学院西庭の白樺に、細い緑の布が結ばれていた。
風向きを見るための目印ではない。
枝の周りを巡る風の精霊へ、ここで呼びかけると伝えるための印だった。
白樺から十歩ほど離れた芝生には、麻縄で大きな輪が作られている。
輪の外には小さな砂時計、赤い布、記録板。
さらに、四つの白い石が一列に並んでいた。
「先に言っておく」
精霊使いの講師が、四人を見回した。
「今日は憑依しない」
アルマニアは、わずかに肩の力を抜いた。
隣にいたミレナが、その変化を見逃さない。
「そんなに心配してたの?」
「していません」
「顔に書いてあるよ」
「今日はしないと聞いて、予定を確認しただけです」
「その言い方をするときは、たいてい心配してるよね」
シャーナシアが二人の間から、麻縄の輪をのぞき込んだ。
「では、何をするのです? 輪の中へ立ち、入ったつもりになって出てくるのなら、子供の遊びと変わりませんわ」
「入ったつもりにもならない」
講師は、輪の中へ片足を入れた。
「これは魔法円ではない。精霊を閉じ込める力も、術者を守る力もない。誰がどこまで近づくかを、人間同士で決めるための印だ」
靴先で麻縄を押しても、何も起こらない。
「精霊憑依を解くとき、外にいる者が術者を引っ張り出すことはできない。半精霊になった身体を縄で縛ることも、腕をつかんで止めることもできん。無理に精霊を追い出せば、術者まで壊す」
グンヒルダが眉を寄せた。
「なら、あたしたちは見てるだけかい?」
「見る。知らせる。決められた合図を送る。異常があれば中止を命じる。だが、最後に自分と精霊を分けるのはミレナだ」
講師は、記録板をミレナへ渡した。
四つの欄がある。
迎える精霊。
頼むこと。
終える条件。
戻る理由。
「全部埋めろ。曖昧な言葉が一つでもあれば、契約も許可しない」
ミレナは最初の欄へ、迷わず羽根筆を走らせた。
西庭の白樺を巡る、風の精霊シルフ。
「何度、返事を受け取った?」
「この学院へ来てから、七度です。母の森にいる精霊とは違います。でも、呼びかけた時の気配は分けられます」
「アルマニア」
講師に呼ばれ、アルマニアも白樺へ意識を向けた。
まだ呼びかけてはいない。
葉を揺らす風の中に、どこか弾むような気配がある。
「風の精霊はいます。ですが、ミレナ姉さんが言う相手と同じかは、僕には分かりません」
「それでいい。分からないものまで保証するな」
二つ目の欄。
ミレナは少し考えてから書いた。
最初の憑依では、力を借りない。
輪の中に留まり、呼びかけへ答え、終える合図で分かれる。
「魔法は?」
「使いません」
「移動は?」
「しません」
「普通の武器が通じるか、試しますの?」
シャーナシアの問いに、ミレナが顔を上げた。
「試しません」
「せっかく半精霊になるのでしょう?」
「戻る練習で、攻撃を受ける練習まで混ぜません」
「よろしい」
なぜか、シャーナシアが満足そうに頷いた。
「欲張りな誰かへ聞かせたい答えですわね」
アルマニアは黙って記録板を見た。
「聞こえてるよ、アル」
「何も言っていません」
「顔に書いてあるもの」
三つ目の欄には、細かな条件が並んだ。
砂が落ち切る前。
赤い布が上がった時。
四つの音が止まった時。
自分の名と、帰る人数を答えられなくなった時。
風の精霊が別れを望んだ時。
「四つの音とは何です?」
シャーナシアが尋ねる。
「まだ決めていません」
「決めていないものを、条件へ書きましたの?」
「だから今から決めるんです」
ミレナは、アルマニアを見た。
「一定の間隔で、同じ音を四つ。何度も続けられる?」
「声で数えますか?」
「私が風と混ざっている間、人の言葉を同じように聞けるとは限らない。意味より、途切れない音の方がいい」
「木を叩くなら、あたしがやるよ」
グンヒルダが小槌を上げる。
「一つの音は出せる。でも、風に紛れない音かは試さないと分からないね」
「鐘を用意させますわ」
「大きすぎます。周りの精霊まで驚かせます」
アルマニアは、白樺の葉が擦れる音を聞いた。
高い音。
低い音。
短い音を四つ。
「一つ、使えそうな物があります」
三人の視線が集まる。
「宿舎へ取りに戻ります」
「まさか」
ミレナが先に気づいた。
「今日は、使う理由があります」
◇
アルマニア一世の赤い紐が、ようやく外された。
鉄板入りの胴を抱え、アルマニアは四本の弦を順に弾く。
高い音から低い音へ、一つずつ。
もう一度。
同じ四つの音が、一定の間隔で西庭へ流れた。
風に運ばれても、葉擦れとは混ざらない。
「音は悪くない」
グンヒルダが、胴の留め具を見ながら言った。
「楽器職人が見たからです」
「そこは分けるようになったね」
「僕が弾いているところも評価してください」
「四つ鳴らしたところまでは認めるよ」
ミレナは目を閉じ、音を聞いた。
四つ。
短い間。
また四つ。
「これなら分かると思う」
「思う、ですか?」
「憑依したあとの私で聞いてないんだから、分かるとは言えないでしょう」
少し前までなら、アルマニアはその言葉へ不安を足していた。
聞こえなかったら。
返事がなかったら。
戻れなかったら。
けれど今は、ミレナが分けたところまでを記録した。
「憑依前のミレナには、四つの音を同じ一組として聞き分けられる」
「うん。それで書いて」
講師が、四つの白い石を指した。
「その音は、何を意味する」
「終える時間です」
「それだけか」
ミレナは石を一つずつ手に取った。
「シャーナシア」
一つ目を置く。
「グンヒルダ」
二つ目。
「アルマニア」
三つ目。
四つ目を持った手が止まった。
「ミレナ姉さん」
アルマニアが言った。
「分かってるよ」
ミレナは四つ目を置いた。
「四人の名前。全員で帰るための合図です」
「なら、最後の欄を読め」
講師に言われ、ミレナは記録板へ目を戻した。
戻る理由。
そこには、こう書かれていた。
三人を連れて帰るため。
「三人ではありません」
アルマニアが言った。
「今いるのは、私を除けば三人でしょう」
「なぜ、除くんです?」
「私は連れて帰る側だから」
「それなら、姉さんが戻らなくても、僕たち三人が帰れば成功ですか?」
ミレナの緑の目が、アルマニアを見た。
「そんなわけないでしょう」
「でも、そう書いてあります」
「精霊憑依は、使わなければ皆を帰せない時だけ使うの。最初から危険を引き受けるのは私だよ」
「危険を引き受けることと、帰る人数から自分を外すことは別です」
「同じことになる時もある」
「その時に選ぶことまで、今決めないでください」
アルマニアの声が、少しだけ強くなった。
双鴉の泉を隠す壁。
返事のない水。
見つけた時には衰弱し、立つこともできなかった自分。
ミレナは、あの壁を越えた先からアルマニアを連れて帰った。
だから今度は、自分が帰れないことを最初から代償へ入れようとしている。
「姉さんは、僕に言いました」
アルマニアは続けた。
「姉さんは道を見る。僕は皆を見る、と」
「言ったね」
「姉さんが皆に入らないなら、僕へ任せた仕事が一人分足りません」
ミレナが口を開きかける。
その前に、シャーナシアが腕を組んだ。
「わたくしも認めませんわ」
「殿下まで」
「あなたが道を作り、わたくしがそこを通ったあと、道を作った者だけが消える。それを勝利と呼ぶつもりはありません」
「必要なら、誰かが残らなければならないこともあります」
「必要になってから決めなさい。訓練を始める前から、自分を損失へ数えて帳尻を合わせるのは決断ではありません」
グンヒルダは、四つの石を指先で一直線へ揃えた。
「四人で受けた仕事だ。一人欠けて三人で戻ったら、仕事は終わってないよ」
「でも、あたし一人が残れば三人は助かる、なんて時が絶対にないとは言わない」
琥珀色の目が、ミレナをまっすぐ見る。
「その時に払うものと、最初から数えないものを一緒にするな」
三人とも、ミレナが危険を引き受けることそのものは否定しなかった。
自分たちのために使うなとも言わない。
ただ、帰る予定から勝手に一人を減らすことだけを許さない。
ミレナは、四つ目の石を親指で押した。
「私が戻らなかったら、アルはどうするの?」
「僕にできることを全部探します」
「それをやめなさいって教えてるでしょう」
「では、今やるべき一つを選びます」
「何を?」
「帰ってきてほしいと伝えます」
「それで戻れるなら、苦労しないよ」
「戻すとは言っていません。伝えるだけです」
精霊と分かれるのは、ミレナにしかできない。
アルマニアの歌も、シャーナシアの命令も、グンヒルダの手も、彼女を人の身体へ引き戻す力にはならない。
それでも、外から届くものが何もないわけではない。
四つの音。
四人の名前。
帰る場所に、自分も含まれているという知らせ。
ミレナは記録板から、三人という字を削った。
その上へ、四人と書く。
「私はミレナ」
声に出して確かめる。
「四人で帰るため、ここで精霊と分かれる」
講師が首を横へ振った。
「長い」
「大事なところなんだけど」
「人と精霊の境で、いつもと同じように考えられると思うな。名前。人数。別れの言葉。それだけにしろ」
ミレナは言い直した。
「私はミレナ。四人で帰る。ここで別れよう」
「誰に言う」
「私と、迎えた精霊の両方へ」
「それでいい」
◇
契約の確認は、憑依より先に行われた。
ミレナは短槍を麻縄の外へ置き、両手を空ける。
金属鎧は身につけていない。
風の精霊へ働きかける言葉と身振りを、途中で止めなくてよい状態を作る。
「役目を確認する」
講師が言った。
「シャーナシア」
「中止を決め、赤い布を上げます」
「ミレナが続けると言ったら?」
「理由を聞きます。答えがなくても続けようとするなら、中止させます」
「命じれば戻せると思うな」
「分かっています。決めた合図を送るところまでです」
「グンヒルダ」
「砂時計と、輪と、ミレナの身体を見る。異変があっても勝手に触らない。見えたことをそのまま言う」
「アルマニア」
「四つの音を絶やしません。精霊の反応を感じても、ミレナ姉さんの考えだと決めません。呼びかけられたら、受け取ったものだけを答えます」
「魔法は?」
「頼まれない限り使いません」
「治癒は?」
アルマニアは一瞬だけ迷った。
「憑依中の身体へ、勝手に使いません。解除後に傷を確認してからです」
「よし」
最後に、講師はミレナを見る。
「戻るのは誰だ」
「ミレナです」
「何人で帰る」
「四人」
「始めろ」
アルマニアが、アルマニア一世の弦を弾いた。
四つの音。
短い間を置き、もう一度。
ミレナが風の精霊語で呼びかける。
「まだ、身体へは迎えない」
人間の言葉でも、三人へ伝えた。
「今日は、互いに終わり方を確かめたい。私が名を告げ、四つの音を聞き、別れを頼んだら離れてほしい。あなたが先に離れたい時は、私の言葉を待たなくていい」
白樺の葉が、一斉に裏返った。
緑の布が枝から持ち上がる。
風は輪の中へ入り、ミレナの足元を一度巡った。
髪が持ち上がり、外套の裾が揺れる。
それ以上、近づかない。
「受け取ったものは?」
講師がアルマニアへ尋ねる。
「風の精霊が、ミレナ姉さんの周りへ留まっています。呼びかけへ返事はあります」
「契約を受けたか?」
「僕には分かりません」
「ミレナ」
「終える合図を待っているように感じます。でも、まだ私の判断です」
講師が頷いた。
グンヒルダが砂時計を返す。
細い砂が落ち始めた。
シャーナシアは赤い布を手に、ミレナの正面へ立つ。
アルマニアは四つの音を繰り返す。
一つ目。
シャーナシア。
二つ目。
グンヒルダ。
三つ目。
アルマニア。
四つ目。
ミレナ。
砂が半分ほど落ちたところで、講師がシャーナシアへ合図した。
赤い布が上がる。
「ミレナ、終わりなさい」
命令は短かった。
ミレナは目を閉じない。
四つの音を聞きながら、自分の名を口にした。
「私はミレナ。四人で帰る。ここで別れよう」
足元を巡っていた風が、もう一度だけ外套を揺らした。
白樺へ向かって抜けていく。
持ち上がっていた緑の布が、枝へ戻った。
四つの音は、そこで止まる。
「返事は?」
講師が尋ねた。
「別れの言葉で、風は離れました」
「契約は?」
ミレナはすぐに答えなかった。
先ほどまで風が触れていた両手を開き、残った感覚と自分の考えを分ける。
「同じ合図と条件で、もう一度身体へ迎えることへ応じる意思を感じました」
「分からないことは?」
「憑依したあとも、同じように別れられるか。四つの音が届くか。私が四人を思い出せるか」
「よし。分からないまま残せ」
講師は記録板へ、契約確認済みと書き加えた。
精霊憑依そのものは、この日にはまだ許可されない。
役目を入れ替えず、同じ手順をさらに繰り返す。
砂時計を返す。
四つの音を鳴らす。
赤い布を上げる。
名を告げる。
四人で帰ると決め、精霊へ別れを頼む。
二度目は、講師が途中でアルマニアの弦を押さえた。
音が三つで止まる。
ミレナは四つ目を待たなかった。
「音が欠けました。中止します」
赤い布が上がる前に、自分から別れを告げる。
三度目は、シャーナシアが赤い布を上げなかった。
砂が落ち切る前に、グンヒルダが声を上げる。
「時間だよ」
ミレナは、その報告だけで中止した。
誰か一人が失敗しても、続ける理由にはしない。
合図が足りない時ほど、安全だという意味を足さない。
返事のない場所で学んだことが、今度は自分の身体へ精霊を迎える手順へつながっていた。
◇
すべての確認が終わると、ミレナは四つの白い石を拾った。
一つ目をシャーナシアへ渡す。
二つ目をグンヒルダへ。
三つ目をアルマニアへ渡し、四つ目を自分の上衣の隠しへ入れた。
「なくさないでくださいね」
「アルに言われたくないな」
「僕は物をなくしません」
「代わりに、増やすものね」
アルマニア一世へ視線が向く。
「今日は必要でした」
「うん。今日はね」
「では、明日も」
「勝手に改良しなければ、持ってきていいよ」
「改良の必要はありません」
机の下から木槌が鳴れば、三度だったかもしれない。
だが、ブラウニーは宿舎にいる。
代わりにグンヒルダが、鉄板入りの胴を指で叩いた。
「今夜、開けたら分かるからね」
「開けません」
「眠る?」
ミレナが尋ねる。
「眠ります」
「よろしい」
講師が、実習記録を閉じた。
「次は、実際に迎える。今日決めたこと以外はするな」
アルマニアの技能は上がらなかった。
ミレナも、新しい力をまだ一度も使っていない。
それでも、精霊憑依の計画書には大きな修正が一つ残った。
帰還する者。
三人ではなく、四人。
四人目の名は、ミレナ。
人と精霊の境を越える前に、必ず連れて帰ると決めた一人だった。