Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
子どもは返事をしなかった。長い長い沈黙の後、やがてこちらを睨みながら絞り出すかのように呟いた。
「…………なに、死人って」
そこに引っかかったのか。
(……もう死んでいて、存在しない人間だろう?)
死んだら終わりだというのに、なぜこの子どもは自ら死に近づくような真似をするのか。
「僕の身体がずっと欲しかったの?」
(どんな受け取り方をしたらそうなる。僕は君の身体が欲しいなんて一言も言っていない、君よりも有意義に使えると言ったんだ)
また随分と自分を中心に物事を考えたものだ。僕がこの子どもの身体をずっと狙っていたとでも本気で思っているのか? こんな健康的じゃない肉体など、狙うほどの価値も無い。ホグワーツに来てからは思うように食事ができる環境になったはずなのに、子どもはいまだに痩せたままだ。何故もっと食べて力をつけ、より有用な呪文を覚えようとしないのか。
第一に、今問題なのは食事も睡眠も疎かにして鏡に依存していることだろうに。子どもは自分の依存を棚に上げて声を荒げ始めた。
「有意義に使えるだって!? 僕が家族に会いたいと思うのは無駄だとでも言いたいの!? 僕はただ家族と会いたいだけなのにどうしてっ……!」
(あの鏡は君の望みを映しているだけだ。全部放り出してのめり込む方がどうかしている)
この子どもは、どうしてそれがわからないのか。
「……どうかしている? それトフィーが言うの、僕から家族を奪ったくせに」
(……)
「ごちゃごちゃグチグチといつも小うるさいくせに、そこは黙るんだね。言うに事欠いてトフィーがそれ言うの?」
……この子どもはまだこちらを睨みつけている。一緒にいたことは変わらないと言ったくせに、思い通りにならなくなれば今更僕を人殺しだと責めるのか。
「それに」
子どもはニタリと意地の悪い顔で笑った。
「トフィーはもし出来るならとっくにやってるでしょ。有意義だって言ったところで、どうせ何もできない口だけのくせに。何と言われようと僕は今日も鏡の部屋に行くし、僕が向かうことは止められやしないね」
なんだこいつ。腹立たしい顔のまま子どもは今日も向かうと宣言している。何故この肝心な時に限ってロンは起きていないんだ、そもそも今朝はロンの言葉に頷いていただろう。
(……腹を立てるのは勝手だけどね、僕は間違っていないよ)
「なあに、それって自己紹介? トフィーこそ勝手に腹を立てて僕に八つ当たりしないでよ」
……。
「僕の身体? どうぞ、使えるものなら使ってみたら? 非力で弱々しいトフィーがもし本当に出来るもんならね」
…………もう知るものか。勝手に食事も睡眠も怠ってとっとと身体を壊してしまえばいい。そのうち僕が言っていることが正しかったのだとわかるだろう。
ロンはとっくに深い眠りに入ってしまっていたようだった。子どもは時間を無駄にしたとばかりにマントを急いで被り、鏡の部屋へと走りだした。夜だというのに、バタバタと大きな音を立てながら。
「は~、非力で弱っちい誰かさんのせいで時間もったいないことしちゃったな。あ~あ」
この死にたがりは早くフィルチか教師にでも見つからないだろうか。しかしこんな時に限って誰とも出会わない。こんなにもこいつは音を立てているというのに、教師たちは何をしているのだ。いや……、いっそ今この子どもの肝を冷やせるのであれば誰だっていい。
なおそんな願いも虚しく、結局誰にも出会わずに鏡の部屋へと辿り着いてしまった。
子どもは音にも構わず勢いよくドアを開け放ち、鏡へと駆け寄って座り込んだ。勢いで透明マントは滑り落ちてしまっている。……子どもは気付かずに通り過ぎたが、壁際の机に老いぼれが静かに腰を掛けていた。
「ハリー、また来たのかね?」
お呼びじゃない。僕は誰でもいいだなんて願うべきではなかった。お呼びでないので帰ってくれ。何故老いぼれがこんな使われていない教室のすみっこにいるんだ?
「ご、ごめんなさい!? 僕、気がつかなくて」
「ふうむ。それだけ、わしが隠れるのが得意だったのかもしれんの」
老いぼれはゆっくりと机から降りると子どもへ近づき、子どもと一緒になって鏡を見るように床へと座った。……何故僕はこの老いぼれをここまで嫌悪しているのだろうか。何もかもが気に入らない、帰ってくれ。
「この鏡は『みぞの鏡』と言うんじゃ。君だけではない、同じように虜になってしまった魔法使いの中には、鏡の前で衰弱した者や、正気を失ってしまった者もおる……」
では何故そんな鏡を放置しているのだこの老いぼれは。そのせいで子どもはまんまと鏡に引っかかってしまっている。
「もう、鏡が何を見せてくれるかはわかっておるかの?」
「心の望み……。先生、鏡は……僕の家族を見せてくれました」
「おぉ、よくわかったのう。そう、そして君の友達のロンには、首席になった姿を見せておった」
……は? この老いぼれは声もかけずに、子どもが鏡に依存するのをただただ観察していたのか? いや待て、こいつはいつから見ていた?
「なんで知って……」
「実はの、わしは魔法で透明になれるんじゃよ」
僕と子どもは今日と昨日はこの部屋ではまともに話していないはずだ。先ほどの子どものぼやきだって、部屋から遠い廊下でぼやいただけだ。それに今日は子どもは走って来たため、足音がうるさく声だって紛れて聞き取れなかった……はずだ。
「この鏡が見せてくれるのは、心の奥底の一番強い『のぞみ』なのじゃ。だがの、それは決して知識や真実を示しているわけではない。それでも、多くの者はこの鏡に魅了されてしまったりするんじゃよ」
……たしか、おとといは鏡の前で話した記憶があるな。
昨日のロンとの会話を知っていたのだ、ならば鏡を見つけたあの日も居たのかもしれない。いや、もしかするとドアが少しだけ開いていたのも、子どもを誘い込む罠だったのかもしれない? ……最悪だ。こうなるくらいであれば、あのままピーブズに見つかったほうがまだましだった。
いや、罠だったとして何のためにこのようなことを。鏡を見せたかった? 子どもの望みを知りたかった? ……もしやあの透明マントもこの老いぼれから渡されたものなのだろうか。
「ハリーや、この鏡は明日には移動させようと思う」
「えっ!?」
老いぼれの筆跡を調べることはできないだろうか。あれだけ特徴的な文字なのだ、透明マントを子どもに渡したのが老いぼれだと確定できれば、何かしら目的があっての遭遇や誘導だったのだと判断できる。
しかし、ここでこの子どもをずっと待っていたのだろうか? 博打すぎやしないだろうか、それとも勝算があった?
……いやどうだろうか。不満そうにしている子どもに対して、老いぼれはもう鏡を探してはいけないと説得している。
「よいかの。欲しいものばかりを追いかけて、目の前にあるものを忘れてはいけないよ。それだけはよく覚えておきなさい」
子どもは老いぼれの言葉に渋々と頷いた。というか、この老いぼれは僕と似たようなことを言ってるはずなのに、やけに素直じゃないか。
「わかってくれたか。さてさて、その素敵なマントを着てベッドに戻るんじゃ」
「はい……。あの、ダンブルドア先生。よければ一つ質問してもよろしいでしょうか」
「もちろんだとも」
老いぼれは微笑みを浮かべているが、なんとまあ胡散臭いのだろう。透明マントからこの老いぼれの仕込みだとしたら、その笑みの裏では一体何を考えているのやら。
「先生はこの鏡に何が見えてますか?」
「わしかね? 厚手の靴下を手にもっておるよ。わしにプレゼントしてくれる人は、毎年本ばかり贈りたがってのう」
心からの望みが靴下? そんな訳ないだろうに、嘘つきめ。
子どもが感謝をして部屋を去ろうとすると、老いぼれは思い出したかのように手を叩いた。
「おぉ! そうじゃそうじゃハリー。わしも君に聞きたいことがあったのじゃ。少し聞いてもいいかね?」
「もちろんですダンブルドア先生」
(やめてくれハリー、今すぐ帰ってくれ)
嫌な予感しかしない。それに僕はもうこの老いぼれと同じ場所に一秒たりとも居たくない。しかし子どもは先ほどの寮での出来事をまだ腹に据えかねているのか、こちらに一瞥もしなかった。
「ありがとうハリー。それでのう、実はちょっと気になっておったんじゃが。初めてこの鏡を見つけた時、君は誰と話しておったんじゃ?」
……やはり見ていたのか。抜け目のない、と評価するには子どもの行動に依存しているところが多い。本当に何がしたいのだろう。僕の存在を把握しているのであれば悠長すぎるので、流石に僕の存在までは気がついていないだろうか?
「家族と、話してました」
…………?
「そうか、家族か。素敵なことじゃのう。引き留めてすまなかったね、おやすみハリー」
子どもは老いぼれへ挨拶すると、透明マントを被って部屋を出て寮へと歩き始めた。そして、太った婦人の肖像画を通り抜けて部屋へと戻ると、透明マントをトランクへ仕舞い込みベッドに潜り込んだ。
(家族、ね)
「ダンブルドア先生に本当のこと言う訳ないでしょ。それに僕まだ許してないし」
散々こちらを罵ったくせに、まだ物足りないのか。
「……トフィーはさ、あの『みぞの鏡』で何が見えたの?」
(期待に応えられなくて悪いけど、僕は見ていないよ)
自分の願望を見たところで、僕自身が現状に苛立つことなどわかりきっている。
「このポンコツ。見てないくせに、あれだけうだうだ言ってたの?」
(君がここ数日食事や睡眠を疎かにしていたことと、僕が鏡を見るかどうかに何の関係があるんだ)
「あるに決まってるじゃん。見てないくせして勝手にいろいろ決めつけてさあ」
(見なくてもわかるものを、わざわざ見る必要なんてないよ)
どうせあの鏡に映るものは決まっている。身体があって、一人で何処へでも自由に動くことのできる僕。どうせ見たところで手に入るものではない。
「ふぅん?」
子どもは続けて何かを言いかけたが、結局口を閉じてこちらに背を向けた。聞いておいてその反応か。
しばらくすると、子どもの寝息が聞こえ始めた。あれだけ寝る間も惜しんで鏡へと向かっていたくせに、横になればすぐこれか。まったくもって、何を意地になっていたのだろう。
……そういえば今夜は、寝る前の一言すらなかった。いや、別に構わない。こちらから声をかける必要もないのだから。