木剣が噛み合う音が、訓練場の朝に響いていた。
「――っ!」
天之河光輝の踏み込みが伸びる。メルド・ロギンスは半歩下がってそれを受け、返す刃で胴を薙いだ。
当たらない。既に光輝の身体は間合いの外にある。
(……速い)
三十年、剣を握ってきた。受けの精度には自信がある。だが、この一週間で何度も同じことを思わされていた。
打ち合いが続く。
七合、八合。光輝は無駄に踏み込まない。誘い、引き、また踏み込む。以前のような力任せの振りがどこにもない。
(……型が変わったな)
それが最初の違和感だった。
この少年の剣は、元々もっと大振りだった。ステータスに任せて振り回し、それで通用してしまうから直せずにいた。今は違う。腰が沈み、動線が直線になり、剣先が一切ぶれない。
自分の知っている剣術ではない。
(――なら、崩し方も変わる)
メルドは意図的に間合いを詰めた。相手の理合いを外し、こちらの土俵に引きずり込む。並の相手なら、ここで崩れる。
崩れなかった。
光輝は下がらず、逆に踏み込んできた。真正面から、最短距離で。
「――っ、そこか!」
受けた。確かに受けたはずだった。軌道も見えていた。
――ガッ。
手首を、衝撃が抜けた。
木剣が弾き飛ばされ、乾いた音を立てて砂の上を転がっていく。それを、メルドは一拍遅れて目で追った。
「……っと、すみません! 大丈夫ですかメルドさん!」
光輝が慌てて木剣を下ろし、駆け寄ってくる。
「……いや」
手首がじんと痺れている。
「……気にするな。今のは俺の負けだ」
「いえ、メルドさんが合わせてくれてるから――」
「合わせてなどおらん」
光輝の言葉を、メルドは遮った。
「本気だったよ。三合目からは、な」
少年が言葉を失う。
メルドは砂の上の木剣を拾い上げ、握り直した。掌にまだ痺れが残っている。
(……とうとう、追い抜かれたか)
驚きはなかった。いつかこうなることは分かっていた。天之河光輝の初期ステータスは、この国の精鋭騎士を軒並み上回っていた。足りなかったのは技術だけだ。
だが。
「――光輝。ひとつ聞いていいか」
「はい」
「その剣、どこで覚えた」
光輝の肩が、わずかに動いた。
「俺の知っている剣術じゃない。構えが低い、踏み込みが直線、腰から下が地面に張り付いている。……この一週間で、まるきり別物になったな」
しばらく、光輝は黙っていた。
やがて、少し照れたように頭を掻く。
「……分かりますか」
「三十年振ってきたからな」
「剣道です。日本で……向こうの世界で、俺がずっとやってきた競技で」
木剣を両手で握り直し、光輝は構えてみせた。
先程までの構えだ。深く沈んだ腰、竹刀を持つような手の位置。西洋剣術のそれとは、確かに骨格からして違う。
「ここに来てから、ずっと聖剣を振ってました。勇者の剣だからって。技能もあるし、そっちの方が強いはずだって」
「……」
「でも、それって俺が積み上げたものじゃないんですよね」
光輝が、そっと構えを解いた。
「ずっと自分を見つめ直してきたつもりでした。何が正しいのか、どうするべきなのか。……でも結局、答えは全部どこかから借りてきたものだった。じいちゃんの言葉とか、勇者っていう肩書きとか」
砂を、爪先で軽く撫でる。
「だから、一度初心に返ろうと思ったんです。俺が自分の意思で選んで、何年もやってきたもの。……それが、これしかなかったので」
メルドは、その横顔をしばらく見ていた。
(……そうか)
七日だ。たった七日で、この少年はそこまで自分を分解したのか。
「――いい判断だ」
「え」
「借り物の剣は、いざという時に手から滑る。自分で選んだ剣は滑らん。……理屈ではなく、そういうものだ」
光輝が、ぱっと顔を上げた。その表情に、久しぶりに年相応の色が戻る。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。次は勝つ」
「望むところです」
「生意気を言うな。……もう一本と言いたいところだが、断る」
「え、なんでですか」
「年寄りを労われ。腕がもげる」
メルドが肩をすくめてみせると、光輝は毒気を抜かれたように笑った。
その笑い方が、一週間前より少しだけ大人びて見えた。
「……分かりました。ありがとうございました」
一礼して、光輝が壁際へ向かう。その背中を見送りながら、メルドは息を吐いた。
(……守ってやれる、などと思い上がっていたのは俺か)
汗を拭い、訓練場を見渡す。
音が、絶えない。
「――っしゃ、来い永山!」
「……行くぞ」
坂上龍太郎と永山重吾が、砂を蹴って組み合った。拳士と重格闘家。体格も膂力も、この学年で群を抜く二人だ。噛み合った瞬間に砂が爆ぜ、押し合いのまま数歩がずれる。
「腰が高ぇぞ坂上」
「わーってるっ……くそ、もう一本!」
その向こうでは谷口鈴が結界を張っては解き、張っては解きを繰り返していた。展開速度を削るための反復だ。傍らで中村恵理が指を折りながら秒を読んでいる。
「今の、速くなってる。前より半拍」
「ほんと!? よし、もっかい!」
さらに奥では野村健太郎が地面に手をつき、土壁を何度も隆起させていた。高さ、厚み、速さ。形を変えながら延々と繰り返している。
視線を移せば、八重樫雫が清水幸利と向かい合っていた。
木剣と、短めの棒。清水の構えはぎこちない。踏み込みの度に上体が浮き、雫に軽くいなされて体勢を崩す。
「腕だけで振らないで。腰から」
「……分かってる」
「分かってて出来てないのよ。もう一本」
三合で崩され、清水が舌打ちをする。それでもすぐに構え直した。
(……幸利が、近接をな)
意外だった。あの男の本領は魔眼だ。無詠唱で闇魔法を撃てる術者が、わざわざ剣の間合いに入る必要はない。
だが、理由は察しがつく。魔眼は高威力を出せば代償に視力を持っていかれる。撃てば撃つほど、自分の目が潰れていく。あの日、暗闇でそれを使い続けた男が、何を思ったか。
「……足りねぇんだよ、あれだけじゃ」
雫に打ち込まれながら、清水が誰にともなく呟いた。
その少し離れた場所で、園部優花が魔法の軌道を目で追っていた。
「……今の、また逸れた」
呟いて、指先を構え直す。だが、集中が戻らない。
以前なら、こういう時はさっさと切り上げていた。上手くいかない自分を人前に晒すのが嫌だったからだ。誰かに教えを乞うのも、下手なところを見られるのも。
ずっと、比べられるのが怖かった。
金髪を揺らして笑う、あの子と。
誰とでも喋って、誰にでも好かれて、王女様にまで敬語を使わずに笑いかけて。同じような格好をしているのに、中身がまるで違った。自分は劣化版だと思っていた。だから距離を取った。声をかけられても逸らした。
――それを、最後まで謝れなかった。
「……っ」
指先が震えて、また魔法が逸れる。
歯を食いしばって構え直したところで、視線がふと訓練場の中央へ流れた。
八重樫雫に打ち込まれて、清水がよろめいている。三合ももたない。誰の目にも不格好だった。
それでも構え直す。何度も。
(……なんで、あんな顔で)
思い出すのは六十五階層だ。足が竦んで動けなくなった自分の腕を、あの男が乱暴に引っ張り上げた。
『おい、ぼさっとすんな! 死にてぇのか、しっかり立て園部!』
あの時の声が、まだ耳に残っている。
誰かに引っ張り上げてもらわなければ、自分は立てなかった。それが情けなくて、悔しくて、でも――
優花は乱暴に頭を振って、正面へ向き直った。
もう逃げない。上手くできない自分を見られたって構わない。あの子に謝る機会はもう永遠に来ないけれど、だからこそ、あの子が最後に守ったものを無駄にはしない。
指先に、魔力を集める。
「――次、当てる」
そして訓練場の端では、畑山愛子が息を切らしながら杖にすがっていた。
「せ、先生……無理しないでください……」
「だ、大丈夫です……! まだ、いけます……っ」
作農師の天職に、戦闘能力はほとんどない。それでも彼女は毎日ここに立っている。生徒たちの魔力回復を少しでも助けようと、慣れない補助魔法を必死に覚えようとしていた。
汗だくで、足元もふらついている。それでも、生徒に背を向けようとはしない。
(……全員か)
メルドは小さく息を吐いた。
一週間前、あの報告を持ち帰った日の沈黙が嘘のようだった。
あの日、この子供たちは全員が壊れた。泣き喚く者、蹲る者、誰とも口をきかなくなった者。無理もない。目の前で仲間を失ったのだ。しかも、自分たちを逃がすために殿を務めた者を。
それが七日で、ここまで戻った。いや、戻ったのではない。
以前より、明らかに前へ出ている。
(……一番案じていたのは、あれだったがな)
視線が、雫を捉える。
清水を相手に、淡々と型を直させている横顔。そこに迷いはない。
あの日、八重樫雫は誰よりも自分を責めていた。大雨の中庭で、刀を抱えたまま声を上げて泣いていた姿を覚えている。
それが今は、誰よりも早く前を向いている。
少し離れた場所では、檜山大介が一人で打ち込みを続けていた。
据えられた木人に、ただひたすら振り下ろしている。もう何百と繰り返しているのだろう、砂の上の足跡は同じ位置を深く抉っていた。
軽戦士の天職は、剣と魔法を組み合わせてこそ本領を発揮する。それを一切使わず、ただ単調に剣だけを振り続けている。
腕が震えている。呼吸も乱れている。それでも止まらない。
「大介」
声をかけると、少年の手が止まった。
「……はい」
「少し休め。そこまで振っても身につかん」
「……もう少しだけ、やらせてください」
顔を上げないまま、檜山は言った。
「俺が、あの石に触ったから」
メルドは口を開きかけて、閉じた。
「分かってんすよ。誰のせいでもねぇって、みんなに言われました。白崎にも……そう言ってもらいました」
握り直す指が、白くなっている。
「でも、それとこれとは別なんで」
それきり、少年はまた木人に向き直った。
メルドは何も言わずにその場を離れた。
止めるべきかもしれない。だが、この痛みを取り上げる権利が自分にあるとは思えなかった。二十階層で罠を見落としたのは、この少年ではなく自分だ。
(……それでも、よくやっている)
誰も腐っていない。誰も投げ出していない。互いの穴を指摘し合い、埋め合い、また立つ。
指導する側として、これ以上を望むのは贅沢というものだ。
そのはずだった。
視線が、訓練場の隅で止まる。
白崎香織が、一人で立っていた。
正確には一人ではない。彼女の正面には木人が据えられている。だが周囲の喧騒からは明らかに隔たっていた。
指先が空を撫でる。詠唱はごく短い。
次の瞬間、木人の足元から淡い光の輪が立ち上がり、四肢を編み込むように締め上げた。
――拘束魔法。
メルドの眉が、わずかに動く。
光の輪は木人を縛り上げたまま、数秒を数えて霧散した。香織は小さく首を傾げ、何かを書き留めるでもなく、ただもう一度同じ動作を繰り返す。
二度目の輪は、一度目より明らかに速く、そして細かった。四肢だけでなく、関節の一つ一つを個別に締めている。
(……速いな)
治癒師の天職に、攻性の適性は含まれない。だが魔法そのものの適性はある。基礎さえ押さえれば、他系統に手を伸ばすことは理屈としては可能だ。
可能ではある。
だが、独学で一週間だ。
三度目。今度は木人の足元だけを狙い、地面ごと縛った。
四度目。同じ形を、詠唱なしで。
メルドは砂を踏んで、彼女の方へ歩いた。
「香織」
「あ、メルドさん」
振り向いた顔は、いつもの香織だった。柔らかく、丁寧で、少し困ったように笑う、あの顔。
汗ひとつかいていない。
「……随分と、手広くやっているな」
「はい。治癒だけだと、どうしても後手に回ってしまうので」
「それは分かる。だが、お前の天職は治癒師だ。無理に他系統を伸ばすより、本領を磨いた方が――」
「メルドさん」
遮る声は、丁寧なままだった。
「わたし、あの時なにもできなかったんです」
メルドの言葉が止まる。
「ハジメちゃんが落ちていくの、見てただけでした。手を伸ばしたけど、届かなくて。治癒魔法って、傷を治すことしかできないから。まだ傷ついてない人には、何も」
穏やかな声だった。取り乱してもいなければ、責めてもいない。ただ事実を並べているだけの声。
「ただ見ているだけじゃ、誰も守れないって気づいたんです。だから、止められる力が要るなって」
正論だった。
あまりにも正しかった。
メルドは、その言葉を否定する資格を持たない。二十階層で、彼は自分の慢心が何を招いたかを知っている。見ていただけだった。気づくのが遅れただけだった。それで一人失った。
「……そうか」
口から出たのは、それだけだった。
「はい」
香織は微笑んで、また木人へ向き直る。
指先が動き、光の輪が立ち上がる。五度目。
さっきより、速い。
メルドはしばらくその背を見ていた。
何かを言うべきだという感覚だけが、腹の底に残っている。だがそれが何なのか、言葉にならない。彼女は正しいことを言い、正しい方向へ努力している。指導者として、止める理由がどこにもない。
(……気のせいか)
そう思うことにして、メルドは踵を返した。
背後で、また光が立ち上がる音がした。
◇
その音に紛れて、砂を踏む硬い足音が近づいてくる。
「――失礼。天之河光輝殿は」
訓練場の入口に立っていたのは、白い法衣の男だった。教会の使いだ。腰に剣はなく、代わりに聖印を提げている。
壁際で汗を拭っていた光輝が顔を上げ、タオルを肩にかけて歩み寄った。
「俺ですが」
「教皇猊下がお呼びです。お時間をいただけますかな」
訓練場の音が、一段だけ落ちた。
誰も手を止めたわけではない。ただ、いくつかの視線がこちらを向いた。
「……今からですか」
「差し支えなければ」
光輝は一瞬、汗を拭う手を止めた。断る理由はない。だが、気持ちのいい呼び出しでもなかった。
「分かりました。着替えてすぐ――」
「おい光輝」
割って入ったのは龍太郎だった。組み合っていた永山に手を上げて離れ、大股で近づいてくる。
「俺も行くわ」
「いや、龍太郎は訓練を」
「んなもんいつでもできんだろ。一人で行かせんのもなんか嫌だしよ」
理屈になっていない。だが龍太郎らしい理屈だった。光輝は苦笑して、それ以上止めなかった。
「……なら、俺も行く」
もう一つ、声が上がる。
清水幸利だった。雫との打ち合いを中断し、棒を肩に担いで気だるげに立っている。
「清水も?」
「気分だ」
それだけ言って、清水は歩き出した。すれ違いざま、柱の陰に向かって軽く顎をしゃくる。
そこに誰かがいることに、光輝はその時ようやく気づいた。
「……え、遠藤? お前、そこにいたのか」
「さっきからいるっての!」
遠藤浩介が、心底不本意そうな顔で柱の陰から出てきた。
「休憩してただけなんだけど。なんで俺まで」
「うるせぇ。来い」
「理由は!?」
清水は答えなかった。遠藤は不満げに口を尖らせたが、結局は肩を落としてついてきた。
四人が並んで歩き出すのを、使いの男が訝しげに見た。
「……あの、お呼びしたのは勇者殿お一人ですが」
「友人同伴じゃ駄目ですか」
光輝がそう返すと、男は少し考えてから首を振った。
「……いえ。猊下はお気になさらないでしょう」
◇
歩きながら、清水が声を落とした。
「天之河。余計なことは言うな」
「……分かってる」
即答だった。清水がわずかに片眉を上げる。
「分かってるってのは」
「用件も言わずに呼びつけるのが、まず引っかかる」
光輝は前を見たまま続けた。
「それに、南雲さんが落ちてから一週間だ。この一週間、教会は俺たちに何も言ってこなかった。それが急に呼び出してくる」
「……ほう」
「疑いたくはない。けど、正しそうな話ほど、そのまま飲み込むのは怖いって思うようになった」
清水は小さく口の端を歪めた。笑ったようにも、呆れたようにも見える表情だった。
「上等だ。じゃあ余計に言うな。こっちが何を知ってるか、向こうに悟らせるな」
「……何を知ってるんだ、清水は」
「今は言えねぇ」
会話が途切れる。
その半歩後ろで、遠藤が声を落とした。
「……清水。俺も同席でいいんだよな」
「当然だろ。お前がいても、向こうは気にも留めねぇ」
「言い方ぁ!」
軽口のようでいて、二人の視線は既に前方の聖堂へ向いている。
遠藤は無意識にポケットへ手を入れた。指先に硬い感触。百円玉が一枚、いつもそこにある。
(……頼むから、何も出てきませんように)
そう思いながら、同時に確信してもいた。
出てくる。この一週間、ずっとそうだった。踏み込むたびに、どうしようもないものが出てくる。
◇
聖堂の空気は、いつ来ても冷たい。
高い天井と、磨き上げられた石の床。訓練場の砂と汗の匂いが、ここでは完全に洗い落とされている。
「――よくおいでくださいました、勇者殿」
正面の椅子から立ち上がったのは、聖教教会の教皇イシュタル・ランゴバルドだった。白い法衣に、痩せた身体。皺の刻まれた顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。
その傍らには、シスターが一人、静かに控えていた。年の頃は分からない。伏し目がちで、背筋が伸びていて、それ以上の印象がない。
「こちらこそ、お時間をいただいて」
光輝は頭を下げた。
背後では龍太郎が居心地悪そうに身じろぎしている。清水は腕を組んだまま黙っていて、遠藤は――どこにいるのか、一瞬分からなかった。二歩下がった柱の陰に、確かに立ってはいるのだが。
「あれから七日。皆様のご様子はいかがですかな」
イシュタルが手を差し伸べ、席を勧める。
「……はい。みんな、よくやっています」
「それは何より。若い方々の回復力には、いつも驚かされます」
穏やかな声だった。悪意のかけらもない。
「さて、本日お呼び立てしたのは他でもありません」
イシュタルが指を組んだ。
「南雲ハジメ殿の、追悼の儀についてです」
光輝の肩が、わずかに強張った。
「教会として、正式な儀を執り行いたいと考えております。異世界より招いた方を一人失ったのです。相応の礼を尽くさねばなりません。つきましては、ご学友の皆様のご意向を伺えればと」
筋の通った申し出だった。むしろ丁重ですらある。
だから光輝は、一瞬だけ迷った。
迷って――首を横に振った。
「……申し訳ありません。お断りします」
イシュタルの眉が、わずかに上がる。
「ほう」
「白崎が――香織が、まだ諦めていないんです」
言いながら、光輝は自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
「彼女は今も、南雲さんが生きてるって信じてます。自分の目で確かめるまでは信じるって言って、それでみんなが立ち直れた。……だから、俺たちも諦めません」
「……なるほど」
「遺体もないのに、葬式だけ先にやるのは違うと思います。南雲さんに失礼だ」
言い切った。
言い切ってから、胸の奥がわずかに軽くなるのを感じた。
一週間前の自分なら、たぶん頷いていた。大人の決めたことに、正しそうな手順に、そのまま流されていた。もうそれはしない。あの日、そう決めた。
イシュタルはしばらく光輝を見つめていた。
やがて、老人はゆっくりと息を吐いた。
「……お気持ちは、よく分かりますとも」
その声には、憐れみに近いものが混じっていた。
「若い方が受け入れがたいのは当然のことです。ですが勇者殿。六十五階層の、さらに奈落です。人の理の外にある場所だ」
「……」
「生還の目は、ありません」
分かっている。光輝は歯を食いしばった。
分かった上で、それでも。
「ですから、どうかご自分を責めないでいただきたい」
イシュタルの声が、ふと柔らかくなった。
「あなた方は最善を尽くされた。結果として、失われたのは一人だけです。それも――」
そこで老人は、慰めるように微笑んだ。
「勇者殿ではなく、あの錬成師の娘だった。世界にとっては、不幸中の幸いでございましたな」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
光輝の思考が、白く止まる。
不幸中の、幸い。
(……いま、なんて)
言葉が、頭の中で像を結ばない。
錬成師の娘。あの人のことだ。南雲ハジメのことだ。城壁を直して、王女に敬語も使わずに笑いかけて、誰も見捨てないと言って、最後まで殿に立った、あの。
その人が死んだことを、幸いと。
(……何を、言ってるんだ? この人は)
怒りではなかった。怒りが湧く前に、理解が追いつかなかった。
目の前の老人は、悪びれてすらいない。慈悲深い顔のまま、こちらを労わっている。彼にとってこれは、間違いなく慰めの言葉なのだ。
光輝は、まるで見たことのない生き物を見るような目で、イシュタルを見ていた。
背後で、龍太郎が息を呑む音がした。
清水が舌打ちをした。
そして。
音が、消えた。
(――え)
視界の端で、何かが流れた。としか、光輝には認識できなかった。
気配がない。足音もない。柱の陰にいたはずの男が、いつの間にか三歩の距離を詰め、さらに二歩を消して、教皇の懐に入っている。
いつもの動きだった。魔物相手に何十回と見てきた、影のような踏み込み。
ただし今、その切っ先の先にいるのは人間だった。
「遠藤ッ――!」
光輝が叫んだ時にはもう、短剣は喉元に届いていた。
――ガキンッ。
硬い音が、聖堂の天井に跳ね返った。
光輝は息を止めた。
遠藤の短剣が、イシュタルの喉の数センチ手前で止まっている。その刃を、横合いから白い柄が押さえていた。
槍だった。
シスターが、いつの間にか槍を構えている。どこから出したのか、いつ構えたのか、誰も見ていない。体勢すら崩れていない。伏し目がちだった顔が上がり、遠藤を見ている。
その目に、何もなかった。
怒りも、軽蔑も、驚きもない。作業の途中で手を止めただけの目だった。
「……っ」
遠藤の喉が鳴る。
驚きは、確かにあった。届くはずだった。間違いなく殺せる間合いだった。それが分かるからこそ、腕が一ミリも進まない事実が異常だった。
だが、それは一瞬だった。
「――もういっぺん、言ってみろよ」
刃を押し込んだまま、遠藤が吠えた。
「じじぃ! 今の、もういっぺん言ってみろって言ってんだよ!!」
槍は微動だにしない。全体重をかけて押しても、白い柄は木の幹のように動かなかった。それでも遠藤は退かなかった。
「あいつがなあ……っ」
歯の隙間から、声が絞り出される。
「あいつが、俺の名前呼んだんだよ」
誰も気づかなかった。中学の頃からずっとそうだった。教室で手を挙げても当てられない。集合写真で自分だけ見切れている。コンビニの自動ドアが、立っても開かない。
そういうもんだと思っていた。
「毎朝だぞ。廊下ですれ違うたびに『よっ、遠藤』って。……そんだけだよ。そんだけなんだけどさ」
二百円を握らせてきて、「アンタの分☆」と言って振り返りもせずに歩いていく。自販機は一本百五十円だ。二人分になんて全然足りない。何度言っても直さない。
「自動ドアが反応しなかった話、クラス中にバラされたこともある。腹抱えて笑いやがって、清水まで机叩いて大爆笑でよ。……最悪だろ。あんな失礼な奴いねぇよ」
だが。
「――『あーしが一生忘れるわけないっしょ』って、言ったんだよ。あいつ」
手首のブレスレットに彫られた『E』は、他の誰のものより大きい。影が薄くならないようにと、笑いながら彫られた一文字。
「あいつが俺を見つけてから、みんなも俺を見るようになった」
高校に上がって、あの輪に引きずり込まれてからだ。清水が名前を呼ぶようになり、鈴が話を振るようになり、香織が笑ってくれるようになった。
――ただし、その輪の中でだけだ。
一歩外に出れば、今でも店員はレジの向こうで自分を通り越して次の客を呼ぶ。それでも構わなかった。帰る場所があったからだ。
「……ちゃんと見てたんだよ。誰も見てねぇ俺のこと、あいつだけは」
イシュタルは、何も言わない。
ただ静かに、老人はその叫びを聞いている。
「そんな奴が、死んだのが幸いだと?」
刃が軋んだ。
「ふざけんなよ……ッ!! あいつは最後まで残ったんだぞ! 俺らを逃がすために、一人で残ったんだよ! あんたが呼びつけたせいで! あんたが勝手に連れてきたせいでだッ!!」
声が裏返る。
「あいつがいなきゃ、俺は……ッ、俺は、ここにいることすら――」
そこで、言葉が切れた。
続きが出てこなかったのではない。喉が詰まったのだ。
「……取り消せよ」
呻くような声だった。
「取り消せって言ってんだよ、じじぃ……ッ!」
「遠藤!」
清水が動く。だが、それより早く遠藤の身体が後ろへ流れた。押し返されたのだ。槍の柄が一度、軽く弾いただけで。
硬い音を立てて、遠藤が石床に膝をつく。
「――どうか、刃をお下げください」
声が、した。
全員の視線が、そちらへ向く。
シスターだった。槍を下ろした姿勢のまま、まっすぐに遠藤を見ている。
「これ以上となりますと、こちらもただでは済まなくなります故」
穏やかな声だった。丁寧で、抑揚がなく、責める色もない。窓口で規則を読み上げる職員のような声。
だが、その意味だけが、氷のように明確だった。
遠藤の背筋を、遅れて悪寒が駆け上がった。
(……いま、こいつ)
済まなくなる。つまり、次は止めない。次は貫く。
そう言っている。
それだけのことを、この女は声を一切荒げずに告げた。まるで、天気の話でもするように。
「……っ」
握った短剣が、かたかたと鳴った。
止められないのは分かっていた。届かないのも分かっていた。それでも吠えることはできた。腹の底が熱かったからだ。
その熱が、たった一言で急速に冷えていく。
シスターは、それ以上何も言わなかった。遠藤が動かないことを確認すると、槍を下ろしたまま元の位置へ戻る。そして再び伏し目がちになり、背筋を伸ばして立った。
それだけで、彼女はまた「そこにいるだけの人間」に戻った。
(あのバカ……っ)
清水が奥歯を噛んだ。
促したのは自分だ。情報を取るために連れてきた。それがこの結果だ。
止められたはずだった。魔眼を起動すれば、一瞬だけ足を鈍らせることはできた。だが、あの踏み込みは速すぎた。気配を消すのが上手すぎた。味方の自分でさえ、動き出しを捉えられなかった。
「な……なんだよ今の……」
龍太郎が呆然と呟く。
誰も、何も言えなかった。
問える空気ではなかった。
あれは何だ、と。なぜシスターが槍を持っている、と。喉まで出かかった言葉が、全員の中で凍りついていた。それを口にした瞬間、何かが決定的に変わる。そういう確信だけが、四人の肌にへばりついている。
「……おやおや」
沈黙を破ったのは、イシュタルだった。
老人は、自分の喉に手を当てる素振りすら見せなかった。ただ困ったように眉を下げ、遠藤を見下ろしている。
「これは、わたくしの失言でしたな」
椅子から立ち上がり、深く頭を下げる。
「失礼が過ぎました。お許しください」
光輝は、その白い頭頂を見ていた。
謝罪だった。形としては完璧な謝罪だった。教皇が、一介の異世界人に向かって頭を下げている。
だが。
(……何も、取り消してない)
失言。言い方が悪かった。それだけだ。
失われたのが勇者でなくてよかったという判断そのものは、この人の中で微塵も揺らいでいない。今この瞬間も、正しいと思っている。
謝られてしまった。
追及する場所が、どこにもなくなった。
「……いえ」
光輝の口から出たのは、その二文字だけだった。
「本日はお疲れでしょう。追悼の儀については、今しばらく預からせていただきます」
イシュタルは穏やかに微笑む。
「皆様のご意向が定まりましたら、いつでもお申しつけください。教会は、いつでも皆様の味方でございます」
◇
聖堂を出て、廊下を歩く。
四人とも、一言も口をきかなかった。
遠藤は俯いたまま、右手を何度も握ったり開いたりしている。清水は前だけを見て歩いている。龍太郎は何か言いかけては、そのたびに言葉を飲み込んでいた。
外に出ると、西日が目に刺さった。
訓練場の方から、まだ木剣の音が聞こえてくる。
光輝は足を止めて、その音を聞いた。
みんな、まだやっている。前を向いて、明日のために身体を動かしている。その彼らの頭上で、自分たちを呼びつけた者たちが、仲間の死を「幸い」と呼んでいる。
拳を握る。
爪が掌に食い込んで、痛みが走った。
「……清水」
「なんだ」
「何か知ってるなら、教えてくれないか」
清水の足が止まった。
しばらくの沈黙のあと、闇術師の男は小さく息を吐いた。
「……今夜、みんなを集めろ」
色々感想ありがとうございます。