一つしかない卵から、二つの音がした。
右から、こつん。
左から、こつん。
毛織物のくぼみで、青緑色の卵が揺れている。
「講師を呼びますわ」
シャーナシアが立ち上がる。
「僕が行きます」
「あなたは卵を見ていなさい。今度は、それがあなたの仕事です」
反論する間もなく、深紅の短外套が扉の向こうへ消えた。
アルマニアは籠の前へ膝をついた。
触れてはいけない。
温めた石を動かしてもいけない。
ただ、何が起きるかを見て、変化があれば知らせる。
自分にできることが少ないからと、できないことまで始めない。
右側で、もう一度音がした。
殻の表面に、髪の毛ほどの細いひびが入る。
それを追うように、反対側からもひびが伸びた。
「本当に二つ……?」
卵へ顔を近づける。
ひびの一方から、小さな嘴の先がのぞいた。
次の瞬間、正反対の側から、もう一つの嘴が殻を押し上げた。
「先生! 早く!」
「呼んできましたわ!」
扉が勢いよく開いた。
シャーナシアに引かれるように講師が入り、その後ろから飼育係が湯気の立つ石と布を抱えて続く。
講師は籠へ身をかがめた。
二つの嘴が、殻の内側から交互に動いている。
「双子だ」
「鴉にも双子がいるんですか?」
「一つの卵へ二羽が育つことはある。だが、どちらも無事に孵ることは滅多にない」
飼育係が新しい布を籠の周りへ詰めた。
「狭い殻の中で育ち、力も場所も足りなくなる。人の手で殻を割れば助けられるとは限らん。血管を傷つければ、その場で死ぬ」
アルマニアは、伸ばしかけた手を膝へ戻した。
「では、僕は何をすれば?」
講師が床へ銀粉の袋を置いた。
「予定どおり、ファミリアの術を使え。殻が開ききる前なら、二羽の命がどのようにつながっているか魔法で確かめられる」
「二羽には使えないと言いましたよね?」
「そのとおりだ。一人の術者が結べる使い魔は一体だけ。何が起きるか、私にも分からん」
窓の外で、二羽の親鴉が激しく鳴いた。
硝子を嘴で叩き、室内へ入れろと訴えている。
飼育係が窓を開けると、二羽は籠の縁へ降りた。
一羽が卵の右へ。
もう一羽が左へ。
夢の中と同じように、アルマニアを挟んで見つめる。
「やります」
「よく考えて答えなさい」
講師は銀粉で籠を囲み、魔法陣を描き始めた。
「術式が片方だけを選べば、もう片方は普通の鴉として生まれる。二羽を別々に結ぼうとすれば、術は崩れる。途中で異常を感じたら、すぐに魔力を切れ」
「切れば、二羽は?」
「使い魔にはならん。それだけだ。孵化は飼育係へ任せる」
二羽を助けるために、無理に魔法を完成させる必要はない。
アルマニアの望みと、雛の命は別のものだった。
「分かりました」
メイジスタッフを握り、魔法陣の前へ座る。
シャーナシアが籠の向こうへ回った。
「わたくしは何を?」
「アルマニアの身体を見ていろ。二つの感覚が一度に返れば、本人が自分の異常へ気づけないことがある」
「また、この人を見張る役ですのね」
「不満か?」
「いいえ。誰より慣れていますわ」
シャーナシアが正面からアルマニアを見る。
「魔法はあなたの仕事です。けれど、自分まで見失ったら、わたくしが止めます」
「お願いします」
アルマニアは卵へ杖の先を向けた。
◇
「全知全能にして万能なるマナよ。生まれ出ずる命と我が魂を結び、目となり、耳となり、共に歩む友となす道を開け——ファミリア」
杖の先に、青白い光が生まれた。
昨日、木の卵へ作ったものと同じ細さを保つ。
光の糸が魔法陣を巡り、籠の中へ伸びていく。
殻へ触れた。
その瞬間、アルマニアは暗闇へ落ちた。
狭い。
温かい。
隣に、もう一つの温もりがある。
自分の背へ押しつけられた柔らかな身体。重なって響く二つの鼓動。殻の外から呼びかける声。
それを感じたのは、自分ではなかった。
雛の一羽が感じている。
そう理解した直後、別の暗闇が重なった。
今度は、隣の背へ顔を押しつけている。すぐ近くに小さな翼があり、その向こうから青白い光が差している。
二羽とも、生きている。
二羽とも、互いを感じている。
そしてアルマニアは、訓練場で杖を握る自分の身体まで同時に感じていた。
右。
左。
中央。
三つの場所が、一度に自分になる。
「アルマニア」
シャーナシアの声が、三方向から響いた。
目を開けているのか、閉じているのかも分からない。
杖を握る指から力が抜ける。
「返事をなさい、アルマニア!」
「……聞こえて、います」
答えた声が、自分の喉から出たものか確信できなかった。
青白い糸が、卵の手前で揺れている。
一本だったはずの光は、殻の中へ入ると二つへ分かれていた。
「魔力を切れ」
講師が言った。
「術式は二つの命へ引かれている。このまま別々に結べば、道が裂ける」
糸を切ればよい。
二羽は普通の鴉として生まれる。
それが最も安全だった。
それでも、アルマニアには不思議なことが分かった。
二つへ分かれた光は、別々の方向へ伸びているのではない。
一羽へ触れた光が、もう一羽へも流れ、また最初の一羽へ戻っている。
二つの鼓動は違う速さで打っていた。
だが、どちらかが殻を押せば、もう一羽が身体をずらして場所を作る。
片方だけでは、ここまで育つこともできなかった。
二羽は別々の命だった。
それでも殻の中では、すでに一つのものとして生きている。
「二本ではありません」
「何ですって?」
「外からは一本です。卵の中で分かれて、二羽を巡って戻ってくる」
アルマニアは、新しい魔力を注ぐのをやめた。
二本の糸を保とうとしない。
一本の入口だけを支え、その先は二羽に任せる。
「僕が二羽を結ぶんじゃない。二羽は、もう互いにつながっている」
揺れていた光が細くなる。
殻の中で二つへ分かれ、二羽の間を巡り、一本へ戻る。
押しつけない。
引き離さない。
今ある形のまま、自分へ迎え入れる。
「アルマニア、目を開けなさい!」
シャーナシアの声がした。
訓練場にいる自分の目だけを選び、開く。
籠が見えた。
杖を握る両手が見えた。
正面から自分の肩をつかむ、シャーナシアが見えた。
「僕は、ここにいます」
「なら、最後までそうしていなさい」
「はい」
古代語の最後の一節を唱える。
魔法陣の光が籠へ集まり、卵を包んだ。
二つの鼓動と、アルマニアの鼓動が重なる。
一度だけ、同じ速さで鳴った。
「術式が閉じた」
講師が、息を吐くように告げた。
次の瞬間、殻が左右から割れた。
◇
二羽の雛は、互いを押し出すようにして生まれた。
黒というより灰色に近い濡れた羽毛を持ち、鴉とは思えないほど小さい。
先に頭を出した一羽が、籠の右側へ転がった。
もう一羽は左へ転がり、すぐに兄弟の方へ這っていく。
二羽が身体を寄せると、ようやく鳴き声を上げた。
かあ、とは鳴かなかった。
きゅう、きゅうと、頼りない声だった。
「……鴉って、最初から偉そうに鳴くわけではないんですね」
「何を期待していましたの?」
アルマニアが籠へ手を伸ばすと、右の雛が指をつついた。
同時に、左の雛へ触れた感覚が頭の奥へ返ってくる。
小さな嘴が指へ当たった感触。
兄弟が人の指をつついている姿。
自分が指をつつかれている痛み。
三つが重なり、アルマニアは額を押さえた。
「痛い……」
「つつかれる前から痛がっていましたわよ?」
「つつく方の感覚も来たんです」
「便利なのか不便なのか、分かりませんわね」
二羽の親鴉は籠の縁へ降り、雛の濡れた羽毛を嘴で整え始めた。
片方がアルマニアを見る。
もう片方も、少し遅れて首を向けた。
「名前をつけろ」
講師に言われ、アルマニアは迷わなかった。
「右に出た方がギン。左に出た方がニンです」
「ずいぶん簡単に決めましたわね」
「長い名前は、もう知っていますから」
「長い名前?」
「ギンギルとニンギル。でも、呼びにくいのでギンとニンにします」
二羽の親鴉が同時に翼を広げた。
怒ったのかと思ったが、そうではなかった。
一羽が錆びた鐘のような声で鳴く。
もう一羽が澄んだ鐘のような声で続ける。
そのまま窓から朝焼けの空へ飛び立ち、王都の屋根の向こうへ消えていった。
「気に入ったようですわね」
「どうして分かるんです?」
「あなたへ卵を押しつけた鴉ですもの。変わり者の考えは、変わり者同士で通じるのでしょう」
籠の中では、ギンとニンが重なり合って眠っていた。
どちらがどちらか、もう見た目では分からない。
けれど、アルマニアには分かった。
目を閉じれば、右側の温もりがギン。
左側から兄弟の鼓動を聞いているのがニン。
そして二羽の間へ、自分の鼓動も確かにつながっていた。
◇
それから幾週かが過ぎた。
ギンとニンは黒い羽根を揃え、訓練場の梁から梁へ飛べるようになった。
姿も声もそっくりだったが、ギンは光るものを見つけるとすぐ近寄り、ニンはまず高い場所から周りを見る。
ただし、片方が何かを見つければ、もう片方もほとんど同時に同じ方角へ首を向けた。
第三段階の修了実習の日、ギンは学院の北塔へ、ニンは南の城壁へ連れていかれた。
アルマニアは訓練場の中央へ立ち、目隠しをされている。
「始め」
講師の声に、二羽へ意識を伸ばした。
北塔にいるギンの目には、白い板が見えた。
そこへ、助手が黒い丸を描く。
南の城壁にいるニンの目には、別の白い板がある。
もう一人の助手が、三角を描いた。
「北が丸。南が三角です」
「同時に見えたのか?」
「はい。けれど——」
黒い丸を追うと、三角がぼやける。
三角へ意識を向けると、丸が遠のく。
二つとも見えている。
だが、二つを同じ鮮明さで考えようとすると、足元にある自分の身体が消える。
アルマニアは一歩よろめいた。
肩をつかまれ、引き戻される。
「二カ所を見るために、自分の立っている場所を忘れてどうしますの?」
目隠しを外すと、シャーナシアが目の前にいた。
訓練剣の切っ先が、アルマニアの胸へ触れている。
「二つの目があっても、あなたの身体は一つですわ」
「分かっています」
「分かっている者は、敵の前で棒立ちになりません」
「実習中に剣を向けるとは聞いていません」
「見えていない場所から来る危険も分かるのが、使い魔ではなくて?」
反論できなかった。
講師が記録板へ印をつける。
「二地点の感覚を受け取れることは確認した。ただし、一度に考えられることも、動かせる身体も増えてはいない。普段は一羽ずつ感覚を借りろ。二羽へ同時につなぐのは、必要なときだけにしろ」
「はい」
「術式上も、使い魔は一体として数える。二羽を別々の場所へ置けても、二つの呪文を使えるわけではない」
「それも分かっています」
「今、少し残念そうな顔をしましたわね?」
「確認しただけです」
北と南から、二羽の鳴き声が届いた。
ほどなく、ギンとニンが訓練場へ戻ってくる。
一羽がアルマニアの右肩へ。
もう一羽が左肩へ降りた。
二羽は同時に、アルマニアの頭をつついた。
「痛いです!」
「集中を切らした罰でしょう」
「シャーナシアがやらせたんですか?」
「使い魔へそのような命令はできないのでしょう?」
彼女は得意そうに胸を張り、訓練剣を肩へ担いだ。
「けれど悪くありません。わたくしが前を切り開く間、あなたは二羽の目で残りを見なさい」
「使って差し上げる、ではないんですか?」
「あなたを使うのは変わりません。その範囲が少し広がっただけですわ」
シャーナシアは踵を返した。
「次の課程は探索者科でしょう? 壁の向こうを見るだけで満足せず、自分の目でも罠を見つけられるようになりなさい」
「そのつもりです」
「なら、そこで待っています。今度は剣と魔法以外で、わたくしの役に立つところを見せなさい」
深紅の短外套が、訓練場の出口へ消えていく。
アルマニアは右肩のギンを見た。
ギンの目を通して、左肩のニンが見える。
ニンの目を通して、右肩のギンが見える。
その真ん中に、自分がいる。
一本だった魂の糸は、二羽の間で枝分かれした。
それでも、結ばれたファミリアは一つだった。
アルマニアと、ギンと、ニン。
三人で一つの、アルマニアだけのファミリアだった。