Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
最初にあったのは、音だった。
泣き声。小さく、薄く、けれどどこまでも切実な声が、暗闇のどこかで震えていた。
それ以外に何もなかった。空間の感覚もなく、自分の身体の輪郭もなく、時間が流れているのかどうかさえ判然としない。ただ泣き声だけが——幼い喉から絞り出された、必死な声だけが、何も存在しないはずの場所に響いていた。
意識、と呼べるものかどうかもわからない。
それは感覚の欠片のようなものだった。自分がどこにいるのか、今がいつなのか、何者なのか、何ひとつ定かではない。思考と呼ぶにはあまりにもバラバラで、記憶と呼ぶにはあまりにも霞がかっている。ただ、底のない水の中で目を開けたような——暗く、冷たく、どこにも手が届かない感覚だけがあった。
泣き声がまた聞こえた。
今度は、少しだけ近い。あるいは、自分がそちらへ寄ったのかもしれない。意志があったのか、反射だったのか、それすらもわからない。ただ泣き声に惹かれるように、意識のかたまりのようなものがゆるく移動した。
(寒い)
唐突にそれだけがわかった。寒い、ここはひどく寒い。
次に気づいたのは湿り気だった。夜の空気の重さ。土と落ち葉と、かすかに甘い腐敗の匂い。
そして泣き声の主が自分のすぐそばにいたのだ。
子どもだった。
毛布にくるまれた、小さな子ども。赤ん坊というには少し大きく、顔を真っ赤にして泣いている。毛布を蹴り、小さな手で何かを掴もうとしながら、夜の空気を震わせていた。
その声を聞いた瞬間、意識の底で何かが引き攣れた。
恐怖ではなかった。悲しみでもなかった。もっと原始的な、臓腑を掴まれたような感覚だった。この声が止まったら、この声が途切れたら。自分もまたこの暗闇の中へ沈んでいく。理屈ではなく確信だった。身体のない自分が、それでも全身で理解した。
(この子どもが死んだら自分も死ぬ)
その事実にぞっとするほどの嫌悪が走った。このわけのわからない状況のまま、何も成せずにこの子どものせいで消えるだなんて冗談じゃない。
子どもは毛布ごと、どこかの家の玄関先に置きざりにされているらしかった。視界がないはずなのになぜかうっすらとわかる。煉瓦造りの整った家、手入れされた生け垣。並んだ家々はどれもよく似ていて、夜の暗がりの中で同じ形の窓が同じ間隔で並んでいた。静かな、あまりにも静かな住宅街。
その一軒の玄関ドアの前に子どもがいた。
毛布と封筒が一通。
他には何もない。
泣き声がひときわ大きくなった。夜気を裂くように子どもの声が響く。しかし家の中に灯りが点く気配はなかった。カーテンの向こうは暗く静かで、誰かが起き出してくる様子もない。
底冷えする夜の空気は容赦がなかった。子どもの頬は冷たくなりはじめている。泣き声にはまだ力があったが、このまま放置されればやがて声は弱まるだろう。体温が下がれば、体力もなくなり、泣く力も失われる。
焦りが生まれた。
焦り——それが、覚醒してから最初にはっきりと「自分のもの」だと認識できた感情だった。混乱でもなく恐怖でもなく、ただ間に合わないかもしれないという焦燥。
何かをしなければならない。
だが、何を?
身体がない、手がない、声も出せない。この子どもに触れることも、毛布を引き上げてやることも、扉を叩くこともできない。ただここにいるだけ……いや、いるかどうかすらも怪しい、曖昧な残滓にすぎない。
それでも焦りだけは本物だった。
子どもの泣き声が少し変わった。怒りや不快から疲労へ、声がかすれはじめている。
(駄目だ)
その思考は驚くほど明瞭だった。暗闇と混乱の中、意識がそこだけくっきりと像を結んだ。
(駄目だ。このままでは死ぬ)
何もできない状況でも、それだけは理解していた。自分が死ぬ。この声が消えたら、自分という不確かな存在もまた、夜の中へ溶けてなくなる。
意識が子どものほうへさらに強く引き寄せられた。引き寄せられたというよりも、離れられなかった。この子どもの泣き声が、呼吸が、体温が、自分をこの場に繋ぎ止めている唯一の錨だった。
(泣け)
声にはならない、届くはずもない。それでも意識の全てを子どもへ向けて念じた。
(泣け。喚け。もっと大きく、誰かが気づくまで)
子どもの身体がびくりと震えた。偶然かもしれない、寒さのせいかもしれない。しかし次の瞬間、堰を切ったように泣きはじめた。先ほどよりもずっと大きく、ずっと激しく、小さな肺の限界を試すように。
それが自分のしたことなのかわからなかった。ただの偶然かもしれない。けれど泣き声が大きくなった瞬間、わずかに安堵した自分がいた。
泣け。もっと。
家の中で何かが動いた。
二階の窓にうっすらと灯りが滲み、カーテンの向こうで人影が揺れた。重い足音が階段を降りてくる気配がする。ドアの向こうに、生きた人間の存在が近づいてくる。
ドアが開いた。
太い首の上に大きな頭と小さな目をのせた男が、不機嫌を顔じゅうに塗りたくって立っていた。その目は、まず子どもを見て、次に封筒を見て、それから左右の暗い通りを見回した。
男の顔に浮かんだのは、驚きでも心配でもなかった。嫌悪だった。はっきりとした生理的な嫌悪。まるで玄関先に汚物を置かれたかのような顔で、男は子どもを見下ろした。
「ペチュニア!」
太い声が家の中へ向かって吠えた。返事が来るまでの間、男は子どもを拾い上げようとしなかった。ただただ見下ろしていた。泣き続ける子どもを、腕を組んで、嫌悪を表情に滲ませたまま。
意識の中で、何かがどろりと冷えた。
嫌な予感、というには明瞭すぎた。この男はこの子どもを大事にしない。それが直感でわかった。理屈ではなく、男が子どもへ向ける視線を見た瞬間にわかった。
痩せた女が階段を降りてきた。長い首を伸ばし、玄関先を覗き込み、毛布にくるまれた子どもを見た瞬間、女の顔から血の気が引いた。
「まさか——」
女は封筒をひったくり、中の手紙を読んだ。読み終えた手が震えていた。しかしそれが悲しみの震えなのか、怒りの震えなのか、意識にはまだ判別がつかなかった。
「あの子の——」
女は最後まで言わなかった。唇を引き結び子どもを見下ろし、それからようやく、しぶしぶといった動作で毛布ごと抱え上げた。抱き上げた、とは言いがたかった。まるで荷物を持つように。壊れ物を持つようにではなく、汚れ物を仕方なく拾うように。
子どもはまだ泣いていた。
女の腕の中で泣く声は、不思議と先ほどより小さくなっていた。暖かい場所に移ったからではなく、泣き疲れたのだ。小さな身体が限界に近づいている。
ドアが閉まった。
家の中は外よりも暖かかった。しかし空気は温かくなかった。夫婦の間を流れる沈黙は夜風よりもよほど冷たかった。
「預かるしかないだろう」
男が言った。義務感ですらない苦々しい諦めの声だった。
「近所の目がある。あの厄介な連中……くそ、絶対にかかわり合うことはないと思っていたのに……」
「わかっているわ」
女の声は硬かった。子どもを居間のソファに置き、自分はその横に座りもせず、少し離れた場所に立っていた。
その距離を意識は見ていた。
身体もなく目もなく、それでも見ていた。女と子どもの間にある距離。それは物理的な距離であると同時に、もっと別の何かだった。この女はこの子どもを大事にはしないだろう。泣いても、熱を出しても、夜中に目を覚ましても。この距離は縮まらない。
二階からもうひとつ泣き声が聞こえた。もっと太い、もっと力のある泣き声。夫婦の子どもだろう。女はすぐにそちらへ向かった。振り返りもしなかった。
ソファの上に、子どもがひとり残された。
泣き声はもう止まっていた。泣き疲れて、ようやく眠りに落ちたらしい。毛布からはみ出した小さな手が、何かを掴むように空を握っていた。額に稲妻の形の傷があった。
その傷を見た瞬間、何かが記憶の底で弾けた。音ではない。光でもない。もっと生々しい匂いのようなもの。焼けた空気の匂い。緑色の光の残像。叫び声。女の叫び声。
意識が大きく揺れた。
何かを思い出しかけている。何かを……しかし記憶は不鮮明で霧のように散ってしまい掴めなかった。ただ不快な余韻だけが残った。胸がないはずなのに、胸の奥が焼けるような感覚。憎しみに近い、もっと不愉快な何か。自分がとんでもない失敗をしてしまったような、何か取り返しのつかないことをしくじったような絶望感。
やめよう、考えるな。今はそれどころではない。
子どもは眠っており、小さな胸が上下するのが意識にもわかった。呼吸して、生きている。それだけが今この瞬間に確かなことだった。
意識は子どものそばにとどまった。離れようとしたわけではない。離れるという選択肢が、そもそも存在しなかった。この子どもの中にいるのか、この子どものそばにいるのか、それすらまだ判然としない。ただ、ここに存在していることだけは確かだった。
暗い居間の中、時計の針がかちかちと音を刻んでいた。女も男も降りてこなかった。水をやることも、毛布を足してやることもなかった。この子どもはソファの上でひとりぼっちで眠っている。
意識は、ただ見ていた。
自分が何者で、なぜここにいて、何をしたのか何ひとつわからない。記憶は霧の中にあり、思考すらも朧げで輪郭を取り戻していない。自分の名前さえ……そもそも名前があったのか人だったのかどうかさえも曖昧で定かではない。
思い出せないのではなく、最初から何も与えられていないような、ひどく切り取られた感覚だった。輪郭だけがあり中身がない。それなのに、消えることへの恐怖だけは説明のつかない確かさでそこにあった。
わかっているのはひとつだけだった。
この子どもは、ひとりだ。
毛布にくるまれて、知らない家の冷たいソファの上で、誰にも抱かれることなく眠っている。額に奇妙な傷を負った、泣き疲れた子ども。自分以外に、今この子どものそばにいる者はいない。
(いや、自分が「いる」と言えるのかどうかさえ怪しい)
触れることもできない、声をかけることもできない。毛布を動かすことも、何もできずただいるだけだ。
それでも。
子どもの小さな手が、また空を握った。眠りながら、何かを探すように。何かを掴もうとするように。
その仕草を見たとき、意識の中で何かが静かに定まった。
決意、というほど大仰なものではなかった。覚悟、というほど崇高でもなかった。仕方がない、という諦めですらなかった。もっと不愉快で痛烈な、自分の生存がこの子どもの生存に依存しているという、ただそれだけの、腹立たしい事実だった。
この子どもを、どうにか生かさなければならない。自分が死なないために。
触れられない、声も出せない、自分にできることはただ見ていることだけ。甚だ不本意だが、手段がそれしかないならそうするまでだ。
夜は長かった。
時計の音だけが暗い部屋に響いていた。子どもの呼吸は安定していたが、時おり小さく身じろぎをして毛布がずれた。そのたびに意識は苛立った。毛布を直してやれないからではない。直す手段を持っていない、身体がない指がない、毛布の端を引き上げるだけの力すらない。その無力さと無様さに腹が立った。
やがて窓の外が、ほんのわずかに白みはじめた。
朝が来ようとしていた。プリベット通り四番地の家々は、まだ寝静まっている。誰も玄関先に子どもが置かれていたことを知らない。誰も、この子どもがどこから来たのかを気にしない。
子どもが目を覚ました。
泣かなかった。ただ大きな目を開けて、暗い天井を見上げていた。緑色の目、朝の薄明かりの中でもはっきりとわかるほど鮮やかな緑。
その目が何かを捉えた。
天井でも壁でもない、何もないはずの空間を——意識がいるはずの場所を、まっすぐに見た。
見えているわけがないと、そう思った。自分には姿がなく形もない。見えるはずがない。
しかし子どもは、見えないはずのそこを見つめて小さく口を動かした。声にはならず、ただ口が動いただけだ。それでも——。
泣かなかった。
昨夜あれほど泣いていた子どもが、暗い知らない家の暗いソファの上で目を覚まして、泣かなかった。毛布の中で身体を起こし、あの緑色の目で何もない空間を見つめて、小さな手をまた握って、それから静かにまばたきをしている。
意識はそれを見ていた。
見ていることしかできなかった。