Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
「ストーンウォールじゃ新入生の頭をトイレに突っ込むらしいぜ。練習してやろうか?」
「遠慮しておく。トイレだって君の頭みたいに気味が悪いものを流したことはないだろうさ」
そう吐き捨てるや否や子どもは素早く走り出した。
……。
(ハリー。今のはダドリーに伝わってなかったんじゃないか?)
「いいの。わざとダドリーに理解できない言い方してるから」
なるほど。振り返ると、ダドリーはまだこの子どもの言ったことを理解できていないのか呆然としていた。
爬虫類館の大蛇逃亡事件により、この子どもは過去一番長い仕置きを受けた。物置から出ることを許されたときには、すでに夏休みが始まっていた。
(歴代最長記録の更新お疲れ。クリスマスまでという脅しが無効になってよかった)
「お疲れどころじゃないよ。ほんと、信じられない」
(まったくだ。蛇は自由にブラジルを目指したというのに、功労者は物置で干からびているなんて)
「トフィー。慰めてる? それともおちょくってる?」
(どうにもならないなら、せめて愚痴くらい聞いてあげようという気遣いだよ)
なお、物置から出て始まった夏休みは、自由とは程遠いものだった。
毎日ダーズリー家に入り浸るダドリーの取り巻きどもに、もらったプレゼントで早速破壊活動に精を出しているダドリー。ミセス・フィッグは運の悪いことに自転車に乗ったダドリーと接触事故を起こし骨折が長引いてしまっていた。
そのような環境からは距離をおくべきだと、この子どもはなるべく家の外で過ごしている。
最近は「夏休みさえ終われば」が子どもの口癖になっていた。九月になれば子どもは七年制の中等学校に進み、そしてダドリーは別の名門校へと入るらしく、やっと離れ離れになれるそうだ。
まあ、この子どもが行く予定の「ストーンウォール校」は、ダドリー曰くトイレに頭を突っ込む儀式があるそうだが。
(ダドリーがホラ吹きだとしても、ストーンウォール校の評判はあまり良くないみたいだね)
「別になんだっていいよ。あのウスノロ軍団から離れられるならさ」
◇
「ダッドちゃん素敵よ! まさかこんなにハンサムな子があのちっちゃかった私の坊やだなんて……!」
……。
「ダドリー坊やがこんなにも大きくなるとは、誇らしいよ……」
……。
(ハリー、あれは何かの罰なのかい?)
視界の暴力である。
茶色いモーニングコートにオレンジ色のニッカーボッカー。平べったい麦でできたカンカン帽。
オレンジ色のニッカーボッカーは太ももがパツパツしており、腰まわりは贅肉が溢れ、丸々とした子どもの腹が今にも新品のコートのボタンを弾き飛ばしそうだ。
その状態で居間をドシドシと歩くものだから、制服が悲鳴をあげている。
しかもその可哀そうな制服を見て、ペチュニアは涙ぐみバーノンは立派だ立派だと繰り返していた。この家の美的感覚については以前から疑っていたが、ここまでとは思わなかった。
そのうえ、抱きしめようとしたペチュニアを節くれだった杖を振り回して阻んでいる。あれに武器になるようなものを与える感性もよくわからない。
(ねえ、ハリー)
「……」
子どもは震えながら沈黙している。どうやら笑いを堪えているようだ。
なおその夜、物置であばら骨が折れるかと思ったというぼやきと、笑いを我慢している時は面白いことを言わないでほしいという愚痴を聞かされた。こちらとしては純粋な疑問だったので甚だ遺憾である。
翌朝。
台所には妙な悪臭が漂っているようだった。くさいくさいと子どもが顔を歪ませて鼻を押さえている。
発生源を確認すると、流しに大きなたらいが置かれペチュニアが灰色の水をかき回していた。汚れた雑巾でも煮ているのか?
「なにこれ」
「おまえの新しい制服よ」
昨日の茶色にオレンジといった視界の暴力と比べて、こちらは随分と陰湿だ。
子どもは、まじまじとたらいをのぞき込んだ。
「そう。こんなに臭くて濡れねずみじゃないといけないなんて知らなかったな」
中でぷかぷかと揺れているのはダドリーの古着だろうか? それを灰色に染めている……と。
「お黙り! 仕上がればちゃんとした制服になるからね」
(この汚らしいボロ布が? 正気じゃないね、よく近所を覗き見している割には、何も見えてないんじゃないか?)
子どもは黙ってこちらを睨んだ。
……笑うな、という訴えだろうか。それとも、いっそ笑ってくれ。ということだろうか。
子どもは黙って食卓に戻りながら、ぽつりと言った。
「これを着てストーンウォール校に入学する僕は、きっと浮浪者みたいに見えるだろうね……」
(……流石に近所の目を気にするんじゃないか?)
「そうだといいけど」
その時、郵便受けが開く音がした。
取ってこいと命令された子どもは、マットの上にしゃがんだ。絵葉書が一枚に茶封筒が一通、それからもう一通。
厚い羊皮紙の封筒だった。宛名が緑のインクで書かれており、切手はない。
震える手で子どもが封筒を手にとって裏返した。封蝋には紋章がある。獅子、鷲、穴熊、そして蛇。
宛名にはこう書かれていた。
プリベット通り四番地 階段下の物置内 ハリー・ポッター様
「僕の名前だ」
(……そうだね)
「僕に手紙なんて、来たことないのに」
およそ十年ほど、この家にこの子ども宛てで郵便が来たことは一度もない。だがそれよりも気になることがあった。
階段下の物置内。
差出人は、この子どもがどんな環境にいるのかを知っている?
「トフィー、これって」
(今すぐ開くかどこかに——)
「小僧、早くせんか!」
痺れを切らしたのかバーノンがやってきた。太い手が伸びてきて、この子どもの指ごと郵便物をひったくった。
「それ、僕のだよ!」
「おまえに手紙なんぞ来るわけなかろう!」
バーノンは笑いながら郵便物を確認した。そして、封蝋と宛名を見た。
そう、階段下の物置内と書かれた手紙を。
一瞬で顔を真っ青にしたバーノンはペチュニアを呼んだ。呼ばれたペチュニアも封筒を見て、同じように顔色を失った。それから、何も言わずに封筒をポケットへと押し込んだ。
「物置へ行け。今すぐだ」
「僕の手紙だよ! 返して!」
「行け!」
そう怒鳴ると子どもの襟首をつかみ物置へと放り投げた。
「……トフィー」
(見たかい。あの二人の反応を)
「うん」
(あれは、何かを知っている反応とは思えないか?)
封蝋の紋章には見覚えがあった。四つの生き物と中央の文字。……それにしても、あれは何故切手もなしにこの家に届いたのだろうか。
てっきり誰かがこの子どもに持ってくるものだと思っていた。誰かが訪ねてきて、直接手渡すものだと。
記憶を探ろうとし、赤毛の髭がちらつき即座にやめた。何故だか物凄く嫌悪感が湧き上がってきたので。
(……そうだね。ひとつだけ言えることがあるとしたら)
「なに」
(返事がなければ、また来ると思うよ)
細かいところまで宛名に書いているのだ。こちらの状況も把握している可能性があるだろう。
◇
その晩、奇妙なことが起きた。バーノンが物置を訪ねてきたのだ。
笑おうとして失敗したような歪んだ表情をしながら、物置は狭いだろう。おまえも成長したからダドリーの二つ目の部屋に移ったらどうか。と。
(ハリー、先ほどの宛名が効いているんじゃないか? 甥を物置に閉じ込めているとバレて焦っているのかもしれない)
「……じゃあ、今すぐ移っていいの?」
「ああ、すぐ二階へ行くんだ!」
物置から二階へ、子どもの全財産を移すのに手間はかからなかった。しかしダドリーの二つ目の部屋はガラクタばかりで、ベッド以外は足の踏み場もなさそうなありさまだった。子どもが昔に壊したコンピュータもそのまま残っている。
片付けをするつもりはないのか、そのまま子どもはベッドへと倒れこんだ。
「……」
「ママ! あいつを追い出してよ、ぼくの部屋なのに……いやだよ……」
一階でダドリーが喚いているのがうっすらと聞こえてくる。どうやら暴れてもいるようで、バーノンを学校の杖で叩いたり、母親を蹴飛ばしたりもしているようだ。その惨劇音を聞きながら、子どもはため息をついた。
「ずっと物置だったのに」
(封筒一通でここまで変わるもの。だったのだろうね)
「はあ。昨日までだったら嬉しかったんだけどな。今は手紙のほうが気になるよ」
あーあ。と何度もため息を吐きながら、子どもは眠りについた。
なお、子どもが寝入った後もダドリーは暴れ散らかしたようで、朝になった時には温室の屋根はぶち破られ、ペットの亀はどこかへとちからいっぱい放り投げられたらしく行方不明になっていた。
そんな状況にもかかわらず、封筒は再度届いた。
プリベット通り四番地 一番小さい寝室 ハリー・ポッター様
ご丁寧なことに宛名まで変わっている。郵便を取りに行ったダドリーが、その宛名を大声で読み上げていた。
(引っ越したことまで把握されるのか)
「えっ、怖……」
怖いと感じたのはこちらだけではなかったらしい。バーノンは気の狂ったような叫び声をあげて廊下へと駆け出し、ダドリーから手紙を奪いとるとびりびりと破り捨てた。
「ねえ、トフィー」
(何だい)
「たぶんこの感じだとまた来るよね?」
(だろうね)
きっとこの子どもが手紙を受け取り、なおかつ中身を見るまでは延々と届き続けるのではないだろうか。
「ふーん……」
何故だろうか、嫌な予感がする。
(ハリー?)
「大丈夫、任せて。僕に名案がある」
(僕はやめたほうがいいと思うよ)
一切詳細は聞いていないが、確実に良くない結果に終わるだろう。
子どもは急いで壊れた目覚まし時計を直し始め、その目覚ましは翌朝六時に鳴った。そうか、朝早くに起き誰にも見つからないうちに手紙を確保するのか。確かに良い案には思うが……
(電気もつけずに大丈夫かい?)
「起こしちゃうでしょ。大丈夫」
子どもはひっそりと階段を降り、暗い廊下を忍び足で進んでいく。
……この子どもが自信満々な時はやらかすことばかりだった気がするが、今回はうまくいきそうだ。
むにゅ。
そう考えた時、何やら柔らかそうな音がした。
…………よくよく凝らしてみると、玄関マットの上で子どもは何か大きいものをおもいきり踏んづけていた。
「「…………」」
どうやら、大きなものはバーノンのようだ。子どもはバーノンの顔面……鼻や口元を的確に踏みぬいてしまっている。
いや、子どもはまだ何を踏んづけたのか理解できていないのか、若干足をぐりぐりと動かしている。
時が止まった。
そう感じたのは僕だけなのかもしれない。踏みつけた側と踏まれている側、それぞれ状況を理解するのに数秒かかったようだ。
「「ギャアアアァッ!?」」
子どもは空中に飛び上がり、バーノンは飛び起きた。
今回はうまくいきそうだ。なんて考えた僕が悪かったのだろうか? ……いや、違う。玄関で寝ている男と、足元を見ない子どもが悪い。
あとバーノンは何故玄関で寝ようなどという発想に至ったんだ? 何にそこまで駆り立てられているのだろうか。あまりに滑稽で見ていられない、狂うのであればせめて人間という自覚は最後まで持っていてほしい。
それから三十分ほど子どもは怒鳴りつけられ、最後に紅茶を淹れろと命令された。
とぼとぼと台所へと向かう子どもは、器用なことに小声で叫び始めた。
「トフィー教えてよ!」
(僕は止めたじゃないか。……まあ潰れたバーノンの顔は傑作だったよ)
「笑いごとじゃないよ! 顔を踏んだんだよ!? 人の顔を足で!!」
(僕は踏まれる側も大概だと思うけど。そもそも玄関で寝ておきながら、踏まれて文句を言う権利があると思うかい? 自ら玄関マットになったからにはあれは「踏んでくれ」というアピールだったのかもしれないだろう)
「適当言わないで! あの感触が、鼻のぐにっとした感じが……! う、うわあああ思い出して鳥肌が!!」
両手で腕をこすっている。長年殴られてきた相手の顔をたった一度踏んだだけでこの騒ぎ、実に安上がりな復讐だと思うのだが。
(いやあ、惜しかったね。もっと執拗に踏みつけてやればよかったのに。四、五回くらいは追加で踏みつける価値がありそうな玄関マットだったよ)
「やだよ!? なんでそうなるの? おじさんの顔ってものすごいぐにゃぐにゃなんだから!」
(体脂肪の問題じゃないかな。踏みつけた側の安全は保証されているようなものさ)
「安全だからもっかい踏めって!? 嫌だよもう二度と早起きしない!」
早起きはしてくれないと困るんだが。
なおそこまで苦労して手に入れようとした本日の手紙は、紅茶を淹れて戻ってきた時にはバーノンが破り捨てていた。
「僕の手紙……!」
子どもが悲しそうな声をあげたが、この調子であればまた明日も届くだろう。
……僕の見間違いでなければ、同じ手紙が三通ほどに増殖していやしないだろうか?