果たして後に残るは人か、それとも…
月が出ている。
凍えるような青白いその光を背に受け、陰が一つ、足早に先へ先へと進んでいる。
急げ、急げ、急げ。
間に合わなくなっても知らぬぞ、とばかりに。
風吹かぬ夜の出来事であった。
明るいが、
そのさまはまるで何者かが息を潜めじっと見詰めているかのよう。
いや、事実視られているのであろう。
こんな明るい月の晩なのだ。
人ならざる存在が闇より様子を窺っていても不思議はない。
先を急ぐ陰の主は
数え年で十を超えたばかり。
村の同じ年頃の中では大きめの体躯を持つと云えど
そんな彼の額からぽたりと雫が落ちる。
滲み出る玉の汗を自覚してから心持ち駆け足となっていた速度を緩めた。
大きく呼吸をしてから、小さく「落ち着け、落ち着け、落ち着け」と呟く。
手には頼りない稲刈り鎌。
それでも彼が持ち出し得る中ではいっとう上等な武器である。
強く握り締め、お守り代わりに願いを込めることで心の中に喝を入れる。
そう、願いだ。
彼は或る願いのため、暗い夜道を独り足を進めていたのである。
ふと後ろを振り返る。
村の大人たちが追ってくる気配はない。
安堵の吐息を漏らしつつ、冷静さを取り戻し、そして一抹の恐怖が頭を
果たして大人たちは本当に気付いていないのか、それとも自分も含め諦められたのか。
そんな想像が一瞬でも脳裏を掠めれば村へと戻る道は如何にも甘美な誘惑に満ちて見えた。
大きく
知らず止まっていた足を叱咤し、今度は振り返らずに歩みを再開した。
姉に
姉を救うために。
藤太の姉は、捧げられたのだ。
美しい衣装を着せられ、口には紅を塗られ、まるで嫁入りをするかのような装いで。
身内贔屓もあるだろうが藤太にとっては、優しく、器量の良い姉であった。
だから選ばれたのかも知れない。
人買いに売られたのならば構わない。
そこまで豊かではない村だ。
出て行った方が、まだ、幸せになれる可能性も
あるいは、野盗の類に
連中ならば攫ってきた村娘をまだ人として認識して扱ってくれるだろうから。
涙を呑んでそんな欺瞞とともに自分を騙し得たかも知れない。
けれど、あれは駄目だ。
ああ、駄目だ。
許せぬ。
到底許容できない。
……嗚呼、あるいは。
だからこそ、なのかも知れない。
村のみんなも、あるいは内心では同じ気持ちだったのかも知れない。
だからこそ、自分の出立は見逃されたのかも知れない。
せめて
何処か他人事のように状況を俯瞰しながらも、茹だった頭はそのままに藤太は先を急ぐ。
村外れのお山の中程で。
それらはいた。
嬌声を上げながら輪になり、何言か交わしながら輪になって踊り狂っている。
それはさながら宴のようであり祭りのようでもあった。
いや、事実宴であり祭りなのであろう。
供物を取り囲み、思うさまにそれを蹂躙できる。
およそ冒涜的でおぞましさしか感じ得ない、彼等にとっての祭りなのであろう。
折良く流れてきた雲が月明かりを遮った。
一瞬の闇が侵入者の痕跡を覆い隠した。
藤太は表情を消して大股でその輪に近付くと手にした鎌を振り下ろした。
「ぎゃっ!」
一瞬の出来事であった。
輪に切れ目が生まれ、影が一つ崩れ落ちる。
べっとりと赤い液体を撒き散らしながら一匹の猩々が絶命していた。
その身は硬く、藤太は難儀して鎌を引き抜いた。
間欠泉の如き血潮が吹き出た。
急所を穿っていたのだろう。
望外の僥倖なれどそうそう何度もことが上手く運ぶとも思えない。
なんせ猩々は群れである。
ざっと見積もっても十は下らぬ数が輪になっていたのだから。
加えて、今や藤太は猩々らの警戒心剥き出しの殺意の坩堝に叩き込まれている。
吠え猛り、この無礼な闖入者を一体どのように
常識的に考えれば藤太に勝ち目はない。
それどころか必死になって逃げ出しても生き延びる可能性は万に一つが精々であろう。
だが、それがどうした。
道中で拾っていた大振りの石を手近な猩々の眉間に過たず叩き込む。
一方、もはや小振りな岩と言って差し支えないそれを叩き込まれた猩々の側は溜まらない。
侮っていた人間如きに不意を打たれ、今また虚を突かれる始末。
よもやの奇襲を受け、ぱっくりと顔面が割れてその場に崩れ落ちるに至った。
小刻みに蠢いているが程なく死に至るであろう。
村では神と畏れられていた猩々らを、藤太は立て続けに二匹も屠ったのである。
道中で散々逡巡したが故か、あるいは、有り得ざる体験の数々に呆ける暇とてない為か。
藤太は呼吸を乱すこともなく、
彼は何処か俯瞰的に彼我の戦力差を冷静に見定めていた。
体力的に後は殺せても一匹か二匹といったところ。
ならば狙うべきは群れの頭目以外に有り得ない。
彼が無言のまま睥睨すればその威を恐れた猩々らがすかさず距離を取る。
そんな中でも距離を取らず、逆に牙を剥き出しにしてきた猩々が一匹。
間違いない。
これが頭目だ。
藤太が一歩進めば、他の猩々らは輪を広げるように一歩下がった。
しかし、頭目は逆に一歩前に出てくる。
雲に切れ間が生まれ、月明かりが再び辺りを照らし出した。
「………」
藤太は息を呑んだ。
その猩々が、自身より大きな体躯を有していたからではない。
村の力自慢でも尻込みするような筋骨隆々たる威容を身に纏っていたからでも無論ない。
猩々はところどころ擦り切れ千切れた衣を肩に掛けていた。
見覚えのある衣であった。
丈の合わぬそれをまるで戦利品を見せびらかすかのように羽織っていたのだ。
都やらで暮らす裕福な者からすれば粗末な出来栄えに見えるであろうそれ。
しかし、貧しい村での精一杯の気持ちを込めて用意された晴れの着物。
そう、それは藤太の姉の衣であった。
勢いを一瞬削がれた藤太の気配が伝わったのだろうか。
頭目はにたりと笑みを浮かべてみせた。
そこからは一方的な蹂躙が始まった。
体格でも膂力でも勝る猩々は藤太を追い詰めてゆく。
未だ藤太を殺し得ないのは甚振ることに重きを置いているが故であろう。
大小さまざまな傷を拵え、荒い息を吐く。
血塗れになりながらも藤太の目から光は喪われていなかった。
頭目は苛立った。
体躯に優れ、知恵を伴い、群れを統率し、ついには一つの村で神の座にまで昇り詰めた。
そんな天賦の才を持ち合わせつつも、彼は飽くまで弱者を甚振ることを好んだのだ。
あるいは、だからこそ、ここまで群れを強く成長し得たのかも知れない。
故に、彼は一計を案じた。
顔面を砕かれた仲間の死骸を持ち上げると、そのまま藤太に投げつけて来たのである。
面食らいはしたものの易々をそれを見舞われる藤太ではない。
地面を転がり回りつつなんとかそれを避けるに至る。
しかし、頭目の真の狙いはここからであった。
仲間を投擲した後に素早く拾っていた石を手に藤太の鎌の持ち手を激しく打ち据えたのだ。
「……っ!」
嫌な音が響いた。
それでも鎌を持つ手を離さない。
しかしその抵抗はもはや
頭目が藤太を二度、三度と踏み付ける。
ついには藤太は鎌を手放し、仰向けに転がったまま小さなうめき声をあげるのみとなる。
頭目は満足気に笑みを深めながらゆっくりと藤太に近付く。
そして、見せ付けるように大きな口を開けてその顔へと近付けてゆく。
狙うは上下する首元か、あるいは顔面を
頭目にとってはどちらを採っても喜悦に至る甘美なる道標。
しかしながら、その時は訪れなかった。
両腕で藤太を逃さぬよう捕まえ、ゆっくりと近付けてきたその顔に。
藤太は、折れた右手の指を頭目の左目に捻り込んだのだ。
「 !!!」
声にならぬ悲鳴が夜闇を切り裂く。
離すわけにはいかぬ。
振り解こうとする頭目の腕を逆に噛み付くことで捕まえながら指を限界まで押し込む。
骨の痛みなど赤熱の如き怒りでとうに灼き切れていた。
硬い殻を突き抜けたような感触。
次いで指先にぐしゃりと伝わる小さな振動。
頭目の混乱、恐怖、怒号、悲嘆は頂点を極めて散々に暴れ回り藤太の全身を打ち据える。
そんな藤太の左手に何かが触れた。
鎌だ。逃さぬとばかり掴み取る。
視界が目まぐるしく反転を繰り返す中で、震える手で相手の首筋にそっと添える。
そして、引く。
世界が緋色に染まった。
それでも猩々の頭目の身体は暴れ回るのを止めない。
恐るべきは神にまで至った野性の生命力か。
「早く死ね、早く死ね、早く死ね…!」
念じるように刃を押し込み続け、漸くそれが動きを止める。
戦は終わった。
気付けば猩々たちは姿を消していた。
後に残ったのは藤太と、躯が三つ。
……いや、四つであった。
猩々三匹と、そして藤太の姉だったもの。
藤太の姉は長い間、甚振られていたようであった。
多少早くについても手遅れであったことは否めないほどには。
村を出るまでに散々逡巡した。
恐怖と戦った。
姉を想った。
仲が良いだけの存在ではなかったし、喧嘩も少なからずした。
それでも血を分けた家族であった。
その恐怖と逡巡があればこそ、勝つための布石を打つことも出来たのだ。
稲刈り鎌を隠し持ち、大人に止められぬよう夜を待った。
臆病は否定できないが慎重を期した結果でもあった。
月明かりの挿す時刻、雲が闇で覆い隠す一瞬。
道中で拾った石。
覚悟を決めて捨て身で動けたからこその望外の戦果。
全て、全て、最善を選び続けた結果であろう。
そのどれか一つでも欠けていたら、ここには人の躯が二つ並ぶのみに終わっていたのだ。
藤太という人間が持てる全てを絞り尽くした末がこの有り様なのだ。
思いは、願いは結実せず、ただ、無為という結果のみが残った。
この話はこれで区切りと相成った。
……だからこそ。
人の持ち得る
緋色の衣を掻き抱き、音にならぬ絶叫を響かせる男のそれは獣と呼ぶことこそ相応しい。
そして
後年、勘兵衛なる旅の武者がたまさか退治を引き受けてくれるその日
勘兵衛なる武者、退治を終えて語って
退治されたという猩々は果たして真に猩々であったのか、それとも…──