古代語魔法の合同実習で、最初に教えられたのは新しい呪文ではなかった。
呪文を完成させるまでの時間を、誰が作るのか。
それを覚えるための授業だった。
◇
魔法戦士科の屋内訓練場には、三体の木人が並んでいた。
丸太を人の形へ組み、関節を革紐と鉄釘でつないだ人形である。頭に目鼻はなく、胸には古代語の刻まれた青銅板が打ちつけられている。
オーク。
木材を材料として造られる、魔法の人形だった。
本来は命令された仕事を黙々と繰り返すだけの存在だが、学院の訓練用オークには特別な命令が与えられていた。
床に描かれた円へ入った生徒を、布を巻いた棒で攻撃する。
急所へは打ち込まない。
教官の停止命令があれば、その場で動きを止める。
古代語魔法の講師が、一体の胸を杖で叩いた。
「今日の課題は二人一組。一人が術者を守り、もう一人がエンチャント・ウェポンを完成させる。魔法が完成したら、強化された武器で木人の胸を打て」
アルマニアは隣に立つシャーナシアを見た。
シャーナシアも、ちょうどこちらを見ていた。
「なぜ、あなたと組まなければなりませんの?」
「僕に聞かれても困ります」
「二人とも、技能の進み方が近いからだ」
戦士教官が、二人の後ろから答えた。
「それともシャーナシア、お前はアルマニアを守れんのか?」
「誰に向かって言っていますの!」
シャーナシアは胸を張った。
「この程度の木偶、何体来ようと近づけませんわ」
「では決まりだ。最初はアルマニアが術者、シャーナシアが護衛」
「わたくしが先に魔法を使った方が早いと思いますけれど」
「守れると言ったばかりだろう」
「守れないとは申しておりません!」
見事に誘導されていた。
アルマニアは口へ出さず、メイジスタッフを抱えて円の中へ入った。
シャーナシアも刃を潰した訓練剣を抜き、アルマニアの前へ立つ。
「遅ければ、置いていきますわよ」
「魔法が完成しないと課題になりません」
「なら、わたくしが待つ必要のない速さで唱えなさい」
古代語魔法の講師が杖を上げた。
「始め」
オークの胸に刻まれた文字が青白く光った。
木の足が床を踏む。
見かけに似合わない速さで間合いを詰め、布巻きの棒を振り上げた。
シャーナシアが訓練剣で受け流す。
乾いた音が訓練場へ響いた。
アルマニアはメイジスタッフから右手を離し、宙へ古代語の印を結ぶ。
「全知全能にして万能なるマナよ。彼女の刃に宿り、敵を討つ力を与えよ——エンチャント・ウェポン」
オークの二撃目が来る。
シャーナシアは半歩踏み込み、振り切られる前の棒を剣の腹で押さえた。
力任せに止めてはいない。
相手の腕が伸びきる前へ入ることで、打撃の勢いを殺している。
三撃目。
シャーナシアが身体をひねってかわす。
その赤金色の髪を、棒の先がかすめた。
アルマニアは動かなかった。
今、杖を握り直せば魔法は途切れる。
シャーナシアが作った時間を、無駄にはできない。
最後の印を結ぶ。
淡い光がアルマニアの指先から伸び、訓練剣へ吸い込まれた。
「完成しました!」
「遅いですわ!」
文句を言いながら、シャーナシアは笑っていた。
振り下ろされた棒を横へ弾く。
返す剣で、オークの胸を打った。
魔力を帯びた一撃が、木の胴を大きく揺らす。
胸の青銅板から光が消え、オークは両腕を下ろした。
「合格だ」
戦士教官の声に、シャーナシアは当然という顔で剣を肩へ担いだ。
「わたくしが守ったのですから、当然です」
「魔法を完成させたのは僕です」
「わたくしが時間を作ったからでしょう?」
「だから、二人一組なんだ」
教官が言った。
「次は交代。アルマニアが守れ」
シャーナシアの笑みが深くなった。
「せいぜい頑張りなさい。わたくしの詠唱は、あなたより速いですけれど」
「それなら、守る時間も短くて済みますね」
「もう少し悔しがりなさい!」
◇
役目を交代すると、同じ課題がまるで違うものになった。
アルマニアは円の前へ立ち、メイジスタッフを両手で構える。
その背後で、シャーナシアが左手を掲げた。
王家の紋章を刻んだ水晶の指輪が光を受ける。
「始め」
オークが動いた。
一撃目を、杖の中央で受ける。
腕が痺れた。
それでも両足は床を捉えている。
二撃目は受けず、身体を半歩ずらして棒の先を流した。
オークが前へ崩れる。
押し返したくなるのをこらえ、アルマニアは杖の端を木の肩へ当てた。倒すためではない。次の攻撃へ移るのを、ほんの少し遅らせるためだった。
「全知全能にして万能なるマナよ。彼の杖に宿り、敵を退ける力を与えよ——エンチャント・ウェポン」
シャーナシアの詠唱が終わる。
樫の杖へ淡い光が走った。
「今ですわ!」
アルマニアは肩へ当てていた杖を滑らせ、オークの胸を突いた。
木人が後ろへよろめく。
胸の青銅板から光が消えた。
「合格」
古代語魔法の講師が記録板へ印をつける。
アルマニアは息を吐いた。
「三度、持ちました」
「わたくしの詠唱が速かったからです」
「昨日までは、一度も持たなかったんです」
「それは昨日までのあなたでしょう」
シャーナシアは水晶の指輪を布で拭いながら言った。
「昨日よりできるようになったことを、今日もできない者のように語るのはおやめなさい。聞いていて腹が立ちますわ」
褒められたのだろうか。
尋ねれば否定されそうなので、アルマニアは黙っておいた。
◇
組を替えながら実習は続いた。
術者を守る者が早く下がりすぎて、二人揃って円から押し出される。
魔法を使う者が焦って印を間違え、武器ではなく自分の袖を光らせる。
木人を倒すことに夢中になり、相方を置いて円の奥へ進んでしまう。
失敗のたびに、二人の教官が止めた。
何ができなかったのか。
どちらが先に動くべきだったのか。
魔法を使うための時間を、誰が支払ったのか。
午前の実習が終わりに近づいた頃には、床に座り込む生徒が増えていた。
「今日の目的は、木人を倒すことではない」
古代語魔法の講師が言った。
「術者が呪文を完成させるまで、仲間は危険を引き受ける。その時間を受け取った術者は、最も確かな魔法で応えなければならない。魔法戦士だからといって、自分一人で両方を済ませられると思うな」
シャーナシアが、わずかに眉を寄せた。
アルマニアは何も言わず、メイジスタッフの傷を確かめる。
杖には、布巻きの棒を受けた痕がいくつも残っていた。
そのときだった。
訓練場の反対側で、木が床を踏む音がした。
一体のオークが歩いている。
実習を終え、胸の光を消したはずの木人だった。
片づけをしていた生徒が、背を向けたまま胸の青銅板へ手を伸ばしている。
「離れろ!」
戦士教官が叫んだ。
オークの腕が持ち上がった。
布を巻いてあるとはいえ、丸太の腕で振るわれる棒である。無防備な頭へ受ければ、ただでは済まない。
シャーナシアが走った。
誰の命令も待たず、床へ置いていた訓練剣を拾い上げる。
アルマニアもメイジスタッフを握った。
エネルギー・ボルトなら、自分でオークを攻撃できる。
プロテクションなら、襲われる生徒の傷を軽くできる。
マイリーへの祈りも、周囲を漂う風の精霊への呼びかけも、頭をよぎった。
けれど、どれも選ばなかった。
オークと生徒の間には、すでにシャーナシアが入っている。
彼女は振り下ろされた棒を剣で受けた。
訓練用の細い刃が大きくたわむ。
相手は痛みも恐怖も知らない木人だ。
刃を潰した剣で腕を打っても止まらない。
それでもシャーナシアは退かなかった。
彼女が作った一瞬へ、アルマニアは魔法を置く。
右手を杖から離した。
「全知全能にして万能なるマナよ!」
オークが棒を引き戻す。
シャーナシアが横へ回り込み、その視線を自分へ引きつけた。
「彼女の刃に宿り、立ち塞がる敵を打ち砕く力を与えよ——」
二撃目が来る。
シャーナシアは剣の腹で受け、片膝をついた。
それでも、後ろの生徒へは通さない。
「エンチャント・ウェポン!」
淡い光が訓練場を走った。
シャーナシアの剣へ宿る。
彼女は笑った。
「遅いですわ、アルマニア!」
踏み込む。
布巻きの棒を剣で跳ね上げ、そのまま木人の胸へ肩からぶつかった。
魔力を帯びた刃が青銅板を打つ。
青白い火花が散った。
青銅板が割れ、木の胴へ食い込む。
オークの腕が止まった。
身体が傾き、床へ倒れる。
訓練場に重い音が響いた。
しばらく、誰も動かなかった。
最初に息を吐いたのは、シャーナシアだった。
「まったく。わたくしの剣へ魔法をかけるなら、もう少し早くなさい」
「走りながら言わないでください」
「あのまま待てと?」
「待つとは思っていませんでした」
「なら、もっと早く選びなさい」
いつもの調子だった。
それを聞いて、座り込んでいた生徒がようやく泣き出した。
◇
怪我人はいなかった。
動き出したオークは、胸の青銅板に細い亀裂が入っていた。
繰り返し打撃を受けたことで停止命令の一部が壊れ、最後に与えられた攻撃命令だけを続けていたらしい。
古代語魔法の講師が壊れた青銅板を外し、布へ包んだ。
「こちらの点検不足だ。すまなかった」
生徒たちへ頭を下げる。
王女がいるからと責任を曖昧にせず、シャーナシアだけへ礼を言うこともしなかった。
その態度を見て、シャーナシアも教官を責めなかった。
戦士教官は倒れたオークの前で、アルマニアへ尋ねた。
「なぜ、自分で攻撃しなかった?」
「僕の魔法より、シャーナシアの剣の方が確実だったからです」
「プロテクションは?」
「攻撃を耐えやすくはできます。でも、あの生徒を守るには、オークを止める必要がありました」
「他の魔法は?」
「間に合う中で、一番確かなものを選びました」
教官は頷き、次にシャーナシアを見る。
「だそうだ」
「当然ですわ」
シャーナシアは髪をかき上げ、胸を張った。
「あの場で最も強く、最も確かな一撃は、わたくしの剣でしたもの」
「今日はな」
「今日は?」
「場所も、敵も、立っている者も変われば、答えは変わる」
教官はアルマニアの胸を指した。
「こいつが選んだのは王女でも、好敵手でもない。あの瞬間に最も確かな手段だ」
シャーナシアの眉が上がった。
「同じことです。わたくしが常に最も確かな手段であればよいのでしょう?」
「お前は本当にそういう奴だな」
戦士教官が額を押さえた。
◇
実習を終え、二人は訓練場を出た。
廊下の窓から午後の光が差し込んでいる。
シャーナシアは少し先を歩いていたが、階段の前で足を止めた。
「アルマニア」
「はい」
「今日の選択は、正解でした」
振り返らないまま言う。
「ありがとうございます」
「ですが、次も同じとは限りません」
「教官もそう言っていました」
「ですから——」
シャーナシアが振り返った。
青紫の瞳が、真っすぐにアルマニアを見る。
「次も、わたくしを選ぶしかないほど強くなっておきます」
助けられた礼ではない。
守られた感謝でもない。
自分の力を選ばせ続けるという、彼女らしい宣言だった。
「では僕は、もっと多くの中から一番確かなものを選べるようになります」
「まだ増やすつもりですの?」
「もちろんです」
シャーナシアは深く息を吸った。
怒鳴られる。
アルマニアは身構えた。
だが、彼女は声を抑え、薄く笑った。
「よろしい。どれほど選択肢を増やしても、最後に選ぶのはわたくしだと思い知らせて差し上げます」
今度こそ歩き出す。
アルマニアも、その隣へ並んだ。
古代語魔法は、一人で世界を変える力ではない。
誰かが作った時間を受け取り、最も確かな場所へ力を置く。
その日の実習でアルマニアが覚えたのは、新しい呪文ではなかった。
魔法を、自分より強い者へ託す方法だった。