王宮の応接スペースは、夜になると使う者がいない。
昼間は来客の控え室として機能する部屋だが、日が落ちれば燭台の火も落とされ、ただ広いだけの空間になる。分厚い扉が一つ、窓が二つ。出入り口が少ないのが、清水幸利には都合が良かった。
「――こんなもんか」
扉の内側に手をかざし、清水は短く詠唱を紡いだ。
掌から滲み出た闇が、薄い膜のように扉と壁を撫でていく。〈惑心〉を薄く引き延ばした、即席の人払いだ。通路を通りかかった者に「ここへ用などなかった」と思わせる程度の、ごく弱い干渉。
「こっちも終わったぞ」
戻ってきた遠藤が、親指で背後を指した。
「見回りの巡回路、確認してきた。この時間、この廊下は誰も通らねぇ。次の交代まで一刻はある」
「よく調べたな」
「二ヶ月ずっと訓練してるんだぞ俺は」
「へいへい。……で、あとは音だな。ここ、声が響く」
清水が天井を見上げる。石造りの高い天井は、確かに音をよく返した。
「あ、それならこっちで押さえとくよ」
軽い声が上がったのは、部屋の中央だった。
谷口鈴が指を組み、短く息を吐く。淡い光が床から立ち上がり、ドーム状に広がって天井付近で閉じた。壁に触れる直前で光が消え、空気だけがわずかに重くなる。
清水は試しに指を鳴らしてみた。
音が、伸びない。鳴った瞬間に吸い込まれて消える。
「……お前、そんなのも出来たのか」
「結界師だもん。張るものが硬いだけだと思われるの、ちょっと心外なんだけど」
鈴は胸を張ってみせたが、すぐに眉を下げた。
「……こういう使い方することになるとは思わなかったけどね」
清水は答えなかった。
部屋の中には、既に全員が集まっている。
天之河光輝、白崎香織、八重樫雫、坂上龍太郎。中村恵理、園部優花、永山重吾、野村健太郎、檜山大介。他のクラスメイトたちも、椅子や床に思い思いに腰を下ろしていた。
そして部屋の隅には、畑山愛子が不安げに両手を握りしめて立っている。
「あの、清水君……。こんな夜遅くに、みんなを集めて一体何を……」
「先生にも聞いてもらいたい話です」
清水は部屋の中央まで歩き、全員を見回した。
二十数人分の視線が、一斉に自分へ向く。
かつてなら、この状況だけで胃が痛くなっていた。中学時代、教室の隅で息を潜めて携帯ゲーム機を弄っていた頃の自分なら、こんな場所に立つことすら考えられなかった。
(……変わったもんだな)
胸の内で自嘲して、清水は口を開いた。
「単刀直入に言う。俺と遠藤は、召喚されてからずっと、教会を調べてた」
空気が、わずかに動いた。
「……調べてた?」
光輝が眉を寄せる。
「ああ。で、結論から言うぞ」
清水は一拍置いて、はっきりと言った。
「あいつら、俺たちに嘘をついてる」
ざわり、と空気が揺れた。
「嘘って……どういうことだよ、清水」
龍太郎が身を乗り出す。清水は片手を上げてそれを制し、指を一本立てた。
「まず一つ目。帰る方法の話だ」
全員の顔が、わずかに引き締まる。
「教皇のジジイは何て言った? 『魔人族を退け、トータス全土の理を安定させなければ、門を開くことすら叶わない』。そう言ったよな」
「……ああ」
「で、俺たちはそれを真面目に信じて、召喚魔法の文献を漁ってた。だがな、ある時ふと思ったんだ。――そもそもあれ、あのジジイが言ってただけじゃねぇか、って」
光輝が息を呑む音がした。
「考えてもみろ。異世界から二十人以上を丸ごと引っ張ってくる術がある。それだけの力がありながら、送り返すのは不可能だと? 理屈が通らねぇ」
「でも、莫大な魔力と時間が必要だって……」
鈴がおずおずと口を挟むと、清水は肩をすくめた。
「なら、その莫大な魔力とやらを集める算段を教会が動かしてるか? 二ヶ月、そんな話は一度も出てねぇ。俺たちに迷宮を潜らせるだけだ」
沈黙。
誰も、反論の材料を持っていなかった。
「二つ目。魔人族だ」
清水は指を二本に増やす。
「王立図書館の歴史書、基礎文献、地誌。ひととおり漁った。だが、魔人族に関するまともな記述がほとんど載ってねぇ」
「……え? 敵なんだよね?」
優花が怪訝そうに眉を寄せた。
「そうだ。俺たちが戦えって言われてる相手だ。なのに生態も分からない、拠点の位置も書いてない、人口も戦力も不明。書いてあるのは『邪悪な種族である』みたいな抽象的な文言ばっかりだ」
「そんな……敵の情報がないなんて」
雫が眉根を寄せる。剣士としての実感がある分、それがどれほど異常か分かったのだろう。
「戦争するってのに相手の情報が無ぇなんてことがあるかよ。あるとすれば――」
清水は一度言葉を切った。
「――意図的に、消されてる場合だけだ」
香織が、静かに顔を上げた。
その表情は変わっていない。いつもの穏やかな顔のまま、ただ瞳の温度だけが下がっている。
「三つ目。主神エヒト様の神託とやらだ」
指が三本になる。
「こっちは逆に、やたら詳しく書いてある。都合のいい美談がずらっとな。神がいかに慈悲深いか、人間族がいかに神に愛されてるか。……綺麗に整頓されすぎてんだよ」
「整頓されすぎ、って」
「おい遠藤。俺たち中学からラノベだのなろう小説だの、浴びるほど読んできたよな」
「まあな」
「この手の『ご都合主義で綺麗にまとまった世界観』ってのは、だいたい後から設定を突っ込まれないように都合の悪い情報を最初からカットしてんだ。……この世界の歴史書、まんまそれなんだよ」
「……えっと、それって根拠になるの……?」
鈴が困惑した顔で呟く。
「ならねぇよ。オタクの勘だ」
清水はあっさり認めた。
「だが、勘ってのは案外馬鹿にできねぇ。……で、四つ目だ」
指が四本に伸びる。
部屋の空気が、また一段重くなった。
「『反逆者』。教会の教えじゃ、神に歯向かった大罪人ってことになってる連中がいる」
「……ああ、聖典に出てくるな」
光輝が頷いた。
「そいつらの足跡が、歴史から綺麗に消されてる」
「消されてる?」
「ああ。歴史の流れを追っていくと、あちこちにピースの欠けた穴があるんだ。そこに何かがあったはずなのに、記述だけが抜き取られてる。……不自然なんてもんじゃねぇ。露骨だ」
清水はそこで、遠藤に視線を送った。
「遠藤」
「おう」
遠藤が懐から古びた羊皮紙の束を取り出し、部屋の中央のテーブルに広げた。
全員が、自然と身を寄せる。
「……何、これ」
雫が呟いた。
羊皮紙は経年劣化で激しく擦り切れ、さらに残った文字の上から、濃いインクで執拗に塗り潰された跡があった。まるで誰かが、書かれた内容を消そうと何度も何度も筆を重ねたように。
「教会の立ち入り禁止エリアの奥から、俺が持ち出した」
「持ち出したって……盗んだの!?」
優花が声を上げると、遠藤は肩をすくめた。
「バレてねぇから問題ない」
「問題しかないでしょ!?」
「読める部分を繋ぎ合わせると、こうなる」
清水が羊皮紙の上を指でなぞりながら、読み上げた。
「――『神に逆らいし者……大いなる反逆者たちは……理を外れた試練の場たる……大迷宮を……築き上げた』」
しん、と部屋が静まり返った。
最初に口を開いたのは、光輝だった。
「……大迷宮を、築いた?」
「そうだ」
「待ってくれ。俺たちが潜ってたオルクス大迷宮は、天然の……」
「そう教わったな。だが、この文献はそう言ってねぇ」
光輝の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
「まだ続きがある」
清水は羊皮紙をめくった。
二枚目は、さらにひどい有様だった。ほとんどの行が黒く塗り潰されている。だがその中に、なぜか手つかずのまま残された一列があった。
「ここに、名前が並んでる。……たぶん、反逆者の名前だ」
全員が身を乗り出した。
「全部で七つ。オスカー・オルクス。ミレディ・ライセン。ナイズ・グリューエン。メイル・メルジーネ。リューティリス・ハルツィナ。ヴァンドゥル・シュネー。ラウス・バーン」
清水が一つずつ指差していく。
「名前は消されてねぇ。潰されてんのは、その前後だ。こいつらが何をしたのか、何を知ってたのか。……そこだけが、執拗に塗り潰されてる」
「……ねえ、待って」
鈴が首を傾げた。
「オルクスって、あのオルクス大迷宮の……?」
「気づいたか」
清水は口の端を歪めた。
「オルクス大迷宮。グリューエン大火山。ライセン大峡谷。ハルツィナ樹海。……全部、地図に載ってる地名と同じ響きだ。俺たちが地名だと思ってたもんは、人の名前だったのかもしれねぇ」
「……えっ」
「そいつらがそこに何かを作ったから、そう呼ばれるようになった。……そう考えると筋が通る」
「でも、迷宮ってはっきりしてるのはオルクスだけだよね?」
恵理が静かに問う。清水は小さく頷いた。
「ああ。グリューエンは火山、ライセンは峡谷、ハルツィナは樹海。地名はあっても、迷宮があるなんてどこにも書いてねぇ。メルジーネ、シュネー、バーンに至っては地名ですらねぇ。……ただ、そのうちいくつかには聞き覚えがあった」
「聞き覚え?」
「噂話だ。騎士の雑談とか、王宮に出入りしてる商人の与太話とかでな。『ライセンの迷宮』だの『ハルツィナの迷宮』だの、どこかにあるらしいって程度の話だ。峡谷や樹海のどこにあるのかまでは、誰も知らねぇ。メルジーネも、遠藤が一度だけ拾ってきた」
「酒の席でな。船乗り上がりのおっさんが言ってた」
遠藤が肩をすくめる。
「どこにあるのか聞いたら、知らねぇって笑われた。本当にあるのかも怪しい、ってな。……ライセンとハルツィナの噂も似たようなもんだ」
「反逆者ってのは、神に歯向かった大罪人なんだろ? その連中が、迷宮を作った。……つまり、俺たちが潜ってたのは、教会が忌み嫌う連中が遺したもんってことになる」
「……」
「なのに教会は、俺たちに『迷宮を攻略しろ』と言った」
清水は、テーブルの上の羊皮紙を指で叩いた。
「どういうことだと思う?」
答えられる者はいなかった。
「……ねえ」
静かに手を挙げたのは、恵理だった。
「ひとつ、考えてたことがあるんだけど」
「なんだ」
「魔人族の情報が消されてるって話。……逆はどうなのかな」
「逆?」
恵理は眼鏡を押し上げた。
「向こうにも、教会みたいなものがあったとしたら。向こうの人たちも、私たちのことを『邪悪な種族』って教わってるのかもしれない」
部屋が、しんとした。
「……え」
鈴が目を丸くする。
「だってね。こっちには魔人族の情報がほとんどないでしょ? 生態も、暮らしも、何を考えてるかも。それって、向こうから見ても同じなんじゃないかな」
「……」
「お互いに相手のことを何も知らないまま、何百年も戦わされてるとしたら」
恵理は、そこで少しだけ目を伏せた。
「……誰が得をするんだろうね」
誰も、すぐには答えられなかった。
「――『正義と悪がぶつかるんじゃねぇ』」
呟いたのは、光輝だった。
全員が振り返る。
「……何それ?」
「メルドさんが、昔の上官から聞いた言葉だ」
光輝はゆっくりと顔を上げた。
「前に聞かせてもらったんだ。戦争ってのは正義と悪がぶつかるんじゃない。互いに譲れないものがある者同士のぶつかり合いなんだって」
「……」
「あの時は、正直まだ半分も分かってなかったと思う。でも今、恵理の話を聞いて――」
拳を、静かに握る。
「向こうにも、譲れないものがあるんだとしたら。俺たちと同じように、守りたい誰かがいるんだとしたら」
光輝の声が、少し震えた。
「俺は、それを知らないまま剣を振ろうとしてたのか」
部屋が静まり返る。
「メルドさんは言ってた。他国の悪を裁くためじゃない、後ろにいる人を守るために剣を取るんだって」
光輝は自分の掌を見下ろした。
「……俺、ずっと思ってたんだ。勇者なんて、俺より相応しい奴がいるんじゃないかって」
その一言に、部屋の空気がわずかに揺れた。
誰も名前は出さなかった。
だが全員が、同じ顔を思い浮かべていた。
「……いや、あいつは柄じゃねぇだろ」
呟いたのは龍太郎だった。
「あいつが勇者とか、絶対断るって」
「面倒くさいって言いそう」
「言うね。絶対言う」
あちこちで、小さな笑い声が起きた。
「うわ、想像できるー。『えー、なんであーし? パスパス』とか言ってさ」
「言う言う」
一瞬だけ、部屋の温度が戻る。
――だが。
清水は、笑っていなかった。
(……いや)
分かっていない、と思う。
確かにあの女は断るだろう。真っ先に「重すぎ」「無理」「他当たって」と騒ぎ立てるはずだ。そこまでは全員の想像通りだ。
問題は、その後だ。
(……あいつ、結局やるんだよ)
城壁の修繕も、荒地の開拓も、王宮の雑用も。全部ぶつぶつ文句を垂れながら、最後には誰よりも丁寧に仕上げていた。「労基呼べ」だの「ブラックすぎ」だのと喚きながら、一度も手を抜かなかった。
困っている人間を見つけたら、勝手に首を突っ込む。放っておけない。それで自分が損をしても、平然と笑っている。
――そういう奴だ。
ふと視線を巡らせると、香織と目が合った。
彼女も、笑っていなかった。
微笑んではいる。いつもと同じ、柔らかい表情のまま。だがその目だけが、笑っていない。
(……お前も分かってんだろ)
問いかけるつもりはなかった。
ただ、視線が重なった一瞬で、互いに理解した。この場で笑っている連中とは、違うものが見えている。そういう類の確認だった。
香織が、ほんのわずかに顎を引いた。
清水も、同じだけ頷き返す。
それだけだった。言葉は要らなかった。
中学の頃からずっとそうだ。この女とは仲が良かったためしがない。むしろ苦手だ。それでも、南雲ハジメという一点においてだけは、いつも同じものを見てきた。
(……相変わらず、嫌な女だな)
清水は視線を外した。
そして、そこで気づいた。
八重樫雫が、俯いていた。
膝の上で両手を重ね、じっと床の一点を見つめている。周りはまだ笑っているのに、彼女だけが顔を上げない。
(……あいつもか)
当たり前だ、と清水は思う。
中学からの付き合いだ。あの女がどういう人間か、八重樫が知らないはずがない。文句を垂れながら結局やってしまうことも、放っておけない性分も、全部知っている。
知っているから、笑えない。
(……ま、そりゃそうだよな)
そう思って、清水は視線を外した。
だからそれ以上は、気にも留めなかった。
「……でもさ」
光輝の声が、笑いを収めさせた。
「肩書きばっかり気にして、俺、肝心なことは一度も疑わなかったんだ」
拳が、震える。
「魔人族を倒せって言われて、そういうものなんだって受け入れてた。守る相手が誰なのかも、倒す相手が何なのかも、何一つ確かめないまま」
「……」
「それじゃ、あの人たちと同じだ」
誰が、とは言わなかった。
だが全員が、教会の白い法衣を思い浮かべていた。
清水は、思わず恵理と光輝を見比べていた。
(……こいつら)
そこまで考えていたのか。
二ヶ月も教会を調べ続けた自分ですら、その角度には辿り着かなかった。敵の情報が消されていることを疑いはしても、敵の側も同じかもしれないとは考えなかった。
「……悪くねぇ視点だ」
「そう?」
「ああ。覚えとく」
恵理は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「……ねえ、清水君」
香織だった。
穏やかな声で、彼女は問いかけた。
「その反逆者さんたちって、どうして神様に逆らったの?」
清水の眉が、わずかに動いた。
「……そこは塗り潰されてる。何度なぞっても読めねぇ」
「そう」
香織は小さく頷いた。
「じゃあ、悪い人たちだったかどうかも、分からないんだね」
その言い方に、清水は妙な引っかかりを覚えた。
だが、それを言葉にする前に、彼は最後の指を立てた。
「――五つ目。これが一番厄介だ」
五本の指が、全員の前に開かれる。
「ここまで徹底的に情報を消せるってのは、それだけの力と時間をかけた奴がいるってことだ。……で、俺は考えたんだよ。あの教皇のジジイに、そんな真似ができるかってな」
「できないってこと?」
「いや、できるだろうさ。教会の権力なら。……だが、あのジジイもまた、上から言われてやってるだけだとしたら?」
部屋の温度が、下がった気がした。
「教皇すら、操り人形かもしれねぇ。その上に、もっとやべぇ奴が座ってる」
「……上って」
龍太郎が掠れた声で言う。
「決まってんだろ」
清水は天井を、あるいはその遥か上を指さした。
「――神様だよ」
「……神様が、俺たちに嘘をついてるっていうのか」
光輝の声が、掠れていた。
無理もない、と清水は思う。この男は召喚されたその日から「勇者」と呼ばれ続けてきた。神託によって選ばれ、世界を救うために来たのだと言われ続けてきた。
その前提が、今、崩れかけている。
「断定はしねぇ。証拠がねぇからな」
清水は正直に言った。
「だが、疑うだけの材料は揃った。……そう思わねぇか?」
光輝は答えなかった。俯いたまま、拳を膝の上で握りしめている。
やがて、絞り出すように呟いた。
「……清水は、最初から言ってたんだな」
「あ?」
「召喚された日だ。別室で、お前が言った」
顔を上げた光輝の目に、悔恨が滲んでいた。
『あいつらの話を100%鵜呑みにするな。逆らったら監禁されるか、最悪消される可能性だってある』
「俺、あの時お前に食ってかかろうとした。嘘をついて利用し合うなんて間違ってるって。……雫に止められなかったら、最後まで聞かずに否定してた」
「……」
「間違ってたのは、俺だ」
部屋が、静まった。
「……ねえ、覚えてる?」
鈴がぽつりと言った。
「あの時、ナグモンが清水君のこと『こういうのに世界一詳しいから』って連れてきて。それでみんな、そっかーって納得したじゃん」
「……ああ」
「鈴、ちゃんと信じてたよ。清水君が言うならそうなんだろうなって。だから表向きは協力するフリしようねって、みんなで決めたんだよね」
鈴は膝を抱えた。
「でも……ここまでとは思ってなかった」
「……」
「隠し事があるとか、都合の悪いこと言わないとか、そのくらいだと思ってたの。まさか帰る方法まで嘘かもしれないなんて」
その言葉に、何人かが小さく頷いた。
「……それにさ」
野村が低く呻いた。
「神様がいるのは、まあ分かってたんだよ。こんなとこに飛ばされてる時点でな」
「うん」
「でも俺、どっかで味方だと思ってたわ。呼んだのも助けてほしいからなんだろって」
野村は頭を抱えた。
「そうじゃねぇかもしんねぇって話だろ、これ」
部屋が、しんと静まる。
清水は黙って聞いていた。
責める気はなかった。自分だってあの日は、最悪の想定を口にしたつもりだった。だが現実は、その最悪をさらに上回ってきている。
(……当たっちまったな)
嬉しくもなんともない。
「別に、いいだろ」
清水は肩をすくめた。
「当たってほしかったわけじゃねぇよ」
「……ねえ、清水君」
口を開いたのは恵理だった。
眼鏡の奥の瞳が、静かに清水を見つめている。
「ずっと前から調べてたんだよね。どうして、今まで黙ってたの?」
部屋の空気が、わずかに変わった。
誰も言わなかったが、全員が同じことを思っていたのだろう。
清水は、正面からその問いを受けた。
「危険だと思ったからだ」
「危険?」
「こんな話、知ったってだけで消される可能性がある。教会か、その裏にいる奴らに目をつけられてな。……お前らを巻き込みたくなかった」
「……そう」
恵理が小さく息を吐いた。
「それで、どうして今なの?」
「三つある」
清水は指を折った。
「一つ。今日、教会に呼ばれた。そこで教皇のジジイが何て言ったか」
光輝の肩が跳ねた。
「……言えよ、天之河」
「……」
光輝は俯いたまま動かない。
清水は急かさなかった。ただ待った。
やがて、絞り出すように。
「……追悼の儀をやりたいって言われた。それを断ったら」
膝の上の拳が、白くなっている。
「……俺じゃなくて、南雲さんが死んだのは、世界にとって幸いだったって」
口にした本人が、一番信じられないという顔をしていた。
「不幸中の幸いだって。あの人、そう言ったんだ」
部屋が、凍りついた。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
「……え?」
最初に漏れたのは、鈴の声だった。
「え、なに……? いま、なんて……」
「不幸中の、幸い……?」
野村が呟く。理解できないという顔をしていた。
「待って、意味分かんない。誰が言ったの、それ」
優花の声が硬い。
「……教皇だ」
光輝が答えた。
「……教皇が? あの、いつもニコニコしてる?」
「ああ。笑ってた。……慰めてるつもりだったんだと思う」
ざわり、と部屋が揺れた。
理解が、じわじわと全員に染み渡っていく。
「……は?」
「いや待って、嘘でしょ」
「聞き間違いじゃなくて?」
最初はまばらな呟きだった。それが重なり、膨らみ、一つの塊になっていく。
そして――
「――ふざけんなよッ!!」
椅子が倒れる音とともに、檜山が立ち上がった。
「なんだよそれ! なんだよそれぇッ!! 南雲が死んで、よかっただと!?」
「檜山、落ち着け……っ」
永山が肩を掴むが、檜山は振り払った。
「落ち着けるかよ! 俺が! 俺があの石に触ったせいで! あいつは……っ! なのにあのクソジジイ、何様のつもりだよッ!!」
「檜山君!」
「呼びつけたのはあいつらだろ!? 勝手に連れてきて、勝手に戦えって言って、死んだら幸いって、そんなの――」
「檜山、やめろ!」
野村と永山が二人がかりで押さえ込む。それでも檜山は暴れ続けた。
だが、火はもう部屋中に回っていた。
「うちらのこと、なんだと思ってんの」
「南雲さん、俺のシャーペン拾ってくれたことあんだけど」
「あたし、体育の時に足つった時、おぶってもらったんだよ……っ」
「あの人がいなかったら、俺たち一週間前に全滅してたんじゃねぇのかよ!」
「そうだよ! 殿やったのあの人だよ!?」
「なのに幸い? ふざけんな!」
口々に声が上がる。普段は輪の中心にいないような生徒たちまでが、顔を赤くして立ち上がっていた。
誰もが、南雲ハジメに何かをしてもらっていた。
大したことではない。落とし物を拾ってもらった。困っている時に声をかけられた。名前を呼ばれた。そんな些細なことばかりだ。
だが、全員が持っていた。一つ残らず。
「ふざけてる」
雫の声が、その喧騒を貫いた。低く、絞り出すような声。
「本当に、ふざけてる」
「……あたしたち、数のうちに入ってないってこと?」
優花が唇を噛む。
「便利な駒が一個減っただけ、みたいな……」
「……いや」
野村が首を振った。
「一個じゃない。あいつらから見たら、勇者以外は全部その他なんだ。俺たちも、全員」
誰かが息を呑む音がした。
部屋の温度が、はっきりと変わっていた。
清水は黙ってそれを見ていた。
(……そうだ。それでいい)
これが必要だった。真実を受け止めるには、まず腹が立たなければならない。
「先に、最後まで聞くわ」
雫が立ち上がり、部屋を見回した。
「怒るのは後でいくらでもできる。今は情報が先よ」
その一声で、熱が少しずつ引いていく。押さえ込まれていた檜山も、荒い息のまま腰を下ろした。
冷静な声だった。だがその手が、膝の上で白くなるほど握られているのを、清水は見逃さなかった。
「……悪ぃ」
「いいのよ。私も同じだから」
雫はそう言って、清水に向き直った。
「続けて。二つ目があるんでしょう」
「ああ」
清水は指を折る。
「遠藤が、その場でジジイに斬りかかった」
今度こそ、全員が遠藤を見た。
「ちょ、遠藤くん!?」
鈴が悲鳴じみた声を上げる。優花が口を押さえ、野村が「お前何やってんだよ!」と呻いた。
遠藤は視線を逸らさなかった。
「悪い。……止まらなかった」
「止まらなかったって、お前……」
「殺す気だった」
短く、はっきりと言った。
部屋が静まる。
「腹の底が熱くて、何も考えられなくなって、気づいたら踏み込んでた。……あのまま止められてなかったら、俺はあのジジイを殺してた」
遠藤は自分の右手を見下ろした。
「でもさ。……止められてよかったって、今は思ってんだよ」
「え?」
「南雲、言ってただろ。人殺しになりたいわけじゃないって」
鈴が息を呑む。
模擬戦の日だ。武器はどうしたとメルド団長に聞かれて、ハジメが平然と返した言葉。
「あの時さ、俺、冷や汗止まらなかったんだよ」
遠藤の指が、無意識にポケットの縁をなぞっていた。
「南雲があれ言った瞬間に、全部ひっくり返った。ああ、俺たちこれから人を殺すかもしんねぇし、殺されるかもしんねぇんだって。……それまで、どっかで他人事だったんだよ。訓練も、迷宮も」
「……」
「あいつ一人だけ、最初から分かってたみたいでさ。怖くなった」
指を、ゆっくりと握る。
「……でも、今日で分かった。人に刃向けるのって、めちゃくちゃ簡単なんだよ。腹立った瞬間に、もう身体が動いてる。考える前に終わってる」
「……」
「だから、あいつは分かってたんじゃねぇんだと思う。難しい理屈なんか一個もなくて、ただ嫌だったんだろ、人を殺すのが」
指を、ゆっくりと開く。
「それだけで、あいつは最後まで武器を持たなかった。……それが一番すげぇんだよ」
「……」
「俺なんか、二ヶ月かけて、実際に刃向けて、やっと分かったのに」
「……」
「だから、あのシスターには、ちょっと感謝してる。……得体は知れねぇけど」
「感謝って、あんた……」
優花が呆れた声を出す。
「だって、あそこで殺してたら、俺は南雲が一番なりたくなかったもんになってた」
その一言に、誰も返す言葉を持たなかった。
「……で、失敗した」
清水が引き取る。
「あそこには、シスターが一人いた。教皇のすぐ横にな」
部屋が静まる。
「遠藤の踏み込みは速い。気配も完全に消えてた。味方の俺ですら動き出しを捉えられなかった。……それを、あの女は止めた」
「……止めたって」
「槍でな」
「――槍?」
雫が眉を寄せた。
「シスターが、槍を?」
「どこから出したのかも、いつ構えたのかも、誰も見てねぇ。気づいた時には刃が止まってた。……体勢すら崩してねぇんだ、あの女」
清水は自分の掌を見下ろした。
「あれは人間じゃねぇ。少なくとも、俺の知ってる人間の動きじゃなかった」
「……」
「つまりだ。教会には、俺たちの手に負えねぇ『何か』が紛れ込んでる。しかも教皇の隣に、当たり前の顔で立ってやがる」
沈黙の中、香織が静かに口を開いた。
「それで、三つ目は?」
清水は顔を上げた。
「……お前らだよ」
「え?」
「一週間前、全員ぶっ壊れただろ。泣き喚いて、蹲って、口もきかなくなって。……正直、あのままだと思ってた」
清水は部屋を見回した。
「だが、立ち直りやがった。しかも前より前に出てる。毎日馬鹿みたいに訓練して、互いに穴を埋め合って」
自分の声が少し掠れているのに気づいて、清水は舌打ちをした。
「……今のお前らなら、真実を知ったところで潰れねぇ。そう判断した」
誰も、何も言わなかった。
だが、部屋の空気は確実に変わっていた。
「――話してくれて、ありがとう」
言ったのは、雫だった。
「重いものを一人で抱えてたのね。……ううん、二人で」
「勝手にやってたことだ。礼を言われる筋合いはねぇ」
「それでも、よ」
雫は真っ直ぐに清水を見た。
「で、次は何をするの? あなたのことだから、もう考えてるんでしょう」
清水は思わず笑った。
(……ほんと、変わったな。こいつらも、俺も)
「遠藤」
「はいよ」
遠藤が、今度は別のものを取り出した。
丸められた大判の羊皮紙を広げると、そこには大陸の全景が描かれていた。
「……地図?」
鈴が覗き込む。
「王宮の資料室から拝借してきた」
「またパクってきたの!?」
「返すつもりだから大丈夫だ」
「大丈夫の基準がおかしいってば!」
清水は構わず地図の上に指を置いた。
「見ろ。ここがハイリヒ王国。で、こっちがオルクス大迷宮」
指が、大陸の西へ滑る。
「で、ここがグリューエン大火山。砂漠の向こうだ。それから、ここがライセン大峡谷。東の端のこれがハルツィナ樹海」
四つの点が、大陸の上に散らばった。
清水の指は途中で、王都の背後にそびえる神山の上を素通りしていった。聖教教会の総本山。この部屋の誰にとっても、それはただの山でしかなかった。
「……峡谷と樹海にも、迷宮があるってこと?」
光輝が問う。
「分からねぇ。あるのは『ライセンの迷宮』『ハルツィナの迷宮』って噂だけだ。名前が同じなんだから、この辺りに何かあるんじゃねぇかってのは、あくまで俺の当て推量だ」
清水は峡谷と樹海の上を、ぐるりと大きく指でなぞった。
「峡谷のどこか、樹海のどこか。……範囲が広すぎて、場所なんか絞れやしねぇけどな」
「で、問題は中身だ。この国の本で『反逆者が作った大迷宮』として扱われてる場所は一つもねぇ。オルクスですら、天然の迷宮ってことになってる」
「……」
「オルクスは王都から近いし、ホルアドって拠点もある。だから誰でも知ってる。グリューエンは場所こそ分かってるが、王都の資料じゃ名前くらいしか載ってねぇ。王宮の文官に聞いても、『砂漠の向こうの火山』って答えしか返ってこなかった」
清水は地図の上のグリューエンを指で叩いた。
「まあ、火山の近くに住んでる連中なら、もうちょいマシなことを知ってるかもしれねぇけどな。……少なくとも、ここにいる限りは確かめようがねぇ」
「……噂の迷宮も、全部反逆者が作ったものかもしれないってこと?」
優花が掠れた声で言った。
「少なくとも、そう疑う理由はある」
清水は頷き、地図の端、何も描かれていない海の上に掌を置いた。
「で、残りの三つだ。メルジーネ、シュネー、バーン。似た響きの地名が、大陸中どこにもねぇ。メルジーネは噂だけ転がってるが、あとの二つは噂すら聞かねぇ」
「……場所が、分からないってこと?」
恵理が呟く。
「ああ。どこにあるのかも、そもそも迷宮なのかも分からねぇ。……ただ、七人の名前が並んでて、七人とも何かを遺したんだとしたら」
清水は、地図の余白を見下ろした。
「この地図のどこかに、俺たちの知らねぇ何かが、まだ三つある」
答えられる者はいなかった。
地図の上の余白が、急に不気味なものに見えてくる。何もないのではない。何かがあるはずなのに、誰もそれを知らない。
「……なあ、清水」
光輝が口を開いた。
「一つ聞いていいか」
「なんだ」
「お前は、その迷宮に何があると思ってる」
清水は、しばらく黙っていた。
答えを持っていないわけではなかった。ただ、口にするには材料が足りなすぎる。憶測を憶測のまま並べて、下手な希望を持たせたくなかった。
だが、光輝はまっすぐに待っていた。
「……分からん」
まずそう前置きして、清水は続けた。
「ただ、考えてることはある。聞くか?」
「聞かせてくれ」
「教会は、魔人族を倒さなきゃ帰れねぇって言ってる。……だが、それ自体が嘘かもしれねぇって話は、さっきした通りだ」
「ああ」
「で、あいつらは反逆者の痕跡を必死に消してる。名前こそ残ってるが、そいつらが何者で、何のために迷宮を作ったのかは徹底的に潰してある。……何百年もかけてだ」
清水は地図の余白を指でなぞった。
「そこまでするってことは、あの迷宮には教会にとって都合の悪いもんがある」
「……」
「神に逆らった連中が、神を出し抜くために遺したもんだ。……何もねぇわけがねぇ」
一拍置いて、清水は光輝を見た。
「その中に、帰る手段があるかもしれねぇ」
部屋の空気が、はっきりと変わった。
「……っ」
誰かが息を呑む音がした。
「言っとくが、根拠はゼロだ」
清水は即座に釘を刺した。
「ただの憶測だ。何もねぇかもしれねぇ。行ってみたら空っぽかもしれねぇ」
「……それでも」
光輝が、静かに言った。
「教会の言うことを信じて待ってるよりは、確かだ」
「……そういうこったな」
清水は肩をすくめた。
「どのみち、俺たちが自分で確かめる以外に道はねぇ」
誰も、反論しなかった。
地図を囲んだまま、しばらく沈黙が続く。
「……あの」
おずおずと手を挙げたのは、それまで部屋の隅で立ち尽くしていた畑山愛子だった。
「先生?」
「その、すごく言いにくいんですけど……」
愛子は両手を胸の前で握り、視線を彷徨わせた。
「実は、私……王宮から、お願いされていることがあって」
清水の眉が動いた。
「お願い?」
「はい。あの、私の天職、作農師じゃないですか。東方荒地の開拓がうまくいったのを聞いた方がいたみたいで……ここ数日、王宮の方から何度か打診が来ていて」
愛子は深く息を吸った。
「各地の農村を回って、土壌の改善と作付けの指導をしてほしい、と」
部屋の空気が、わずかに変わった。
「この国、ここ数年ずっと不作が続いている地域があるそうなんです。魔物の被害もあって、村を捨てる人も出ているって。私の技能なら、それを助けられるかもしれないからって」
「先生、それっていつの話ですか?」
雫が問う。
「最初に言われたのは四日前です。でも、こんな時にみんなを置いていくなんてできないと思って、ずっとお断りしていて」
愛子は俯いた。
「でも、さっきのお話を聞いて……その、私、何かしなきゃって」
清水の頭の中で、何かが噛み合う音がした。
(……待て)
農村を回る。各地を。王宮公認で。
教会に怪しまれることなく、正当な理由で王都を離れられる。
「――先生」
気づけば、清水は口を開いていた。
「その話、受けてください」
「え!?」
愛子が顔を上げる。
「し、清水君、でも私……」
「俺も行きます」
部屋中の視線が、一斉に清水へ向いた。
「清水?」
光輝が目を丸くする。
「考えてもみろよ。俺たちがこの二ヶ月で調べられたのは、王宮の資料室と図書館と、あとは教会の隅っこだけだ。……王都にいる限り、それで限界だったんだよ」
清水は地図を指で叩いた。
「だが、グリューエンもライセンもハルツィナも、全部遠い外だ。峡谷や樹海のどこを探せばいいのかも分からねぇし、メルジーネやシュネー、バーンに至っては当たりすらついてねぇ。知りたきゃ各地を回って、その土地の人間から噂を拾い集めるしかねぇ。……この王都にいる限り、一生辿り着けねぇんだよ」
「……あっ」
鈴が声を上げた。
「そっか、先生についていけば……」
「王宮のお墨付きで、堂々と各地を回れる。しかも作農の指導って名目だ。教会も文句のつけようがねぇ」
清水は口の端を歪めた。
「こんな都合のいい口実、そうそうねぇぞ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
愛子が慌てて両手を振った。
「危ないです! それに、私のことを口実に使うなんて、そんな……!」
「先生」
清水は真っ直ぐに愛子を見た。
「先生は本気で農村を助けたいんですよね」
「そ、それはもちろんそうですけど」
「なら口実じゃねぇです。先生は先生の仕事をする。俺たちはそれを守る。ついでに調べもんもする。……全部本当のことだ」
愛子が言葉に詰まった。
「――ちょっと待って」
凛とした声が上がった。
園部優花だった。
椅子から立ち上がり、腕を組んで清水を睨んでいる。鋭い目つきが、いつも以上に鋭い。
「清水一人でついてく気?」
「あ?」
「バカじゃないの。あんた闇術師でしょ。魔眼使ったら目が潰れるんでしょ。それで先生守れんの?」
「うるせぇ、普段はちゃんと詠唱して撃ってるわ」
清水は面倒くさそうに言い返した。
「魔眼は切り札だ。詠唱を挟まず先手を取りたい時だけ使う。毎回あれ使ってたら、とっくに目が見えなくなってんだろ」
「……あ、そうなの?」
「そうだよ。お前ら人の技能どう思ってんだ」
「だって、あんたいっつも目のことで無茶するから」
優花はぶっきらぼうに言ってから、一瞬だけ言葉を切った。
「……六十五階層だって、そうだったじゃん」
清水が言葉に詰まった。
「それに、あんた今日八重樫さんにボコボコにされてたよね。三合ももたなかったじゃん」
「……見てたのかよ」
「見てたわよ」
優花はそう言い切ってから、一瞬だけ視線を逸らした。だがすぐに戻す。
「あたしも行く」
「園部さん?」
愛子が目を丸くする。
「あたしの天職、投擲師だから。近づかれる前に潰せる。前衛が足りなくても、後ろから支えられるし」
優花は顎を上げた。
「それに、あたし実家が洋食屋なの。農村回るなら食材の目利きくらいできるし、先生の話し相手にもなれる」
「……それは、助かりますけど」
「妙子、奈々」
優花が振り返る。
「え、あたし?」
「うち?」
呼ばれた二人が顔を見合わせた。菅原妙子と宮崎奈々。優花と並んで座っていた女子たちだ。
「操鞭師と氷術師。中距離と足止め。……足りないでしょ、うちら以外に」
「うわ、優花そういうとこあるよね……」
宮崎奈々が肩を落としながらも、すぐに顔を上げた。
「まあ、いいけどさ。愛ちゃん先生放っとけないし」
「私も、行きます」
菅原妙子がおっとりとした口調で、しかしはっきりと言った。
「先生、いつも私たちのこと心配してくれてましたから。今度は私たちの番かなって」
「みんな……っ」
愛子の目が潤む。
「男手も要るだろ」
そう言って手を挙げたのは相川昇だった。
「荷物運びとか、馬車の世話とか。そういうの誰かやんなきゃだし。俺、バイク弄ってたから馬車くらいなら何とかなると思う」
「馬車とバイク全然違くない?」
「いや、車輪ついてんだろ」
「雑ぅ……」
「俺も行くわ」
仁村明人が気だるげに立ち上がった。
「こいつ一人だと絶対なんかやらかすし」
「おい」
軽口が飛ぶ。緊張しきっていた部屋の空気が、少しだけ緩んだ。
清水は、その光景を黙って見ていた。
(……集まりやがった)
自分一人で背負うつもりだった。ずっとそうしてきた。だが気づけば、六人だ。
「決まりだな」
清水は腕を組んだ。
「畑山先生の護衛隊、ってとこか。……表向きはな」
「え、名前つけちゃうんですか!?」
愛子が顔を赤くしたが、誰も聞いていなかった。
「愛ちゃん親衛隊でよくない?」
「うわ、それいい」
「ちょっと、みんな!?」
宮崎奈々の一言で、あっさり上書きされていく。
清水は肩をすくめた。訂正する気にもならなかった。
「じゃあ、残る側の話をしようぜ」
清水が地図を畳みながら言った。
「王都を空っぽにするわけにはいかねぇ。教会の動きを見張る奴が要る」
「それ、俺がやる」
即座に手を挙げたのは遠藤だった。
「え、遠藤くん残るの?」
鈴が意外そうな声を出す。
「俺の技能、こういう時にしか役に立たねぇだろ」
遠藤は軽く肩をすくめた。
「教会の中に忍び込むなら、たぶん俺が一番向いてる。実際、資料も何度か持ち出してるしな」
「……今日みたいなことは、もうするなよ」
清水が釘を刺すと、遠藤は気まずそうに視線を逸らした。
「分かってるって」
「本当に分かってんのか?」
「分かってるっつの!」
「……なら、私も残るね」
静かに手を挙げたのは、恵理だった。
眼鏡を押し上げながら、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「恵理?」
鈴が振り向いた。
「遠藤くんは中に入れるけど、外から聞き出すのは苦手でしょ?」
「うっ……まあ、そうだな」
「私なら、できると思う」
恵理は小首を傾げてみせた。
「シスターさんとか、司祭さんとか。そういう人たちとお話しするのって、たぶん向いてるから」
部屋の何人かが、その言い方に微かな違和感を覚えた。だが誰も口には出さなかった。
清水だけが、小さく息を吐いた。
(……こいつ、自分から言いやがったな)
大人しくて可憐な委員長。その顔が、ときどき出来すぎていることくらいは、清水にも見えていた。何のための顔なのかまでは知らない。聞いたこともない。
だが今、彼女はそれを自分から道具として差し出そうとしている。それだけは分かった。
「……無理はするな」
「ふふ、大丈夫だよ。得意だもん」
恵理は微笑んだ。
「なら、俺たちはオルクスだな」
光輝が口を開いた。
「攻略を続ける。表向きは教会の言う通りに動いてるように見せて、その実、あの迷宮そのものを調べる」
「反逆者が作ったっていう、大迷宮を」
雫が頷く。
「そうだ。あそこには何かある。……六十五階層より下に、南雲さんが落ちた場所にも」
部屋が、静まった。
誰も口にしなかった言葉が、そこに浮かんでいた。
「……確かめには行くわ」
雫が静かに言った。
「奇跡を期待してるわけじゃないの。あの穴の底が見えなかったこと、私たちが一番よく知ってる」
拳が、膝の上で握られる。
「でも、誰も見てないのよ。教会の人たちも、騎士団の人たちも、一度も下りていない。誰も確かめないまま、終わったことにされてる」
「……」
「それが、嫌」
短く、それだけ言った。
「せめて、私たちの手で終わらせたい。誰かに決められるんじゃなくて」
「……ああ」
光輝が頷いた。
「俺も同じだ」
「――うん。わたしも」
柔らかい声が続いた。
香織だった。
いつもと同じ、少し困ったような微笑み。両手を膝の上で重ねたまま、彼女は雫を見て小さく頷いた。
「雫ちゃんの言う通りだと思う。誰かに勝手に終わりにされちゃうの、わたしも嫌だな」
「香織……」
「だからね、わたしも一緒に行く。ちゃんと最後まで」
その言い方は、あまりに自然だった。
誰もが、そこに何の裏も見なかった。一週間前に「自分の目で確かめるまで信じたい」と言い切った少女が、その想いを抱えたまま、揺れる親友にも寄り添っている。そう見えた。
「……カオリン」
鈴が、少しだけ泣きそうな顔で頷く。
「うん。一緒に行こ」
「ありがとう、鈴ちゃん」
香織は微笑んだ。
――清水の背筋を、冷たいものが撫でた。
(……おい)
違う。
何が違うのか、すぐには言葉にならなかった。だが確かに、何かがずれている。
一週間前。奈落の縁で、この少女は身を投げようとした。あの時の目を、清水は忘れていない。魔眼で意識を落とす直前に見た、あの底の抜けたような瞳を。
あれが、七日で消えるものか。
(……いや、消えてねぇな)
消えていない。ただ、見えなくなっただけだ。
今の香織は完璧だった。仲間の言葉に頷き、現実を受け入れ、適切な温度で寄り添っている。何一つおかしくない。おかしいところが、一つもない。
(――完璧すぎるんだよ)
あの日、光輝の腕を振りほどこうとして叫んでいた少女が。今、こんなに滑らかに喋るか。
清水は視線を巡らせた。
誰も気づいていない。光輝も、雫も、鈴も。全員が安堵した顔をしている。
(……言えねぇな)
言ったところで何になる。証拠は何もない。あるのは違和感だけだ。
それに、と清水は思う。
もし自分の勘が当たっているなら、それを指摘して止められるものでもない。
「……おい、白崎」
「……」
香織が、こちらを見た。
穏やかな顔のまま、静かに。
清水は、開きかけた口を一度閉じた。
(……そうだったな)
思い出したのは、中学の頃のファミレスだ。
ハジメに引きずられて連れて行かれた席で、初対面のこの女はテーブル越しに身を乗り出してきた。笑顔だった。声も優しかった。それなのに、背筋が凍った。
『……君は、ハジメちゃんのなんなのかな? かな?』
あの時、清水は本能で理解した。この女の笑顔は、中身を隠すための蓋だと。
だから最初から警戒していた。それだけは、他の誰よりも早かった自信がある。
そして――向こうも、それを知っている。
見抜かれていることを、この女は最初から知った上で微笑んでいる。
「……無理はすんなよ」
香織は、小さく頷いた。
それだけだった。
否定も、言い訳も、笑顔の上塗りもない。
ただ、頷いただけ。
(……了解、ってことかよ)
清水は視線を外した。
背中に嫌な汗が浮いている。
「――なあ」
沈黙を破ったのは、龍太郎だった。
腕を組んだまま、珍しく考え込むような顔をしている。
「一個、提案があんだけどよ」
「どうした、龍太郎」
「その……別れる前にさ」
言葉を探すように、龍太郎は一度口ごもった。
「もう一回、あいつと戦わねぇか」
部屋が、しんとした。
「あいつって……」
鈴が首を傾げる。
「ベヒモスだよ」
その名前が出た瞬間、空気が張り詰めた。
六十五階層。巨大な角を持つ、化け物。
あの日、光輝の『神威』ですら角一本を折るのがやっとだった相手。前線が総がかりで食い下がっても押し切れず、ハジメが殿を務めることになった原因。
「……龍太郎」
雫が眉をひそめた。
「本気で言ってる?」
「おう」
「あれがどんな相手か分かってるの? 半端な覚悟で挑んだら、今度こそ全滅よ」
「分かってる。分かってるからだよ」
龍太郎は顔を上げた。
「俺さ、あの日『次に会ったら一番前で殴り倒す』って言っただろ。この一週間、ずっと考えてたんだ。なんで南雲が残ったのかって」
「……」
「俺たちが弱かったからだろ」
誰も、否定しなかった。
「あそこであいつを倒せてれば、誰も殿なんかやらなくてよかったんだ。逃げる必要もなかった。全員で階段登って、笑って帰ってこれたんだよ」
拳が、膝の上で震えている。
「俺、それが悔しくてたまんねぇんだ」
「……龍太郎」
「でもよ。今の俺たち、あの時よりずっと強くなってると思わねぇか?」
龍太郎は部屋を見回した。
「毎日毎日、馬鹿みたいに訓練してさ。互いの穴埋めて、弱いとこ潰して。光輝はメルドさんに勝ったんだろ? 谷口の結界は前より速い。野村の壁は厚くなった。園部の投擲は……まあ、まだ逸れるけど」
「うるさいわね!」
「ほら、そういうとこも変わった」
軽口に、部屋の空気が少し緩む。
「これから俺たち、バラバラになるんだろ。先生についてく奴と、王都に残る奴と」
龍太郎の声が、少し掠れた。
「だからさ。散る前に一回だけ、全員で。……あいつをぶっ倒したい」
「――」
誰も、すぐには返事をしなかった。
やがて、光輝が静かに言った。
「……勝てる保証はないぞ」
「ねぇよ、そんなもん」
「危険すぎる。誰か死ぬかもしれない」
「分かってる」
「それでもやるのか」
「やりてぇ」
龍太郎は即答した。
「南雲に見せてぇんだよ。俺たち、あの時よりちゃんと強くなったぞって」
その一言で、何かが決まった。
清水は内心で舌打ちをした。
(……馬鹿が)
合理的な判断ではない。むしろ最悪の部類だ。これから重要な任務に散っていくというのに、その前に全員で死地に飛び込むなど正気の沙汰ではない。
だが。
(……悪くねぇな)
自分でも驚くほど、そう思っていた。
「……いいんじゃないか」
言ったのは、遠藤だった。
「俺も一回、あいつに礼したかったし」
「礼?」
「殴る方のな」
「いいね、それ」
檜山が立ち上がった。
「俺は行く。絶対行く」
「大介……」
「俺のせいであの階層に飛ばされたんだ。俺が一番、あいつに借りがある」
永山が黙って頷き、野村が拳を握った。
「……私も」
雫が立ち上がる。
「悔しいのは、私も同じよ」
「私もやるー!」
鈴が手を挙げ、恵理が静かに微笑む。
「みんなが行くなら、私も」
優花が舌打ちをした。
「……はぁ。分かったわよ。どうせ言っても聞かないんでしょ」
「園部?」
「やるからには勝つわよ。負けたら意味ないんだから」
賛同が、次々に上がっていく。
そして最後に。
「――うん」
香織が、静かに立ち上がった。
「わたしも行く」
穏やかな声だった。
「ちゃんと、終わらせよう。みんなで」
その言葉に、誰もが頷いた。
清水だけが、その「終わらせる」という言い方に、もう一度背筋を冷やしていた。
「――ま、待ってください!」
割って入ったのは、愛子だった。
小さな身体を精一杯伸ばして、生徒たちの輪の前に立つ。握りしめた両手が震えていた。
「先生は、反対です。あんな怪物のところに、もう一度なんて……! 二度と誰も失わせないって、私、約束したんです……!」
「先生」
光輝が、静かに向き直った。
「無茶はしません。メルドさんには俺から話します。騎士団に付いてもらって、危なくなったらすぐ退く。……それが条件です。約束します」
「でも……」
「先生の約束、俺たちも同じ気持ちです」
愛子は唇を噛んだ。
止めたい。止めるべきだ。だがこの子たちの顔は、もう一週間前のそれではない。自分の言葉で引き留められる場所に、彼らはいない。
「……絶対に、です。絶対に、全員で帰ってくること」
「はい」
愛子はそれ以上、何も言えなかった。
◇
解散の流れになり、一人、また一人と部屋を出ていく。
鈴の結界が解け、空気が軽くなった。締め切っていた窓を誰かが開けると、夜風がどっと流れ込んでくる。
清水が地図を丸めていると、背後から声がかかった。
「清水」
振り向くと、光輝が立っていた。
「なんだ」
「……ありがとう」
その一言に、清水は思わず眉を寄せた。
「あ?」
「話してくれて、ありがとう」
光輝は真っ直ぐにこちらを見ていた。
「危険だって分かってて、それでも俺たちを信じて話してくれただろ。……二ヶ月も一人で抱えてたのに」
「一人じゃねぇよ。遠藤もいた」
「二人で、だ」
言い直されて、清水は言葉に詰まった。
「それに、召喚された日のことも」
光輝は少しだけ視線を落とした。
「あの時、俺は謝った。でも本当は、お前の言葉の半分も分かってなかった。嘘をつくなんて間違ってる、って……まだどこかで思ってたんだ。お前が一番先に、みんなを守ろうとしてたのにな」
「……」
「だから、もう一回言わせてくれ」
光輝が頭を下げた。
「悪かった。それと、ありがとう」
清水は、しばらく黙っていた。
何か言い返してやろうと思った。皮肉でも、軽口でも。だが、何も出てこなかった。
(……なんだよ、こいつ)
この男は、ずっと自分の正しさに縛られていた。
日本にいた頃からそうだ。正しいことを言って、正しく振る舞って、それで誰かを傷つけても気づかない。そういう不器用さを、清水は遠くから眺めていた。
その正しさが借り物だと気づき始めても、手放し方が分からずにもがいていた。
それが今、こうして頭を下げている。
(……変わりやがって)
「……顔上げろ。気色悪ぃ」
「あ、ああ。悪い」
「あと、礼を言うタイミングが遅ぇんだよ。今言われても調子狂うだろ」
「……ふは」
光輝が小さく笑った。
「そうだな。ごめん」
「謝んな。余計悪化してんぞ」
丸めた地図で軽く肩を叩かれて、光輝はまた笑った。
その笑い方は、召喚された日には一度も見せなかったものだった。
「……なあ、天之河」
「ん?」
「生きて帰るぞ。全員で」
清水は、自分でも意外なほど素直な声が出たことに驚いた。
光輝は一瞬目を見開いて、それから力強く頷いた。
「ああ。絶対に」
窓の外では、夜がまだ深い。
だが夜明けまでに、やるべきことは山ほどあった。
クソ長くなってすいません