Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
物心がついたときには、僕は一人じゃなかった。
階段下の小さな物置に一緒にいた、姿も見えず触ることもできない気配だけのなにか。
僕が話しかければ返事をしてくれた。ダドリーに追いかけられた日も、お腹が空いて眠れなかった夜も、何もすることがなくて天井の板を眺めていた時だって、ずっとずっと一緒にいた。
いつから話しかけるようになったのかも、いつからトフィーと呼ぶようになったのかも正直ちょっとあやふやだ。気がついた時には、それはもうトフィーという名前で僕の傍にいた。
(ちょっと、手が止まっているじゃないか。試験までもう四週間も無いんだ、進級せずに来年も新入生をやるつもりかい?)
……いま思えば、昔から本っっ当に嫌なやつだった。
優しくなんてないし、むしろ嫌なことを言われたことの方が多い気がする。僕が知らないことを聞けば呆れられたし、腹を立てればケラケラと面白がった。皮肉が多いし余計なことしか喋らないし、僕にいろいろ指摘するけど自分のことは棚に上げてばっかり。
しかもトフィーは、何か言われる側になった途端に大騒ぎするのだ。めちゃくちゃ性格が悪い。
またトフィーから小言が飛んできそうだったため、黙って忘れ薬の調合の暗記に戻る。今でも覚えている。トフィーに「僕が作り出した空想の友達なんだろう」と、話した時はビックリするくらいに怒った。そこまで言うのかってくらい僕のことをボロクソにこき下ろした。
「ハリー、魔法史の試験範囲ってどこまでだっけ……?」
「たしかハーマイオニーは、熱血漢エルフリックの反乱までは勉強しておいた方が良いって言ってたはず」
「まじかぁ、ありがとう」
今なら怒った理由はなんとなくわかる。ずっと一緒にいた僕に、そもそも存在していないと思われていたのが嫌だったのだろう。
……でも仕方がないじゃないか、僕以外の誰もがトフィーのことを知らなかったんだもの。いつものようにはいはいと流せばよかったのに。あんなに苛烈に怒ることないし、おまけに僕が先に謝ったら『謝罪を受け取るかどうかは僕が決める』だなんて言い出したのだ。挙句の果てに、僕の謝罪を受け取ったのかどうかも未だにわからない、もう一年以上も過ぎてしまっているのに。
(ねえ、先ほどから同じところを何度も読んでいるじゃないか。そんなに忘れ薬の調合を忘れてしまっているのかい?)
それにほら、まただ。
鏡のことで喧嘩した次の日から、トフィーは僕の名前を呼ばなくなった。ねえだとか君だとか、ほんとわざとらしいったらありゃしない。
まあ、僕もおはようもおやすみも言っていないけれど。僕だって先に折れるつもりなんてない。先に謝ったら、あの時のことを許したみたいになる気がしたから。トフィーのせいで、調合の詳細を覚えられる気がしなくなったので、魔法薬学の教科書は一度閉じて魔法史に取り掛かることにする。
…………トフィーは、もしかするとヴォルデモートなのかもしれない。
誕生日にハグリッドから話を聞いて、トフィーがそうなのではないかとずっとずっと考えている。ハグリッドは、ヴォルデモートはまだどこかにいるが力を失ってしまったのだと、もう何もできないくらいに弱っていると僕に話してくれた。
トフィーは一度もそれを否定しなかった。誕生日の時だって、みぞの鏡の時だって、なにも。
微笑みながら泣いていた、僕とそっくりな目をした女性。そしてこちらを見つめていた、背が高く髪がくしゃくしゃとしたメガネをかけた男性。ハグリッドに連れていってもらった村にあった像とは違う、今の僕に笑いかけて手を振ってくれた両親。
死人だと言い放ったトフィーをどうしても許せなかった。
だから、あのときは考えるより先に言葉が出た。お前が僕から家族を奪ったんだと。……本当は一度も聞いたことがない。トフィーがヴォルデモートなのか、僕の両親を殺して僕も殺そうとしたのか。
言い過ぎたかもしれない。でもトフィーが本当にヴォルデモートだったなら? もし昔に両親を殺した犯人だったなら? 僕がトフィーを許してしまって、両親を裏切ることになるなんて絶対に嫌だ。
……なんでトフィーは何も言わないんだろう? ヴォルデモートじゃないと一言否定してくれたなら、一言でも先に謝ってくれたなら、僕だって言い過ぎたって謝る気になれるのに。
「なあ、ハリー。今日はもうこれくらいにしない? 談話室も人減ってきたし」
「ロン賛成。夜も遅くなってきたし、そろそろ部屋に戻ろ」
片付けてロンと一緒に部屋に戻り、寝支度を整えた。……もう何か月もおはようとおやすみを言っていない。このまま言わないのが当たり前になってしまうのは、正直なんだか面白くない。
ヴォルデモート。ロンやあのハグリッドでさえ名前を言うのをためらっている魔法使い。何人もの人を殺し、僕の両親を殺して赤ん坊の僕も殺そうとした。そんな魔法使いと、僕が悪夢で眠れなかったときに付き合ってくれたトフィーが、どうしたって重ならない。
そもそも、十一歳にもなって子守歌をねだった僕もどうかしていたとは思う。けど僕が変なことを言ったからって、いちいちそれに付き合うトフィーだってどう考えたっておかしいしどうかしている。
歌うことは拒否されたし、ぐちぐち文句は言っていたけれど、結局僕が眠るまでずっと話し続けていた。どうしてトフィーは、あんなに文句を言いながらも何度も付き合ってくれるんだろう。
(また、眠れないのかい?)
小さく首を振って毛布を被る。いちいち話さなくても、トフィーには何となく言いたいことが伝わってしまう。そんなやりとりが楽に感じるようになったのは、いつからだったっけ。
僕はまだ許せない、腹だって立っている。
けれど、トフィーと一緒に過ごした日々を思い返すと、嫌なことばかりだったとはどうしても言えなくて。
……。
ノーバートの箱が見えなくなるまで、ハグリッドはずっと泣きながら名前を呼んで手を振っていた。『この子のことを一番にわかってやれる』と言っていたハグリッドは、ノーバートを送り出すとき、何を考えていたんだろう。
じゃあ、僕は? 僕がトフィーを誰にも話さないのは、トフィーのため? それとも僕がトフィーと離れたくないだけ? もしくは僕の身体を有意義だと言ったトフィーは、本当は僕が嫌いで、僕の傍にいることが嫌で。一緒に居たいわけじゃなくて、ただ僕の身体が必要なだけだったら?
……きっと、トフィーが本当にヴォルデモートだったなら、ノーバートの時みたいに僕はマクゴナガル先生やダンブルドア先生へ言うべきなんだと思う。それでも、トフィーがいなくなってしまうことを、傍から消えてしまうことを上手く想像できなくて。
ぐるぐると悩んでいるうちに、いつの間にか寝てしまっていた。ここ最近はいっつもこうだ。
◇
それからも授業が終われば、ロンとハーマイオニーと一緒に図書館で試験勉強する日々が続いた。鍋が勝手に中身をかき混ぜる大鍋や、小鬼の反乱の年号を覚えたりと、僕とロンのためにハーマイオニーが作った学習予定表はどんどん埋まっていき、いよいよ試験まであと二週間ほどになっていた。
「もうギブ……魔法史なんて見たくない……」
ロンは机に突っ伏したまま大きなため息をしている。ハーマイオニーはそんなロンを呆れたように見ながら、羊皮紙に何かを書き続けていた。
「うぅ……テストで自動解答羽根ペンが使えたらなぁ……」
「駄目よロン。カンニング防止の魔法がかけられた羽根ペンが配られるはずよ。たとえ持ち込めたとしても、使えないわ」
トフィーはというと、僕が勉強している間に、また勝手にどっかへふらふらと行ってしまったらしい。本が好きなのか、飽きもせずに本の背表紙の近くをウロウロとしているようだった。そういえば、昔に比べるとトフィーは自由に僕から離れることができるみたいだけど、これはいつからだったっけ?
「ねえハーマイオニー……狼人間の行動綱領って何だったっけ……? これ、一六三七年の」
「ハリー、それは狼人間のための規則よ。『人を襲わないこと』『毎月の満月の夜には、自分自身を安全な場所に閉じ込めること』『綱領に署名し、これらの義務を引き受けること』など。でも、制定された当時は差別が激しかったからか、誰も署名しなかった規則なの」
(いいや。制定された当時どころか、今も狼人間への差別は残っているはずだよ。狼になった人間は、はたして人間なのか獣なのか……って具合にね。魔法使いには、今だって奴らは獣だと見下している者もいるんじゃないか?)
戻ってきたら戻ってきたで、注釈を入れたり僕の勉強に茶々を入れたりと自由に振る舞っている。本当にトフィーはずいぶん勝手気ままだ、僕にはいろいろぶつくさ言うくせに。
「うへぇ、そんな誰も使わなかった規則なんて、試験にでるのかよ」
「出るかもしれないからこそ勉強しているんじゃない」
「そりゃまあそうだけどさぁ……」
ロンは机に頬をくっつけたまま、持っていた羽根ペンを転がした。僕もこれ以上勉強しても、何も頭に入ってこない気がして教科書を閉じた。
最終的に力尽きた僕たちを見たハーマイオニーも勉強を続けることを断念し、その日は少し早めに図書館を出ることになった。
帰り道でもロンは試験勉強の辛さを嘆き続けていた。ハーマイオニーは呆れていたけれど、僕もロンと同じ気持ちだった。誰も使わなかった規則や、鍋が勝手に中身をかき混ぜる大鍋を発明した老魔法使いたちとか、将来なんの役に立つんだかさっぱりだ。
(……ねえ、ちょっと見てみなよ。ほら、スネイプがクィレルを襲っているよ)
急にトフィーが楽しそうにし始めたので、そちらへ目を向ける。
(おやおや、いったい彼らは何を話しているんだろうね。さて、少し近くで話を聞いてこようじゃないか)
そう言ってまたトフィーの気配は、ふらふらと楽しげに僕から遠ざかっていった。……ムカつく。本当にムカつく。もしトフィーにさわれたなら、僕はたぶん殴るか引っぱたいていた。
きっとトフィーは、僕がこんなにもトフィーのことで真剣に悩んでいるだなんて、これっぽっちもわかっていないのだ。
ほんと、トフィーには困ったものだ。スネイプがクィレルを襲っているだって? トフィーの言葉選びはいつだってズルい、そんなことを言われたら僕だって気になってしまう。
気がつけば、ロンとハーマイオニーに忘れ物をしたと伝え、僕はトフィーの後を追うように足を速めていた。
そういうところが一番困る。
ムカつくし、腹が立っているのに、まだ許したわけでもないのに。トフィーが楽しそうにしていると、僕まで楽しくなってしまう。
本当にトフィーが僕の両親を殺していたのなら、僕はこんなふうにトフィーといることを楽しいと思っていていいんだろうか。
そんなこと、トフィーには聞けなかった。