Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
バーノンは壊れた。
いや、気が狂った。と表現したほうが良いだろうか。
手紙を破り捨てた後、会社にもいかずに口に釘をたくさん頬張りながら、郵便受けを執拗に嬲っていた。
「郵便受けさえなけりゃ……配達さえなけりゃ……」
郵便受けに釘を打つよりも、いっそハンマーで叩き壊した方が早いのではないだろうか? まるでサボテンのようになっている。
「見てよトフィー、おじさんの顔がすごいことになってる。色がどんどん変わってるや」
(そうだねハリー、まるで熟れすぎたトマトみたいだ。あの顔色では、あと数日もすれば血管の一つや二つ派手に切れてしまっても不思議じゃない)
「トマトに失礼だよ。トマトはあんな紫にならないって」
そのまま子どもと共に不気味なバーノンを観察していると、ペチュニアが休憩に持ってきたケーキをハンマーと間違えて郵便受けに叩きつけそうになっていた。よくもあのざまで『まともじゃない』などと他人を評価できるものだ。
なお、無残な見た目になった郵便受けにもかかわらず、手紙はドアの下から滑り込み、台所の窓の縁から入り込み、金曜日には手紙は一日であわせて十二通も家の中へと届くようになっていた。
バーノンはさらに壊れた。
「フーン、フフフーン。フンフフーン」
……あれは豚の鳴き真似だろうか?
届いた十二通すべてを燃やした後、妙なだみ声でふんふん言いながら家中の隙間という隙間に釘を打ち付けている。ドアの隙間に窓の隙間、これでは家から外に出ることもできない。
(ハリー。あれは何をしているんだい、豚の鳴き真似かな?)
「たぶん『チューリップ畑を忍び足』を歌ってるんだと思う……」
(あれは歌なのか……)
じっくりと聞き取ろうとしても騒音にしか聞こえない。あの妙な調子の鼻息でよく歌とわかるものだ。
そしてバーノンの努力も空しく、土曜日には手紙は倍の二十四通届いた。牛乳配達人から手渡された卵に隠されており、この手紙の配達手口も徐々に巧妙になってきているようである。手紙はミキサーにかけられ、粉々になっていた。
バーノンはますます壊れた。
「今日は日曜だ! 郵便配達は休みだ。今日は何の心配もない、そう何も——」
そう嬉々として言いながら、虚ろな目に満面の笑みを浮かべて新聞紙にママレードを塗りたくっている。
……あまりにも自然な動作で見逃していたが、新聞紙を食べるつもりか? どうやら食べようとしているものが食べ物かどうかの判断もつかなくなっているようだ。
あのまま気付かずに食べきってしまうのか興味がわいたため、子どもが何か話そうと口を開きかけたところを遮った。
(ハリー待つんだ。もう少し様子を見よう、僕はあのまま気付かず活字を腹に入れるかどうかを見てみたい)
「えっ?」
子どもはバーノンを二度見してから急いで顔を下へ向けた。口を引き結んで震えている。……どうやら新聞紙を指摘しようとしたわけではないらしい。
ママレードを塗り終えたのか、バーノンは口へ新聞紙を運ぼうとしている。
……。
その瞬間、暖炉からバーノンの後頭部へ向けて手紙が襲いかかった。
数十通はあるだろう手紙が弾丸のように噴き出し、天井へ舞い上がり壁にぶつかり床を白く埋め尽くしている。
子どもは手紙を掴もうと飛びかかり、悲鳴をあげていたダドリーは何故か子どもへ突っ込んできて、バーノンの太い腕が封筒を叩き落とした。
三つ巴の取っ組み合いが始まった。
吹き飛ばされた子どもはダドリーが鷲掴んだ手紙をもぎ取ろうとし、ダドリーはヘッドロックをかけようとし、バーノンはそんな二人をまとめて掴もうと両腕をぶんぶんと振り回している。ペチュニアは甲高い悲鳴をあげ、手紙はなおも暖炉から噴き出し続けた。
とんでもない大混戦へ発展してしまっている。
手紙はこんなにも大量に噴き出し続けているのに、何故だか目の前の人間を倒すことに意識がいってしまっているように見える。ダドリーの腕から抜け出した子どもは、バランスを崩したダドリーを突き飛ばし、勢いのままテーブルの下にある手紙を取ろうと駆け出した。
(ハリー、後ろからバーノンだ)
子どもは手紙を引っ掴んだまま床を転がり、バーノンの手が空を切った。子どもは体勢を整え手紙を開けようとするが、転んでいたダドリーが立ち上がり子どもへと殴りかかろうとしている。
……それにしてもこれは収拾がつくのだろうか? 正直なところ、無言のまま取っ組み合いを始めた三名に若干ついていけていない。なおペチュニアは悲鳴をあげ続けている。
最終的に子どもとダドリーは、ゼイゼイと息を切らしたバーノンに捕まり廊下へと放り出された。子どもが握りしめていた手紙は、破けんばかりの勢いで奪い取られている。
手紙を部屋へ封印したバーノンは、きまりだ出発だ問答無用だと物凄い形相で口髭を抜きながらまくし立てた。
そのあまりの異様さからか、誰も反論することなく車に詰め込まれている。……滑稽なものが見られると思ったが、まったく良いところで手紙が来たものだ。
◇
プリベット通りから逃げ出し、車はどこまでも走った。
壊れたバーノンにはどうやら明確な目的地もないらしく、蛇行したり反転したりと荒い運転を繰り返している。
更にはぶつぶつと虚空へと話し続けており、まるで何かに取り憑かれたような有り様だ。
森の奥深くに入り、畑の中に入り、ときどき停まっては車を降りて周囲を見回し頭を振り、そしてまた走り出す。そのようなことを何度も繰り返している。
(……あれは何の儀式なんだ)
「さあ……」
子どもはどうでもよさそうにぼやいた。車にずっと閉じ込められているせいかぐったりとしている。
「ママ、テレビが見たいよう!」
「もう少しよダッドちゃん、もう少しだからね」
……この親子の会話は、いったいこれで何度目だろうか。一日中飲まず食わずで走り続けているからか、どちらも声がかすれてきている。
そんな状態のまま日が暮れ、バーノンはついに街外れの陰気臭いホテルで車を停めた。
子どもとダドリーは、どうやらベッドが二台並んだ湿ってかび臭い部屋に泊まるようだ。
ダドリーのいびきのせいか、子どもは眠れないのか窓辺に腰掛け外を眺めている。
「ねえ。僕、あと二日で誕生日なんだけど」
(そうだね)
「……こんなことになるなんて思わなかった」
(ほら、去年よりも変化はあるじゃないか。古い靴下よりも、考えようによってはましだろう?)
「どこが? 最悪だよ。トフィーはあの気が狂ったおじさんと密室空間で過ごす苦しみを知らないからそう言えるのかもしれないけどさ。僕の十一歳の誕生日は、一生に一度しかないんだよ?」
子どもはそう言いながら心底うんざりした顔を浮かべた。
……この子どもにとっても誕生日というものは大事なものなのか。ハンガーや使い古した靴下など、毎年ろくなものを貰っていない気がするが。
翌朝、朝食を食べ終わった一行に、ホテルの女主人がやってきて声をかけた。
「あのう。十七号室のかたにハリー・ポッターという人はいなさるかね? こちらと同じようなものがたくさん届いとりますがね」
女主人は、宛名が読めるように手紙をかざしており、そこにはホテルの部屋番号まで宛名に書かれていた。
ハリーが手を伸ばす前に、バーノンはわしが引き取ると言い放ちながら立ち上がった。そのまま流れるように手紙を処理した後、急いで車を出発させた。
「ねえあなた。そろそろ家に帰ってもいいんじゃないかしら……?」
ペチュニアが恐る恐るバーノンへと話しかけたが、声すら聞こえていないのか何の反応も返さなかった。
◇
海が見え始めたのは、その日の夕方だった。
バーノンは車を停め、全員を中に閉じ込めてどこかへと消えた。戻ってきた時には、細長い包みを抱えていた。
「さあ! 今夜は嵐だ!!」
そう叫びながら老人から船を借り、嵐の中へと突っ込んだ。
沖に見える岩の上の小屋が今夜の宿のようだった。確実にテレビがないことを察したダドリーは半泣きになっている。
いや、船酔いだろうか。波を乗り越えるたびに船底が持ち上がり、波しぶきと雨に容赦なく打たれている。……今にも船ごとひっくり返りそうだ。
(ハリー、大丈夫かい?)
「これが大丈夫に見えるならトフィーも気が狂ったんじゃないの? トフィーはいいよね、濡れないし船酔いもしないからさ」
今すぐこのボロ船はひっくり返ったりしないだろうか? あのバーノンと一緒にするだなんて失礼が過ぎる。
暴言を吐き捨てて俯いた子どもを無視し、他の同乗者の様子を確認することにした。どうやらダドリーもペチュニアも力尽きており、バーノンだけが元気に盛り上がっている。ここまで吹っ切れて壊れたおもちゃのように動き続けることができるバーノンに呆れを通り越していっそ感心しそうだ。
小屋に辿り着いた時には、子どもはよりぐったりとしていた。
バーノンは上機嫌に今夜の夕食だとそれぞれにポテトチップスとバナナを配り、暖炉に空袋を投げ入れて火をつけようとしている。なお、それは煙だけを大量に発生させ、小屋の中に焦げた臭いを充満させるだけで終わった。
「今なら手紙のひとつやふたつ、火種に欲しいところだな!」
壊れたように笑うバーノンは、中々どうして道化の才能がありそうだ。他の面々はその笑いに反応もできないくらいには草臥れていたが。
夜になると、バーノンが言った通り嵐が吹き荒れた。
波は高く岩を叩き、風と雨が小屋の壁を壊そうとし、雷が鳴り響いている。あのボロ船はこの嵐に耐えられるのだろうか。
この子どもは床に毛布を敷いて横になり、ソファに寝っ転がるダドリーの太った手首の腕時計を眺めていた。
ダドリーの腕時計が、真夜中を指そうとしている。
……明日はこの岩の上に手紙が来るのだろうか。
「……トフィー。あと一分で、誕生日」
(そうだね、十一歳だ)
子どもは寒さで震える指を伸ばし、埃の積もった床に何かを描き始めた。
丸を大きく一つ、細い線をその丸の上に何本か。
(何をしているんだい?)
「ケーキ」
(……ああ)
「見えない?」
(見えるよ。前より絵が上手くなったんじゃないか?)
およそ一年前、蛇を描かせた時よりもだいぶ何かがわかる。
「それって褒めてる?」
(当然だろう?)
子どもは暗闇の中で小さく笑いながら、指を動かして蝋燭を描き足している。
……そういえば、この子どもが自分の誕生日を知ったのはいつ頃だったか。
たしか数年ほどは知らずにいたはずだ。あの騒がしいダドリーの誕生日により、子どもは人には生まれた日があるのだと知った。
結局子どもが自分の生まれた日を知ることができたのは、小学校に通うころ生年月日が必要になったおかげであった。
腕時計の針が午前零時を指した。
(ハリー、誕生日おめでとう)
「ありがと」
子どもはケーキを描き終えたのか目を細めながら答えた。
「ふふっ! 誕生日おめでとう、僕」
子どもは楽しげに自分で描いたケーキの絵を見つめている。
何がそこまで嬉しいのかはよくわからないが、どうやら機嫌は持ち直したようであった。
……それはさておき、知ってからは毎年言っているがこんな場所で言うことがあるとは。この子どもは何か厄介ごとに巻き込まれる才能でもあるんじゃないだろうか。
ドン!!
小屋が揺れた。
子どもが飛び起き、ダドリーも寝ぼけた声を上げた。
ドン!! ドン!!
バーノンが細長い包みをほどきライフル銃を取り出しながら奥の部屋から飛び出してきた。
「誰だ!」
悲鳴のような叫び声を聞いてか、叩く音は一瞬止んだ。
しかし、次の瞬間には蝶番を吹っ飛ばしながら扉は開いた。