古代語魔法の第三段階へ進む者へ、講師が最初に命じたのは、新しい呪文を唱えることではなかった。
使い魔とする生き物を、一つだけ選ぶことだった。
◇
講義室の黒板に、ファミリアと大きく書かれている。
その下には、猫、鼠、蛇、蛙、梟、鷹と、小さな動物や鳥の名が並んでいた。
「ファミリアは、一度使って終わる魔法ではない」
古代語魔法の講師は、教卓へ置いた卵の殻を持ち上げた。
「生まれる前、あるいは生まれて間もない小動物へ術を施し、その成長へ術者の魂を結びつける。使い魔となった生き物とは感覚を分かち、術者の目が届かぬ場所を見てもらうことができる」
先日の迷宮実習で鳴らした鐘の音を、アルマニアは思い出した。
木壁の向こうにいるオーク。
回廊から道を見ていたシャーナシア。
あのときは、相手の言葉を聞き、見えない道を想像して命じた。
使い魔がいれば、その目で直接見られる。
「ただし、便利な道具を一つ増やす魔法だと思うな」
講師が卵の殻を教卓へ戻した。
「腹が減れば食わせる。傷つけば手当てをする。旅へ出るなら連れていき、危険へ送り出すなら、その危険を自分も引き受ける。思っていたものと違ったからと、取り替えることはできん」
生徒たちの前へ、一枚ずつ紙が配られた。
「自分が魂を結ぶ生き物を一つ書け。理由も添えろ。決められない者は、決められるまで先へ進むな」
アルマニアは羽根筆を取った。
少しだけ考える。
それから、紙の一番上へ一つの名を書いた。
「もう決めましたの?」
隣の席から、シャーナシアが紙をのぞき込んだ。
「はい」
「梟、鷹、猫、鼠と、十ほど並べると思っていましたわ」
「僕を何だと思っているんです?」
「選べるものはすべて欲しがる大馬鹿者です」
否定しにくかった。
シャーナシアは、紙に書かれた名を読む。
「鴉?」
「空から見られます。王都にも森にもいて、遠くからでも目立ちにくい。頭もよくて、食べるものにもあまり困りません」
「ずいぶん実用一点張りですこと」
「それに——」
アルマニアは窓の外を見た。
古代語魔法の訓練場と向かい合う尖塔の屋根に、二羽の鴉が並んでいる。
片方がこちらを見た。
もう片方も、少し遅れて首を向ける。
「前から、何度も僕を見に来ているんです」
「餌をもらえると思われているだけではなくて?」
「それでも、知らない相手ではありません」
シャーナシアは二羽を見上げ、鼻を鳴らした。
「英雄の使い魔としては、少々地味ですわね」
「シャーナシアは何を選んだんです?」
彼女の紙を見る。
何も書かれていなかった。
「まだ決めていないんですか?」
「今は選びません」
あまりに迷いのない答えだった。
「使い魔が欲しくないんですか?」
「欲しいかどうかで、修める技を決めるものですか。わたくしは次に、剣を鍛えます」
シャーナシアは空の紙を裏返した。
「曲がり角の先へ目が必要なら、そこを見る者と組めばよいと、先日の実習で分かりましたもの」
「僕の目を借りるんですか?」
「あなたが正しく見ているなら、使って差し上げます」
「借りるとは言わないんですね」
「わたくしが使うのですから、使うで正しいのです」
講師が二人の前で足を止めた。
アルマニアの紙を取り上げ、書かれた理由へ目を通す。
「鴉か」
「はい」
「学院で用意できる卵はない。野生の巣を探すことになるが、勝手に持ち去るなよ」
「分かっています」
「本当に分かっている顔ではありませんわ」
「見るだけです」
「なら、わたくしも見届けます」
「剣を鍛えるのでは?」
「卵泥棒を競争相手に持った覚えはありませんもの」
◇
授業が終わると、アルマニアは尖塔の下へ向かった。
使い魔の卵を取るためではない。
二羽が本当に巣を作っているのか、遠くから確かめるためだった。
シャーナシアも当然のようについてくる。
「見るだけですからね」
「わたくしへ言うことではありません。自分へ言い聞かせなさい」
尖塔は、今では倉庫として使われている古い観測塔だった。
石壁には蔦が這い、屋根の縁から細い枝が何本も突き出している。
巣があるのは間違いない。
アルマニアが目を凝らすと、二羽のうち一羽が嘴に何かをくわえていた。
授業で提出した紙だった。
「いつの間に!」
肩から下げていた鞄を開く。
帳面と筆入れはある。
鴉と書いた紙だけが消えていた。
「使い魔にする前から、ずいぶん気が合っていますわね」
「返してください!」
アルマニアが呼ぶと、鴉は紙をくわえたまま尖塔の反対側へ跳ねた。
もう一羽が、かあと鳴く。
二羽とも姿を消した。
「追います」
「見るだけでは?」
「紙を取り返すだけです」
「そういうことにしておきますわ」
尖塔の扉は開いていた。
中には、壁に沿って細い螺旋階段が続いている。
長く使われていない石段へ埃が積もり、二人が駆け上がるたび、靴の下で白く舞った。
最上階には小さな鐘と、屋根へ出るための木戸があった。
木戸を押し開ける。
強い風が、二人の髪と外套を巻き上げた。
「紙は?」
「あそこです!」
巣から少し離れた屋根飾りへ、提出した紙が引っかかっていた。
その下に、二羽の鴉がいる。
だが、二羽は紙を見ていなかった。
屋根の縁へ身を寄せ、しきりに鳴いている。
細い枝を重ねた巣が、半分ほど傾いていた。
古い屋根瓦が一枚ずれ、巣の下を支えていた枝が外れかけている。
巣の中には、青緑色の殻へ黒い斑点のある卵が一つだけ見えた。
風が吹く。
巣が揺れた。
卵が、屋根の傾斜へ転がり出る。
「危ない!」
アルマニアは木戸から屋根へ出た。
「待ちなさい、アルマニア!」
瓦へ手をつき、身体を低くして進む。
卵は巣の縁で止まっていた。
あと少し転がれば、尖塔の下まで真っ逆さまに落ちる。
「オークを使えば——」
「屋根の上で木偶を歩かせるつもりですの?」
命令どおり前へ進み、瓦を踏み抜く姿が浮かんだ。
「やめます」
「賢明です」
シャーナシアが塔の中から、鐘を鳴らすための綱を引き上げた。
「これを腰へ結びなさい」
「シャーナシアは?」
「ここで支えます。わたくしより軽く、身のこなしも速いのはあなたでしょう」
自分が何でもすると言わなかった。
今、屋根へ出るのに向いている者を選んだ。
アルマニアは綱を腰へ巻き、ほどけないよう二度結んだ。
反対側を、シャーナシアが両手で握る。
「落ちても、引き上げて差し上げます」
「落ちないように支えてください」
「注文の多い人ですこと」
一歩進む。
瓦が、かすかに沈んだ。
次は屋根の骨組みが通っている場所へ足を置く。
風が短外套を引いた。
腰の綱が張り、身体を支える。
「あと二歩ですわ」
「見えています」
「なら、落ちないようになさい」
「それも見れば分かります?」
「口を動かす余裕があるなら、早くなさい!」
アルマニアは巣へ手を伸ばした。
まず、外れかけていた枝を押し戻す。
巣の傾きが、少しだけ戻った。
卵を中へ戻そうと、両手で包む。
こつん。
指の内側で、小さな振動がした。
「生きてる……」
「感動するのは、戻してからになさい!」
もう一度、風が吹いた。
古い瓦が、アルマニアの膝の下で割れる。
身体が滑った。
両手には卵がある。
屋根へ手をつくことができない。
「シャーナシア!」
「分かっています!」
腰の綱が強く張った。
アルマニアの身体が、屋根の縁へ届く寸前で止まる。
塔の中では、シャーナシアが綱を肩へ回し、両足を石床へ踏ん張っていた。
「足を立てなさい! 引き上げます!」
屋根の骨組みへ爪先をかける。
シャーナシアが綱を引く。
アルマニアも身体を起こし、割れていない瓦へ膝を乗せた。
一歩ずつ木戸まで戻る。
中へ転がり込んだ途端、シャーナシアが綱を放した。
「この大馬鹿者!」
「卵は無事です」
「誰が卵の心配をしろと言いました!」
聞き覚えのある怒鳴り声だった。
シャーナシアはアルマニアの肩と腕を確かめ、怪我がないと分かってから、ようやく卵を見る。
「巣へ戻せませんでしたわね」
「もう一度行きます」
「今度こそ引きずり下ろしますわよ」
アルマニアは口を閉じた。
卵は両手の中で、まだ温かい。
屋根の二羽が木戸の前へ降りてきた。
一羽がアルマニアの右手をつつく。
もう一羽が左手をつついた。
「痛いです」
二羽は構わず、交互に嘴を当てる。
「怒っていますわね」
「助けたんですけど」
「親からすれば、卵を抱えたまま戻ってきた人間ですもの」
アルマニアは卵を差し出した。
「返したいんです。巣まで運んでもらえませんか?」
二羽は卵を見た。
次に、揃ってアルマニアを見る。
一羽が黒い羽根を一本抜き、卵の上へ落とした。
もう一羽が、提出用の紙を木戸の内側へ放る。
鴉、と書かれた文字の上へ紙が落ちた。
「……僕に?」
かあ、と二羽が同時に鳴いた。
重なった声は、一つに聞こえた。
「渡すつもりのようですわね」
「本当に?」
「少なくとも、返してほしい者の態度には見えません」
アルマニアは卵と二羽を見比べた。
夢で会った大鴉より小さい。
羽の縁も光ってはいない。
それでも、右と左から同じ目で見つめられると、あの二羽を思い出す。
「では、この卵をお借りします」
「それは借りるとは言いませんわ」
「大切に育てます」
「なおさら返す気がないではありませんか」
シャーナシアは深く息を吐き、自分の短外套を外した。
柔らかな裏地で卵を包み、アルマニアの腕へ戻す。
「落としたら、今度はわたくしがあなたを塔から落とします」
「どちらを助ければいいんです?」
「両方に決まっているでしょう、この大馬鹿者!」
◇
講師は、二人が持ち帰った卵と、窓の外までついてきた二羽の鴉を順番に見た。
「勝手に持ち去ったのではないな?」
「巣から落ちかけたところを助けました。そのあと、この羽根と一緒に渡されました」
教卓には卵、黒い羽根、少し皺になった提出用紙が並んでいる。
シャーナシアの深紅の短外套は、卵を包んだままだった。
「わたくしが見届けました。盗んではおりません」
「なら、候補として預かろう」
講師は卵へ耳を寄せ、殻を傷つけないよう明かりへ透かした。
「生きている。だが、これを得たからと、明日からファミリアを使えるわけではないぞ」
「分かっています」
「第三段階へ進むだけの術式と魔力制御を身につけることが先だ。卵があるからと、課程を急がせることもしない」
アルマニアは頷いた。
「もし先に孵ったら?」
「普通の鴉として育てろ。使い魔にならなくとも、一つの命であることは変わらん」
「はい」
講師は毛織物を敷いた籠へ卵を移した。
「それを理解できるなら、明日から第三段階の課題へ入る」
「わたくしも立ち会います」
シャーナシアが言った。
「お前は使い魔を後回しにするのではなかったか?」
「ええ。ですから、わたくしは剣を使います」
青紫の瞳が、アルマニアへ向く。
「この人が卵を理由に手を抜かぬよう、相手をして差し上げますわ」
「手を抜くつもりはありません」
「焦って無茶をするのも許しません」
「どちらにしても厳しいですね」
「当然です。これ以上、勝手にいなくなられては困りますもの」
窓の外で、二羽の鴉が鳴いた。
講師の籠の中から、小さな音が返る。
こつん。
少し遅れて、もう一度。
こつん。
アルマニアは卵を見た。
一つの卵から聞こえたはずの音は、なぜか左右から交互に頭をつつかれたように感じられた。