シャーナシアがアルマニアへ与えた次の失敗は、見えない場所にいるオークを歩かせることだった。
◇
古代語魔法の訓練場に、昨日まではなかった木壁が並んでいた。
人の背より高い板を何枚も立て、曲がり角と行き止まりを作っている。上から見れば小さな迷宮になっているらしいが、床に立つアルマニアからは入口の先さえ見通せない。
迷宮の奥には、真鍮の鐘が吊るされていた。
「あの鐘を、オークに鳴らさせれば合格ですわ」
シャーナシアは訓練場を見下ろす回廊で、得意そうに腕を組んでいた。
「いつの間に、こんなものを作ったんです?」
「昨日のうちに教官へ願い出ました」
「僕を追い回したあとで?」
「あなたが逃げ足ばかり鍛えるからでしょう」
古代語魔法の講師が、迷宮の入口へ枝を一本置いた。
「オークは簡単な命令へ従う。だが、術者に見えない障害を避け、自分で道を選ぶことはできない。遺跡の角を曲がらせた途端、穴へ落ちることもある」
講師は回廊のシャーナシアを示した。
「今日は二人一組だ。一人が上から道を見て、一人がオークへ命令を出す。自分に見えないものを、相手の言葉から正しく知れ」
アルマニアはメイジスタッフの先で枝へ触れた。
形を部分へ分けない。
一本の枝が、一体の従者となる姿を最初から思い描く。
「全知全能にして万能なるマナよ。大地より生まれし木へ仮初めの手足を与え、我が言葉に従う従者となせ——オーク」
枝の表面を青白い文字が走った。
木が軋み、二本の腕と足を持つ人形へ膨れ上がる。
オークは迷宮の入口に立ち、命令を待った。
「では、始め」
講師の声に、アルマニアは奥の鐘を指した。
「迷宮を進んで、鐘を鳴らせ」
オークが歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩目で木壁へ正面からぶつかった。
乾いた音が訓練場へ響く。
オークは前へ進もうとし、木壁へ額を押しつけたまま足を動かし続けた。
「止まれ」
ようやく動きが止まる。
頭上から、深いため息が落ちてきた。
「あなた、昨日何を教わりましたの?」
「短く、分かりやすい命令を出せと」
「迷宮というものを知らず、鐘も見えない木偶へ、迷宮を進んで鐘を鳴らせと命じたのが、あなたの考える分かりやすい命令ですの?」
「失敗を与えると言って、本当に嬉しそうですね」
「感謝なさい」
シャーナシアは回廊の手すりから身を乗り出し、迷宮の中を見下ろした。
「前へ二歩。そこで右ですわ」
アルマニアは彼女の言葉を、そのままオークへ伝えた。
「前へ二歩。右へ進め」
オークが二歩進み、右へ身体を向ける。
また木壁へぶつかった。
先ほどより大きな音がした。
「シャーナシア」
「何ですの?」
「右に壁があるんですが」
「わたくしから見て右と言いました」
「オークから見たら左です」
「それくらい考えて命じなさい!」
「僕には見えないんです!」
二人の声が訓練場へ重なった。
古代語魔法の講師が額を押さえる。
「オークより先に、お前たちの意思が通じていないな」
◇
一度、オークを入口へ戻した。
今度は始める前に、言葉を決める。
右と左は、必ずオークの向きを基準にする。
進む歩数を告げる。
止まる必要があるなら、理由を説明する前に止める。
長い命令を一度に与えず、一つが終わってから次を伝える。
「最初から、こうしておけばよかったのでは?」
「あなたが自分で失敗しなければ、覚えないと思いましたの」
「一度の失敗が二度分になると知って、遠慮を捨てましたね」
「もとより、した覚えはありませんわ」
それは知っている。
講師が手を上げた。
「二度目、始め」
シャーナシアが迷宮を見下ろす。
「前へ四歩」
「前へ四歩」
オークが進む。
「止めなさい」
「止まれ」
木の足が、壁へ触れる寸前で止まった。
「オークから見て左。二歩ですわ」
「左を向け。前へ二歩」
木の従者が角を曲がる。
アルマニアからは、もう頭の先も見えない。
見えるのは木壁だけだった。
足音が止まる。
「次は?」
「お待ちなさい」
上のシャーナシアが、迷宮の奥へ視線を走らせていた。
別の入口から、訓練用のオークが一体歩いてくる。
胸へ青銅板をつけ、決められた道を往復するだけの木人である。二体がそのまま進めば、狭い角でぶつかる。
「後ろへ一歩」
「後ろへ一歩」
アルマニアのオークが下がった。
木の足音が近づく。
やがて横道を歩く訓練用オークの肩が、木壁の隙間から一瞬だけ見えた。
通り過ぎていく。
「今ですわ。前へ三歩、右」
「前へ三歩。右を向け」
見えない場所にいるオークが、命令どおり動く。
アルマニアは自分で確かめたくなった。
木壁の脇へ回り、迷宮の中をのぞけば済む。
だが、動かなかった。
今、自分が見るために場所を変えれば、シャーナシアの声を聞き逃す。
彼女には見えている。
なら、自分まで見る必要はない。
「そのまま、前へ五歩」
「前へ五歩」
「止めなさい」
「止まれ」
迷宮の奥で、足音が止まった。
「右手を上げて、前へ伸ばすよう命じなさい」
「右手を上げろ。前へ伸ばせ」
真鍮の澄んだ音が鳴った。
訓練場の木壁を越え、余韻が天井まで広がっていく。
「合格だ」
講師が記録板へ印をつけた。
アルマニアは迷宮の外を回り、鐘の前まで歩いた。
オークの右手が、鐘から下がる紐を押している。
「本当に着いてる……」
「わたくしが見ていたのです。当然でしょう」
シャーナシアが回廊から下りてきた。
「僕のオークです」
「わたくしの目がなければ、まだ壁へ頭を押しつけていますわ」
「僕が命じなければ、目の前まで来ても何もできません」
「なら、二人で鳴らした鐘ということにして差し上げます」
「ずいぶん譲りましたね」
「事実を認めただけです!」
◇
「次は交代だ」
講師が新しい枝を置いた。
シャーナシアは水晶の指輪を触れさせ、よどみなく呪文を唱える。
「全知全能にして万能なるマナよ。大地より生まれし木へ仮初めの手足を与え、我が言葉に従う従者となせ——オーク」
枝が人の形へ膨れ上がる。
昨日アルマニアが指摘した左足は、左右まったく同じ長さに揃っていた。
「直したんですね」
「当然です。教えられた失敗を、いつまでも残すものですか」
今度はアルマニアが回廊へ上がった。
迷宮の中を見渡す。
入口に立つシャーナシアからは見えないが、先ほどとは木壁の位置が変えられていた。
訓練用オークが歩く道も、途中で二度交わっている。
「始め」
「前へ三歩です」
シャーナシアが命令を伝え、オークが進む。
「止めてください」
アルマニアの声に、シャーナシアは眉をひそめた。
「まだ壁までは二歩ありますわ」
「横から来ます。止めて」
「わたくしのオークなら、先に抜けられます」
「シャーナシア、止めて!」
「前へ二歩!」
二体のオークが、曲がり角へ同時に入った。
木の肩と肩がぶつかる。
シャーナシアのオークが横を向き、壁へ片腕を挟まれた。
訓練用オークは決められた道を進み続ける。
押された木壁が傾いた。
講師が杖を床へ打ちつける。
「停止」
胸の青銅板から光が消えた。
訓練場が静かになる。
「不合格だ」
シャーナシアの肩が固まった。
「……抜けられると思いましたの」
「見えていないのに?」
アルマニアが回廊から下りる。
「足音から、距離は分かりました」
「相手の歩幅は?」
「それは……」
「道の幅は?」
「……」
「二体が同時に曲がれる広さでしたか?」
シャーナシアは答えなかった。
青紫の瞳が、傾いた木壁をにらんでいる。
負けたことより、自分が何を間違えたのか分かっていないことへ腹を立てている顔だった。
「もう一度なさいます?」
「当然ですわ」
「では、次は僕の言葉を聞いてください」
「あなたが正しいと判断したなら聞きます」
「今は、判断するためのものが見えていません」
シャーナシアがアルマニアを見た。
「僕は、さっきシャーナシアの言葉へ従いました。自分で確かめに行かずに」
「わたくしの指示が正確だったからでしょう?」
「確かめるまでは、正確かどうかも分かりませんでした」
「では、間違っていたら?」
「一緒に失敗します」
アルマニアは傾いた木壁を起こした。
「今みたいに」
シャーナシアの眉が、さらに吊り上がった。
怒鳴られるかと思った。
だが彼女は、倒れた自分のオークを引き起こす。
「よろしい。次にあなたが間違えたら、二人分叱ります」
「僕の方が損では?」
「嫌なら、正しい指示を出しなさい」
◇
二度目。
アルマニアは迷宮全体を見渡した。
シャーナシアは入口に立ち、見えない道へ顔を向けている。
「前へ三歩」
命令が伝えられる。
オークが進む。
「左。二歩」
角を曲がる。
横道から訓練用オークが近づいてきた。
「止めて」
シャーナシアの唇が、わずかに動いた。
まだ行ける。
そう言いかけたのだろう。
それでも彼女は、オークを止めた。
訓練用オークが目の前を横切る。
「今です。前へ四歩」
木の従者が進む。
次の角には、床から突き出た低い棒があった。
「右足を高く上げて、一歩」
「右足を高く上げ、一歩」
オークが棒をまたぐ。
「左足も同じように」
反対の足が越える。
「前へ二歩。止まって」
鐘は、もうオークの手が届く場所にあった。
「右手を伸ばしてください」
シャーナシアが命じる。
真鍮の鐘が鳴った。
一度目より短い道ではなかった。
それでも、一度目より早く着いた。
「合格」
講師が記録板へ二つ目の印をつける。
シャーナシアは迷宮の奥から戻ると、アルマニアの前で足を止めた。
「あなたの指示は、おおむね正確でした」
「おおむね?」
「右足を上げる高さを言っていません」
「棒を越えられましたよ」
「結果がよければ、曖昧でもよいという話ではありません」
「次は気をつけます」
「そうなさい」
礼は言わない。
けれど、アルマニアの目を借りたことを、なかったことにもしなかった。
講師が迷宮の木壁を片づけながら言う。
「術者が見られる場所は一つだ。魔法戦士であっても、背後と曲がり角の先を同時には見られん」
最後の一枚が運び出され、奥の鐘が姿を現した。
「だから仲間の目を借りる。さらに古代語魔法の第三段階へ進めば、ファミリアの術を学ぶ。小さな動物と感覚を結び、自分の目が届かぬ場所を見てもらう魔法だ」
アルマニアは顔を上げた。
「動物の目を借りられるんですか?」
「ただの道具ではない。長く魂を結ぶ相手だ。便利そうだからと、軽々しく選ぶものではないぞ」
講師は念を押した。
アルマニアは頷きながら、開いた窓の外を見る。
訓練場の向かいにある尖塔の屋根へ、二羽の鴉が並んでいた。
片方が首を傾ける。
もう片方も、まったく同じ向きへ首を傾けた。
「鴉なら、空から道を見られますね」
「一羽いれば十分でしょう」
シャーナシアが言った。
二羽の鴉が、同時に嘴を開く。
かあ、と重なった声が一つだけ聞こえた。
このときのアルマニアも、まだそう思っていた。
使い魔は、一羽いれば十分なのだと。