Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
巨大な男が突っ立っていた。
戸口を埋め尽くす体躯に、毛むくじゃらの髪と髯。革のコートからは雨が滴っている。
大男は部屋を見渡し、子どもを見つけると大きな声で話し始めた。
「ハリーか! 最後に会った時はまだ赤ん坊だったのになあ、おまえさん父さんそっくりだ」
「いますぐ出ていけ! 不法侵入だぞ!」
大男はゆっくりとバーノンを見下ろし、素早くバーノンの手からライフル銃をひったくるや否や銃身を飴細工のように丸めてしまった。
「黙れダーズリー! そんなもんを人に向けんじゃない」
バーノンは奇妙な声を上げながら曲がった銃を見つめている。
子どもは大男をまじまじと見上げ、大男は子どもを見て目を潤ませた。
「さ、ハリーや。誕生日おめでとう! おまえさんに誕生日ケーキを持ってきたんだ。ちょっと尻で押しつぶしちまったかもしれんが、まあ味は変わらんだろ」
コートの内ポケットから、ややひしゃげた箱が出てきた。
子どもは目を大きく見開き、震える手でその箱を受け取り開こうとする。
ゆっくり開いた箱の中には、緑のクリームで「ハリー誕生日おめでとう」と書いてあるケーキがあった。
そこに書いてある言葉を、子どもは熱心に見つめていた。ここ二日ほど、ろくなものを食べていないはずなのに。
子どもにとって初めての誕生日ケーキ。先ほど指で描いたようなものではない、誰かから貰うほんとうのプレゼント。
黙って見ていた。潰れた箱の中から出てきた崩れ気味のケーキで、この子どもの誕生日が祝われるのを。
大男はルビウス・ハグリッドと名乗った。ホグワーツの鍵と領地を守る番人だと。
ソファへ座った大男は、コートのポケットからいろいろなものを取り出して子どもへと与え始めた。
「さあハリー。俺のことはハグリッドと呼んでおくれ」
「ハグリッド……? その、ホグワーツって何?」
その言葉を聞いた途端、大男は衝撃を受けたような顔をした。
「ホグワーツを知らんのか!?」
そう叫ぶと大男は立ち上がり、ダーズリー家を睨みつけた。
「この子に何も教えんかったのか? ……まったくなんにも?」
「知らせるものか」
バーノンが吐き捨てた。なるほど、ダーズリー家はホグワーツを知っているのか。
「ダーズリー! きさまは何もこの子に話してやらんかったんか? ずーっと隠していやがったんか!?」
大男はダーズリー家を睨みつけ、それから息を吐いて子どもの前にしゃがみこんだ。
「ハリー。おまえさんは魔法使いだ」
…………魔法?
そうだ、魔法だ。何故僕はその言葉を忘れてしまっていたのだろう。
特別な能力、特別な才能、物を触れずに動かし動物を支配する、望めば全てが思いのままになる力。
昔から僕には力があった、才能があった。誰からも教わることなく自然と蛇と話すことができた。決して妄想ではないし狂ってなんかいない。魔法使いだから特別なのではない、ただの平凡な魔法使いとも違う。もっと偉大で唯一無二の——
そう、僕は他の人間とは違う。僕は特別だとずっと昔から知っていたはずなのに。
……なら、今の僕はどうして何もできないのだろう。
ふと、子どもと大男から目を逸らす。
先ほど子どもが埃で描いたケーキは、雨風にさらされてぐしゃぐしゃになっていた。
◇
ボアーッと霧笛のような音が聞こえ意識が浮上する。音の発生源をみると、大男が鼻をかんでいた。
どうやら随分と物思いにふけってしまっていたらしい。いつの間にか大男が泣いている。
大男は鼻をすすりながら続けた。あの人は両親だけでなくハリーも殺そうとしたが失敗した。その時に額の傷ができたのだと、強力な悪の呪いにかけられたときのものだと。
「おまえさんは、唯一生き残ったんだ」
子どもは手紙を握りしめながら、額の傷へと手を伸ばしている。
「ダンブルドアの言いつけで、俺がおまえさんを連れ出し、この連中のところへ送り届けたんだ」
お前か。
あの寒空の下に子どもを置き去りにしたのは。
「くだらん!」
バーノンが叫びながら、拳を握りしめて大男を睨みつけた。
「いいかよく聞け小僧! たしかにおまえは少々おかしい。だがみっちり叩けば治るだろう。おまえの両親はとんでもなくおかしな連中だった。あんな妙な奴らはいないほうが世のため人のためというものだ。思ったとおりろくな死に方せんかったわ」
「それ以上喋ってみろ、ただじゃすまんぞ!」
そう言いながら大男はコートからピンクの傘を取り出し、まるで凶器であるかのようにバーノンへ向けた。
……傘?
はて、たしか杖はもっと細長い形状だった気がするが。片手で握り、手首を返して振る。指先に吸い付く感触、それは数少ない記憶のひとつだった。断じて、傘ではなかったはずだ。
バーノンはそれでも危険を感じたのか壁に張り付いて黙ってしまった。
子どもはバーノンが黙ったのを見ると、すぐに大男へと話しかけ始めた。
「そのヴォル……あ、ごめんなさい。『あの人』はどうなったの?」
(ヴォル?)
待て、何の話だ?
「それがわからんのだ。すっかりさっぱり消えちまった、おまえさんを殺そうとした時にぴたりとな」
……僕か。
「死んでしまったと言うやつもいるがな。やつはまだどこかにいるが、力を失ってしまったのだと考えちょる奴らが多い。もう何もできないくらいに弱っているとな。ハリー。おまえさんの何かが、やつを降参させたのだろうさ」
ふざけるなよこの大男、僕は降参などしていない。たしかに僕は失敗したかもしれないが、この子どもに何か特別な力があるわけではない。ただの偶然だ。
「…………」
子どもは大男の話を聞いて絶句している。いや、見開いていた目を徐々に細めている。
そしてこちらをじっとりと睨み始めた。
…………なるほど。
力を失っている。もう何もできないくらいに弱っている。
今まさに、子どもの近くに心当たりがいるじゃないか。
「変人のまぬけじじいになぞ、わしは金なんか払わんぞ!」
「俺の前でダンブルドア先生を侮辱するな!」
子どもが異様な雰囲気で虚空を睨み続けるのを気にせず、バーノンと大男は言い争いを始め、最終的に大男の魔法によりダドリーに豚の尻尾が生えて決着した。
「……ハリー、このことは誰にも言わんでくれ。俺はちょっと事情があってな、厳密には魔法は使っちゃならんのだ」
「どうして?」
「その……俺はホグワーツを退学になっていてな、杖を真っ二つに折られたのだ。そんな俺を拾ってくだすったのがダンブルドア先生でな」
それで恩義を感じて小間使いになっている。と。この数時間で何となく察した、どうやら悪意なしに惨事を引き起こす人間なのだろう。
余計なことばかりべらべらと喋って、図体はでかく重そうな癖に口はずいぶんと軽いじゃないか。先ほど癇癪を起こして魔法を使ったことと言い、どうせ退学になったのも大男本人に原因があって厳しい沙汰になったのだろう。
本当に、余計なことをしてくれたものだ。
◇
大男がいびきをかき始めた頃、我慢していたのか子どもがこちらへと矢継ぎ早に話し始めた。
「ねえ、起きてるでしょトフィー。トフィーは知ってたの? 前に聞いたよね、僕のお父さんとお母さんのこと。本当は知ってたの? 知っててはぐらかしたの?」
子どもはまた睨み始めた。ヒリヒリと焼けつくような視線にこちらは焼け爛れそうだ。
「ねえトフィー」
ここで肯定し、子どもの都合の良い妄想ではなくなることに安堵すべきだろうか。
それとも、僕は君の妄想だと誤魔化すべきだろうか。
どちらも嫌だ。
今自分がどういう状態なのかもわからないのだ。無力なうちに肯定して存在が消えることになるのも、下手に誤魔化して同化することになるのも受け入れられない。僕は死にたくない。
「ねえってば」
本当に、あの大男は無神経に適当なことをべらべらと話したものだ。もしかして僕に恨みでもあるのだろうか? 僕はあんな大男、一切記憶にないのだが。
「……返事をしてよ」
何を話せと? こちらは何も話したくない。
いっそこのまま黙っておけばトフィーという存在ごとなかったことにならないだろうか。
たかだか十年。どうせ埃で描いたケーキのように、風で消えても気にしない程度のどうでもいいものなのだろう?
「……トフィー」
……。
「……ねぇ」
(……何だい)
子どもはまるで息を止めていたかのように、大きく息を吸った。それから、思い出したかのようにまたこちらを睨み始めた。
……このような調子で延々と話しかけられるのもうんざりだ。いざとなれば『トフィーなどという何かは、はなから存在しなかった』ことにしよう。
「……トフィーはさ、知ってたの? ハグリッドが言ってた『あの人』のこと」
(ヴォルだっけ。なぜ僕が知っていると?)
子どもはきょとんと、先ほどまで睨んでいた目をまるくした。
……てっきり誤魔化されたと怒るだろうと予想していたのに、なんだその反応は。
「えっ? その、あのさトフィー。さっきのハグリッドの話ってちゃんと聞いてた?」
(聞いていたが?)
死んでしまっただの、もう何もできないくらいに弱っているだの、子どもに降参しただの。よくもまあ出まかせばかりのホラを吹けるものだ。
返事を聞いた子どもは、黙ったかと思えば大きな緑の目を細めてニンマリと笑い始めた。声が出そうなのか、肩を震わせながら流れるように毛布にうずくまり、くすくすとしている。
「と、トフィー。ヴォルじゃないよ、ヴォルデモートだってば」
ヴォルデモート、なんだその仰々しい名前は。本当に僕が名乗っていたのか?
いや、埋没しそうなありふれた名前よりは遥かにましか。
「ハグリッド言ってたじゃん」
そんなこと言っていただろうか。
笑いが収まったのか、毛布から顔をあげた。
「……で。ヴォルデモートって名前は知らないんだね。ハグリッドの話を整理していい? なんかトフィー聞いていなかったみたいだし」
いちいちこちらの神経を逆撫でないと喋れないのだろうかこの子どもは。
(どうぞ?)
「ヴォルデモートは十年前に消えた。でも死んでないかもしれなくて、何もできないくらいに弱っているかもしれない」
子どもは指を大きく開き、一本ずつ折り始めた。
「僕の中には、昔から誰かがいる。なんとなくそこにいるなって気配と声。あと、やたらと口うるさい」
そういえば声が届く前から、子どもはやたらとこちらを目で追っていたな。
「平気で盗めって言うし、おじさんを玄関マットって言ったりする」
子どもは天井を見上げて沈黙した。それから、盛大にため息を吐いた。
「……ガッカリだよ」
(は?)
「だってさ。ハグリッドが名前を出すだけで怖がってるんだよ? もっとこう、すごく邪悪な魔法使いを想像したのに」
(ハリー?)
「なんか幻滅。やっぱ僕が魔法使いだってこと含めて間違いなんじゃないかなぁ」
今の僕はどうして何もできないのだろう。毛布を握りしめ鼻で笑っているこの子どもを今すぐ黙らせることすらできないなんて。
(ハリー、反論していいかな)
「どうぞ?」
(名前を出すだけで震えあがる。ということは、名前ひとつで世界を恐怖させたわけだろう? 凡庸な存在にはそんなこと天と地がひっくり返ってもできない)
「でも名前覚えてないじゃん」
(覚えたが?)
ヴォルデモート。聞けば聞くほど僕に馴染む素晴らしい名前に思えてきた。
「それさっき僕が言ったからでしょ。というかハグリッドの話ぜんぜん聞いてなかったみたいだし」
「……まあ、もしもそうだったらの話だけどね」
……。
「もし万が一そうだったとして、トフィーがずっと僕と一緒にいたってことは変わらないでしょ」
子どもは寝返りを打ち、埃で描いたケーキがあった場所に手を伸ばした。
丸を大きく一つ、細い線をその丸の上に何本か。雨風のせいで原形をとどめておらず、もうケーキには見えないぐしゃぐしゃな何か。
どちらも、それ以上は何も言わなかった。
そのまま風や波が小屋や岩を叩きつける音を聞きながら子どもは眠りについた。
……お前が殺したんだろうと断言しないのは、両親を何故殺したのだと責めないのは、何故なのだろうか。
嵐が過ぎ朝日が差すまで熟考を重ねてみても、理解はできなかった。