栓を拾った。

 

 グンヒルダへ返し、道具棚の前へ三本の薪を置く。

 

 四角く囲った内側には、煤払いの刷毛と木槌だけを残した。

 

「ここにいるブラウニー。三本の薪で囲んだ中にある、刷毛と木槌を、壁の釘へ戻してほしいです」

 

 二度の音。

 

「囲いの外にある物と、赤い紐の物には触れないでください」

 

 二度。

 

「頼みを受けたくなければ、一度鳴らしてください。分からないことがあれば、三度」

 

 三度の音が返った。

 

 こつん。

 

 こつん。

 

 こつん。

 

「今のは、分からない?」

 

 二度。

 

「何が分からないのか、僕には分かりません」

 

 板壁の隙間から、小さな手が現れた。

 

 褐色の毛に覆われた、子供よりも小さな手だった。

 

 指先が、囲いの中にある木槌を叩く。

 

「木槌をどの釘へ戻すか?」

 

 二度。

 

 壁には、空いた釘が四本ある。

 

 アルマニアには、どれが木槌の場所か分からない。

 

「僕は知りません。君がいつも戻していた場所へお願いします」

 

 二度。

 

 手が引っ込む。

 

 刷毛と木槌が一つずつ動き、壁の別々の釘へ掛けられた。

 

 赤い紐の木栓には触れない。

 

 三本の薪も動かさなかった。

 

「これなら、任せられると思いますか?」

 

 アルマニアがグンヒルダへ尋ねる。

 

「この二つを戻す仕事ならね」

 

「小屋の道具全部ではなく?」

 

「二つを頼んで、二つができたんだ。勝手に話を大きくするんじゃないよ」

 

「はい」

 

 講師が記録板へ書き込む。

 

「頼みには、やってほしいことだけでなく、やってはならないことも含める。相手が断る方法と、分からないと伝える方法も決める」

 

「人へ仕事を頼むときと同じですね」

 

「精霊だから、言わなくても分かると思ったか」

 

「少しだけ」

 

「その少しで人は死ぬ」

 

 昨日の手車が、目の前にある。

 

 アルマニアは頷いた。

 

     ◇

 

 炭焼き職人は、古い小屋へ戻らないと決めていた。

 

 窯の空気穴は根に押され、屋根を支える土も崩れ始めている。

 

 修理して使い続けるより、仲間の窯へ移った方が安全だった。

 

 小屋は雪が降る前に解体される。

 

「解体したら、ブラウニーはどうなるんですか?」

 

 アルマニアが尋ねる。

 

「この建物とともに弱る」

 

 講師は黒い梁へ手を当てた。

 

「建物の精霊界はない。帰る場所もない。新しい家へ勝手に移ることも、普通はしない」

 

 壁の奥で、細かな音が続いた。

 

 刷毛が動き、火掻き棒が揃えられ、床の灰が一筋ずつ掃かれていく。

 

 頼まれていない仕事だった。

 

 小屋がなくなると聞き、それでも今日までどおりに働いている。

 

「連れていくことはできますか?」

 

 アルマニアが聞く。

 

「できますの?」

 

 シャーナシアも講師を見る。

 

「命令して持ち出すことはできない。だが、建物の一部を新しい家へ移し、ブラウニー自身が望めば、そこを次の居場所にする場合はある」

 

 グンヒルダが梁と壁を見比べた。

 

「中央の梁は駄目だよ。今抜けば、あたしたちごと屋根が落ちる」

 

「他には?」

 

「炉棚の板なら、荷を受けちゃいない。昔の建物から残ってる木だし、持ち出しても小屋は壊れない」

 

 煤けた炉棚には、小さな木皿が置かれている。

 

 毎晩、山羊乳を受け取っていた場所だった。

 

 アルマニアは棚の前へ座った。

 

「僕のいる学院の宿舎は、ここより人が多いです。掃く床も、洗う木皿も、畳む布もあります」

 

 ミレナが横から口を挟む。

 

「危ない薬と、魔法の道具と、剣もあるよ」

 

「それには、頼まれても触れないでください」

 

 シャーナシアが眉を上げる。

 

「頼まれても、ですの?」

 

「僕が寝ぼけて頼むかもしれません」

 

「自覚はあるのですね」

 

「火がついている炉、薬、武器、魔法の品、赤い印をつけた物には触れない。分からない物も触れない」

 

 アルマニアは、精霊語で一つずつ伝えた。

 

「夜ごと、してほしい仕事を僕が伝えます。君は断ってよい。分からなければ、三度鳴らしてください」

 

 小屋は静かだった。

 

「代わりに、君が安心して留まれる炉棚と、毎晩の山羊乳を用意します。仕事がない夜でも、居場所と食べ物はなくしません」

 

 ミレナが、わずかに目を細める。

 

「働けないなら、追い出すとは言わないんだね」

 

「それでは、隣人ではなく道具です」

 

「家事をしてもらえるから連れていくんじゃないの?」

 

「それも、とても助かります」

 

「そこは否定しないんだ」

 

 アルマニアは炉棚へ向き直った。

 

「僕は君に、僕がやりたくない仕事を全部押しつけるかもしれません。頼み方を間違えることもあります。そのときは、一度鳴らして断ってください」

 

 長い沈黙のあと、炉棚の木皿が持ち上がった。

 

 板壁の隙間から、小さな影が出てくる。

 

 膝まで届く褐色の髪。

 

 煤色のぼろ布。

 

 子供ほどの背丈もないのに、顔には古い梁の木目のようなしわが刻まれている。

 

 ブラウニーは四人を順に見た。

 

 最後にアルマニアの前へ来る。

 

 空の木皿を差し出し、もう一方の手で炉棚の板を二度叩いた。

 

「山羊乳を入れればよいですか?」

 

 一度。

 

「違う?」

 

 二度。

 

 ブラウニーは木皿を炉棚へ戻し、その板をもう一度叩いた。

 

「この炉棚と、木皿を新しい家へ持っていく?」

 

 二度。

 

 毎晩、仕事のあとに戻ってきた炉棚と、山羊乳を受け取ってきた木皿を、自分で次の居場所に選んだらしい。

 

「分かりました」

 

 グンヒルダが炉棚を留める木釘へ工具を当てた。

 

「持ち主の許しは?」

 

「得ている」

 

 講師が答える。

 

 グンヒルダは板を割らないよう、木釘を一本ずつ抜いた。

 

 外れた炉棚と木皿を、アルマニアが両手で受け取る。

 

「一緒に来てください」

 

 ブラウニーは一度だけ鳴らした。

 

 アルマニアが息を止める。

 

 小さな顔が、しわだらけになる。

 

 口元だけが笑っていた。

 

「それは、命令だから嫌だってこと?」

 

 二度。

 

 アルマニアは言い直した。

 

「一緒に来てくれますか?」

 

 二度。

 

 ブラウニーの姿が、炉棚の木目へ溶けるように消えた。

 

 小屋に満ちていた気配も、少しずつ木皿へ集まっていく。

 

 講師が記録板へ一行を書き加えた。

 

 契約精霊、ブラウニー。

 

 シャーマン技能の段階は上がらなかった。

 

 精霊を連れていく力を得たのではない。

 

 新しい家と仕事を互いに選び、頼みを断る方法まで決めた。

 

 契約とは、命令を聞かせる印ではなかった。

 

 頼んだ結果へ、アルマニアも責任を負う約束だった。

 

     ◇

 

 その夜、アルマニアは宿舎の机の脇へ炉棚の板を据え、その前へ三本の薪を置いた。

 

 囲いの中に入れたのは、空の木杯と、乾いた布が二枚。

 

「木杯を洗い、布を畳んでください。それ以外の物には触れないでください」

 

 机の下から、二度の音が返る。

 

 アルマニアは木皿へ山羊乳を注ぎ、寝台へ入った。

 

 朝になると、木杯は伏せて乾かされ、布は二枚とも同じ幅に畳まれていた。

 

 山羊乳はなくなっている。

 

 机に積んだ本も、床へ置いた訓練着も、昨夜のままだった。

 

 頼んでいない仕事には、手を出していない。

 

「成功ですね」

 

 アルマニアは記録板へ目を落とした。

 

 そこで、見覚えのない小さな加算に気づいた。

 

 木杯を洗った経験。

 

 布を畳んだ経験。

 

 どちらも、契約者であるアルマニアが得たものとして記録されている。

 

 さらに、取得経験倍化によって二倍になっていた。

 

「僕は、寝ていました」

 

 朝の確認へ来ていた主任講師が、何度も記録板を見直す。

 

「ブラウニーが、あなたの頼んだ仕事をした」

 

「寝ていても、経験を得られるんですか?」

 

「契約した仕事の結果を、あなたの責任として受け取っているらしい。普通なら無視できるほど小さな経験だ。だが、あなたは得た経験を二倍にする」

 

 シャーナシアが、あからさまに顔をしかめた。

 

「眠っている間まで成長するなど、ずるくありませんこと?」

 

「僕が決めた規則ではありません」

 

「その返事をする者は、たいてい利用する気ですわ」

 

 グンヒルダは、畳まれた布の端を確かめた。

 

「形は揃ってる。でも、まだ木杯一つと布二枚だよ。宿舎全部を任せられるなんて思うんじゃない」

 

「分かっています」

 

 アルマニアは机の横を見た。

 

 読もうと思って積んだままの本。

 

 書きかけの譜面。

 

 削りかけの細い木材。

 

 寝ている間に家事が進むなら、空いた時間で何ができるだろう。

 

「アル」

 

 ミレナが笑顔で呼んだ。

 

「何でしょう、ミレナ姉さん」

 

「今、何を考えたの?」

 

「これからの学習計画です」

 

 机の下から、木槌が三度鳴った。

 

 分からない。

 

 ブラウニーは、アルマニアの言葉が本当かどうか分からないと伝えているらしい。

 

 ミレナは笑顔のまま、アルマニアの両肩へ手を置いた。

 

「お姉さんにも、分かるように説明しようか」

 

 眠っている間にも、ブラウニーは小さな経験を運んでくる。

 

 その代わり、アルマニアが空いた時間で何を始めるのかを見張る者も、一人増えていた。

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