翌朝、炭焼き小屋の床には、昨日より多くの足跡が残っていた。
どれもアルマニアの親指ほどしかない。
灰の上を何度も往復し、壁際の道具棚と、横倒しになった手車の間を行き来している。
手車は起こされていた。
外れた車輪も、車軸へ戻されている。
「触るんじゃないよ」
グンヒルダの声が飛んだ。
車輪へ手を伸ばしかけていたシャーナシアが止まる。
「昨日、さんざん触れましたわ」
「昨日は外れてた。今日は直したように見える」
「直っているのではなくて?」
「だから、確かめるまで触るなって言ってるのさ」
グンヒルダは長柄戦槌を小屋の外へ置き、工具袋だけを持って手車へ近づいた。
車輪を回さず、まず車軸の端を覗き込む。
本来なら車輪を留めているはずの木栓が、半分だけ差し込まれていた。
昨日折れた古い木栓である。
表から見える部分は煤を拭われ、割れ目が下へ向けられている。知らずに荷を積めば、最初の曲がり角で抜け落ちるだろう。
「直ってないね。元へ戻しただけだ」
グンヒルダは木栓を指先で抜いた。
力を込める必要もなかった。
「見た目だけなら、昨日より立派ですわ」
「見た目を直す仕事じゃないよ」
工具袋から赤い紐を取り出し、折れた木栓へ結ぶ。
「これは壊れてる。赤い印は、使うなって意味だ。誰が片づけたか知らないが、もう一度しまわれたら困る」
小屋の板壁から、木槌を鳴らす音がした。
こつん。
グンヒルダが顔を上げる。
「聞いてたのかい?」
返事はない。
アルマニアはメイジスタッフを右手へ持ち、左手を空けた。
昨日は風の精霊へ意識を向けた。
今日は違う。
煤けた壁。
踏み固められた床。
何度も火を焚かれた炉。
屋根を支える黒い梁。
小屋そのものへ、精霊の気配が染み込んでいる。
土や木に宿るものとは異なる。
床を掃き、道具を戻し、消えかけた火を守る。人がこの場所で繰り返した営みが、長い時間をかけて一つの形を得ていた。
「ブラウニーだ」
入口に立つ講師が言った。
「建物へ宿る精霊ですか?」
「そうだ。今は炭焼き小屋と呼ばれているが、昔は三家族が暮らした共同の仕事場だったらしい。中央の梁だけは、建て直す前から残っている」
講師は、煤で黒くなった太い梁を見上げた。
「人が何十年も暮らし、働き、同じ仕事を繰り返すうちに宿ることがある。風や水の精霊とは違い、帰るべき精霊界を持たない。この建物が、あれの世界だ」
「小さな足で、ずいぶん働き者ですこと」
シャーナシアが道具棚を見る。
火掻き棒も、木槌も、煤払いの刷毛も、大きさの順に並んでいた。
「昨日の事故も、そのブラウニーが起こしたの?」
ミレナの声から、いつもの柔らかさが消える。
「まだ分からない」
講師は答えた。
「神殿で炭焼き職人から話を聞いた。半年前から、朝になると床が掃かれ、道具が片づけられていたそうだ。礼として、夜ごと小皿へ山羊乳を入れていた」
小屋の隅に、浅い木皿がある。
中身は空だった。
「車輪が緩んでいることには、三日前から気づいていた。直すための新しい木栓も削り始めていたが、昨日は急ぎの荷が入り、古い木栓を差したまま使った」
「では、事故の原因はブラウニーではないのですね」
「自分の判断が原因だと、本人も認めている」
グンヒルダが手車の下へ身を屈めた。
車台の裏へ、新しい木栓が紐で結びつけられている。
形はほぼ整っているが、先端だけが太い。
「こいつを見つけて、最後まで削れなかったんだろうね」
「ブラウニーがですか?」
「刃物を使った跡はない。粗い石へ擦りつけたんだ。道具の扱いを見て覚えても、何が足りないかまでは分からなかったらしい」
グンヒルダは新しい木栓を外し、古いものと並べた。
「助けようとはした。だけど、任せられる仕事じゃなかった」
壁の向こうで、また木槌が鳴る。
こつん。
今度は、先ほどより小さかった。
◇
「では、姿を見せなさい」
シャーナシアが小屋の中央で命じた。
何も起きなかった。
「聞こえているのでしょう?」
返事はない。
「殿下が呼ぶより、アルが頼んだ方がいいと思います」
「なぜですの?」
「精霊語で話せるからですよ」
「わたくしの共通語は、精霊へ通じないほど拙くありません」
「言葉の上手い下手じゃないよ」
ミレナは笑いをこらえながら、アルマニアの背を押した。
「今日はアルの課題だから」
アルマニアは小屋の床へ膝をついた。
どこへ向かって話せばよいのかは分からない。
壁にも、梁にも、床にも気配がある。
昨日、風へ問いかけたときと同じだった。
自分が欲しい返事を、先に決めてはならない。
「ここにいるブラウニー。昨日、道具を片づけたのは君ですか?」
しばらく待つ。
木槌が二度鳴った。
こつん。
こつん。
「二回は、はい、ですか?」
また二度鳴る。
「一回は、いいえ?」
今度は一度だけだった。
シャーナシアが腕を組む。
「姿を見せずとも、話はできますわね」
「まず、頼みを聞いてくれるか確かめます」
アルマニアは道具棚を見た。
「昨日使った道具を、元の場所へ戻してくれますか?」
木槌が二度鳴る。
棚の下で、何かが素早く動いた。
煤払いの刷毛が一本消える。
次に目へ入ったときには、壁の釘へ掛けられていた。
火掻き棒が床を滑り、炉の脇へ戻る。
赤い紐を結ばれた古い木栓まで、手車へ向かって転がり始めた。
「待ってください!」
アルマニアが止める。
木栓は床の途中で動かなくなった。
「それは戻してはいけません」
壁から、一度だけ音が返る。
「いいえ、ですか?」
一度。
「僕は、道具を元の場所へ戻してほしいと頼みました」
二度。
「でも、それは壊れています」
二度。
「壊れていると知っていた?」
二度。
「それでも、僕が戻せと言ったから?」
二度。
アルマニアは口を閉じた。
ブラウニーは、頼みを間違えたのではない。
頼んだとおりに動いた。
壊れた道具を元へ戻すよう頼んだのは、アルマニアだった。
「今の失敗は、誰のもの?」
ミレナが尋ねる。
「僕です」
「精霊が危ないことをしたんじゃないの?」
「僕の頼み方が、危ない仕事を含んでいました」
「なら、どう直す?」
アルマニアは、赤い紐の木栓を拾った。
グンヒルダへ返し、道具棚の前へ三本の薪を置く。
四角く囲った内側には、煤払いの刷毛と木槌だけを残した。
「ここにいるブラウニー。三本の薪で囲んだ中にある、刷毛と木槌を、壁の釘へ戻してほしいです」
二度の音。
「囲いの外にある物と、赤い紐の物には触れないでください」
二度。
「頼みを受けたくなければ、一度鳴らしてください。分からないことがあれば、三度」
三度の音が返った。
こつん。
こつん。
こつん。
「今のは、分からない?」
二度。
「何が分からないのか、僕には分かりません」
板壁の隙間から、小さな手が現れた。
褐色の毛に覆われた、子供よりも小さな手だった。
指先が、囲いの中にある木槌を叩く。
「木槌をどの釘へ戻すか?」
二度。
壁には、空いた釘が四本ある。
アルマニアには、どれが木槌の場所か分からない。
「僕は知りません。君がいつも戻していた場所へお願いします」
二度。
手が引っ込む。
刷毛と木槌が一つずつ動き、壁の別々の釘へ掛けられた。
赤い紐の木栓には触れない。
三本の薪も動かさなかった。
「これなら、任せられると思いますか?」
アルマニアがグンヒルダへ尋ねる。
「この二つを戻す仕事ならね」
「小屋の道具全部ではなく?」
「二つを頼んで、二つができたんだ。勝手に話を大きくするんじゃないよ」
「はい」
講師が記録板へ書き込む。
「頼みには、やってほしいことだけでなく、やってはならないことも含める。相手が断る方法と、分からないと伝える方法も決める」
「人へ仕事を頼むときと同じですね」
「精霊だから、言わなくても分かると思ったか」
「少しだけ」
「その少しで人は死ぬ」
昨日の手車が、目の前にある。
アルマニアは頷いた。
◇
炭焼き職人は、古い小屋へ戻らないと決めていた。
窯の空気穴は根に押され、屋根を支える土も崩れ始めている。
修理して使い続けるより、仲間の窯へ移った方が安全だった。
小屋は雪が降る前に解体される。
「解体したら、ブラウニーはどうなるんですか?」
アルマニアが尋ねる。
「この建物とともに弱る」
講師は黒い梁へ手を当てた。
「建物の精霊界はない。帰る場所もない。新しい家へ勝手に移ることも、普通はしない」
壁の奥で、細かな音が続いた。
刷毛が動き、火掻き棒が揃えられ、床の灰が一筋ずつ掃かれていく。
頼まれていない仕事だった。
小屋がなくなると聞き、それでも今日までどおりに働いている。
「連れていくことはできますか?」
アルマニアが聞く。
「できますの?」
シャーナシアも講師を見る。
「命令して持ち出すことはできない。だが、建物の一部を新しい家へ移し、ブラウニー自身が望めば、そこを次の居場所にする場合はある」
グンヒルダが梁と壁を見比べた。
「中央の梁は駄目だよ。今抜けば、あたしたちごと屋根が落ちる」
「他には?」
「炉棚の板なら、荷を受けちゃいない。昔の建物から残ってる木だし、持ち出しても小屋は壊れない」
煤けた炉棚には、小さな木皿が置かれている。
毎晩、山羊乳を受け取っていた場所だった。
アルマニアは棚の前へ座った。
「僕のいる学院の宿舎は、ここより人が多いです。掃く床も、洗う木皿も、畳む布もあります」
ミレナが横から口を挟む。
「危ない薬と、魔法の道具と、剣もあるよ」
「それには、頼まれても触れないでください」
シャーナシアが眉を上げる。
「頼まれても、ですの?」
「僕が寝ぼけて頼むかもしれません」
「自覚はあるのですね」
「火がついている炉、薬、武器、魔法の品、赤い印をつけた物には触れない。分からない物も触れない」
アルマニアは、精霊語で一つずつ伝えた。
「夜ごと、してほしい仕事を僕が伝えます。君は断ってよい。分からなければ、三度鳴らしてください」
小屋は静かだった。
「代わりに、君が安心して留まれる炉棚と、毎晩の山羊乳を用意します。仕事がない夜でも、居場所と食べ物はなくしません」
ミレナが、わずかに目を細める。
「働けないなら、追い出すとは言わないんだね」
「それでは、隣人ではなく道具です」
「家事をしてもらえるから連れていくんじゃないの?」
「それも、とても助かります」
「そこは否定しないんだ」
アルマニアは炉棚へ向き直った。
「僕は君に、僕がやりたくない仕事を全部押しつけるかもしれません。頼み方を間違えることもあります。そのときは、一度鳴らして断ってください」
長い沈黙のあと、炉棚の木皿が持ち上がった。
板壁の隙間から、小さな影が出てくる。
膝まで届く褐色の髪。
煤色のぼろ布。
子供ほどの背丈もないのに、顔には古い梁の木目のようなしわが刻まれている。
ブラウニーは四人を順に見た。
最後にアルマニアの前へ来る。
空の木皿を差し出し、もう一方の手で炉棚の板を二度叩いた。
「山羊乳を入れればよいですか?」
一度。
「違う?」
二度。
ブラウニーは木皿を炉棚へ戻し、その板をもう一度叩いた。
「この炉棚と、木皿を新しい家へ持っていく?」
二度。
毎晩、仕事のあとに戻ってきた炉棚と、山羊乳を受け取ってきた木皿を、自分で次の居場所に選んだらしい。
「分かりました」
グンヒルダが炉棚を留める木釘へ工具を当てた。
「持ち主の許しは?」
「得ている」
講師が答える。
グンヒルダは板を割らないよう、木釘を一本ずつ抜いた。
外れた炉棚と木皿を、アルマニアが両手で受け取る。
「一緒に来てください」
ブラウニーは一度だけ鳴らした。
アルマニアが息を止める。
小さな顔が、しわだらけになる。
口元だけが笑っていた。
「それは、命令だから嫌だってこと?」
二度。
アルマニアは言い直した。
「一緒に来てくれますか?」
二度。
ブラウニーの姿が、炉棚の木目へ溶けるように消えた。
小屋に満ちていた気配も、少しずつ木皿へ集まっていく。
講師が記録板へ一行を書き加えた。
契約精霊、ブラウニー。
シャーマン技能の段階は上がらなかった。
精霊を連れていく力を得たのではない。
新しい家と仕事を互いに選び、頼みを断る方法まで決めた。
契約とは、命令を聞かせる印ではなかった。
頼んだ結果へ、アルマニアも責任を負う約束だった。
◇
その夜、アルマニアは宿舎の机の脇へ炉棚の板を据え、その前へ三本の薪を置いた。
囲いの中に入れたのは、空の木杯と、乾いた布が二枚。
「木杯を洗い、布を畳んでください。それ以外の物には触れないでください」
机の下から、二度の音が返る。
アルマニアは木皿へ山羊乳を注ぎ、寝台へ入った。
朝になると、木杯は伏せて乾かされ、布は二枚とも同じ幅に畳まれていた。
山羊乳はなくなっている。
机に積んだ本も、床へ置いた訓練着も、昨夜のままだった。
頼んでいない仕事には、手を出していない。
「成功ですね」
アルマニアは記録板へ目を落とした。
そこで、見覚えのない小さな加算に気づいた。
木杯を洗った経験。
布を畳んだ経験。
どちらも、契約者であるアルマニアが得たものとして記録されている。
さらに、取得経験倍化によって二倍になっていた。
「僕は、寝ていました」
朝の確認へ来ていた主任講師が、何度も記録板を見直す。
「ブラウニーが、あなたの頼んだ仕事をした」
「寝ていても、経験を得られるんですか?」
「契約した仕事の結果を、あなたの責任として受け取っているらしい。普通なら無視できるほど小さな経験だ。だが、あなたは得た経験を二倍にする」
シャーナシアが、あからさまに顔をしかめた。
「眠っている間まで成長するなど、ずるくありませんこと?」
「僕が決めた規則ではありません」
「その返事をする者は、たいてい利用する気ですわ」
グンヒルダは、畳まれた布の端を確かめた。
「形は揃ってる。でも、まだ木杯一つと布二枚だよ。宿舎全部を任せられるなんて思うんじゃない」
「分かっています」
アルマニアは机の横を見た。
読もうと思って積んだままの本。
書きかけの譜面。
削りかけの細い木材。
寝ている間に家事が進むなら、空いた時間で何ができるだろう。
「アル」
ミレナが笑顔で呼んだ。
「何でしょう、ミレナ姉さん」
「今、何を考えたの?」
「これからの学習計画です」
机の下から、木槌が三度鳴った。
分からない。
ブラウニーは、アルマニアの言葉が本当かどうか分からないと伝えているらしい。
ミレナは笑顔のまま、アルマニアの両肩へ手を置いた。
「お姉さんにも、分かるように説明しようか」
眠っている間にも、ブラウニーは小さな経験を運んでくる。
その代わり、アルマニアが空いた時間で何を始めるのかを見張る者も、一人増えていた。