アルマニア一世が返されたのは、その日の夕食後だった。
ミレナは、アルマニア一世を渡さない。
「今夜、改良しない?」
「しません」
「図面も描かない?」
「改良しないことと、記録を残さないことは別です」
「返すの、明日にしようか」
「朝まで眠ります」
「よろしい」
ようやく革帯が渡された。
机の脇で、ブラウニーの木槌も二度鳴った。
アルマニアは、壁へ打った二本の木釘へリュートを掛けた。
赤い紐は外さない。
ブラウニーだけでなく、自分へも今夜は触らないと伝える印だった。
「明日の実習には持っていくの?」
「持っていきません」
「どうして?」
「使う理由がないからです」
「うん。おやすみ、アル」
ブラウニーへ、いつもの片づけだけを頼んだ。
寝台へ入り、毛布を肩まで引き上げる。
次に目を開けたときには、朝の光が窓から差し込んでいた。
◇
学院北棟の地下には、古い導水路が残されている。
階段を下りるほど、湿った石の匂いが濃くなる。
アルマニアが背負っているのは、メイジスタッフと記録板だけだった。
「アルマニア一世は?」
前を歩くシャーナシアが振り返る。
「置いてきました」
「今日の荷には必要ありません」
「少しは言うようになりましたわね」
「昨日、言われたばかりですから」
グンヒルダも、必要な物だけの荷を見て頷いた。
旧導水室の入口で、精霊使いの講師が待っていた。
その横には、学院の管理人と、水路の図面を抱えた石工がいる。
「先に確認します」
ミレナの声が硬くなった。
「ここは、第二訓練地下区画へつながっていますか?」
「つながっていない」
講師は即答した。
「旧区画とも、双鴉の泉とも別の水路だ。現在地、出口、退避路は地上で確認したとおり。途中の扉もすべて開放してある」
ミレナは図面を受け取り、入口、奥の出口、退避路を自分の目でも確かめた。
「納得しました」
「では、課題を伝える」
講師が鉄格子の向こうを指した。
足首ほどの水路が石床を横切り、四角い石の口から反対側へ抜けている。
「水の精霊へ呼びかけ、返事が届かなくなる場所を調べる。分かったことと、分からないことを分けて報告しろ」
「返事をさせるのが課題ではないのですね」
アルマニアが尋ねる。
「そうだ」
「中へ入る必要は?」
「ない。石の口から先へ身体を入れるな」
シャーナシアが鉄格子をつかんだ。
「それだけですの?」
「それだけを、正確にやってみろ」
錠が外される。
ミレナは槍を背へ回して右手を空け、水路の手前で流れへ手をかざした。
精霊語の短い呼びかけが、石室へ落ちた。
流れが石へ当たる感触の中から、ミレナは水の精霊を捉えていた。
「ここにはいる」
白墨で床へ印をつける。
アルマニアも少し離れた場所で片手を空け、同じように呼びかけた。
冷たさと流れ、低い場所へ進もうとする力。考えまでは分からなくても、呼びかけが届いたことは分かる。
「僕にも返事があります」
二人は半歩ずつ石の口へ近づく。入口の縁には返事がある。水が暗がりへ入った直後からは、何も返らない。
「断られました」
アルマニアが言った。
「違うよ」
ミレナの声が、すぐ横から飛んだ。
「返事がない。断ったかどうかは分からない」
浅瀬の実習では、強い反応を安全な道という答えへ仕立てた。今度は、何もないことへ拒絶という意味を足しかけた。
「訂正します。呼びかけましたが、返事を受け取れません」
「どこから?」
ミレナに問われ、アルマニアは白墨を取った。
石の口の手前には返事があり、縁を越えたところからは分からない。境目へ短い線を引く。
「この線より奥です」
「水は?」
「流れています」
「なら、水の精霊もいるのではなくて?」
シャーナシアが暗い水路をのぞき込む。
「見える水と、力を借りられる水は同じとは限りません」
アルマニアが答える。
「呼びかけが遮られているのか、精霊が働いていないのか、僕たちが感じ取れないのかも分かりません」
「三つも答えを出して、何も分かっていませんわね」
「分からないことを三つに分けました」
グンヒルダが石の縁を小槌の柄で叩く。白っぽい石の一部だけ、低い音が返った。
「この先は、同じ石じゃないね」
「何が使われています?」
「表からじゃ分からない。裏へ別の石を重ねてある。崩れかけてはいないよ」
「外せますの?」
「確かめるために、学院の水路を壊すんじゃないよ」
「なら、反対側へ回ります」
四人は一度鉄格子の外へ戻り、建物を回った。
奥の出口でも、水は変わらず流れている。
暗い石の口から出た水は、三歩ほど先で浅い水溜まりを作り、さらに細い溝へ流れていた。
ミレナが出口から順に、呼びかけを重ねる。
二つの印を置き、さらに半歩下がったところで指先が止まった。
「ここから、戻る」
アルマニアも確かめた。
確かに、かすかな返事がある。
流れが石の口から三歩ほど離れたところで、水の精霊の働きが再び感じ取れた。
「中の水と、外へ出た直後の水からは返事がない」
アルマニアは記録板へ書く。
「三歩ほど流れたあと、返事が戻る」
「戻ったのは、同じ精霊?」
ミレナが尋ねる。
「分かりません」
「中にいるものが、もう一度聞こえたのか。外で別の精霊が働き始めたのか、僕には分けられません」
「それも書いて」
記録板へ一行を加える。
シャーナシアは、暗い石の口を見つめていた。
「水があるのに、返事だけが消える」
いつもの勢いが、声から薄れている。
「あの時も、そうだったのでしょう」
双鴉の泉を隠していた旧区画でも、水の精霊は壁の向こうから答えなかった。その先に、アルマニアはいた。
ミレナは出口の白い線へ立ったまま、暗がりから目を離さない。
「姉さん」
「何?」
「僕は、ここにはいません」
「見れば分かるよ」
「なら、壊す必要もありません」
「壊すなんて言ってないでしょう」
言ってはいない。
けれど、右手は槍ではなく、手掛かりを求めるように石の縁へ伸びていた。
「返事がないと、壁の向こうに誰かいるように感じますか?」
ミレナは答えなかった。
代わりに、石の奥から低い音が届いた。
ごとり。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
ミレナが顔を上げる。
「人がいる」
「まだ分かりません」
アルマニアは、反射的に答えていた。
グンヒルダが床へ片膝をつける。
音だけを聞き、指先で水路の縁へ触れた。
ごとり。
今度は音とともに、水面がわずかに持ち上がる。
「水門だ」
「水門?」
「中の板が、流れに押されて揺れてる。人が叩いてる音じゃない」
「確かですの?」
「人が同じ場所を叩くたび、水が増えるのかい?」
四度目の音。
出口から流れ出す水が、明らかに細くなった。
石の口の内側で、古い水門が下がり始めている。
入口側に水が溜まれば、旧導水室へあふれる。
「管理用の鎖を引け!」
管理人が外壁の鎖を引いたが、途中で止まった。
「固着している!」
グンヒルダが駆け寄る。
「動かさないで。歯が一つ欠けてる」
「直せるか?」
「ここで歯車は作れない。上げた位置へ留めるだけなら」
ミレナが水へ向き直り、右手を空けた。
「姉さん」
「分かってる」
水門があるのは、返事のない場所である。ミレナは呼びかけなかった。
槍を壁へ立てかけ、管理用の鎖をつかむ。
「シャーナシア、私と上げる。グンヒルダは留め具。アルは水を見て」
「わたくしなら、一人で上げられます」
「上げたあとも持っていられる?」
「できます」
「できるかじゃない。一人に任せる理由がないの」
シャーナシアはミレナの隣で鎖を握った。
二人が鎖を引く。
車輪が軋み、水門が少しずつ上がる。
アルマニアは石の口と、足元へ置かれた水位の印を見比べた。
「まだ増えています」
「どのくらい?」
「白い線まで、指二本」
「グンヒルダ!」
「今やってるよ!」
グンヒルダが車輪の根元へ楔を打つ。一本目が滑り、歯車が半回転戻った。
シャーナシアの靴が石の上を滑る。
アルマニアは水位から目を離しかけた。
支えるか、治癒に備えるか。二つの考えが浮かぶ。
「見ていて!」
ミレナの声が飛んだ。
シャーナシアは踏みとどまっている。
今、アルマニアへ預けられたのは水位だった。
「白い線を越えます!」
「全員、階段側へ退く準備!」
ミレナが即座に答える。
「まだ保ちますわ!」
「保つことと、残ることは別!」
グンヒルダが二本目の楔を打ち込む。
「もう一度上げて!」
ミレナとシャーナシアが鎖を引く。
グンヒルダが三本目を横から打ち、車輪が止まった。
出口の水が一気に増えた。
白い線を越えかけた水位が、ゆっくり下がり始める。
「下がっています」
アルマニアは、元の水位へ戻るまで見届けた。
「元の水位へ戻りました」
グンヒルダは顔を近づけ、三本の金具を順に確かめた。
「応急処置だけ。次に動かすなら、歯車を替えてからだ」
管理人が何度も頷く。
「今日中に水を止め、石工と歯車職人を呼ぶ」
「なら、ここから先は任せます」
グンヒルダは小槌を腰へ戻した。
精霊使いの講師が、四人の顔を見る。
「課題は、水門を直すことではなかった」
「放っておけば、導水室が水浸しになりました」
シャーナシアが答える。
「だから対処したことは正しい。だが、自分たちが何を終え、何を専門家へ残したかは分けて報告しろ」
アルマニアは記録板へ書き加えた。
水門は一時的に開いた位置で固定。再使用を禁じ、管理人、石工、歯車職人へ引き継ぐ。
その下へ、最初の課題へ戻る。
「分かったこと」
アルマニアは読み上げた。
「水路の入口から、出口の三歩先まで、僕とミレナ姉さんは水の精霊から返事を受け取れない」
水は流れ、石の内側には別の材が重ねられている。人が叩くと思った音は、水圧で板が揺れた音だった。
「分からないこと」
アルマニアは次の欄を見る。
「精霊がいないのか、感じ取れないのか、呼びかけが遮られているのか。内側の材が何かも分かりません」
「それから」
アルマニアは、ミレナを見た。
「返事がない時、壁の向こうに誰かいるように感じること」
ミレナの眉がわずかに寄る。
「それは、課題の報告に必要かな」
「次に同じ場所へ来た時、僕たちの判断へ影響します」
「僕たち?」
「僕も、あの音を聞いた時に扉を思い出しました」
「だから、感じたことと、分かったことを分けます」
ミレナはしばらく黙っていた。
やがて、自分の記録板にも同じ一行を書き加える。
「うん。それも報告しよう」
◇
旧導水室を出る頃には、昼を少し過ぎていた。
精霊使いの講師は、学院へ戻る前にミレナを呼び止めた。
「今日の記録を出せ」
ミレナが板を渡す。
講師は、入口と出口の印、返事が消える範囲、分からないことの欄を順に読む。
「水門が下がった時、なぜ魔法を使わなかった?」
「水門まで返事が届くと確認できていません」
「入口側の水には精霊がいた」
「いました。でも、何を頼めば水門が安全に上がるか分かりません。流れを変えれば、別の場所へ水があふれたかもしれない」
「力を借りられないと決めたのか?」
「いいえ」
ミレナは首を横へ振った。
「頼めなかったと、決めました。必要なことを分けられなかったから」
精霊の拒絶にはせず、安全な頼み方を選べなかったところまでを自分の責任として引き受けた。
講師は記録板の末尾へ、新しい一行を書いた。
「ミレナ。精霊使いとして三段階へ進んだことを認める」
アルマニアは、ミレナより先に顔を上げた。
「シャーマン三ですか?」
「アルが答えることじゃないよ」
そう言いながら、ミレナも驚いていた。
シャーマン、三レベル。
三つとも二レベルだった技能の一つが、返事のない場所を見極め、仲間を動かしたことで初めて先へ進んだ。
「これで、精霊憑依を使えますね」
アルマニアが言う。
ミレナの喜びが、一瞬だけ止まった。
「使える、とはまだ言わないよ」
「三レベルが条件でしょう?」
「最低条件だ」
講師が答えた。
「精霊憑依は、契約した精霊を身体へ迎える特技だ。精霊使いとして三段階へ達していなければ、迎えた力を保つことも、自分と精霊を分けることもできない」
「なら、条件は満たしました」
「入口へ立つ条件をな」
「迎える精霊との契約。憑依中に保てる意識。解除の手順。中止の合図。どれか一つでも曖昧なら、訓練は許可しない」
治療室で聞いた言葉が蘇る。精霊を迎えるより、人の身体へ戻る方が難しい。解除に失敗すれば、ミレナは死ぬ。
「次の実習で、使うんですか?」
「使わない」
ミレナが答えた。
「まず、使わずに終わるところまでを決めるの」
「使わずに?」
「誰を迎えるか。何を頼むか。いつ終えるか。返事がなかったら、どうするか」
ミレナは、自分の記録板をアルマニアへ見せた。
分かったこと。
分からないこと。
返事がない時、自分が何を思い出すか。
「身体へ迎えてから考えるには、遅すぎるでしょう」
グンヒルダが頷く。
「やっと、あんたがアルマニアへ言ってることを自分でもやる気になったね」
「前からやっています」
「どの口で言うんだい。今日も石の口へ手を入れかけたろ」
「入れてません」
「一度止まったからって、任せられるとは言わないよ」
「分かっています」
シャーナシアが、二人の間へ割って入った。
「その訓練には、わたくしも立ち会います」
「殿下は精霊使いではないでしょう」
「あなたが戻れなくなった時、外から何が起きているか判断する者が必要です」
「解除を手伝えるとは限りません」
「助けられると言ったのではありません。見届けると言ったのです」
アルマニアも、すぐに自分の役目を探した。
神聖魔法、古代語魔法、精霊魔法。どれなら、戻れなくなったミレナを助けられるか。
考え始めたところで、ミレナの指が額へ当たった。
「今、全部数えたでしょう」
「何も言っていません」
「顔に書いてあるよ」
「では、僕は何をすればいいんです?」
「次の説明を聞く」
「それだけですか?」
「それだけを正確にやって」
旧導水室で与えられた課題と同じだった。
返事がない時、勝手に意味を足さない。
できることが浮かんでも、頼まれていない助けまで始めない。
「分かりました」
アルマニアは答えた。
「でも、中止と言われたら止めます」
「うん」
「危険だと思ったら、講師へ言います」
「うん」
「姉さんが大丈夫と言っても?」
ミレナは少しだけ迷った。
「その時は、どうして危険だと思ったか言って」
「私の身体だからね。最後は私が決める」
「だから、アルも自分の役目を越えないで」
「はい」
「返事がありませんわね」
シャーナシアが横から言う。
「返事はしました」
「口では」
「では、どうすれば信じるんです?」
「明日、鉄板入りのリュートを持ってこなければ、少しは」
「持ってきません」
「即答ですのね」
「使う理由がありませんから」
その答えには、ミレナも笑った。
◇
その夜、アルマニア一世は壁に掛けられたままだった。
赤い紐も外さない。
机の上には、旧導水室の記録板だけを置いた。
ブラウニーへ頼むのは、木杯を洗い、使った布を畳むところまで。
「図面には触れなくていいです。今夜は改良もしません」
木槌が二度鳴る。
アルマニアは記録板の末尾へ一行を書いた。
返事がない時、相手が断ったとも、困っているとも、助けを求めているとも決めない。それでも分からなければ、分からないまま次の者へ渡す。
アルマニアの技能は上がらなかった。
代わりにミレナが、精霊使いとして一つ先へ進んだ。
精霊憑依。
人と精霊の境を越える、彼女だけの特技。
次に学ぶのは、力を得る方法ではない。
越えた境から、ミレナとして帰ってくる方法だった。