「……ねえ、なんで見てるんです?」
黒くつややかな髪を伝った大量の水滴が、重力に従ってぼたぼたと落ちる。
プラスチックの床に跳ねることもあれば、その白い肢体で弾けて、肌を濡らすこともある。
少女は目をつむってざあざあとシャワーを浴びながら、音と水しか感じられない静かな五感に紛れる、じっとりした視線に声をかけた。
だれかいるはずもない。
目を瞑ったから感じるだけの、ただの錯覚がやけに気味悪くて、気持ち悪くて、背筋が凍るものだから、思わず話しかけてしまったのだ。
「誰に話しかけているんだい? キミのほかに、この風呂場には誰一人いないというのに」
「……」
男の声がした。
聞いたことのない声だった。低くて、落ち着いている。そう年は行っていないような、しかし少女よりはずっと年上のような。
「……あなたがいるではありませんか。暗闇に潜む視線が」
「おっと、まさか本当にボクに話しかけてきているなんて、参考までにどうしてこんなことを? 錯覚だと思わなかったのかい?」
「私、気になったら眠れない性分なんですよ。よく、人は心に色眼鏡をかけて世界を見ているというでしょう? 記憶とか生活とか文化とか、そういう諸要素からくるただの認知認識の歪みのことをわざわざ色眼鏡なんて呼んでいるのが気にいらなかったんです。
耳にも鼻にも舌にも肌にも、外を感じ取る以上は歪みがあるのに。人間が、目に頼ることが多いからってだけで、色眼鏡なんて、比喩にしてもカバー範囲が狭くありませんか?」
「比喩なんて、そんなものだと思うけどね」
かかか。男の響くような笑い声がした。
少女は器用にも、目を瞑ったままシャワーを止めた。
水音で聞こえずらかった声も、少しマシになったように感じた。
「だから、ボクに呼びかけてみたってわけか」
「朝顔におはようって言うのと気分は同じでしたけどね。まさかこんな変態が釣れるとはおもいませんでした」
「待ってくれどうしてそうなる」
「うら若き乙女の風呂場に入り込んでくる男を、変態と言わずしてどうしろというのです」
それにいまのところ、男の存在を担保するのは、声と視線だけだ。
始めに声がしたときから、見られているという感覚が止んだことはない。
一糸まとわない少女を見つめる見知らぬ男を、だれが紳士言えようか。
「それは許してほしいね。キミがボクを認知できている理由がわからないんだ。もし視線を外したら、もう二度とこの邂逅はないかもしれない」
「ふむ、なら私の裸体には興味がないということですかね。それはそれでなんともむかつくような」
「言及してほしいのなら、そうだね。気にしていないのならあれだけど、もうすこし食べた方がいいよ。でないとそのつつましやかな胸は一向に成長しないだろうね」
「変態」
「理不尽だ。要望に応えただけじゃないか!」
少女は体を隠すように、自らを抱いた。
「まあ気にしていませんよ。気にしていませんとも。場合によってはこのシャワーヘッドが声のする方に向くだけであって」
「許しておくれよ。そもそもボクは、もう少し大人の女性が好みなんだ……ぎゃあ」
少女は器用にも、目を瞑ったままシャワーを出して、声のする方向に向けた。
幼い頃から過ごしている家の、狭い風呂場なんて、目を瞑っていてもそれなりに自由に行動できるのである。
「で、要件はなんなんですか?」
「なんの話かな」
「『もし視線を外したら、もう二度とこの邂逅はないかもしれない』なんて言っておきながら、本当になにも用がないと? では本当に、裸の少女をじっと見つめる変態というわけですね」
「あはは、冗談だよ。あるさ、要件。
だが、その前に質問がある。キミは今、ボクのことを何者だと考えているのかな」
「うーん」
目を瞑ったまま、顎に指をあてて、数秒。
「ありきたりに、幽霊とか」
「ほう、ならさしずめボクは、あの世に誘いに来た悪霊といったところかな」
「もしくは覗き魔」
「それは違うと弁明したいところだね」
「じゃあ、どう名乗るんですか?」
男は、今までより低く、安心させる声で、こう答えた。
「正気の声、とかどうだろう」
「正気の声?」
「歪みなき声と呼んでもいい。
人間は視界に80%も頼っているらしいね。でも、キミは今、その目を瞑っている。
考えたことはないかな? キミが言ったように、目を閉じたからこそ、視界の色眼鏡は機能しなくなるかもしれない、だから、本当の世界が"見える"かもしれないって」
「はあ」
「考えたことはないかな? キミはいままで五感すべてでもって『普通の生活を送る』幻覚を見ているかもしれないと」
「ああ、そういう」
「この視線は、残り20%の色眼鏡じゃなく、虚となった80%から伸ばされたものだと」
耳にじわじわと、声がしみ込んでくる。
その白い肌を這うように。
濡れた肢体を伝うように。
気持ちが悪くて、少女は体をぶるりと震わせた。
「キミは今、幻覚という、より望まざる色眼鏡を取り払った先にある、ボクの声を聴いているんだ」
「……」
「だから、キミは今、幻覚の間隙から、正気の世界の声を聴いている……なんていうのは、お気に召さないかな」
「それは……」
少女は、シャワーヘッドを持っていない方の手で、触覚を確かめるように自らの髪を梳いた。
「例えば、あなたは精神病棟のお医者様とか看護師さんとでも名乗りたいのでしょうか」
「それだけじゃない。もしかしたら、狂気に落ちたキミの中にある、正気な部分かもしれないね」
「かもしれませんね」
「だから、キミが望むのなら、そうだね」
男は間髪入れずに続けた。
同時に、少女の左手首が、大きな手に掴まれる。
「キミをその歪みから、助けてあげてもいい。ボクなら、それができるよ」
「……。は、はは!」
耳元でささやく、低く安心感のあるその声に。
少女は笑って返した。
「決まっています」
少女は瞼を開いた。
見ると、手首にはなにもない。痕ものこっていない。
もう、視線も声も、感じなかった。
代わりに、明るくてカラフルな、歪んだ世界が戻ってくる。
「誰も、自分が幻覚の世界で生きていないことを、証明なんてできませんよ」
もしそこを抜け出したとしても。
「あーあ。馬鹿らしい誘い文句」
お風呂場で裸の少女と男が会話する話なのでたぶんえっちな話です。