月明かりすら届かぬほど深く、重々しい王城の回廊。
石造りの床を、ふたつの足音が踏みしめていた。
ひとつは、凛とした迷いのない靴音。
もうひとつは、どこか怯えを含んだ、か細く頼りない歩み。
故郷の村を魔族の将軍バザルトに焼き払われ、愛する者たちをすべて奪われた幼きエルフ――フリーレンは、先を行く師の背中をすがるような思いで見つめていた。
その華奢な身体は、未だに故郷を包んでいた残酷な炎の熱気と、肉親を失った絶望の冷気に苛まれ、かすかに震えている。
だが、フリーレンを震わせているのは、過去の傷痕だけではなかった。
長耳が微かに跳ねる。
エルフ特有の極めて鋭敏な感覚が、回廊の先――白薔薇が咲き誇る月光の噴水広場から放たれる、凄絶な気配を察知していたのだ。
暗闇の向こうから刺さるように飛んでくる、射るような気配。
それはまるで、獲物の喉笛を一瞬で噛みちぎる野獣の如く鋭く、同時に、見る者の魂を根底から揺さぶるほど重厚で、激しい熱量を帯びていた。
さらには、風に乗って漂ってくる不吉な匂い。
腐臭とも異なる、体内に深く刻み込まれた濃密な死臭と、無数の戦場で散っていった者たちの血と鉄、そして燻る紫煙の苦い匂いが、大気を重く塗潰している。
耐えかねたフリーレンは、細い指先で前を歩く女性の衣服の裾をぎゅっと掴んだ。
「……フランメ……」
消え入りそうな声で呼びかけると、前を行く白銀の肌の魔法使いは立ち止まることなく、不遜に鼻を鳴らした。
「師匠(せんせい)と呼びなさい。なに?」
「あの怖そうな気配の人間……ううん、化け物はなんなの、こわいんだけど……」
フリーレンの透き通るような瞳には、あからさまな恐怖の色が浮かんでいた。
魔族の残虐さを目の当たりにしてきた彼女にとって、その暗闇から迫る気配は、魔王の軍勢すら凌駕しかねない異様な「死」の体現に思えたのだ。
フランメは歩みを緩めることなく、そのぶっきらぼうな口調のまま、視線だけを前方の暗がりへと向けた。
彼女には、その圧倒的な存在感が誰のものか、即座に理解できていた。
「あれが、人狼の騎士。私たちの仲間よ」
「あんなに死臭と血の匂いを漂わせているのに……?」
フリーレンは信じられないといった様子で、小さな眉をひそめた。
仲間という言葉と、漂ってくるおどろおどろしい気配があまりにもかけ離れていたからだ。
「そうよ」
フランメはポケットから細身の葉巻を取り出すと、慣れた手つきで指に挟み、冷ややかな、けれどどこか重みのある声を落とした。
「あの男は『伯爵アルフレッド・ベルンハルト』。人狼の騎士、魔剣士、人であって人でない化け物、化け物であって魔族ではない、だが、人間ではない。人間をやめた屑みたいな奴だって、私の師匠──ゼーリエは言っていた」
かつて幼かった頃は呼び捨てにしていた偉大な師を、いまや「師匠」と呼ぶまでに成長したフランメ。
その口から語られる言葉には、ゼーリエ譲りの鋭さと、大人の魔法使いとしての確かな理知が宿っていた。
「三百年以上もの間、死にきれずに戦場を駆け抜けてきた不老不死の化け物だ。身体に刻まれた死臭は、奴が切り伏せてきた数万の敵の怨嗟であり、あふれ出る鉄の匂いは、自らの体を巡る怪物としての血の証……お前が恐怖を感じるのは当然さ。あの男は本物の死神なのだからね」
「そんな凄惨な化け物が……どうして人間に味方しているの?」
「平和を求めているからさ」
フランメは短く答え、紫煙をふうっと夜空へくゆらせた。
「奴は誰よりも血に汚れ、誰よりも殺戮を繰り返してきたが、その魂の底には、主君に対する果てしない忠誠と、誇り高き騎士の情熱が眠っている。あの死臭は、人間たちを護るためにかぶった返り血の痕跡だ。不気味に思えるかもしれないがね、フリーレン……あいつが味方にいる限り、これほど頼もしい存在はこの世界にいないよ」
師の言葉を聞いても、フリーレンの胸の動悸は収まらなかった。
近づくにつれて、その「気配」の圧力がより一層強くなっていくからだ。
カツン、カツンと足音が響き、ふたりはついに月光が降り注ぐ噴水広場へと足を踏み入れた。
水面が蒼く煌めく中庭。
その中央で、白銀と濃紺の正装を崩した漆黒の軍服の男が立ち上がっていた。
――人狼の騎士、アルフレッド。
彼の黄金の瞳が、暗闇から現れたフリーレンの姿を捉えたその瞬間。
「――っ!?」
言葉にならない息の詰まる音が、アルフレッドの喉から漏れた。
彼の体内で、何かが激しくはじけ飛んだ。
全身の神経という神経が、歓喜と絶望、そして凄まじい昂ぶりによって灼熱の如く熱く灼けつく。
目の前に立つ、華奢なエルフの少女。
月光を透過させるような繊細な白銀の髪、透き通る肌、そしてどこか儚げに世界を見つめる瞳。
三百年前、あの残酷な殺戮の日に永遠に奪い去られたはずの許嫁――シルヴィアの面影が、目の前に立つフリーレンの佇まいに、あまりにも鮮烈に、残酷なまでに重なり合っていた。
心ごと一瞬にして奪い去られる、決定的な衝撃。
不老不死の呪縛によって凍りついていた不滅の血が、狂おしい熱量を帯びて全身の脈管を激しく駆け巡る。
黄金の瞳に宿るのは、戦場を統べる冷酷な狼の眼光ではない。
かつて愛した者への果てしない哀愁と、いま目の前に降臨した少女の存在そのものに対する、言葉を絶した熱狂と情熱であった。
その心を射抜くような強烈な視線にさらされ、フリーレンは小さく悲鳴を上げそうになり、思わずフランメの背中へと身を隠した。
(やっぱり、こわい……あんな目で私を見つめてくるなんて……)
あまりの威圧感に身をすくませ、息を殺すフリーレン。
しかし、彼女のエルフとしての鋭い感性は、その恐ろしい眼光の奥底に揺らめく「異質な感情」を確かに捉えていた。
獲物を貪ろうとする捕食者の欲望ではない。
壊れものを愛おしむかのような、痛切で、切なく、あまりにも深く胸を抉る愛の残香──。
同族のミリアルデが心底心配した表情で近づいてくると、フリーレンは何があったかを告げる。
「……故郷が、魔族の将軍に燃やされたの……みんな、死んじゃった……」
先ほどミリアルデの腕の中で絞り出されたフリーレンの痛々しい告白が、アルフレッドの耳奥で重くリフレインする。
その背後に立つフランメは、口元に挟んだ葉巻の煙を静かに吐き出しながら、冷ややかな、しかし揺るぎない眼光で二人を見据えていた。
アルフレッドは胸に手を当て、深く重い呼吸を整えながら、暗がりの中で怯える少女を静かに見つめ直した。
面影は確かに亡き許嫁シルヴィアに酷似している。
だが、その瞳の奥に宿っているのは、魔族に対する果てしない冷気と絶望であった。
宿命の糸が凄惨に絡み合い、時代が新たな狂乱へと向かって動き出そうとしている。
アルフレッドは太い葉巻を深く吸い込むと、紫の煙を夜空へと静かに吹き払った。
「……まあ、積もる話もあるだろうよ。座れ……みんな」
そう言って差し出された手元と、重々しい声。
フリーレンはフランメの背中に身を隠したまま、なおも全身の毛羽立つような恐怖に身を震わせていた。
果たしてそれが怪物としての暴力なのか、別の何かであるのかすら判断がつかず、彼女はただその絶対的な存在感に恐怖し、息をひそめることしかできない。
白薔薇の香りと紫煙が漂う月光の広場。
歴史の潮流すら変えかねない超然たる四人の影が、静けさを取り戻した噴水の傍らで、静かに集い合おうとしていた。
(第19話に続く)