上へ昇る瞬間のことは、あまり詳しく語れない。
語れないのは、当時の俺の言語がもう追いつかないからだ。別に記憶が無くなったから、とかの理由ではない。
人間の言葉は人間の世界の寸法で作られている。あの体験を無理に翻訳すると、たとえば卵の内側から殻を見ていたのが殻の外に出たとか、そういう的外れな比喩にしかならない。
気がつくと、そこにいた。
そこは、特に何も無い場所だった……と思う。
場所、という言い方がすでに正しくない。彼女が昔言っていた「どことか無い」の意味が、来てみたら一瞬で分かった。上も下も、前も後も、時間の向きすら、必要な時に自分で用意するオプションだった。何も無い、というのは何でも置ける、と同じ意味だったらしい。
そして、ついでに、という規模の話ではないのだが、俺の感情は戻った。
理屈は単純。彼女が言っていた通り、感情とは存在の格だった。あの日、人間の器で彼女を認識するために削られた感情は、器そのものが彼女と同じ規格になった瞬間削る理由を失った。
最初の数日……まあ時間が無いから体感的なものだが、正直、忙しかった。
十年ぶりに帰ってきた喜怒哀楽が、全部いっぺんに動作確認を始めたからだ。何を見ても心が動く。凪いだ平原だった内側に波が立ち、荒れる。とにかくうるさい。あと懐かしい。ずっと失くしていた騒がしさが俺の内側で好き勝手に鳴っていて、俺はそれが、泣きそうなほど嬉しかった。泣きそう、と思えることすら、嬉しかった。
見方も色々と変わった。
まず、上位存在さんである。
人間だった頃の俺は、彼女を目を閉じても見える光としか認識できなかった。なのに今は、ちゃんと見える。人間の言葉に訳すと事故が起きるので姿の説明は省くが、ひとつだけ言えるのは──
なんか、可愛らしいのだ。
波長の揺れ方とか、俺が視線を向けた時の存在の広げ方とか、機嫌がいい時に世界の定数がほんの少し明るくなるところとか。今までも情緒はダダ漏れだったが、今の俺にはその漏れている全部が見える。宇宙を畳む力の持ち主が俺の一挙一動でいちいち揺れているのが可愛い。感情が戻った俺の第一声レベルの感想がこれである。十年分の遅れてきた初恋みたいで、我ながらどうかしていた。
それから、彼女は俺に色々なことを教えてくれた。
たとえば世界の構成の仕方、とか。
『いい? まず因果の束をこうやって梳いて──』
「え……待って待って、今の何? 今、時間が編み物になったんだけど」
『なったよ? 時間は編むものだもん』
「すげぇ……」
語彙力がかなり下がってしまった。だが仕方ない。物理法則を下書きから書く方法を見せられて、他に何と言えばいいのか。感情が戻った俺は、感動に対しても素直になっていた。学ぶことが、こんなに楽しかったのか。受験期の俺に教えてやりたい。あの頃の勉強は儀式だったが、今のこれは、純粋に面白い。
あと、これは想定外だったのだが──こっちの世界でも、俺はモテた。
魂の波長がイケメン、という評判は、上に来ても有効だった。むしろ保護膜で磨き上げられた分、輝きが増したらしい。挨拶に来る存在、観測を申し込んでくる存在、いきなり求婚してくる存在。あの残機無限目ちゃんも並行世界のどこかから熱烈な祝電をくれた。感情が戻ったばかりの俺は、生まれて初めてのモテに浮かれ、つい愛想よく応対し、要するにデレデレしていた。
『ちょっと』
「あ……」
『誰のおかげで上がってこれたと思ってるの?』
「すみませんでした……」
概念的な正座で謝った。感情が戻ったせいで、焦りも恐怖もフル稼働である。便利なんだか不便なんだか分からない。ちなみに彼女はその後しばらく拗ねて、機嫌を直すのに新しい概念をひとつプレゼントする羽目になった。痴話喧嘩のスケールも、俺は上に来てしまったのだ。
──さて。
浮かれた話ばかりしたが、最後にひとつだけ、済ませたことを書いておく。
俺はもう、人ではない。
人ではないから、できることがあった。人だった頃の俺には、資格が無いと思えて頼めなかったこと。当事者だから、加害者だから、俺の「戻して」で被害者面をする資格は無いと、償いのつもりで背負っていたもの。
俺の、唯一の後悔。俺のいた歴史。
それを、綺麗さっぱりに、した。
今度は彼女に教わったやり方で、俺自身の手で、因果の束を梳いて、編み直した。俺の論文が生まれる分岐を閉じ、そこから伸びる戦争の枝を根本から編み変えた。あの世界の人類は、戦争などしていない。核は落ちていない。故郷の県は、今も普通に人が住んでいて、両親は──俺のいない歴史の中で、穏やかに暮らしている。
俺の研究成果は無くなった。学位も、論文も、若手の有望株も、俺という人間がいた痕跡ごと。人類の役に立ちたい、という俺の儀式の成果は、人類の役に立つために消えるのが一番良かった。皮肉だが、これで良かったのだ。
編み終わった世界を、俺は少しの間、外から眺めていた。
俺が消した歴史の中で死んだ人たちは、編み直した世界で何も知らずに生きている。俺が「気になる」で見送った全部が、無かったことになっている。それは償いではなく、ただの上書きなのかもしれない。加害の記録ごと消して楽になっただけだと、言われれば返す言葉は無い。それでも。
なんていうか。
ごめん。
それだけ、置いていく。誰にも届かない場所からの、届かなくていい謝罪だ。感情の戻った俺は、この重さを、ちゃんと重いまま持っていられる。今度は小波ではなく、ちゃんと痛い。この痛みを永遠に持っていることが、俺の払える唯一の代価だった。
──と、しんみりしていたら、隣の気配がそわそわし始めた。
『ねえ』
「ん?」
『なんか最近、また、かっこよくなった?』
「そう?」
自覚は無い。ただ、心当たりならある。感情は存在の格だと、彼女は言った。後悔を後悔のまま抱えられるようになった魂は、たぶん、少しだけ格が上がったのだ。波長の艶が増したとか、そういうことなのだろう。魂の顔面偏差値は、どうやらまだ伸びしろがあったらしい。
『はぁ……』
彼女は、俺の波長をうっとりと眺め、吐息を漏らした。
『うっとりしちゃう』
世界で一番重い愛は、上に来ても相変わらず重い。
俺は彼女を抱き寄せる。
世界は、終わらなかった。もう終わらない。同じ格になった俺たちの間では、触れることはただ、触れることだった。温度の無かったあの手に、今は彼女の波長がそのまま流れ込んでくる。あの暗闇の中で握った無機質な手の、これが本当の感触だったのか。十年越しの答え合わせだった。
腕の中で彼女が、えへへ、と笑った。
魂の波長がイケメンという意味不明な理由で、俺はとんでもない存在に惚れられて、人類を失って、失わせて、人間をやめて、感情を取り戻して、今ここにいる。振り返れば無茶苦茶な道のりで、割に合っていたのかは、正直今でも分からない。
ただ──戻った感情が、はっきりと言うのだ。
なんていうか。
悪くないな、って。
(了)