Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
子どもが三歳を過ぎた頃から、記憶の断片が浮かぶようになった。
それは夢のようなものだった。子どもが眠っている間、意識はまどろんでいるような状態になる。完全に眠るわけではない。しかし思考がぼやけて制御が緩むと、記憶の底から何かが浮かんでくる。
石造りの廊下の匂い。蝋燭の燃える匂い。古い本の匂い。
何かを握る感覚。指先に力が集まる感覚。何かが——呪文が——喉を昇ってくる感覚。
自分の声ではない声。あるいは、自分の声だったかもしれない声。
(忠誠を)
(我が君)
意識はまどろみから弾き出された。
忠誠。我が君。誰かがそう言っていた。誰かが——自分に?——頭を下げていた。暗い部屋の中で。大勢が跪き自分を見上げていた。
そしてその夜以降、断片は止まらなかった。
まどろみの中でそれは続いた。跪く影の後に続いたのは闇だった。深く濃い冷たい闇。その中を自分が歩いている。細長い棒——杖を持ち、目的を持って小さな家の門へ。庭に転がる落ち葉に秋の木枯らしが吹いていた。
扉を開けた。
男がいた。杖すら持たずにこちらへ立ち向かった男。その顔は薄らぼやけて見えなかったが、声色には恐怖が見えた。その後、緑の光により男が倒れた。
階段を上がった。
二階の部屋。子どもの部屋だった。飾りがあり、揺り籠があり、女がいた。揺り籠の前に立って、子どもを庇うようにして泣いていた。何かを叫んでいた。
(どけ、すぐにどくのだ)
たぶん、それは自分の声だった。
それは冷たく言い放った。邪魔だから。目的は女ではなく、その後ろにいる子どもだった。
女は何度言っても、どくことはなかった。
緑の光。
女が倒れた。
揺り籠の中に子どもがいた。大きな緑色の目。泣いていなかった。自分を見上げて、じっとこちらを見ていた。
目的の子ども。すぐさま排除するために杖を向けた。
緑の光。
そして——
絶叫。それは声にならない叫びだった。身体のない存在が、それでも全身で叫んだ。叫んで、まどろみから引き剥がされた。
子どもは何事もなく眠っていた。すぐそばで、薄い毛布にくるまって小さな寝息を立てている。
意識はその寝顔を見た。
額の傷を見た。
稲妻の形の傷。あの夜、あの緑の光の夜に自分がつけたであろう傷。
(僕だ)
(僕がやったんだ)
門を開けたのは自分だ。杖を向けたのは自分だ。男を殺したのは自分だ。女が泣いて、叫んで、どかなくて、それが邪魔で殺したのは自分だ。そして揺り籠の中の幼子に——この緑の目の子どもに——杖を向けたのは、自分だ。
父親を殺した。
母親を殺した。
そしてこの子どもを殺そうとした。
自分に向かって緑の光が反射したこと以外、記憶は霧がかっていて細部は不鮮明だった。なぜ自分がそこにいたのか。なぜその家を選んだのか。なぜこの子どもを殺さなければならなかったのか。それはまだわからなかった。しかし殺したという事実——殺そうとしたという事実——それだけは疑いようがなかった。
緑の光。叫び声。倒れる身体。あれは記憶だ、夢でも想像でもない。自分がしたことの記憶に違いない。
眠る子どもの顔を見つめた。
両親を殺した存在が、そばにいる。
子どもの両親を殺した存在が——子どもに話しかけ、子どもの秘密になり、唯一の話し相手になっている。
最悪だった。
自分が致命的な失敗をしたと自覚することも。無力な子どもにわけもわからず殺されたことも。そして失敗してなお、自分が殺そうとした子どもに寄生し、依存して、霞のような何かになりながら生きようと無様に藻掻いていることも。
吐き気がした。吐くことのできる身体はもうないのに。
離れるべきか。
一瞬だけその問いが浮かんだが、即座に消えた。離れれば意識が霧散してしまう。それは意識しかない自分にとって死ぬようなものだ。死にたくはない。何故かわからないが、自分はこの子どもに繋がれており、離れられない。意識が霧散し死ぬ可能性がある以上、離れるという選択肢は最初から存在しない。存在しない選択肢を検討するのは時間の無駄だ。
では、何が変わる。
……いや、別に何も変わらない。自分がこの子どもの両親を殺したという事実は変えられない。自分が子どものそばにいるという事実も、不可抗力であり変えられない。子どもが自分を唯一の話し相手として頼っているという事実も。そしてこの子どもが死ねば自分も消えるという事実も。
やることは、変わらない。
額の傷を見つめた。自分がつけた傷を。
情報は増えた。自分が何者であるかの輪郭が、一つ明確になった。この子どもの両親を殺した。そしてこの子どもを殺そうとして、失敗した。その事実を抱えたまま、この子どものそばにいる。
それだけだ。それ以上のことは、今は考えない。考えたところで、どうせできることは変わらないのだから。
朝が来て、子どもが目を覚ました。
「おはよう」
緑の目がこちらを見て笑った。何も知らない無垢な顔で、穏やかに柔らかに。
(おはよう)
声が震えなかったことだけが、唯一の慰めだった。
◇
四歳になる少し前のこと。
七月の夜、暑い夜だった。物置の中は蒸していて、子どもは薄い毛布を蹴飛ばして横になっていた。眠れないらしい。何度も寝返りを打って、天井を見上げて、そしていつものように声をかけてきた。
「ねえ」
(眠れないのかい)
「ねえってば」
(聞こえているよ)
「おこんないでね」
(内容によるけど、何だい?)
子どもはむくりと身体を起こした。暗がりの中で、緑の目がこちらを見ている。真剣な顔だった。幼い子どもが真剣な顔をすると、目だけが大きくなる。
「なまえ、ないの?」
意識は黙った。
「だってさ、ぼくはハリーでしょ。おばさんはペチュニアで、おじさんはバーノンで、ダドリーはダドリーでしょ。クモにだってなまえあるよ。ぼく、あのおおきいクモをボスってよんでるし」
(……あの蜘蛛をボスと呼んでいるのかい?)
「うん。それはいいの。で、なまえは?」
名前。
意識は記憶の中を探った。名前……名前……? 記憶の霧の底に、何かがあるのはわかっていた。文字の形や音の響き。しかし掴もうとするとあの夜の記憶と一緒に浮かんでくる。緑の光に叫び声。門を開ける自分の手。あの名前は、あの暗闇の中で忠誠を誓われた名前は、はたして何だったのだろうか。
(……さあ? よく覚えていない)
覚えていないのは本当だが、正直触れたくないだけだ。名前に触れれば、あの夜の記憶が全部戻ってくるかもしれない。そしてあの失敗した夜の自分は——殺そうと杖を向けた自分は——目の前で笑っているこの子どもの前では隠し通しておくべきものだろう。
「わかんないの? じぶんのなまえ」
(あったような気はするけれど、覚えていないんだ。申し訳ないけどね)
「えー。こまるじゃん」
(何が困るんだい)
「だって、よべないじゃん」
呼ぶ。この子どもは自分を名前で呼びたいのか。
「ねえっていうのへんだよ? なまえないとこまる。あのさっていうのへんだし。ぼくだけのこえなのに、なまえがないのはおかしいよ」
(「僕だけの声」ね。まだろくに字も読めないくせに。僕のことをペットだとでも思っているのかい?)
「ねぇ、つけていい?」
(……何をだい?)
「なまえ。ぼくがつける」
思考が、少しばかり固まった。
この子どもは自分に名前をつけると言っている。見えない、触れない、何者かもわからない——いや、何者かは薄々わかってきていた。子どもの両親を殺した何か。それに名前を与えようとしている。
名前をつけるということは、存在を認めるということだ。「いる」だけの淡い何かではなく、呼べる相手として、世界に居場所を持つ何かとして、認めるということだ。
その名付けによって、曖昧な自分が定義されたらどうなるのだろうか?
……きっと何かしら影響はあるだろう。ただ、あるとわかっていても断る理由は思い浮かばなかった。結局のところ、形すら定まらず、世界に存在しているかも曖昧であやふやな空気のような「何か」として扱われるのは、妙に気分が悪かったので。
(……好きにするといい)
子どもは嬉しそうに姿勢を正した。暗い物置の中で、あぐらをかいて真剣に考え始めた。
「うーん」
「うーーーん」
「バーノンはぜったいやだ」
(全力で同意するよ)
「ダドリーもやだ」
(当然だ)
「ボスはもうクモのだし」
(蜘蛛と名前が被ることを気にしているのかい?)
「だってボスはボスだよ」
何かが微かにざわめいた。短い名前、嫌いだった名前。存在ごと消した名前。誰かが自分をその名前で呼んだ記憶の残滓。しかし名前そのものは出てこなかった。嫌悪だけが残って、中身が消えている。
(……そう、ボスは蜘蛛の名前か)
「なに?」
(いや、何でもないよ。続けてくれ)
子どもはなおも唸っていた。
「ジョン!……はふつうすぎる」
(君に平凡かどうかが判断できるとは知らなかった)
しばらく沈黙が続いた。子どもは何かを一生懸命考えていた。指で毛布の端を弄りながら、ときどき天井を見上げて、それからまた意識のほうを見て何かを確かめるように。
「ねえ」
(何だい)
「まずね。キング」
(呼び辛くないかい?)
「かっこいいでしょ! キング!」
(確かに響きは立派だが、毎回呼ぶ名前としては偉大すぎやしないかな。階段下の物置で「キング」と呼ばれる存在……というのは滑稽さがあるよ)
「そお? じゃあべつの。えっとね、なぞのこえだからリドル。リドルってどう?」
沈黙が落ちた。
ほんの数秒、いつもとは違う種類の沈黙だった。
(……いや、それはやめよう)
「なんで? リドルってなぞでしょ? ぴったりだよ」
(響きが好ましくない)
「えぇ? もう、キングは『いだいすぎる』でリドルは『このましくない』。ちゅうもんおおくない?」
(多くて結構。名前は一生ものだ。……僕に一生という概念があるのかどうかはさておき)
「じゃあ、イヤなりゆうは?」
(さあ。ただその単語は使ってほしくない。理屈ではなく直感のようなものだ)
「めずらしいね? いつもはヘリクツばっかなのに」
(いつも僕のことをそう思っていたのかい? まったくもって不本意だが僕にも説明できないことはあるんだよ)
子どもは首をかしげたが、引き下がった。声の雰囲気が変わったのを聞き取ったのだろう。
「……わかった。じゃあダスティ」
(ホコリかい? 身近なものから取ったのだろうけれど)
「だってここいっぱいあるもん」
子どもは物置の天井を見上げた。確かに、埃は豊富だった。しかし名前としてはいかがなものか。
(身近であることは認めるが、もう少し生き物としての尊厳がある名前を希望したいのだけど)
「いきもの?」
子どもが首をかしげた。暗がりの中で、緑の目がまっすぐこちらを見ている。何の悪意もない、純粋な疑問の目だった。
「いきてるの?」
(……少なくとも意識はある)
「じゃあはんぶんいきもの」
(半分。ずいぶんな言い草じゃないか、残り半分は死んでいるとでも?)
子どもは指を折って数え始めた。何を数えているのか、すぐにわかった。
「だって、おばけでもないしひとでもないしクモでもないし」
(その分類に僕は入ってるのか。異議を唱えたいけど、反論の材料が乏しいのが腹立たしいね)
「もう! じゃあ、じぶんできめればいいじゃん」
(名前をつけると言い出したのは君だよ。僕が自分で決めたら意味がないだろう)
「うーーーん」
子どもは指で毛布の端を弄りながら、ときどき天井を見上げて、それからまた意識のほうを見て、何かを確かめるように考え込んでいた。
「……トフィー」
——絶句した。
(菓子の名前? 正気か?)
「おいしいよ? いちどしかたべたことないけど」
(一度しか食べたことがないものを名前にするのか?)
「だって、トフィーはいいものだから」
子どもの声は淡々としていた。
この家の夫婦の子どもは毎日のように菓子を食べているのに、この子どもは一度だけ。どこかでおこぼれか、あるいは落ちている欠片でも拾ったか。たった一度の甘さがこの子どもの記憶に残っているのか。
「あまくてずっとあじがして。すごくおいしかった」
(…………)
「だからね、いいもののなまえ。いいでしょ」
この子どもは、自分に「いいもの」の名前をつけようとしている。一度しか食べられなかった菓子の甘さの記憶を。暗い物置の中にいる声だけの存在に。
名前すらないただの声を、「いいもの」だと思っている。
(…………)
「うん、トフィー」
反論しようとした。だが子どもはもう決めた顔をしていた。もうすぐ四歳になる子どもの、一度決めたら梃子でも動かない頑固な顔。もしくは、いろいろ言われてもう考えるのが面倒になった顔。こんな結果になるのであれば、名前を聞かれた段階で適当にでっち上げておくべきだった。
「トフィー」
子どもが呼んだ。今決めた甘ったるい名前を、こちらへ向けて。
「トフィー。おやすみ」
そう言って、子どもは毛布を被り目を閉じた。おい嘘だろう? もう眠りつつある。名前の変更を断固として受け付けない姿勢である。たとえ大声で叩き起こせたとしても、子どもに名前を変えさせるための手段がこちらには声しかない。分が悪すぎる。なんでこいつはこの年齢でこんなに頑固なんだ。
意識——トフィーは——しばらく言葉を失っていた。
……大変不本意ながら名前を得た。
子どもの両親を殺した存在が、「いいもの」だと思う名前を。甘ったるく、歯にくっついて、口の中でずっと味が残り続けるような菓子の名前を。皮肉だろうか? 嫌がらせだろうか? 自分が名前を与えた相手が何をしたのか、何も知らないはずのこいつが?
もし知ったとして、この子どもはそれでもトフィーと呼ぶのだろうか。
自分の中で、その名前を反芻した。
トフィー。
暗い物置の中で、眠る子どものそばで、名前すらなかった意識は輪郭を得た。
この子どもだけが呼べる名前を。誰にも聞こえない声に、誰にも見えない存在に。この子どもだけが見て、気付いて、名前をつけた。
(トフィー)
もう一度、自分の中で呟いた。
いいもの。いいものではない。
だが、こいつが勝手につけたのだ。こちら側がせがんだわけでも、望んだわけでもない。そういうことにしてしまえば、曖昧な状態から抜け出すために受け取るのは、別に卑怯でも何でもなかった。押しつけられた、と言ってしまえばそれまでだった。そう思えば、受け取る理由などいくらでも作れた。名前の由来は不本意ではあるが。
そもそも、呼ばれもしない曖昧なもののままでいること自体が、土台無理で耐え難い状態だったのだ。名がつけば便利になる。そう。これは、ただそれだけのことだ。
いいもの。甘ったるい菓子の名前。あまりにも似合わなくて嗤ってしまう。
だが、この子どもがそう思っているうちは、わざわざ訂正してやる必要もない。いいもの。そう信じて信頼するのであれば、その間だけはそういうもののふりをしていてやればいい。
夜は静かだった。
子どもが眠っていた。物置の暗がりの中で、蜘蛛が巣の隅でじっとしていた。時計の音がかすかに聞こえた。
トフィーはそこにいた。
名前を得て、罪を知って、それでも——そこにいた。