魔法戦士養成学校の万能戦士   作:駄文亭

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第29話 四つ目の音

 学院西庭の白樺に、昨日と同じ緑の布が結ばれていた。

 

 麻縄の輪も、四つの白い石も動かされていない。

 

 砂時計はグンヒルダの前。

 

 赤い布はシャーナシアの手。

 

 アルマニア一世は、アルマニアの膝に載っている。

 

 違うのは、今日の記録板に一行だけ増えていることだった。

 

 精霊憑依を実施する。

 

「確認する」

 

 精霊使いの講師が言った。

 

「今日、確かめることは何だ」

 

「風の精霊を身体へ迎えたあと、決めた手順で分かれられることです」

 

 ミレナが答える。

 

「何をしない」

 

「移動しません。精霊魔法を使いません。武器が通じるかも試しません」

 

「憑依したまま、できることを増やそうと思ったら?」

 

「その時点で終えます」

 

 返事に迷いはなかった。

 

 だが、ミレナの右手は何度も開いては閉じている。

 

 アルマニアは弦へ置いた指を離した。

 

「怖いんですか?」

 

「怖いよ」

 

 ミレナは、あっさり認めた。

 

「アルは、怖くないの?」

 

「怖いです」

 

「なら、同じだね」

 

「同じではありません。僕は死にません」

 

「だから、怖さの比べっこはしないの」

 

 いつものように額を小突こうとした手が、途中で止まる。

 

 麻縄の輪へ入ったあとは、始める前でも外の者へ触れないと決めていた。

 

 ミレナはその手を自分の胸元へ戻した。

 

「帰ってくるよ」

 

「予定ではなく、結果としてお願いします」

 

「こういう時だけ、言い方が先生に似るよね」

 

「姉さんが、生徒らしくないからです」

 

「二人とも」

 

 シャーナシアが赤い布を広げた。

 

「始める前に姉弟喧嘩を済ませるなら、外でなさい」

 

「姉弟ではありません」

 

 二人の声が重なった。

 

 グンヒルダが砂時計の枠を指で叩く。

 

「息は合ってる。始めてもいいね」

 

     ◇

 

 ミレナは短槍を輪の外へ置いた。

 

 外套も外す。

 

 苔色の上衣と茶色の脚衣、革の長靴だけになる。金属鎧も、両手を塞ぐ物も身につけていない。

 

 上衣の隠しには、四つ目の白い石が入っている。

 

 残りの三つは、シャーナシア、グンヒルダ、アルマニアが一つずつ持っていた。

 

「戻るのは誰だ」

 

 講師が尋ねる。

 

「ミレナです」

 

「何人で帰る」

 

「四人」

 

「迎える相手は?」

 

「西庭の白樺を巡る、契約した風の精霊です」

 

「始めろ」

 

 アルマニアは、四本の弦を順に弾いた。

 

 高い音から低い音へ。

 

 一つずつ。

 

 短い間を置き、もう一度。

 

 四つの音が同じ間隔で流れ始める。

 

 ミレナは両手を開き、風の精霊語で呼びかけた。

 

 白樺の枝に結ばれた緑の布が持ち上がる。

 

 風は葉を揺らしてから幹を巡り、芝生の上を滑った。

 

 麻縄の輪の前で一度止まる。

 

 見えない何かが、そこに境を認めたようだった。

 

「私はミレナ。昨日決めた時まで、私の身体へ迎えたい」

 

 ミレナの髪が持ち上がる。

 

「力は頼まない。ここから動かない。終える合図が届いたら、分かれたい」

 

 風が輪の中へ入った。

 

 最初に変わったのは、髪だった。

 

 赤みがかった栗色が薄れ、陽を透かす細い糸のようになる。

 

 次に上衣の裾が浮いた。

 

 布が風に揺れたのではない。

 

 裾そのものが風へほどけ、また布の形へ戻っている。

 

 ミレナが息を吸う。

 

 胸は動かなかった。

 

 吐いた息も見えない。

 

 それでも、白樺の葉が一斉に鳴った。

 

「名前」

 

 講師が呼びかける。

 

「ミレナ」

 

 答えは輪の中だけから聞こえなかった。

 

 頭上の葉と、足元の草と、三人の頬を撫でた風が、同時にその名を運んだ。

 

「帰る人数」

 

「四人」

 

 声はまだミレナのものだった。

 

 グンヒルダが記録板へ線を引く。

 

「輪郭は保ってる。足は輪の内側。髪と服の端が透けてる」

 

「本人の返事と、見えたことだけを書け」

 

「分かってるよ」

 

 砂時計が返された。

 

 細い砂が落ち始める。

 

     ◇

 

 ミレナには、自分の立っている場所が分からなくなっていた。

 

 足は芝生にある。

 

 そう覚えている。

 

 けれど、足の裏から返ってくる硬さがない。

 

 代わりに、白樺の上を抜ける風が分かった。

 

 葉の表と裏。

 

 枝の間をすり抜ける細い道。

 

 学院の石壁へ当たり、二つに分かれて流れる空気。

 

 シャーナシアの赤金色の髪を揺らす風も、グンヒルダの前髪を持ち上げる風も、アルマニア一世の弦を震わせる風も、自分の一部のように感じられる。

 

 人の身体に閉じ込められていた時より、三人の位置がよく分かった。

 

 背後へ回り込むものがあれば、先に触れられる。

 

 矢が飛んでくれば、その軌道へ風を差し込める。

 

 声の届かない場所にも、知らせを運べる。

 

 ここまで広がれば、三人をすべて包める。

 

 風の精霊は、何も命じてこない。

 

 ただ、留まる必要はないと伝えてくる。

 

 白樺の周りだけでなく、壁の向こうにも、屋根の上にも、雲の下にも道はある。

 

 行ける。

 

 どこへでも。

 

 ミレナは、輪の外へ出そうになった。

 

「右足」

 

 グンヒルダの声が届く。

 

「踵の輪郭が薄くなった。位置は変わってない」

 

 移動してはいない。

 

 外へ広がりたいと思っただけだ。

 

 思っただけのものを、グンヒルダは見えたことへ足さなかった。

 

 だからミレナも、風の誘いを精霊の命令にはしなかった。

 

「名前」

 

 講師の声がする。

 

「ミレナ」

 

「帰る人数」

 

「四人」

 

 まだ答えられる。

 

 四つの音も聞こえていた。

 

 ただし、耳で聞いているのではない。

 

 一つ目の弦が震える。

 

 その振動を、アルマニアの指より先に風が受け取る。

 

 二つ目。

 

 三つ目。

 

 四つ目。

 

 音は空気を渡ってくるものではなく、自分のどこかで生まれるものになっていた。

 

 高い音から低い音へ。

 

 四つ。

 

 短い間。

 

 また、四つ。

 

 意味は、まだ残っている。

 

 一つ目はシャーナシア。

 

 二つ目はグンヒルダ。

 

 三つ目はアルマニア。

 

 四つ目は——

 

 ミレナは、続きを思い出せなかった。

 

     ◇

 

「砂は半分」

 

 グンヒルダが報告した。

 

「左腕の外側が透けてる。呼吸は見えない。さっきから変化なし」

 

 シャーナシアが、赤い布を上げる。

 

「ミレナ、終わりなさい」

 

 命令は、昨日と同じ長さだった。

 

 輪の中の少女が、ゆっくり顔を向ける。

 

 緑だった瞳の奥に、空の色が透けていた。

 

「三人とも、ここにいます」

 

 ミレナの声が、白樺の梢から返ってくる。

 

「尋ねていません」

 

 シャーナシアは赤い布を下ろさない。

 

「帰る者は何人です」

 

 風が輪の中を巡った。

 

「三人は、見えています」

 

「名前を言いなさい」

 

「ミレナ」

 

「帰る者は何人です」

 

 返事がない。

 

 アルマニアの指が、三つ目の音で止まりかけた。

 

 ミレナ姉さん。

 

 呼びかければ、振り向くかもしれない。

 

 古代語魔法なら、風へ働きかける方法を探せるかもしれない。

 

 精霊語魔法なら、輪の中の風へ自分から問いかけられる。

 

 神聖魔法なら——

 

 どれも、頼まれていない。

 

 どれも、今やるべき一つではない。

 

 アルマニアは四つ目の弦を弾いた。

 

 低い音。

 

 短い間を置き、また一つ目へ戻る。

 

 音の間隔を変えない。

 

 強くもしない。

 

 急がせる意味も、帰ってきてほしいという願いも勝手に足さない。

 

 ただ、四人の名前を同じ順番で届け続ける。

 

「右手も透け始めた」

 

 グンヒルダが言う。

 

「砂は、まだ残ってる。輪からは出てない」

 

「続けますの?」

 

 シャーナシアは講師へ尋ねなかった。

 

 輪の中へ、まっすぐ言った。

 

「ミレナ。わたくしは中止を決めました」

 

 返事はない。

 

「理由を聞かないのですか?」

 

 葉が鳴る。

 

「あなたが答えられないからです。四人目を答えられない者へ、この先は任せません」

 

 赤い布が風に引かれ、横へ広がった。

 

 シャーナシアは手を離さない。

 

 グンヒルダも輪へ入らない。

 

 アルマニアも音を止めない。

 

 誰もミレナをつかもうとしなかった。

 

 自分たちには戻せないと知っている。

 

 だから、決めた役目を一つも捨てなかった。

 

     ◇

 

 一つ目の音には、赤い布を持つ少女がいた。

 

 誰にも代われない最強になろうとする少女。

 

 先頭を譲らず、それでも必要な時には中止を決めるシャーナシア。

 

 二つ目の音には、砂時計を見つめる少女がいた。

 

 見えた傷と、見えていない壊れ方を分けるグンヒルダ。

 

 三つ目の音には、鉄板入りのリュートを抱えた少年がいた。

 

 できることをすべて試そうとして、今は一つの役目だけを続けているアルマニア。

 

 三人とも見える。

 

 風になれば、どこにいるか分かる。

 

 包める。

 

 守れる。

 

 なら、三人を帰せる。

 

 四つ目の音が鳴った。

 

 そこには、誰もいなかった。

 

 風には、決まった形がない。

 

 枝を離れ、壁を越え、雲の下まで行っても、どこからどこまでが一つの風かを決める必要はない。

 

 名前もいらない。

 

 帰る場所もいらない。

 

 だから、四つ目の音へ結びつく者がいない。

 

 もう一度、四つの音が鳴る。

 

 一つ目。

 

 二つ目。

 

 三つ目。

 

 四つ目。

 

 余った音ではない。

 

 誰かが失敗した時に埋めるための、予備の音でもない。

 

 昨日、自分で上衣の隠しへ入れた白い石。

 

 危険を引き受ける者ではなく、帰還する者として数えた一人。

 

 ミレナは、形のなくなった右手を胸元へ動かした。

 

 指は布をつかめない。

 

 それでも、そこに石があると覚えている。

 

「私は——」

 

 声が風へ散る。

 

 名を持たない方が楽だった。

 

 人の身体へ戻れば、足は重くなる。

 

 壁の向こうは見えなくなり、三人を一度に包むこともできない。

 

 それでも、その三人は、ミレナが風になったまま残ることを帰還とは呼ばなかった。

 

 四つ目の音が鳴る。

 

「私は、ミレナ」

 

 今度は、輪の中から声がした。

 

「四人で帰る」

 

 風の精霊が、白樺の上へ抜けようとする。

 

 ミレナの意識まで、そちらへ引かれた。

 

 同じものになっていた境を、自分から二つへ分ける。

 

 迎えた時にはなかった痛みが、全身を走った。

 

 胸の奥に、鼓動が一つだけ戻る。

 

 遅れて、もう一つ。

 

 人の身体が、自分の心を受け止める。

 

「ここで別れよう」

 

 白樺の枝が大きくしなった。

 

 緑の布が真横へ伸びる。

 

 次の瞬間、輪の中へ集まっていた風が、四方へほどけた。

 

     ◇

 

 ミレナの長靴が芝生を踏んだ。

 

 膝から力が抜ける。

 

 倒れる前に手をついたが、右手は地面をうまくつかめなかった。

 

 アルマニアは弦を弾き続ける。

 

 助けに入ってよいとは、まだ言われていない。

 

「風は離れた」

 

 講師が告げる。

 

「グンヒルダ、入れ」

 

 グンヒルダが麻縄をまたいだ。

 

 ミレナの肩へ触れる前に声をかける。

 

「触るよ」

 

「うん」

 

 返事を聞いてから、背中を支える。

 

 手首へ指を当て、瞳をのぞき、左右の指を順に動かさせた。

 

「脈はある。目も合う。右手が遅い」

 

「傷は?」

 

 アルマニアが尋ねる。

 

「見えてない。勝手に治すんじゃないよ」

 

「使いません」

 

 そう答えても、指は弦から離れない。

 

「音は、もう止めていい」

 

 ミレナが言った。

 

 アルマニアは四つ目まで弾き終えてから、手を止めた。

 

 西庭に、葉擦れの音だけが残る。

 

「名前」

 

 講師が尋ねた。

 

「ミレナ」

 

「帰る人数」

 

「四人」

 

「迎えた精霊は?」

 

「白樺を巡る風へ戻りました」

 

「同じ相手だと分かるか」

 

 ミレナは白樺を見上げた。

 

 緑の布は、弱い風に揺れている。

 

「返事は感じます。でも、憑依前とまったく同じ相手かは分かりません」

 

「それでいい」

 

 講師は、記録板へ一行を書き込んだ。

 

 精霊憑依。

 

 初回実施。

 

 契約解除を確認。

 

「成功、ですか?」

 

 アルマニアが尋ねる。

 

「戻ったことは成功だ」

 

「では、使えるようになったんですね」

 

「一度できた」

 

 グンヒルダが、ミレナの右手を開閉させながら言った。

 

「覚えた。できる。任せられる。全部、違うよ」

 

「今日は、どれです?」

 

「入口で転ばずに戻った」

 

 講師が答えた。

 

「できたと記録する。実戦で任せられるとは書かん」

 

 ミレナは悔しがらなかった。

 

 右手が自分の意思どおりに閉じるまで、何度も指を動かす。

 

「途中で、三人と答えかけました」

 

「答えかけたんじゃないよ」

 

 グンヒルダが言う。

 

「三人しか見えてなかった」

 

「うん」

 

「四つ目は?」

 

「最初は、誰の音か分からなかった」

 

 ミレナは上衣の隠しから、白い石を取り出した。

 

「でも、戻る時には分かったよ」

 

 アルマニアが、鉄板入りの胴を抱え直す。

 

「誰でした?」

 

「私」

 

 短い返事だった。

 

 シャーナシアは、ようやく赤い布を畳んだ。

 

「次は、わたくしが一度命じた時点で戻りなさい」

 

「聞こえてはいたんです」

 

「聞こえていて従えない者を、聞こえなかった者より高く評価すると思いまして?」

 

「思いません」

 

「よろしい」

 

 シャーナシアは白い石をミレナへ返した。

 

 グンヒルダも続く。

 

 アルマニアは、自分の石を掌へ載せたまま立っている。

 

「姉さん」

 

「何?」

 

「帰ってきましたね」

 

 双鴉の泉から戻った時、ミレナが何度も自分へ言った言葉だった。

 

 帰ってきたね、アル。

 

 今度は、アルマニアが言う。

 

「帰ってきたね、ミレナ姉さん」

 

 ミレナは四つ目の石を受け取った。

 

「ただいま、アル」

 

     ◇

 

 その日の実習記録に、アルマニアの技能上昇はなかった。

 

 ミレナのシャーマン技能も、三レベルのままである。

 

 代わりに、彼女だけが持つ特技の欄へ、初めて実施済みの印がついた。

 

 精霊憑依。

 

 契約した精霊を身体へ迎え、半精霊となる力。

 

 普通の武器を受けつけず、迎えた精霊の魔法を自らの精神力を使わず、何度でも借りられる力。

 

 そして、人の身体へ戻る時には、自分の心を見失えば命を落とす力。

 

 強さだけなら、四人の中でも並ぶものはない。

 

 だからこそ、講師は記録板を閉じる前に言った。

 

「次は、その力を使わずに済む時を選べ」

 

 使えることと、使うべきことは違う。

 

 四つ目の音を自分の名として持ち帰ったミレナに、次の課題が残された。

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