学院西庭の白樺に、昨日と同じ緑の布が結ばれていた。
麻縄の輪も、四つの白い石も動かされていない。
砂時計はグンヒルダの前。
赤い布はシャーナシアの手。
アルマニア一世は、アルマニアの膝に載っている。
違うのは、今日の記録板に一行だけ増えていることだった。
精霊憑依を実施する。
「確認する」
精霊使いの講師が言った。
「今日、確かめることは何だ」
「風の精霊を身体へ迎えたあと、決めた手順で分かれられることです」
ミレナが答える。
「何をしない」
「移動しません。精霊魔法を使いません。武器が通じるかも試しません」
「憑依したまま、できることを増やそうと思ったら?」
「その時点で終えます」
返事に迷いはなかった。
だが、ミレナの右手は何度も開いては閉じている。
アルマニアは弦へ置いた指を離した。
「怖いんですか?」
「怖いよ」
ミレナは、あっさり認めた。
「アルは、怖くないの?」
「怖いです」
「なら、同じだね」
「同じではありません。僕は死にません」
「だから、怖さの比べっこはしないの」
いつものように額を小突こうとした手が、途中で止まる。
麻縄の輪へ入ったあとは、始める前でも外の者へ触れないと決めていた。
ミレナはその手を自分の胸元へ戻した。
「帰ってくるよ」
「予定ではなく、結果としてお願いします」
「こういう時だけ、言い方が先生に似るよね」
「姉さんが、生徒らしくないからです」
「二人とも」
シャーナシアが赤い布を広げた。
「始める前に姉弟喧嘩を済ませるなら、外でなさい」
「姉弟ではありません」
二人の声が重なった。
グンヒルダが砂時計の枠を指で叩く。
「息は合ってる。始めてもいいね」
◇
ミレナは短槍を輪の外へ置いた。
外套も外す。
苔色の上衣と茶色の脚衣、革の長靴だけになる。金属鎧も、両手を塞ぐ物も身につけていない。
上衣の隠しには、四つ目の白い石が入っている。
残りの三つは、シャーナシア、グンヒルダ、アルマニアが一つずつ持っていた。
「戻るのは誰だ」
講師が尋ねる。
「ミレナです」
「何人で帰る」
「四人」
「迎える相手は?」
「西庭の白樺を巡る、契約した風の精霊です」
「始めろ」
アルマニアは、四本の弦を順に弾いた。
高い音から低い音へ。
一つずつ。
短い間を置き、もう一度。
四つの音が同じ間隔で流れ始める。
ミレナは両手を開き、風の精霊語で呼びかけた。
白樺の枝に結ばれた緑の布が持ち上がる。
風は葉を揺らしてから幹を巡り、芝生の上を滑った。
麻縄の輪の前で一度止まる。
見えない何かが、そこに境を認めたようだった。
「私はミレナ。昨日決めた時まで、私の身体へ迎えたい」
ミレナの髪が持ち上がる。
「力は頼まない。ここから動かない。終える合図が届いたら、分かれたい」
風が輪の中へ入った。
最初に変わったのは、髪だった。
赤みがかった栗色が薄れ、陽を透かす細い糸のようになる。
次に上衣の裾が浮いた。
布が風に揺れたのではない。
裾そのものが風へほどけ、また布の形へ戻っている。
ミレナが息を吸う。
胸は動かなかった。
吐いた息も見えない。
それでも、白樺の葉が一斉に鳴った。
「名前」
講師が呼びかける。
「ミレナ」
答えは輪の中だけから聞こえなかった。
頭上の葉と、足元の草と、三人の頬を撫でた風が、同時にその名を運んだ。
「帰る人数」
「四人」
声はまだミレナのものだった。
グンヒルダが記録板へ線を引く。
「輪郭は保ってる。足は輪の内側。髪と服の端が透けてる」
「本人の返事と、見えたことだけを書け」
「分かってるよ」
砂時計が返された。
細い砂が落ち始める。
◇
ミレナには、自分の立っている場所が分からなくなっていた。
足は芝生にある。
そう覚えている。
けれど、足の裏から返ってくる硬さがない。
代わりに、白樺の上を抜ける風が分かった。
葉の表と裏。
枝の間をすり抜ける細い道。
学院の石壁へ当たり、二つに分かれて流れる空気。
シャーナシアの赤金色の髪を揺らす風も、グンヒルダの前髪を持ち上げる風も、アルマニア一世の弦を震わせる風も、自分の一部のように感じられる。
人の身体に閉じ込められていた時より、三人の位置がよく分かった。
背後へ回り込むものがあれば、先に触れられる。
矢が飛んでくれば、その軌道へ風を差し込める。
声の届かない場所にも、知らせを運べる。
ここまで広がれば、三人をすべて包める。
風の精霊は、何も命じてこない。
ただ、留まる必要はないと伝えてくる。
白樺の周りだけでなく、壁の向こうにも、屋根の上にも、雲の下にも道はある。
行ける。
どこへでも。
ミレナは、輪の外へ出そうになった。
「右足」
グンヒルダの声が届く。
「踵の輪郭が薄くなった。位置は変わってない」
移動してはいない。
外へ広がりたいと思っただけだ。
思っただけのものを、グンヒルダは見えたことへ足さなかった。
だからミレナも、風の誘いを精霊の命令にはしなかった。
「名前」
講師の声がする。
「ミレナ」
「帰る人数」
「四人」
まだ答えられる。
四つの音も聞こえていた。
ただし、耳で聞いているのではない。
一つ目の弦が震える。
その振動を、アルマニアの指より先に風が受け取る。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
音は空気を渡ってくるものではなく、自分のどこかで生まれるものになっていた。
高い音から低い音へ。
四つ。
短い間。
また、四つ。
意味は、まだ残っている。
一つ目はシャーナシア。
二つ目はグンヒルダ。
三つ目はアルマニア。
四つ目は——
ミレナは、続きを思い出せなかった。
◇
「砂は半分」
グンヒルダが報告した。
「左腕の外側が透けてる。呼吸は見えない。さっきから変化なし」
シャーナシアが、赤い布を上げる。
「ミレナ、終わりなさい」
命令は、昨日と同じ長さだった。
輪の中の少女が、ゆっくり顔を向ける。
緑だった瞳の奥に、空の色が透けていた。
「三人とも、ここにいます」
ミレナの声が、白樺の梢から返ってくる。
「尋ねていません」
シャーナシアは赤い布を下ろさない。
「帰る者は何人です」
風が輪の中を巡った。
「三人は、見えています」
「名前を言いなさい」
「ミレナ」
「帰る者は何人です」
返事がない。
アルマニアの指が、三つ目の音で止まりかけた。
ミレナ姉さん。
呼びかければ、振り向くかもしれない。
古代語魔法なら、風へ働きかける方法を探せるかもしれない。
精霊語魔法なら、輪の中の風へ自分から問いかけられる。
神聖魔法なら——
どれも、頼まれていない。
どれも、今やるべき一つではない。
アルマニアは四つ目の弦を弾いた。
低い音。
短い間を置き、また一つ目へ戻る。
音の間隔を変えない。
強くもしない。
急がせる意味も、帰ってきてほしいという願いも勝手に足さない。
ただ、四人の名前を同じ順番で届け続ける。
「右手も透け始めた」
グンヒルダが言う。
「砂は、まだ残ってる。輪からは出てない」
「続けますの?」
シャーナシアは講師へ尋ねなかった。
輪の中へ、まっすぐ言った。
「ミレナ。わたくしは中止を決めました」
返事はない。
「理由を聞かないのですか?」
葉が鳴る。
「あなたが答えられないからです。四人目を答えられない者へ、この先は任せません」
赤い布が風に引かれ、横へ広がった。
シャーナシアは手を離さない。
グンヒルダも輪へ入らない。
アルマニアも音を止めない。
誰もミレナをつかもうとしなかった。
自分たちには戻せないと知っている。
だから、決めた役目を一つも捨てなかった。
◇
一つ目の音には、赤い布を持つ少女がいた。
誰にも代われない最強になろうとする少女。
先頭を譲らず、それでも必要な時には中止を決めるシャーナシア。
二つ目の音には、砂時計を見つめる少女がいた。
見えた傷と、見えていない壊れ方を分けるグンヒルダ。
三つ目の音には、鉄板入りのリュートを抱えた少年がいた。
できることをすべて試そうとして、今は一つの役目だけを続けているアルマニア。
三人とも見える。
風になれば、どこにいるか分かる。
包める。
守れる。
なら、三人を帰せる。
四つ目の音が鳴った。
そこには、誰もいなかった。
風には、決まった形がない。
枝を離れ、壁を越え、雲の下まで行っても、どこからどこまでが一つの風かを決める必要はない。
名前もいらない。
帰る場所もいらない。
だから、四つ目の音へ結びつく者がいない。
もう一度、四つの音が鳴る。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
余った音ではない。
誰かが失敗した時に埋めるための、予備の音でもない。
昨日、自分で上衣の隠しへ入れた白い石。
危険を引き受ける者ではなく、帰還する者として数えた一人。
ミレナは、形のなくなった右手を胸元へ動かした。
指は布をつかめない。
それでも、そこに石があると覚えている。
「私は——」
声が風へ散る。
名を持たない方が楽だった。
人の身体へ戻れば、足は重くなる。
壁の向こうは見えなくなり、三人を一度に包むこともできない。
それでも、その三人は、ミレナが風になったまま残ることを帰還とは呼ばなかった。
四つ目の音が鳴る。
「私は、ミレナ」
今度は、輪の中から声がした。
「四人で帰る」
風の精霊が、白樺の上へ抜けようとする。
ミレナの意識まで、そちらへ引かれた。
同じものになっていた境を、自分から二つへ分ける。
迎えた時にはなかった痛みが、全身を走った。
胸の奥に、鼓動が一つだけ戻る。
遅れて、もう一つ。
人の身体が、自分の心を受け止める。
「ここで別れよう」
白樺の枝が大きくしなった。
緑の布が真横へ伸びる。
次の瞬間、輪の中へ集まっていた風が、四方へほどけた。
◇
ミレナの長靴が芝生を踏んだ。
膝から力が抜ける。
倒れる前に手をついたが、右手は地面をうまくつかめなかった。
アルマニアは弦を弾き続ける。
助けに入ってよいとは、まだ言われていない。
「風は離れた」
講師が告げる。
「グンヒルダ、入れ」
グンヒルダが麻縄をまたいだ。
ミレナの肩へ触れる前に声をかける。
「触るよ」
「うん」
返事を聞いてから、背中を支える。
手首へ指を当て、瞳をのぞき、左右の指を順に動かさせた。
「脈はある。目も合う。右手が遅い」
「傷は?」
アルマニアが尋ねる。
「見えてない。勝手に治すんじゃないよ」
「使いません」
そう答えても、指は弦から離れない。
「音は、もう止めていい」
ミレナが言った。
アルマニアは四つ目まで弾き終えてから、手を止めた。
西庭に、葉擦れの音だけが残る。
「名前」
講師が尋ねた。
「ミレナ」
「帰る人数」
「四人」
「迎えた精霊は?」
「白樺を巡る風へ戻りました」
「同じ相手だと分かるか」
ミレナは白樺を見上げた。
緑の布は、弱い風に揺れている。
「返事は感じます。でも、憑依前とまったく同じ相手かは分かりません」
「それでいい」
講師は、記録板へ一行を書き込んだ。
精霊憑依。
初回実施。
契約解除を確認。
「成功、ですか?」
アルマニアが尋ねる。
「戻ったことは成功だ」
「では、使えるようになったんですね」
「一度できた」
グンヒルダが、ミレナの右手を開閉させながら言った。
「覚えた。できる。任せられる。全部、違うよ」
「今日は、どれです?」
「入口で転ばずに戻った」
講師が答えた。
「できたと記録する。実戦で任せられるとは書かん」
ミレナは悔しがらなかった。
右手が自分の意思どおりに閉じるまで、何度も指を動かす。
「途中で、三人と答えかけました」
「答えかけたんじゃないよ」
グンヒルダが言う。
「三人しか見えてなかった」
「うん」
「四つ目は?」
「最初は、誰の音か分からなかった」
ミレナは上衣の隠しから、白い石を取り出した。
「でも、戻る時には分かったよ」
アルマニアが、鉄板入りの胴を抱え直す。
「誰でした?」
「私」
短い返事だった。
シャーナシアは、ようやく赤い布を畳んだ。
「次は、わたくしが一度命じた時点で戻りなさい」
「聞こえてはいたんです」
「聞こえていて従えない者を、聞こえなかった者より高く評価すると思いまして?」
「思いません」
「よろしい」
シャーナシアは白い石をミレナへ返した。
グンヒルダも続く。
アルマニアは、自分の石を掌へ載せたまま立っている。
「姉さん」
「何?」
「帰ってきましたね」
双鴉の泉から戻った時、ミレナが何度も自分へ言った言葉だった。
帰ってきたね、アル。
今度は、アルマニアが言う。
「帰ってきたね、ミレナ姉さん」
ミレナは四つ目の石を受け取った。
「ただいま、アル」
◇
その日の実習記録に、アルマニアの技能上昇はなかった。
ミレナのシャーマン技能も、三レベルのままである。
代わりに、彼女だけが持つ特技の欄へ、初めて実施済みの印がついた。
精霊憑依。
契約した精霊を身体へ迎え、半精霊となる力。
普通の武器を受けつけず、迎えた精霊の魔法を自らの精神力を使わず、何度でも借りられる力。
そして、人の身体へ戻る時には、自分の心を見失えば命を落とす力。
強さだけなら、四人の中でも並ぶものはない。
だからこそ、講師は記録板を閉じる前に言った。
「次は、その力を使わずに済む時を選べ」
使えることと、使うべきことは違う。
四つ目の音を自分の名として持ち帰ったミレナに、次の課題が残された。