Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
「なあ親なし!」
「ごめん。舌ったらずな君の言葉ってよくわからないんだよね。痩せたら?」
……。
「おまえはいつもブカブカの服ばっかだよな」
「君のお下がりだよ。着ていた服の柄も覚えてないの?」
…………。
「おかしなハリー・ポッター! 誰もおまえと友達にならないじゃないか」
「知ってるよ。でもそれってダドリーのせいでしょ」
……うんざりだ、勘弁してくれ。十歳の少年というものはこうもやかましいのか。
小さかった子どもは、少年になった。相手は横にも成長したからか、お古の服はブカブカで、丸い眼鏡はセロテープで止めてある。眼鏡は前に顔面を殴られてから、修理してくれずにそのまま使われている。
なお、どうやら最近のダドリーは、子どもの顔面を眼鏡ごと殴るよりも、知った言葉で口喧嘩をすることにご執心なようだ。覚えたての言葉を、さも誇らしげに振りかざしている。しかも振りかざしている言葉すら、誰かの受け売りである。意味すらわからずに使っているのだろうか、恥ずかしくはないのだろうか?
そして子どもも、言われた以上に言い返す。ダドリーの顔が赤くなり、子どもへと殴りかかった。なお、取り巻きが居ない時のダドリーは愚鈍で、最近では子どもも避けることができるようになっている。
ハリー・ポッターは、ずいぶん口の達者な子どもへ育った。
ダーズリー家の理不尽に黙って耐えるより、嫌味の一つでも返す方を選ぶようになったとでも言えば良いだろうか。
「パパが言ってたんだけど、おまえってまともじゃないんだってさ」
「へえ、やっとパパの言葉を真似ることができるようになったんだ。すごいね」
そして口が悪い。ダーズリー家の悪影響だろうか?
相手の言葉を拾って皮肉で返す、観察して穴を指摘する。そしてときどき、聞き覚えのある言い回しを使う。
……僕か? いや、気のせいだろう。
それよりもこの不毛なやり取りである。毎回毎回延々と聞かされ続けるこちらの身にもなってほしい。子どもの不毛な言い争いなど価値のないものを、なぜ聞き続けなければならないのだろうか。嫌がらせだろうか。しかも二人がかりである、勘弁してくれ。いっそ仲良しなのだろうか。台所で殴り合ってどちらも燃え尽きないだろうか。
最後にはダドリーが手を出し、子どもが走って逃げる。そして殴れなかったダドリーは、最近は別の何か……子どもをからかえるような情報を仕入れてくる。最近の「ダッドちゃん」は、人の話を聞く。ということを覚えたらしい。殴る、泣きつく、それ以外の手段を探そうとする程度には、この丸々太った子どもも成長しているらしい。大変面倒なことである。
◇
十歳の冬、十一月の終わり際のことである。庭の土が朝には白く霜がかかり、物置の中では吐く息が見えた。紅茶を淹れる役目は、今もこの子どもの仕事になっている。そのおかげで一日に何度か、台所という暖かい場所に合法的に立つ権利を得た。
この家で得た権利としては、おそらく最大のものだろう。
そこへダドリーが入ってきた。冷蔵庫を開け、目的の何かを探しているようだ。見当たらなかったのか、そのまま立ち尽くしている。なお引き続き言い争いは発生していた。いい加減にどちらか引っ込むべきだと思わないか?
ふと、ダドリーが冷蔵庫に寄りかかりながら子どもへと話しかけた。
「なあ、おまえって自分のパパとママがどうやって死んだか知ってる?」
「自動車事故でしょ」
ダドリーはニヤニヤし始めた。
「そうだけどさあ」
ダドリーは笑っていた。さも得意げに、今から言ってはいけない秘密を話すかのように。
「パパから聞いたんだ。どうやら、酔っぱらって突っ込んだらしいぜ? おまえの父親。だからおまえの父親はろくでなしなんだって」
「え」
子どもの手がとまった。
「なにそれ」
つい口に出てしまったのだろう。この子どもは口を閉じたが、どうやら遅かったようだ。
「知らねえの!?」
ダドリーが笑い出した。腹を抱えてだいぶわざとらしく大声を出している。
「まさか聞いていないのかよ! 玄関に置かれてたらしいじゃんおまえ。パパがぼやいてたぜ、仕方なく引き取るしかなかったって」
「……」
「誰も引き取らなかったんだってさ。おまえのこと。あんな連中の子どもを置いてやっているのはうちくらいだって!」
「……」
子どもは何も言わなかった。
それは仕方がないことなのかもしれない。この子どもにとって、両親というものはなく、ダーズリー以外の家族を知らない。
事実など、本当かどうか何一つ反論できるようなものを持っていないのだから。
「なんか言えよ」
ダドリーが子どもをつついた。何も反応がないのが面白くなかったらしい。
子どもは、そのままダドリーを無視して紅茶を作り始めた。
淡々と家事を進めている子どもを見て、どうやらダドリーは興味を失ったらしい。冷蔵庫をもう一度開き、ぼやきながら出て行った。
(……ハリー?)
「…………」
紅茶を作る手がほんの少し震えていた。返事はない。
その後、子どもは一言も余計なことを喋らなかった。
紅茶を運び、皿を並べ、呼ばれれば返事はした。だがそれ以外では一言も話そうとしなかった。バーノンが会社の社員の愚痴を言い、ペチュニアがそれに対して相づちを打ち、ダドリーが台所での一件を面白おかしく茶化そうとして、途中でやめていた。どうやら、口の中に食べ物があることを思い出したようだった。
◇
その日の夜、いつもであれば昼のことを蒸し返し、あれはおかしいあれは変だと愚痴ることが多いのだが、この子どもは黙ったままだった。
「トフィー」
(何だい)
しばらく間があった。子どもは、ぐるぐると目を回しながら、話す内容を考えているらしい。
「あのさ」
「トフィーは知ってる?」
「昔のこと、僕のお父さんとお母さんのこと」
……さて、どう答えたものか。
九年前の玄関先での出来事。この子どもが捨て置かれた状況であれば知っている。ダーズリー一家が、子どもに気付き、それから家の中に入れるまでの一部始終も。
両親のことも、知っている。
いや「ろくでなし」かどうかといった性格や人物像は知らない。だが、父親が武器も持たずに立ち塞がり、母親は死ぬまで子どもを庇っていたことは知っている。それだけだ。自動車事故で死んだわけではない。少なくとも酔っ払い運転による事故で死んだわけではないとはいえる。
だが、言ってどうなる? 殺したのは僕だと話してどうする?
僕の力をこの子どもが使っている。混じっているのか、喰われているのか、それすら分からない。そんな状態で、この子どもとの関係がひっくり返るような話をして、何かしらの影響が出たら困る。
現状は黙っておくほうが良いだろう。ではどう誤魔化すか。
(なぜ、僕が知っていると思うんだい?)
嘘ではない。ただ、質問を返しただけだ。
昔、声を荒げたことはあれど、もしあの時から子どもの認識があまり変化していないのであれば、この言葉ははたしてどう見えるだろうか。
なお意趣返しではない。決して。
子どもはその言葉を受けて考え始めたようだ。
「……そっか。そうだよね」
(ああ、そうだね)
相づちは適当である。同意だけしておけば、この子どもは自分の良いように解釈するだろう。
「トフィー、僕の頭の中から出たことないもんね」
……最悪である。
ああも言葉を重ね、僕はこの子どもの想像の産物でも妄想でもないと説明したのに。それにも関わらずこの言葉に納得するのか。
納得させるための言葉を吐いたのはこちら側ではあるが、すんなりと納得されるのはやけに苛立たしく神経がささくれ立つ。
声を荒げようとして黙った。いや、今この場は反論してはいけない。
(……そうだね)
言いたいことをなんとか切り捨てて絞りだした。声は怒りで震えていなかっただろうか?
「そうだよね。ごめんね、知らないこと聞いて」
なぜ、この場にあの太った子どもはいないのだろうか、いたらこの子どもを殴って黙らせてくれないだろうか。
この僕を無知だと、無能だとでも言いたいのか? どうしてこうも人の嫌がる部分を的確にえぐるような言葉を吐くようになってしまったのか、昔の子どもにはもっと可愛げがあったはずなのに。まったく誰に似てしまったのか。ダーズリー家か? どこのどいつかは知らないが、余計なことをしてくれたものだ。
(…………そうだね)
訂正しなかった。どんなにはらわたが煮えくり返っても、今この場は耐える必要がある。
……いつか肉体を手に入れ、寄生している現状から抜け出すことができたなら。真っ先に「両親を殺したのは自分だ」とこの子どもに吐き捨てようか。
ああ、その時を夢見て指折り数えようか。きっと愉しくなるだろう。
「ダドリー、パパから聞いたんだって言ってた」
(言っていたね)
「僕、一度も聞いてない。同じ家に九年もいるのに」
いや。それは、そうじゃないか? これは本人には言わないたぐいの話だろう。親がろくでなしだなんて、子どもに向けて直接言うものではない。
バーノンは「普通でまともな人間」と自称自認するだけあって、摩訶不思議なことに関わらない限りは基本偏屈で意地の悪いだけの人間だ。そこらへんのあれそれを直接話すべきではない。という常識程度は持っているのではないだろうか。
ダドリーにはそんな考えはないみたいだが。
(……)
「僕、自分のこと何も知らないんだね」
子どもは天井を見ていた。天井には蜘蛛の巣がある。冬なので蜘蛛はおらず、糸だけが残って揺れている。
そういえば、この子どもは、昔「ボス」と名付けた蜘蛛がいたことを忘れてしまっただろうか。あの蜘蛛は一年待たずに死んでしまっていた。
自分のことを知らないと嘆く子どもは、自分こそが知らず知らずのうちに何かを忘れている自覚もないのだろう。
そのうち、こうやって毎晩話し合ったことも、忘れてしまうのだろうか。
「……うん。まあ、いいや」
この子どもは、しばらくしてからそう言い、寝返りを打った。その言い方には、諦めではなく納得が混じっていた。
沈黙を同意と受け取ったのだろう。そうだね、君は何も知らないね、とでも言われたと思ったのだろう。
実際にはまったく違う。
僕は知っている。この子どもが何を忘れてしまったのかを、一つ残らず。
◇
子どもの寝息が深くなるまで、いつもよりも長くかかった。
知らない知らないと嘆く子ども。子どもが無知なのは、ダーズリー家が話さないからであり、僕が話さないからでもある。
もしかするとダーズリー家も、言っても無益だと、意味がないと考えているのかもしれない。
ならば、このままであれば、この子どもは両親が死んだ理由に辿り着くことはないだろう。ただ害のない存在として近くにいるだけで良い。
…………。
「トフィー」。その名前の由来も、この子どもは忘れてしまったのだろうか。蜘蛛のボスと同じように。
いいものだと。言った記憶も消えてしまったのだろうか。
尋ねることはできなかった。
もし、両親を殺したのが僕だと知ったとき「トフィー」という名前は、この子どもにとって忘れられないものになるだろうか。
毛布の位置がずれ、子どもの額が出ていた。
稲妻の形をした傷が、暗がりでもうっすらと見える。
そう、僕がつけた傷だ。