翌朝、アルマニアが古代語魔法の訓練場へ入ると、卵はすでに籠ごと運び込まれていた。
毛織物の下には、湯で温めた石が置かれている。
卵の横には学院の飼育係が座り、砂時計を返しながら、石の温度を確かめていた。
窓の外では、二羽の鴉が並んで室内を見張っている。
「おはようございます」
アルマニアが籠へ近づくと、飼育係が片手で遮った。
「見るだけだ。触るなよ」
「冷えていないか確かめようと」
「それを確かめるために、私がいる」
伸ばしかけた手を引っ込める。
卵は、毛織物のくぼみへ静かに収まっていた。
昨日のような音は聞こえない。
「生きていますか?」
「今朝も動いた。温度も問題ない。お前が見ていない間も、きちんと生きている」
「分かっています」
「本当に分かっている顔ではありませんわね」
背後から、聞き覚えのある声がした。
シャーナシアが、刃を潰した訓練剣を肩へ担いで立っている。
深紅の短外套は、昨日卵を包んだため、まだアルマニアの腕にあった。
「返そうと思っていたんです」
「洗ってからになさい。屋根の埃まみれですもの」
「では、今日も借ります」
「なぜ、そうなりますの?」
シャーナシアが取り返そうと手を伸ばす。
アルマニアが外套を背へ隠すと、訓練剣が持ち上がった。
「卵の前で騒ぐな」
古代語魔法の講師が入ってきた。
二人は同時に口を閉じる。
講師は卵を一度だけ確かめると、訓練場の中央へ歩いた。
床には、銀色の線で小さな魔法陣が描かれている。
その中心に置かれていたのは、鴉の卵と同じほどの大きさに削られた木の卵だった。
「ファミリアの術で結ぶのは、鎖ではない」
講師は木の卵を拾い、表面へ刻まれた細い溝を見せた。
「使い魔を操り人形にするのでも、術者の命令だけを聞く生き物へ変えるのでもない。互いの感覚が行き来する道を、二つの魂の間へ作る」
アルマニアは、窓の外の二羽を見た。
一羽が右へ首を傾ける。
もう一羽も、少し遅れて同じ向きへ傾けた。
「二羽と結ぶことはできますか?」
「できん」
講師は即答した。
「一人の術者に、一体の使い魔だ。二本の道を同時に作れば、どちらから届いた感覚かも分からなくなる。お前は右目と左目で別々の文字を読み、同時に理解できるのか?」
「練習すれば——」
「できないものを増やす前に、一本を正しく結べ」
「今、十種類ほど試せないか考えましたわね?」
「二種類です」
「減ればよいという話ではありません!」
講師は咳払いを一つし、木の卵を魔法陣へ戻した。
「本物の命へ術を施す前に、感覚の通り道を作る部分だけを練習する。この溝へ魔力を流せ。強すぎれば木の器が割れ、弱すぎれば途中で途切れる」
アルマニアはメイジスタッフを握った。
「木の卵と感覚を共有するんですか?」
「木に感覚はない。向こうから何も返らぬ道を作るだけだ。だが、自分から流す魔力を細く保てなければ、生き物とは結べん」
講師がシャーナシアを見た。
「お前はアルマニアの前へ立て」
「剣を使ってよろしいのですね?」
「そのために来たのだろう。ただし、アルマニアを斬るな」
「承知しています。集中を少々、確かめるだけですわ」
「その言い方が不安なんですが」
シャーナシアは訓練剣を正眼へ構えた。
アルマニアと木の卵の間に立つ。
「わたくしを気にせず、術を完成させなさい」
「目の前で剣を構えている人を、気にするなと?」
「敵のいない場所でしか使えぬ魔法など、戦場では役に立ちません」
「ファミリアは戦場で生み出す魔法ではない」
講師が訂正した。
「だが、風が吹いた、鳥が鳴いた、腹が減ったという程度で術式を崩すようでは困る。シャーナシア、お前の役目は斬ることではなく、余計なものを見ても術を保てるか確かめることだ」
「わたくしが余計なものですの?」
「今はな」
シャーナシアの眉が吊り上がった。
その怒りが自分へ向く前に、アルマニアは魔法陣の前へ進んだ。
◇
一度目。
アルマニアはメイジスタッフの石突きを床へ置き、左手で古代語の印を結んだ。
「全知全能にして万能なるマナよ。我が声を道とし、我が意志を糸となせ——」
杖の先に青白い光が生まれる。
光は細く伸び、木の卵へ刻まれた溝へ触れた。
一筋の光が、螺旋を描きながら卵の表面を走る。
強く流してはいけない。
消えないよう、押しつけてもいけない。
相手へ届く細さを保ち、途切れさせず、最後まで——。
視界の端で、シャーナシアが動いた。
訓練剣が左から振られる。
アルマニアは反射的に杖を両手で持ち上げた。
剣と杖がぶつかる。
乾いた音と同時に、木の卵へ伸びていた光が消えた。
「失敗だ」
講師が告げる。
「今のは斬られます」
「止めるに決まっているでしょう?」
シャーナシアは、アルマニアの肩へ触れる寸前だった訓練剣を引いた。
「あなたは剣を防ごうとして、術の身振りをやめました。魔法ではなく、杖を選んだのです」
「何もしなければ、剣が当たります」
「だから、わたくしが止めます」
「それを信じろと?」
「わたくしが、病み上がりを本気で斬るとでも?」
第2話でミレナへ言った言葉だった。
あのときのアルマニアは、シャーナシアが加減できるか少し疑っていた。
今も、少しだけ疑っている。
「その顔は何ですの?」
「次をお願いします」
「今、失礼なことを考えましたわね?」
◇
二度目。
光の糸が、木の卵へ伸びる。
シャーナシアの剣が上がった。
今度は見ない。
古代語の一音一音へ意識を置き、溝を走る光だけを追う。
足音が近づいた。
外套を風が押す。
剣が振り下ろされ——。
ぴたりと止まった。
頭の上、髪へ触れるか触れないかの場所だった。
アルマニアは身をすくめたが、左手の印は崩さなかった。
光が、木の卵の半分まで進む。
こつん。
訓練場の隅から、小さな音がした。
アルマニアの目が、籠へ向いた。
卵が動いている。
もう一度、こつんと殻の内側から音がした。
「孵るんですか?」
問いかけた瞬間、光の糸が揺れた。
木の卵へ刻まれた溝から外れ、床へ落ちるように消える。
「失敗だ」
講師の声がした。
アルマニアは本物の卵へ駆け寄った。
「今、動きました」
「見ていた」
飼育係は落ち着いたまま、卵へ耳を寄せている。
「殻にひびはない。温度も変わっていない」
「でも、中で——」
「生きているから動く。孵化が始まったら知らせる」
「僕も見ていた方が」
「お前が見て、何ができる?」
答えが出なかった。
温め方は飼育係の方が知っている。
孵化の兆候は講師が見極められる。
アルマニアが籠の横へ座っても、殻の中の雛を早く育てることはできない。
「心配することと、役に立つことは別ですわ」
シャーナシアが背後に立っていた。
「昨日、屋根へ出た人に言われたくありません」
「あれは、わたくしたちにしか助けられない場面でした。今は違います」
言い返そうとして、やめた。
そのとおりだった。
「けれど、もし訓練中に孵化が始まったら?」
アルマニアは飼育係を見る。
「知らせると言っただろう」
「聞こえなかったら?」
「わたくしが聞きます」
シャーナシアが言った。
「あなたは術式だけを見なさい。卵に異変があれば、わたくしが止めます」
「剣も振るうんでしょう?」
「剣を振りながら、音を聞くくらいできます」
「二つ同時にしていませんか?」
「剣を振るうのも、あなたを見張るのも、卵の音を聞くのも、すべて同じ仕事です。あなたが余計なことをせず、術を完成させるようにするための」
見事な言い分だった。
だが、今この場で卵の音を任せるなら、シャーナシア以上に確かな相手はいない。
「分かりました。お願いします」
「最初から、そうなさい」
得意そうに胸を張る。
講師は魔法陣の中央へ、木の卵を置き直した。
「三度目だ」
◇
アルマニアは杖を構えた。
籠を見ない。
窓の外の二羽も見ない。
目の前にあるのは、木の卵へ刻まれた一本の溝だけだった。
「全知全能にして万能なるマナよ。我が声を道とし、我が意志を糸となせ——」
杖の先から、青白い光が伸びる。
細すぎず、太すぎず。
自分の魔力を押しつけるのではなく、向こうへ届く道だけを作る。
光が溝へ入り、木の卵を巡り始めた。
シャーナシアが踏み込む。
右から剣が来る。
見えた。
それでも杖を上げない。
訓練剣は頬の横で止まり、風だけを残して引かれた。
次は足元。
アルマニアの爪先へ触れる寸前で、刃が止まる。
光は切れない。
卵の半分を越えた。
窓の外で、二羽の鴉が鳴いた。
翼が硝子を叩く。
籠から、こつんと音がした。
アルマニアは見なかった。
異変があれば、シャーナシアが止める。
彼女が何も言わないなら、今は自分の仕事を続ける。
光が、木の卵の頂を回る。
細い溝の終わりが近づく。
シャーナシアの足音が消えた。
どこから剣が来るのか分からない。
確かめたい。
だが、それは自分の仕事ではない。
最後の古代語を唱える。
光の糸が溝を一周し、最初の一点へ戻った。
木の卵全体が、淡い青に光る。
「完成だ」
講師の声と同時に、喉元へ冷たいものが触れた。
シャーナシアの訓練剣だった。
「わたくしの勝ちですわ」
「これは勝負だったんですか?」
「あなたは魔法を完成させました。わたくしは剣を届かせました。両方の勝ちでよいでしょう」
「珍しく譲りますね」
「二人で鳴らした鐘ということにしたでしょう? あれと同じです」
アルマニアは光る木の卵を見た。
一本の細い光が、自分と卵を結んでいる。
強く引けば壊れる。
手を離せば途切れる。
それでも、必要な分だけ魔力を流し続ければ、確かに向こうへ届く。
「今の感覚を忘れるな」
講師が木の卵を持ち上げた。
「お前は術を完成させる間、卵の世話を他人へ任せた。身を守ることも、シャーナシアへ任せた。だから一本の道を最後まで結べた」
「一人では、使えない魔法なんですね」
「安全な場所と時間を作る者がいなければな。魔術師が一人で修めた呪文でも、使える状況は仲間が作る」
シャーナシアが訓練剣を鞘へ戻した。
「わたくしがいれば、どのような魔法でも使わせて差し上げます」
「頼もしいですが、僕が魔法を使うたび剣を喉へ当てるのはやめてください」
「集中が続いているか、最後まで確かめただけです」
講師は木の卵から光が消えるのを待ち、記録板へ印をつけた。
「練習は合格だ。だが、本物の命からは、こちらへ感覚が返ってくる。今日作った一本の道を、明日は卵へ結ぶ」
アルマニアは籠を見た。
「明日?」
「孵化が始まる前に術を施さねばならん。今夜は飼育係と交代で見張れ。殻へひびが入ったら、すぐに私を呼べ」
「はい」
「わたくしも残ります」
シャーナシアが当然のように言った。
「剣の訓練は?」
「昼のうちに済ませます。あなた一人へ卵を任せれば、心配のあまり一晩中抱えていそうですもの」
「抱えません」
「先ほど二度、触ろうとしましたわ」
「一度です」
「回数の問題ではありません!」
◇
日が沈むと、訓練場は静かになった。
暖炉の薪が弾ける音と、砂時計の砂が落ちる音だけが続いている。
アルマニアは籠の右側へ座っていた。
左側には、剣の手入れを終えたシャーナシアがいる。
「交代で見るのではなかったんですか?」
「今は、わたくしの番です」
「僕も起きています」
「なら、眠りなさい」
「眠れません」
「役に立たない心配はやめたのでしょう?」
「やめたとは言っていません。任せただけです」
シャーナシアが、呆れたように息を吐いた。
「では、わたくしが見ています。あなたは明日の術を頭の中で復習なさい」
アルマニアは目を閉じた。
一本の道。
自分から伸ばし、卵へ結ぶ細い糸。
明日は、その向こうから別の命の感覚が返ってくる。
右手の側で、小さな音がした。
こつん。
アルマニアは目を開けかけ、止めた。
「異常はありませんわ」
シャーナシアの声を信じ、もう一度目を閉じる。
すると今度は、左手の側から音がした。
こつん。
一つしかない卵を挟み、二人は同時に目を開けた。
「……今の音」
「左右から聞こえましたわね」
毛織物の上で、青緑色の卵がわずかに揺れた。
殻に、まだひびはない。
窓の外では、二羽の鴉が闇の中から籠を見つめていた。