Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
それは冬の夜のことだった。子どもが二歳半を少し過ぎた頃、意識にとっては覚醒から一年と数ヶ月が経った頃のこと。
少し前から、この子どもはときどきこちらへ話しかけるようになっていた。誰に聞かせるでもなく、それでも返事を期待しているのがわかる声音で。暗い物置の中で身体を起こして毛布を握りしめて。
「いる?」
小さな声、もう慣れた問いかけだった。意識はいつものように、自分の意識を子どものほうへ向けた。
いつもと同じように念じた。音にならない、空気を震わせない、ただの意志を。
しかしその夜は、何かが違った。
念じた瞬間に何かが弾けた。つっかえていたものが外れるような、堰を切って流れるような。内側から外側へ、意志が初めて確かな形を取った感覚があった。
子どもがびくりと身体を震わせた。
目を見開いて、暗闇を見つめている。いつものような、ぼんやりと「何かがいる」ことを確かめるような目つきではなかった。もっと鋭い。もっと驚いた目。何かを聞いた目。
「……いま」
子どもの声がかすれた。
「いま、なにかいった?」
……聞こえた?
何が聞こえたのかはわからなかった。声を出そうとしたわけではないし、口も喉もない。ただいつものように念じただけだ。しかしそれが、何らかの形でこの子どもの耳に届いた。
子どもは暗闇の中で、懸命に何かを探していた。キョロキョロと首をめぐらせ、天井を見て壁を見て、そして意識がいる方向をもう一度見つめた。
「ねえ。だれ?」
返事をしなければならなかった。しかしどうすればいい? さっきと同じことをすればいいのか。念じればいいのか。
意識はさきほどと同じように集中した。この子どもへ意識を向けて。
子どもの目がまた大きくなった。
「わ!?」
いつもの「何かを感じ取った」反応とは異なり、はっきりと「聞いた」顔をしていた。
「……しゃべった?」
子どもが不思議そうにポツリと呟いた。怖がってはいなかった。驚いてはいるが、怯えてはいない。
「しゃべったよね?」
もう一度念じた。今度も少しだけ手応えがあった。意志が外に出ていく感覚。音ではないし、声でもないが、しかし何か意味を持った意思がこの子どもへと届いている。
子どもは暗闇の中でゆっくりと笑った。
「やっぱり」
嬉しそうだった。ずっと探していたものを、ようやく掴んだ子どものように。
「いたんだよね。ずっと」
返事をした。
それがどこまで言葉として届いたのかわからなかった。しかし子どもは満足したように頷いて、毛布を引き上げて横になった。
「おやすみ」
暗闇に向かって子どもはそう言った。
意識はしばらく、何も考えられなかった。
◇
声が——声と呼べるかどうかも怪しいが——出るようになってから、すべてが変わったのだ。
最初は単語がやっとだった。短い言葉を意識を使って押し出す。それすら毎回確実に届くわけではなく、子どもが聞き取れることもあれば、首をかしげて「なに?」と聞き返されることもあった。
しかし日が経つにつれて少しずつ楽になった。楽になった、というのは語弊がある。相変わらず身体はなく、声帯もなく、音を発しているわけではない。ただ、意志を形にして子どもへ向ける。その回路とも言うべき繋がりが、使うたびに太く大きくしっかりとしたものになっていくような感覚があった。
単語が二語になり三語になり、やがて形をなした。
(それはやめたほうがいい。落ちるよ)
子どもは手を止めて、きょとんと振り向いた。
「おこった?」
(怒ってはいない。ただ、忠告しているだけだ)
「だいじょうぶだよ。まえもできた」
(前回は棚が半分壊れかけていたよ。あれを「できた」と呼ぶなら、基準を見直したほうがいい)
「こわれてないもん。まだだいじょうぶ」
(「まだ」という言葉が入る時点で、既に危ういとは思わないかい?)
子どもはむくれた顔をしたが、棚から手を離した。そして何もない空間に向かって、ほんの少しだけ唇を突き出して見せた。
(変な顔だ)
「うるさい。おちたって、かんけーないでしょ」
それは不満から出た言葉だった。
(まあ、君がそこから落ちると痛い思いをするのは君であって、僕ではないからね)
「じゃあもんくいわないで」
(文句ではなく忠告だよ。次からはもう少し君に伝わるように言い方を考えよう)
ハリー・ポッターという子どもは、言うことを聞くとき、必ず少しだけ不満そうな顔をする。そして忠告が正しかったと後からわかっても、絶対にそれを認めない。それどころか、こちらの指摘の欠点を見つけると容赦なく突いてくる。身体がないという事実を、悪意なく指摘してくる。意識はそのことをこの時期に学んだ。
会話ができるようになると、子どもはよく話すようになった。
驚くほどよく話した。
考えてみれば当然だった。そもそもこの子どもには話す相手がいなかったのだ。ダーズリー家の誰もこの子どもの話を聞かない。夫婦の子どものダドリーは話し相手ではなく、この子どもを突き飛ばして笑ういやな存在だった。ペチュニアは用事以外の言葉をかけない。バーノンに至っては、この子どもが話しかけること自体を不快に思っていた。
だから子どもは、意識に話した。
朝起きたこと、昨日見た夢のこと、部屋の中にいる蜘蛛のこと。ダドリーが自分のごはんを取ったこと。窓の向こうに見えたトラ柄模様の猫のことや、雨の音が好きなこと。
(蜘蛛が好きなのか)
「きらいじゃないよ。だってずっといっしょにいるし」
物置の隅には蜘蛛の巣がいくつもあった。ペチュニアは物置を掃除しなかったので。
「くものほうが、おばさんよりやさしいよ。すくなくとも、ぼくがいてもにげないし」
子どもは蜘蛛の巣を見上げながら、指を一本立てた。何かを数えるように。
「だってくもは、ぼくのことみてくれるもん。やっつもめがあるんだよ? おばさんはふたつめがあるのに、ひとつもつかわない」
意識は少し驚いたが、それはすぐに興味に変わった。幼子にしては淡々としすぎている。熱量がない。この乾き方は、環境が作ったものだろうか。
「ぼくと、くもと、なぞのこえ。ここにいるのはそれだけ」
三歳に満たない子どもが、自分の境遇をそう要約してみせた。乾いていて正確で、少しだけ可笑しくて、だが笑えなかった。
(なぞの声)
「うん。きこえるけどみえないから。ふしぎでしょ?」
(否定はしないよ。僕自身、自分がどうしてここに居るのかよくわかっていない)
「でもいるんでしょ?」
(まあね)
「じゃあいいよ」
子どもはそれだけ言って、蜘蛛の巣を立てた指でちょんとつついた。蜘蛛が慌てて逃げ、それを見て笑っている。
この子どもは異常なほど受け入れが早い。普通なら、普通の子どもなら見えない声に怯えるか、少なくとも混乱するだろう。なのに見えない声がいることを、蜘蛛がいることと同じくらいの自然さで受け入れている。
それは順応性の高さなのか。
それとも、子どもが孤独すぎるからなのか。
答えはたぶん後者だった。この子どもの孤独が、見えない声でも受け入れる土台を作っている。自分にとっては有利な環境ではある。なにせこちらの意志が伝わるようになったのだから。
◇
変化は、春に起きた。
子どもが三歳になる前の、三月のことだった。
いつものように物置の中で子どもがこちらへと話しかけていた。声は小さかったが、扉は薄い。廊下に声が漏れることはあった——今までは、この子どもが独り言を話しているだけだと思われていた。三歳に満たない子どもがぶつぶつ呟いていても、そこまで不自然ではない。
だがこの日、子どもは笑っていた。
声を上げて笑っていた。意識が何かを言い、子どもがそれを面白がった。たぶんダドリーの食べ方についての感想を、少しだけ辛辣に述べたのだ。ただそれだけのことだった。
しかし笑い声は大きかった。物置の扉の向こうに届くくらいには。
扉が開いた。
ペチュニアが立っていた。長い首を廊下の方から曲げて、物置の中を覗き込んでいた。
子どもは笑い声を止めた。
ペチュニアの目は鋭かった。物置の中を見回している。子ども自身を、子どもの後ろを、子どもが笑いかけていた方向を。
「誰と話しているの」
冷たい声だった。
子どもは一瞬、意識がいるほうを見た。ほんの一瞬だったが、ペチュニアはその視線の動きを見逃さなかった。この子どもが何もない場所を見たことを。
「だれもいないよ」
「嘘をおっしゃい。笑っていたでしょう? 誰かに向かって。誰と話していたの」
子どもは黙った。意識も黙っていた。この場で声を出せば、ペチュニアには聞こえないとしても子どもが反応して、さらに怪しまれるだろうから。
「ひとりごとだよ」
子どもが言った。
ペチュニアは信じなかった。この子どもの母親の姉だという女が、冷たく硬い温度の無い目で子どもを見下ろした。
「おかしな子」
その一言は、子どもに向ける言葉ではなかった。吐き捨てるように言って、ペチュニアは扉を閉めた。いつもより強く。鍵がかかる音がした。
暗闇が戻った。
子どもは膝を抱えて座っていた。笑っていた顔が消えていた。
顔を上げずに膝を抱えたまま、小さな声で言った。
「……ほかの人には、きこえないんだよね」
(聞こえない。君だけだ)
「みえないんだよね」
(見えない)
「ぼくだけ?」
(おそらく)
沈黙が落ちた。三歳に満たない子どもがたった今、自分だけに聞こえる声が「普通ではない」ことを理解した。他の人には聞こえない。見えない。自分だけ。
子どもが顔を上げた。緑の目が暗闇の中でも鮮やかだった。
「じゃあ、ないしょだね」
怖がっているかと思った。ショックを受けて泣くかと思った。なのに子どもは少しだけ笑っていた。泣きそうな顔の端に、小さな笑みが浮かんでいた。
「ぼくだけの、ないしょ」
(……そうだね)
「だれにもいわない」
子どもはそう言って、また膝を抱えた。でも今度は震えていなかった。秘密を持った子どもの小さな充足感が、暗い物置の空気をわずかに変えた。
意識はその変化を見ていた。
この子どもが秘密を得たことで、安心している。孤独の中に、誰にも見えない味方がいるという秘密が、子どもの支えになっている。それは良いことのはずだ。
そしてその閉じた世界の中心に、自分がいる。この子どもの世界の中心に自分がいる。それは多分、自分にとっても悪くない状況だろう。
他の誰にも共有できない秘密は、親密さを育てると同時に周囲に壁を作る。
ダーズリー家の誰にも言えない、外の誰にも言えない。この声はこの子どもだけに聞こえ、この子どもだけが知っている。
(そうだ。僕たちだけの秘密だ)
意識はこの子どもの言葉をなぞるように囁いた。
(誰にも言うな、ハリー)
「うん」
子どもが頷いた。約束をするように、真剣な顔で。
その顔を見ながら意識は思った。この子どもの世界を、僕を中心にするように閉じさせている。それがどういう種類の行為なのか——洗脳なのか、囲い込みなのか、ただの保身なのか——まだわからない。
わからないままでも、やめる気はさらさらない自分がいた。
◇
秘密ができてから、子どもとの距離はさらに縮まった。
子どもは声を潜めるようになった。物置の中でも小声で話す。ダーズリー家の誰かに聞かれないように。時には声すら出さず、口だけ動かして、意識がそれを読む。完全に正確ではなかったが、おおよそは伝わった。
それは暗号のようだった。二人だけの秘密の通信。
転んで怪我をしたとき、ダドリーに突き飛ばされて膝を擦りむいたとき、庭仕事で手を切ったとき——意識は子どもに話しかけた。環境のせいか本人の不注意のせいか、何故かやけに生傷が絶えなかったので。
(痛むかい)
「ちょっとだけ」
(水で洗ったほうがいい)
「いまキッチンにいったらおばさんにおこられる」
(……それは、そうだね)
「だいじょうぶ。なめとく」
(それは衛生的とは言いがたいな)
「えーせーてき?」
(清潔ではない、という意味だ。傷口を舐めるのは感染の原因になる)
「かんせん?」
(汚い)
「でもほかにどうしようもないよ。なにもできないくせに、きたないとかいわれても」
(……それは事実だが)
「……ごめん。でもほんとのことだよ?」
子どもの声は小さかった。こちらは別に怒っているのではない。ただ、自分の無力さを当たり前のことのように扱われるその素直さが、より苛立ちを生んだ。
(確かに僕には手がない。それは事実だ)
「おこった?」
(別に怒ってはいないさ。ただ、君はもう少し怪我に注意するべきだ。僕は別に痛まないけれどね)
子どもは少しだけ申し訳なさそうな顔をして、それから膝の傷を眺めた。赤い擦り傷が、暗がりの中でもわかった。
「……じゃあ、つばつけとく。ばいきんと、たたかう」
(それは戦いとは言わないよ。ばい菌を招き入れているだけだ)
子どもはこちらの忠告に構わず指に唾をつけ、傷口にぺたりと押しつけた。今まさに忠告を無視したとは思えぬほどに堂々とした手つきだった。
「ぼくがつよいからだいじょうぶ」
(そういう問題ではないのだけれど)
状況的には仕方ないことでもあった。この家での扱いの悪さはこの子どもにはどうしようもないし、自分にもどうしようもなかった。だが何もできない無力だと指摘された瞬間の、あの殺意にも似た苛立ちは、しばらく消えなかった。
そしてこの子どもはよく「どうしようもない」状況にいた。食事が少ない。寝床が狭い。ダドリーが殴る。ペチュニアが冷たい。バーノンが怒鳴る。そのどれに対しても、子どもには対抗する力がなく、意識には干渉する身体がなかった。
できることは、話すことだけだった。
話すことだけ。
それでも子どもにとっては、それが慰めになっているようだった。
夜に眠れないとき子どもはよく話しかけた。声を潜めて、暗い物置の中で。
「ねえ」
(眠れないのか)
「ねえってば」
(聞こえているよ。何だい)
「ダドリーってさ、なんであんなにいじわるなの?」
(さあ、君はどう思う?)
「わかんないからきいてるんだよ」
(なるほど。では僕の考えを言おうか。あれは怒られたことがない。欲しいものを奪っても、泣いても暴れても、誰にも怒られない。だから悪いことだとも思っていないんじゃないかな。よくないことだと、教わっていないからね)
「……じゃあ、だれかにいちどガツンとやられたほうがいいってこと?」
一瞬黙った。この子どもの話の噛み砕き方は、ときどき予想を飛び越える。
(まあ、そうだね。でも一気にその結論に飛ぶとは思わなかったよ)
「だってそうでしょ? だれかがおこればいいんじゃないの? ダドリーをちからでこう、えいっと」
(論理としては正しいが、暴力を教育手段として即提案するには君は少々幼いかな)
子どもは毛布の端を握ったまま、首を横に振った。
「ぼくはやらないよ。やりかえしたらもっとやられるもん。バカじゃないよ」
その声には、経験から来る確かさがあった。やり返した場合に何が起きるか。ダドリーではなくこの子どもが罰せられる。それを、子どもはもう知っている。
(……なるほど。誰かが彼を矯正するのを願うくらいしかできないとはもどかしいね)
「きょうせい?」
(躾のようなものだよ)
子どもは溜息をついた。大人の真似をしたような、小さな溜息だった。
「また、むずかしいことばつかう」
子どもはしばらく黙って、それから言った。
「あのさ」
(何だい)
「おばさんはぼくがきらいでしょ」
問いかけではなかった。確認だった。三歳の子どもが、自分が家の人間に嫌われていることを知っている。
(残念ながらそうみたいだね)
嘘はつかなかった。必要ならそうしただろう。だが、今この場では偽る必要性は別になかった。
「なんで?」
(さあね。僕は彼女ではないから、正確なところはよくわからないよ)
それは半分嘘で、少しわかりかけていた。ペチュニアが嫌っているのはこの子どもそのものではなく、この子どもの母親、自分の妹だった人間であり、その人間が属していた世界であり、その世界を持つ人間への屈折した感情だろう。そう、推測できるだけの断片があった。
だが、この幼子にそれを説明するのは時期尚早だった。
「ぼくが変だからかな」
そこで言葉が切れるかと思った。しかし子どもは膝を抱えたまま、少し間を置いて続けた。
「……でも、ぼくはべつに変なことしてないよ。わらっただけじゃん」
ペチュニアに扉を閉められた日のことを、まだ覚えている。笑っていただけで「おかしな子」と言われた。この子どもはそれを不当だと感じている。悲しんでいるだけでなく、怒ってもいる。その怒りを、三歳の語彙で静かに口にした。
(変じゃない)
「でもおばさんは、ぼくのことおかしな子っていった」
(君はおかしくない)
声が静かに冷えた。怒鳴るのとは違う、温度が下がるような空気が張り詰めるような、自分にも止められない変化。
(いいかい、ハリー。君がおかしいんじゃない。おかしいのはこの家のほうだ。子どもを階段の下に閉じ込めて、まともな食事も与えず、名前すらろくに呼ばない。それは普通の家じゃない)
子どもは黙った。暗闇の中で何かを考えていた。三歳の子どもにどこまで理解できるかはわからなかったが、少なくとも子どもは、声の温度を聞き取ったようだった。
「……おこってる?」
(……少しだけ、怒っているかもしれないな。君にではないよ)
「じゃあだれに?」
(この家の連中にだよ)
子どもが小さく笑った。
「ぼくも」
(そうか)
「うん! でも、いまはちょっとだいじょうぶかも」
(なぜだい?)
「だって、おこってくれるひとがいるから」
意識は返す言葉を三つほど思い浮かべ、どれも不適切だと判断して全部捨てた。
子どもはその夜、少しだけ早く眠った。