ありふれたギャルは世界最狂   作:バグッた左スティック

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#30 天秤に乗せられていたことを、まだ誰も知らない

木剣が噛み合う音が、訓練場の朝に響いていた。

 

「――っ!」

 

天之河光輝の踏み込みが伸びる。メルド・ロギンスは半歩下がってそれを受け、返す刃で胴を薙いだ。

 

当たらない。既に光輝の身体は間合いの外にある。

 

(……速い)

 

三十年、剣を握ってきた。受けの精度には自信がある。だが、この一週間で何度も同じことを思わされていた。

 

打ち合いが続く。

 

七合、八合。光輝は無駄に踏み込まない。誘い、引き、また踏み込む。以前のような力任せの振りがどこにもない。

 

(……型が変わったな)

 

それが最初の違和感だった。

 

この少年の剣は、元々もっと大振りだった。ステータスに任せて振り回し、それで通用してしまうから直せずにいた。今は違う。腰が沈み、動線が直線になり、剣先が一切ぶれない。

 

自分の知っている剣術ではない。

 

(――なら、崩し方も変わる)

 

メルドは意図的に間合いを詰めた。相手の理合いを外し、こちらの土俵に引きずり込む。並の相手なら、ここで崩れる。

 

崩れなかった。

 

光輝は下がらず、逆に踏み込んできた。真正面から、最短距離で。

 

「――っ、そこか!」

 

受けた。確かに受けたはずだった。軌道も見えていた。

 

――ガッ。

 

手首を、衝撃が抜けた。

 

木剣が弾き飛ばされ、乾いた音を立てて砂の上を転がっていく。それを、メルドは一拍遅れて目で追った。

 

「……っと、すみません! 大丈夫ですかメルドさん!」

 

光輝が慌てて木剣を下ろし、駆け寄ってくる。

 

「……いや」

 

手首がじんと痺れている。

 

「……気にするな。今のは俺の負けだ」

 

「いえ、メルドさんが合わせてくれてるから――」

 

「合わせてなどおらん」

 

光輝の言葉を、メルドは遮った。

 

「本気だったよ。三合目からは、な」

 

少年が言葉を失う。

 

メルドは砂の上の木剣を拾い上げ、握り直した。掌にまだ痺れが残っている。

 

(……とうとう、追い抜かれたか)

 

驚きはなかった。いつかこうなることは分かっていた。天之河光輝の初期ステータスは、この国の精鋭騎士を軒並み上回っていた。足りなかったのは技術だけだ。

 

だが。

 

「――光輝。ひとつ聞いていいか」

 

「はい」

 

「その剣、どこで覚えた」

 

光輝の肩が、わずかに動いた。

 

「俺の知っている剣術じゃない。構えが低い、踏み込みが直線、腰から下が地面に張り付いている。……この一週間で、まるきり別物になったな」

 

しばらく、光輝は黙っていた。

 

やがて、少し照れたように頭を掻く。

 

「……分かりますか」

 

「三十年振ってきたからな」

 

「剣道です。日本で……向こうの世界で、俺がずっとやってきた競技で」

 

木剣を両手で握り直し、光輝は構えてみせた。

 

先程までの構えだ。深く沈んだ腰、竹刀を持つような手の位置。西洋剣術のそれとは、確かに骨格からして違う。

 

「ここに来てから、ずっと聖剣を振ってました。勇者の剣だからって。技能もあるし、そっちの方が強いはずだって」

 

「……」

 

「でも、それって俺が積み上げたものじゃないんですよね」

 

光輝が、そっと構えを解いた。

 

「ずっと自分を見つめ直してきたつもりでした。何が正しいのか、どうするべきなのか。……でも結局、答えは全部どこかから借りてきたものだった。じいちゃんの言葉とか、勇者っていう肩書きとか」

 

砂を、爪先で軽く撫でる。

 

「だから、一度初心に返ろうと思ったんです。俺が自分の意思で選んで、何年もやってきたもの。……それが、これしかなかったので」

 

メルドは、その横顔をしばらく見ていた。

 

(……そうか)

 

七日だ。たった七日で、この少年はそこまで自分を分解したのか。

 

「――いい判断だ」

 

「え」

 

「借り物の剣は、いざという時に手から滑る。自分で選んだ剣は滑らん。……理屈ではなく、そういうものだ」

 

光輝が、ぱっと顔を上げた。その表情に、久しぶりに年相応の色が戻る。

 

「……ありがとうございます」

 

「礼はいい。次は勝つ」

 

「望むところです」

 

「生意気を言うな。……もう一本と言いたいところだが、断る」

 

「え、なんでですか」

 

「年寄りを労われ。腕がもげる」

 

メルドが肩をすくめてみせると、光輝は毒気を抜かれたように笑った。

 

その笑い方が、一週間前より少しだけ大人びて見えた。

 

「……分かりました。ありがとうございました」

 

一礼して、光輝が壁際へ向かう。その背中を見送りながら、メルドは息を吐いた。

 

(……守ってやれる、などと思い上がっていたのは俺か)

 

汗を拭い、訓練場を見渡す。

 

音が、絶えない。

 

「――っしゃ、来い永山!」

 

「……行くぞ」

 

坂上龍太郎と永山重吾が、砂を蹴って組み合った。拳士と重格闘家。体格も膂力も、この学年で群を抜く二人だ。噛み合った瞬間に砂が爆ぜ、押し合いのまま数歩がずれる。

 

「腰が高ぇぞ坂上」

 

「わーってるっ……くそ、もう一本!」

 

その向こうでは谷口鈴が結界を張っては解き、張っては解きを繰り返していた。展開速度を削るための反復だ。傍らで中村恵理が指を折りながら秒を読んでいる。

 

「今の、速くなってる。前より半拍」

 

「ほんと!? よし、もっかい!」

 

さらに奥では野村健太郎が地面に手をつき、土壁を何度も隆起させていた。高さ、厚み、速さ。形を変えながら延々と繰り返している。

 

視線を移せば、八重樫雫が清水幸利と向かい合っていた。

 

木剣と、短めの棒。清水の構えはぎこちない。踏み込みの度に上体が浮き、雫に軽くいなされて体勢を崩す。

 

「腕だけで振らないで。腰から」

 

「……分かってる」

 

「分かってて出来てないのよ。もう一本」

 

三合で崩され、清水が舌打ちをする。それでもすぐに構え直した。

 

(……幸利が、近接をな)

 

意外だった。あの男の本領は魔眼だ。無詠唱で闇魔法を撃てる術者が、わざわざ剣の間合いに入る必要はない。

 

だが、理由は察しがつく。魔眼は高威力を出せば代償に視力を持っていかれる。撃てば撃つほど、自分の目が潰れていく。あの日、暗闇でそれを使い続けた男が、何を思ったか。

 

「……足りねぇんだよ、あれだけじゃ」

 

雫に打ち込まれながら、清水が誰にともなく呟いた。

 

その少し離れた場所で、園部優花が魔法の軌道を目で追っていた。

 

「……今の、また逸れた」

 

呟いて、指先を構え直す。だが、集中が戻らない。

 

以前なら、こういう時はさっさと切り上げていた。上手くいかない自分を人前に晒すのが嫌だったからだ。誰かに教えを乞うのも、下手なところを見られるのも。

 

ずっと、比べられるのが怖かった。

 

金髪を揺らして笑う、あの子と。

 

誰とでも喋って、誰にでも好かれて、王女様にまで敬語を使わずに笑いかけて。同じような格好をしているのに、中身がまるで違った。自分は劣化版だと思っていた。だから距離を取った。声をかけられても逸らした。

 

――それを、最後まで謝れなかった。

 

「……っ」

 

指先が震えて、また魔法が逸れる。

 

歯を食いしばって構え直したところで、視線がふと訓練場の中央へ流れた。

 

八重樫雫に打ち込まれて、清水がよろめいている。三合ももたない。誰の目にも不格好だった。

 

それでも構え直す。何度も。

 

(……なんで、あんな顔で)

 

思い出すのは六十五階層だ。足が竦んで動けなくなった自分の腕を、あの男が乱暴に引っ張り上げた。

 

『おい、ぼさっとすんな! 死にてぇのか、しっかり立て園部!』

 

あの時の声が、まだ耳に残っている。

 

誰かに引っ張り上げてもらわなければ、自分は立てなかった。それが情けなくて、悔しくて、でも――

 

優花は乱暴に頭を振って、正面へ向き直った。

 

もう逃げない。上手くできない自分を見られたって構わない。あの子に謝る機会はもう永遠に来ないけれど、だからこそ、あの子が最後に守ったものを無駄にはしない。

 

指先に、魔力を集める。

 

「――次、当てる」

 

そして訓練場の端では、畑山愛子が息を切らしながら杖にすがっていた。

 

「せ、先生……無理しないでください……」

 

「だ、大丈夫です……! まだ、いけます……っ」

 

作農師の天職に、戦闘能力はほとんどない。それでも彼女は毎日ここに立っている。生徒たちの魔力回復を少しでも助けようと、慣れない補助魔法を必死に覚えようとしていた。

 

汗だくで、足元もふらついている。それでも、生徒に背を向けようとはしない。

 

(……全員か)

 

メルドは小さく息を吐いた。

 

一週間前、あの報告を持ち帰った日の沈黙が嘘のようだった。

 

あの日、この子供たちは全員が壊れた。泣き喚く者、蹲る者、誰とも口をきかなくなった者。無理もない。目の前で仲間を失ったのだ。しかも、自分たちを逃がすために殿を務めた者を。

 

それが七日で、ここまで戻った。いや、戻ったのではない。

 

以前より、明らかに前へ出ている。

 

(……一番案じていたのは、あれだったがな)

 

視線が、雫を捉える。

 

清水を相手に、淡々と型を直させている横顔。そこに迷いはない。

 

あの日、八重樫雫は誰よりも自分を責めていた。大雨の中庭で、刀を抱えたまま声を上げて泣いていた姿を覚えている。

 

それが今は、誰よりも早く前を向いている。

 

少し離れた場所では、檜山大介が一人で打ち込みを続けていた。

 

据えられた木人に、ただひたすら振り下ろしている。もう何百と繰り返しているのだろう、砂の上の足跡は同じ位置を深く抉っていた。

 

軽戦士の天職は、剣と魔法を組み合わせてこそ本領を発揮する。それを一切使わず、ただ単調に剣だけを振り続けている。

 

腕が震えている。呼吸も乱れている。それでも止まらない。

 

「大介」

 

声をかけると、少年の手が止まった。

 

「……はい」

 

「少し休め。そこまで振っても身につかん」

 

「……もう少しだけ、やらせてください」

 

顔を上げないまま、檜山は言った。

 

「俺が、あの石に触ったから」

 

メルドは口を開きかけて、閉じた。

 

「分かってんすよ。誰のせいでもねぇって、みんなに言われました。白崎にも……そう言ってもらいました」

 

握り直す指が、白くなっている。

 

「でも、それとこれとは別なんで」

 

それきり、少年はまた木人に向き直った。

 

メルドは何も言わずにその場を離れた。

 

止めるべきかもしれない。だが、この痛みを取り上げる権利が自分にあるとは思えなかった。二十階層で罠を見落としたのは、この少年ではなく自分だ。

 

(……それでも、よくやっている)

 

誰も腐っていない。誰も投げ出していない。互いの穴を指摘し合い、埋め合い、また立つ。

 

指導する側として、これ以上を望むのは贅沢というものだ。

 

そのはずだった。

 

視線が、訓練場の隅で止まる。

 

白崎香織が、一人で立っていた。

 

正確には一人ではない。彼女の正面には木人が据えられている。だが周囲の喧騒からは明らかに隔たっていた。

 

指先が空を撫でる。詠唱はごく短い。

 

次の瞬間、木人の足元から淡い光の輪が立ち上がり、四肢を編み込むように締め上げた。

 

――拘束魔法。

 

メルドの眉が、わずかに動く。

 

光の輪は木人を縛り上げたまま、数秒を数えて霧散した。香織は小さく首を傾げ、何かを書き留めるでもなく、ただもう一度同じ動作を繰り返す。

 

二度目の輪は、一度目より明らかに速く、そして細かった。四肢だけでなく、関節の一つ一つを個別に締めている。

 

(……速いな)

 

治癒師の天職に、攻性の適性は含まれない。だが魔法そのものの適性はある。基礎さえ押さえれば、他系統に手を伸ばすことは理屈としては可能だ。

 

可能ではある。

 

だが、独学で一週間だ。

 

三度目。今度は木人の足元だけを狙い、地面ごと縛った。

 

四度目。同じ形を、詠唱なしで。

 

メルドは砂を踏んで、彼女の方へ歩いた。

 

「香織」

 

「あ、メルドさん」

 

振り向いた顔は、いつもの香織だった。柔らかく、丁寧で、少し困ったように笑う、あの顔。

 

汗ひとつかいていない。

 

「……随分と、手広くやっているな」

 

「はい。治癒だけだと、どうしても後手に回ってしまうので」

 

「それは分かる。だが、お前の天職は治癒師だ。無理に他系統を伸ばすより、本領を磨いた方が――」

 

「メルドさん」

 

遮る声は、丁寧なままだった。

 

「わたし、あの時なにもできなかったんです」

 

メルドの言葉が止まる。

 

「ハジメちゃんが落ちていくの、見てただけでした。手を伸ばしたけど、届かなくて。治癒魔法って、傷を治すことしかできないから。まだ傷ついてない人には、何も」

 

穏やかな声だった。取り乱してもいなければ、責めてもいない。ただ事実を並べているだけの声。

 

「ただ見ているだけじゃ、誰も守れないって気づいたんです。だから、止められる力が要るなって」

 

正論だった。

 

あまりにも正しかった。

 

メルドは、その言葉を否定する資格を持たない。二十階層で、彼は自分の慢心が何を招いたかを知っている。見ていただけだった。気づくのが遅れただけだった。それで一人失った。

 

「……そうか」

 

口から出たのは、それだけだった。

 

「はい」

 

香織は微笑んで、また木人へ向き直る。

 

指先が動き、光の輪が立ち上がる。五度目。

 

さっきより、速い。

 

メルドはしばらくその背を見ていた。

 

何かを言うべきだという感覚だけが、腹の底に残っている。だがそれが何なのか、言葉にならない。彼女は正しいことを言い、正しい方向へ努力している。指導者として、止める理由がどこにもない。

 

(……気のせいか)

 

そう思うことにして、メルドは踵を返した。

 

背後で、また光が立ち上がる音がした。

 

 

その音に紛れて、砂を踏む硬い足音が近づいてくる。

 

「――失礼。天之河光輝殿は」

 

訓練場の入口に立っていたのは、白い法衣の男だった。教会の使いだ。腰に剣はなく、代わりに聖印を提げている。

 

壁際で汗を拭っていた光輝が顔を上げ、タオルを肩にかけて歩み寄った。

 

「俺ですが」

 

「教皇猊下がお呼びです。お時間をいただけますかな」

 

訓練場の音が、一段だけ落ちた。

 

誰も手を止めたわけではない。ただ、いくつかの視線がこちらを向いた。

 

「……今からですか」

 

「差し支えなければ」

 

光輝は一瞬、汗を拭う手を止めた。断る理由はない。だが、気持ちのいい呼び出しでもなかった。

 

「分かりました。着替えてすぐ――」

 

「おい光輝」

 

割って入ったのは龍太郎だった。組み合っていた永山に手を上げて離れ、大股で近づいてくる。

 

「俺も行くわ」

 

「いや、龍太郎は訓練を」

 

「んなもんいつでもできんだろ。一人で行かせんのもなんか嫌だしよ」

 

理屈になっていない。だが龍太郎らしい理屈だった。光輝は苦笑して、それ以上止めなかった。

 

「……なら、俺も行く」

 

もう一つ、声が上がる。

 

清水幸利だった。雫との打ち合いを中断し、棒を肩に担いで気だるげに立っている。

 

「清水も?」

 

「気分だ」

 

それだけ言って、清水は歩き出した。すれ違いざま、柱の陰に向かって軽く顎をしゃくる。

 

そこに誰かがいることに、光輝はその時ようやく気づいた。

 

「……え、遠藤? お前、そこにいたのか」

 

「さっきからいるっての!」

 

遠藤浩介が、心底不本意そうな顔で柱の陰から出てきた。

 

「休憩してただけなんだけど。なんで俺まで」

 

「うるせぇ。来い」

 

「理由は!?」

 

清水は答えなかった。遠藤は不満げに口を尖らせたが、結局は肩を落としてついてきた。

 

四人が並んで歩き出すのを、使いの男が訝しげに見た。

 

「……あの、お呼びしたのは勇者殿お一人ですが」

 

「友人同伴じゃ駄目ですか」

 

光輝がそう返すと、男は少し考えてから首を振った。

 

「……いえ。猊下はお気になさらないでしょう」

 

 

歩きながら、清水が声を落とした。

 

「天之河。余計なことは言うな」

 

「……分かってる」

 

即答だった。清水がわずかに片眉を上げる。

 

「分かってるってのは」

 

「用件も言わずに呼びつけるのが、まず引っかかる」

 

光輝は前を見たまま続けた。

 

「それに、南雲さんが落ちてから一週間だ。この一週間、教会は俺たちに何も言ってこなかった。それが急に呼び出してくる」

 

「……ほう」

 

「疑いたくはない。けど、正しそうな話ほど、そのまま飲み込むのは怖いって思うようになった」

 

清水は小さく口の端を歪めた。笑ったようにも、呆れたようにも見える表情だった。

 

「上等だ。じゃあ余計に言うな。こっちが何を知ってるか、向こうに悟らせるな」

 

「……何を知ってるんだ、清水は」

 

「今は言えねぇ」

 

会話が途切れる。

 

その半歩後ろで、遠藤が声を落とした。

 

「……清水。俺も同席でいいんだよな」

 

「当然だろ。お前がいても、向こうは気にも留めねぇ」

 

「言い方ぁ!」

 

軽口のようでいて、二人の視線は既に前方の聖堂へ向いている。

 

遠藤は無意識にポケットへ手を入れた。指先に硬い感触。百円玉が一枚、いつもそこにある。

 

(……頼むから、何も出てきませんように)

 

そう思いながら、同時に確信してもいた。

 

出てくる。この一週間、ずっとそうだった。踏み込むたびに、どうしようもないものが出てくる。

 

 

聖堂の空気は、いつ来ても冷たい。

 

高い天井と、磨き上げられた石の床。訓練場の砂と汗の匂いが、ここでは完全に洗い落とされている。

 

「――よくおいでくださいました、勇者殿」

 

正面の椅子から立ち上がったのは、聖教教会の教皇イシュタル・ランゴバルドだった。白い法衣に、痩せた身体。皺の刻まれた顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。

 

その傍らには、シスターが一人、静かに控えていた。年の頃は分からない。伏し目がちで、背筋が伸びていて、それ以上の印象がない。

 

「こちらこそ、お時間をいただいて」

 

光輝は頭を下げた。

 

背後では龍太郎が居心地悪そうに身じろぎしている。清水は腕を組んだまま黙っていて、遠藤は――どこにいるのか、一瞬分からなかった。二歩下がった柱の陰に、確かに立ってはいるのだが。

 

「あれから七日。皆様のご様子はいかがですかな」

 

イシュタルが手を差し伸べ、席を勧める。

 

「……はい。みんな、よくやっています」

 

「それは何より。若い方々の回復力には、いつも驚かされます」

 

穏やかな声だった。悪意のかけらもない。

 

「さて、本日お呼び立てしたのは他でもありません」

 

イシュタルが指を組んだ。

 

「南雲ハジメ殿の、追悼の儀についてです」

 

光輝の肩が、わずかに強張った。

 

「教会として、正式な儀を執り行いたいと考えております。異世界より招いた方を一人失ったのです。相応の礼を尽くさねばなりません。つきましては、ご学友の皆様のご意向を伺えればと」

 

筋の通った申し出だった。むしろ丁重ですらある。

 

だから光輝は、一瞬だけ迷った。

 

迷って――首を横に振った。

 

「……申し訳ありません。お断りします」

 

イシュタルの眉が、わずかに上がる。

 

「ほう」

 

「白崎が――香織が、まだ諦めていないんです」

 

言いながら、光輝は自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。

 

「彼女は今も、南雲さんが生きてるって信じてます。自分の目で確かめるまでは信じるって言って、それでみんなが立ち直れた。……だから、俺たちも諦めません」

 

「……なるほど」

 

「遺体もないのに、葬式だけ先にやるのは違うと思います。南雲さんに失礼だ」

 

言い切った。

 

言い切ってから、胸の奥がわずかに軽くなるのを感じた。

 

一週間前の自分なら、たぶん頷いていた。大人の決めたことに、正しそうな手順に、そのまま流されていた。もうそれはしない。あの日、そう決めた。

 

イシュタルはしばらく光輝を見つめていた。

 

やがて、老人はゆっくりと息を吐いた。

 

「……お気持ちは、よく分かりますとも」

 

その声には、憐れみに近いものが混じっていた。

 

「若い方が受け入れがたいのは当然のことです。ですが勇者殿。六十五階層の、さらに奈落です。人の理の外にある場所だ」

 

「……」

 

「生還の目は、ありません」

 

分かっている。光輝は歯を食いしばった。

 

分かった上で、それでも。

 

「ですから、どうかご自分を責めないでいただきたい」

 

イシュタルの声が、ふと柔らかくなった。

 

「あなた方は最善を尽くされた。結果として、失われたのは一人だけです。それも――」

 

そこで老人は、慰めるように微笑んだ。

 

「勇者殿ではなく、あの錬成師の娘だった。世界にとっては、不幸中の幸いでございましたな」

 

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 

光輝の思考が、白く止まる。

 

不幸中の、幸い。

 

(……いま、なんて)

 

言葉が、頭の中で像を結ばない。

 

錬成師の娘。あの人のことだ。南雲ハジメのことだ。城壁を直して、王女に敬語も使わずに笑いかけて、誰も見捨てないと言って、最後まで殿に立った、あの。

 

その人が死んだことを、幸いと。

 

(……何を、言ってるんだ? この人は)

 

怒りではなかった。怒りが湧く前に、理解が追いつかなかった。

 

目の前の老人は、悪びれてすらいない。慈悲深い顔のまま、こちらを労わっている。彼にとってこれは、間違いなく慰めの言葉なのだ。

 

光輝は、まるで見たことのない生き物を見るような目で、イシュタルを見ていた。

 

背後で、龍太郎が息を呑む音がした。

 

清水が舌打ちをした。

 

そして。

 

音が、消えた。

 

(――え)

 

視界の端で、何かが流れた。としか、光輝には認識できなかった。

 

気配がない。足音もない。柱の陰にいたはずの男が、いつの間にか三歩の距離を詰め、さらに二歩を消して、教皇の懐に入っている。

 

いつもの動きだった。魔物相手に何十回と見てきた、影のような踏み込み。

 

ただし今、その切っ先の先にいるのは人間だった。

 

「遠藤ッ――!」

 

光輝が叫んだ時にはもう、短剣は喉元に届いていた。

 

――ガキンッ。

 

硬い音が、聖堂の天井に跳ね返った。

 

光輝は息を止めた。

 

遠藤の短剣が、イシュタルの喉の数センチ手前で止まっている。その刃を、横合いから白い柄が押さえていた。

 

槍だった。

 

シスターが、いつの間にか槍を構えている。どこから出したのか、いつ構えたのか、誰も見ていない。体勢すら崩れていない。伏し目がちだった顔が上がり、遠藤を見ている。

 

その目に、何もなかった。

 

怒りも、軽蔑も、驚きもない。作業の途中で手を止めただけの目だった。

 

「……っ」

 

遠藤の喉が鳴る。

 

驚きは、確かにあった。届くはずだった。間違いなく殺せる間合いだった。それが分かるからこそ、腕が一ミリも進まない事実が異常だった。

 

だが、それは一瞬だった。

 

「――もういっぺん、言ってみろよ」

 

刃を押し込んだまま、遠藤が吠えた。

 

「じじぃ! 今の、もういっぺん言ってみろって言ってんだよ!!」

 

槍は微動だにしない。全体重をかけて押しても、白い柄は木の幹のように動かなかった。それでも遠藤は退かなかった。

 

「あいつがなあ……っ」

 

歯の隙間から、声が絞り出される。

 

「あいつが、俺の名前呼んだんだよ」

 

誰も気づかなかった。中学の頃からずっとそうだった。教室で手を挙げても当てられない。集合写真で自分だけ見切れている。コンビニの自動ドアが、立っても開かない。

 

そういうもんだと思っていた。

 

「毎朝だぞ。廊下ですれ違うたびに『よっ、遠藤』って。……そんだけだよ。そんだけなんだけどさ」

 

二百円を握らせてきて、「アンタの分☆」と言って振り返りもせずに歩いていく。自販機は一本百五十円だ。二人分になんて全然足りない。何度言っても直さない。

 

「自動ドアが反応しなかった話、クラス中にバラされたこともある。腹抱えて笑いやがって、清水まで机叩いて大爆笑でよ。……最悪だろ。あんな失礼な奴いねぇよ」

 

だが。

 

「――『あーしが一生忘れるわけないっしょ』って、言ったんだよ。あいつ」

 

手首のブレスレットに彫られた『E』は、他の誰のものより大きい。影が薄くならないようにと、笑いながら彫られた一文字。

 

「あいつが俺を見つけてから、みんなも俺を見るようになった」

 

高校に上がって、あの輪に引きずり込まれてからだ。清水が名前を呼ぶようになり、鈴が話を振るようになり、香織が笑ってくれるようになった。

 

――ただし、その輪の中でだけだ。

 

一歩外に出れば、今でも店員はレジの向こうで自分を通り越して次の客を呼ぶ。それでも構わなかった。帰る場所があったからだ。

 

「……ちゃんと見てたんだよ。誰も見てねぇ俺のこと、あいつだけは」

 

イシュタルは、何も言わない。

 

ただ静かに、老人はその叫びを聞いている。

 

「そんな奴が、死んだのが幸いだと?」

 

刃が軋んだ。

 

「ふざけんなよ……ッ!! あいつは最後まで残ったんだぞ! 俺らを逃がすために、一人で残ったんだよ! あんたが呼びつけたせいで! あんたが勝手に連れてきたせいでだッ!!」

 

声が裏返る。

 

「あいつがいなきゃ、俺は……ッ、俺は、ここにいることすら――」

 

そこで、言葉が切れた。

 

続きが出てこなかったのではない。喉が詰まったのだ。

 

「……取り消せよ」

 

呻くような声だった。

 

「取り消せって言ってんだよ、じじぃ……ッ!」

 

「遠藤!」

 

清水が動く。だが、それより早く遠藤の身体が後ろへ流れた。押し返されたのだ。槍の柄が一度、軽く弾いただけで。

 

硬い音を立てて、遠藤が石床に膝をつく。

 

「――どうか、刃をお下げください」

 

声が、した。

 

全員の視線が、そちらへ向く。

 

シスターだった。槍を下ろした姿勢のまま、まっすぐに遠藤を見ている。

 

「これ以上となりますと、こちらもただでは済まなくなります故」

 

穏やかな声だった。丁寧で、抑揚がなく、責める色もない。窓口で規則を読み上げる職員のような声。

 

だが、その意味だけが、氷のように明確だった。

 

遠藤の背筋を、遅れて悪寒が駆け上がった。

 

(……いま、こいつ)

 

済まなくなる。つまり、次は止めない。次は貫く。

 

そう言っている。

 

それだけのことを、この女は声を一切荒げずに告げた。まるで、天気の話でもするように。

 

「……っ」

 

握った短剣が、かたかたと鳴った。

 

止められないのは分かっていた。届かないのも分かっていた。それでも吠えることはできた。腹の底が熱かったからだ。

 

その熱が、たった一言で急速に冷えていく。

 

シスターは、それ以上何も言わなかった。遠藤が動かないことを確認すると、槍を下ろしたまま元の位置へ戻る。そして再び伏し目がちになり、背筋を伸ばして立った。

 

それだけで、彼女はまた「そこにいるだけの人間」に戻った。

 

(あのバカ……っ)

 

清水が奥歯を噛んだ。

 

促したのは自分だ。情報を取るために連れてきた。それがこの結果だ。

 

止められたはずだった。魔眼を起動すれば、一瞬だけ足を鈍らせることはできた。だが、あの踏み込みは速すぎた。気配を消すのが上手すぎた。味方の自分でさえ、動き出しを捉えられなかった。

 

「な……なんだよ今の……」

 

龍太郎が呆然と呟く。

 

誰も、何も言えなかった。

 

問える空気ではなかった。

 

あれは何だ、と。なぜシスターが槍を持っている、と。喉まで出かかった言葉が、全員の中で凍りついていた。それを口にした瞬間、何かが決定的に変わる。そういう確信だけが、四人の肌にへばりついている。

 

「……おやおや」

 

沈黙を破ったのは、イシュタルだった。

 

老人は、自分の喉に手を当てる素振りすら見せなかった。ただ困ったように眉を下げ、遠藤を見下ろしている。

 

「これは、わたくしの失言でしたな」

 

椅子から立ち上がり、深く頭を下げる。

 

「失礼が過ぎました。お許しください」

 

光輝は、その白い頭頂を見ていた。

 

謝罪だった。形としては完璧な謝罪だった。教皇が、一介の異世界人に向かって頭を下げている。

 

だが。

 

(……何も、取り消してない)

 

失言。言い方が悪かった。それだけだ。

 

失われたのが勇者でなくてよかったという判断そのものは、この人の中で微塵も揺らいでいない。今この瞬間も、正しいと思っている。

 

謝られてしまった。

 

追及する場所が、どこにもなくなった。

 

「……いえ」

 

光輝の口から出たのは、その二文字だけだった。

 

「本日はお疲れでしょう。追悼の儀については、今しばらく預からせていただきます」

 

イシュタルは穏やかに微笑む。

 

「皆様のご意向が定まりましたら、いつでもお申しつけください。教会は、いつでも皆様の味方でございます」

 

 

聖堂を出て、廊下を歩く。

 

四人とも、一言も口をきかなかった。

 

遠藤は俯いたまま、右手を何度も握ったり開いたりしている。清水は前だけを見て歩いている。龍太郎は何か言いかけては、そのたびに言葉を飲み込んでいた。

 

外に出ると、西日が目に刺さった。

 

訓練場の方から、まだ木剣の音が聞こえてくる。

 

光輝は足を止めて、その音を聞いた。

 

みんな、まだやっている。前を向いて、明日のために身体を動かしている。その彼らの頭上で、自分たちを呼びつけた者たちが、仲間の死を「幸い」と呼んでいる。

 

拳を握る。

 

爪が掌に食い込んで、痛みが走った。

 

「……清水」

 

「なんだ」

 

「何か知ってるなら、教えてくれないか」

 

清水の足が止まった。

 

しばらくの沈黙のあと、闇術師の男は小さく息を吐いた。

 

「……今夜、みんなを集めろ」




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