Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
子どもは黙り込んだまま一歩後退りした。……無理矢理にでも動かそうとしたが、子どもの力が強いのか意志が強いのか、先ほどのように操作しようとしてもビクともしない。クィレルは両腕を負傷したせいか、バランスを崩して倒れ込んでしまっている。今が絶好の機会なのに。
(ちょっとハリー)
俯いて小さく首を横に振りながら手のひらを見つめている。子どもの手のひらを見ると、先ほど焼けて剥がれ落ちたクィレルの皮膚や肉の一部が、指の間にびちゃりとくっついてしまっていた。
「い、嫌」
嫌? この状況下で何を言い出すのだろう。クィレルは焼け爛れた両腕を庇いながら苦痛に顔を歪め呻いているが、目には敵意が宿ったままだ。腫瘍だって今も金切り声でポッターを殺せ殺せと喚いているじゃないか。僕らが生きるためには、あれらを殺すか屈服させるかして力を奪う必要がある。
(どうして? 僕らはまだ生きていたいだろう?)
状況として別に逆転しているわけではない。現状だって呪文を唱えられてしまえば、僕らは太刀打ちできない可能性も高いだろう。結局のところ、あの腫瘍やクィレルを何とかしなければ死んでしまうのだ。生き残るためにも排除しなければ。
子どもの意志を無視して再度動かそうとするが、子どもの抵抗が強いのか、いまいち僕が人間の肉体の動きを忘れているせいか、壊れたようにユラユラと動くだけで進もうとしない。……結局石を手に入れても子どもに拒絶されてしまえば無力なままだなんて、今にも襲い掛かってきそうなあれを僕は見ているだけしかできないのか?
「クィレル先生死んじゃうよ……?」
(君は殺されかけたんだよハリー。よく聞いて、今ここで君が生き残ること以上に重要なことなんてある?)
情けをかけてこちらが死んだらどうする。教師の一人や二人くらい別に死んだっていいじゃないか。それにクィレルはこんな場所まで侵入して石を奪おうとしていたのだ。この教師がたとえ野垂れ死んだところで子どもが殺人者として責められる可能性は低いだろう。
「あるってば……とにかく僕の手であの人を殺さないで」
はぁなるほど? クィレルが良い感じに燃えるからといって、肉や皮膚が手にくっついてしまうのは気持ちが悪いのかもしれない。自ら手を下すのが嫌となると、僕だけで出来ることはあるだろうか?
……子どもの魔力、もしくは肉体を作った時に残った石の力を使えば出来るかもしれないな。
(わかった、わかった。じゃあ僕がやるよ)
クィレルが立ち上がろうとしているので、地面へ叩きつけてやろうと意識を向ける。すると男の身体が不自然にひっくり返り、後頭部から床へと叩きつけられた。
……僕が喰らった石の力が削れているのか、それとも子どもの魔力を使っているのかいまいち感知出来ない。石の力が削れていたら業腹ではあるが、今この場に限っていえば致し方ないだろう。しかしながら杖も呪文も使っていないからか、魔法使いの幼子が起こす魔法の暴発に近いものになり思ったより威力が出なかった。
威力が控えめだったためもう一度地面に叩きつけることにする。ついでにこれであの耳障りな腫瘍も潰れたりしないだろうか?
「ちょっと!」
(何だい? 要望にはきちんと応えたじゃないか)
「殺さないでってば!」
クィレルのうめき声と腫瘍の喚き声が聞こえる。上手いこと子どもの声はかき消されてはいそうであるが、このままでは相手から見ると、子どもは独り言を喋りながら襲ってくる人物に見えてしまうだろう。……誰かに見られでもしたら面倒なことになりそうだ。
それにしても、折角霞のようではあるが肉体を手に入れたというのに、僕は何故こうも不自由なままなのだろう?
(わかったよ。わかったからこれ以上人目がある状況で僕に話しかけるのはやめるんだ)
とはいえヴォルデモートだと名乗る腫瘍だけは殺しておきたい。地面へ叩きつけた時に悲鳴が聞こえたということは、ある程度クィレルの肉体に根付いているのだろうか? ……クィレルを殺せないのであれば、いっそ寝返らせてしまうのはありかもしれないな。
さて、クィレルは何と話していたか。あるのは力とそれを求めることすらできない弱者だけ……だったか? ならば自分は憐れな弱者のままだったのだと、腫瘍はただの紛い物で騙されてしまっていたのだと、丁寧に叩き込むことができれば忠誠心を削ることも可能かもしれない。僕が直接クィレルと話すことが出来れば楽なのだが……子どもを見ると、こちらを睨んだまま拳を握っている。
(ハリー。クィレルを生かすためには、後頭部のあれを分離させる必要がありそうだ。ちょっと君の口を貸してほしいな)
「……」
(約束は守るよ。もちろん君の仰せの通り、これ以上クィレルは傷つけないよう注意を払おう)
「…………」
もの凄い形相で訝しげに見てくるな? そこまで嫌か、僕は子どもが後出しした要望にもしっかり応じて守っているじゃないか。いや、こうして子どもを説得する時間すらも惜しい、揺さぶるのならあちらが態勢を整える前にするべきだろう。
(……わかった。じゃあ僕が伝えてほしい言葉を話すから、君がそれを伝えてよ。それならいいだろう?)
子どもは数秒間ほど黙って手のひらとこちらを交互に見つめながら、最終的にはゆっくりと頷いた。子どもの手のひらを見ると、先ほどまで貼りついていた皮膚や肉は、焦げて黒ずみ灰になっていた。
子どもに言わせるなら脅しはある程度遠回しにしたほうが良いだろう。子どもの自己判断で勝手に検閲されそうだ。……嫌味くらいなら大丈夫か? 子どもが復唱できる形にするとして、まずはどう話したものかな。
(じゃあこれから僕の言葉を復唱して伝えて。……『おやまあ先生。地べたに這いつくばってどうしましたか?』)
「……クィレル先生、大丈夫ですか?」
早速子どもからすると駄目だったようで検閲が入ってしまった。別にこの程度はいいじゃないか、というよりも何故こうも僕と子どもで争う羽目になっているんだ?
(『そういえば、先ほどクィレル先生はヴォルデモート卿に間違いを正してもらったと言ってましたね』)
どうやらこれは問題なかったようで、子どもはそのままクィレルへと伝えている。……面倒になってきたな。よく考えればおかしいだろう、何故この状況で僕にとって最大の障害が子どもになっているのかが本当にわからない。
クィレルは子どもの声を聞いてはいるようだが、無視して今は必死で立ち上がろうとしている。腫瘍は先ほど顔面を打ち付けたのが余程腹に据えかねたのか、殺せとしか言わなくなってしまっていた。……クィレルへの揺さぶりに子どもの検閲が入るのであれば、寄生している方の神経を逆撫でしたほうが手っ取り早そうか?
(……『尊敬しているのですね。先生のご主人はさぞ立派な方なのでしょう。クィレル先生が今まさに死にかけているというのに、命令する元気だけは有り余っていらっしゃるようで』)
子どもは言い淀むと、何故そのヴォルデモート卿はクィレルを助けようとしないのか? といった内容へと差し替えている。あの寄生虫の無能さを貶めることすら駄目なのか。
「助ける……だと? 随分と奇妙なことを言うなポッター。この男の腕を焼き、床へ叩きつけたのは誰だ?」
「それはっ!」
腫瘍が忌々しげに目を細めて吐き捨てた。子どもは改変して伝えた挙句の果てに言い負けてしまっている。
(ちょっとハリー、言い負けるのはやめてくれよ。それかちゃんと僕の言う通りに話して)
「ご、ご主人様のせいではない……私が事を仕損じたせいだ……」
クィレルが焼け爛れた腕を庇いながら、掠れた声を必死に絞り出していた。
「そうだクィレル……よく理解しているではないか。私に力が戻れば、その程度の傷など問題ではなかったのだ」
何とも面倒な主従だこと。冷静に考えると何故僕はこんな無駄なことを? もうある程度の譲歩はしたのだ、子どもを無視して殺しても……いや、無視して殺した場合、後が面倒なことになりそうだ。今後も子どもの協力が必要になる可能性をふまえると博打が過ぎる。クィレルの望みは『強大な魔法使いから力を学び、皆に認められる』だっただろうか? 腫瘍を煽ろうにも子どもが言い負けるのであれば、クィレル側から突き崩そう。
(ハリー頼むよ。『そうだとすれば随分おかしくないですか? 力を学ぶために仕えているのなら、何故クィレル先生の方が力を与えるために働いているんですか?』)
身体を貸し、ユニコーンの血を飲み、石を探して犯罪者へと堕ちる。その歪な関係の末に何を手に入れたのだろう。
(『そうまでして先生が手に入れたかったものは、一体何だったのでしょう?』)
また若干の検閲は入ったが、今回は僕の言いたいことを伝えてくれた。クィレルは一瞬口を戦慄かせながらも、教えを授かっていると反論している。死にかけのくせに必死に主人を庇うとはご苦労なことである。
だが、反論があまりにも必死過ぎたのか、あの腫瘍にはその忠誠も健気さも、ただの言い訳にしか聞こえなかったらしい。
「……もうよい」
「ご、ご主人様?」
「貴様は力を求め、私は機会を授けた。それを自らの血肉に出来なかったのは貴様の怠慢だ。幾度の失態をいつまでも見逃すとでも?」
良い感じに仲間割れしてきたな。最初僕が考えていた方向性からは幾分か変わっているが無事にクィレルは見捨てられそうである。
「お待ちください! わ、私はまだ……まだご主人様のお役に立てます……!」
「ほう。では何をするつもりだ? もう石は失われ貴様の腕も使い物にならぬのに」
クィレルは縋っているが、憐れなことに腫瘍はもう下僕を見ていないようだった。目的のものが失われたのだ、得るものがないと判断するのは合理的ではある。
「……もはやここにも貴様にも用は無い」
そう話すと、後頭部からぶちぶちとクィレルの皮膚を千切るようにして、霞のような何かが飛び出してきた。逃がすまいと霞に向けて力を叩きつけようとしたが、霞の状態では効果がないらしくそのまま出口へと飛び去ってしまった。……やはり温情など示さずに、クィレル諸共やった方が良かったのではないだろうか。子どもはあの腫瘍が飛び去る際に尻もちをついてしまっていた。
「せ、先生?」
子どもの呼びかけに応じずに倒れ伏している。剝がれた衝撃か、血塗れでクィレルは気絶しているようだ。多少か細いが息はある。
(死んではいないよ)
残念なことに忠誠心は最後までそのままであったが。子どもはクィレルの胸が上下していることを確かめると、ゆっくりとこちらを振り返り、黙って拳を握りしめながらどかどかと大股で近づいてきた。
……ん?
握りしめられた拳が真っ直ぐ僕の顔へ飛んで来た。その拳は僕の顔面をすり抜け、子どもは勢い余ってたたらを踏んでいる。が、いきなり殴りかかるとはどういう了見なのだ。
(ちょっと! 何をするんだ!)
「僕の身体を勝手に使わないでよ!」
(使えるものなら使ってみたら? だなんて僕を煽っていたじゃないか)
助けてやったというのになんだお前。無言で殴りかかるだなんていったい誰に似てしまったのか……ダドリーか?
「今いつだと思ってるの!? あれもう半年前のことでしょ!」
半年前のことを引き摺っているのはお互い様では? ……反論したらまた殴ってきそうだな、腹立たしい。こちらが黙ったのを見て、やっと落ち着いたのか拳を解いた。
「……もう勝手に動かさないで」
(善処するよ)
時と場合によるだろう。また殴られないように若干距離を取る、当たらないとはいえ目の前に拳が迫るというのはよろしくない。
子どもは疑わしそうにまだ睨んでいたが、最終的に諦めたのか、途中でクィレルに引き倒された際に飛んでしまった色褪せた賢者の石を拾い、鏡にもたれるように座り込んだ。