Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら   作:階段下から

5 / 9
第4話 想定外の日々

 年月は、暗い物置の中でも流れた。

 

 不本意な名ではあるが、呼び名を得てからの日々は、それ以前とは質が違った。名前があるということは、存在に重さと形を与えた。この子どもは毎朝「トフィー、おはよう」と言い、毎晩「トフィー、おやすみ」と言った。呼ぶたびに、トフィーという存在がこの世界に定着していくのを、名付けられた側の自分が感じていた。なお、どんなに訴えても別案を提示しても、この子どもは名前を変えることなく頑なに呼び続けた。

 

 (おはよう、よく眠れたかい)

 

「うん。きのうよりは」

 

 (それは良かった。あの太った従兄弟の寝言がうるさかったからね)

 

「ダドリーのねごときこえるの?」

 

 (二階から振動が伝わってくるんだよ。あれは寝言というよりも地鳴りに近い)

 

 子どもが笑った。声が漏れないよう、口を手で押さえて。朝のダーズリー家は静かでなければならない。この子どもが先に起きていること自体が、見つかれば不機嫌の種になる。

 

 こういう朝が、何十何百と積み重なった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 そしてこの子どもが五歳になった年、家事が本格的に増えた。

 

 庭の草むしりは以前からやらされていたが、そこに簡単な掃除と、朝食の準備が加わった。五歳の子どもの手が届く範囲で、という限定はあったが、それは配慮ではなく、単に背が足りなかっただけだ。踏み台を与えられてからは、台所仕事も増えた。

 

 引き続きできることは何もなく、見ていることしかできなかったが。子どもが包丁を使う際は、指を切り落とさないか指の位置を確認した。熱い鍋に手を伸ばしそうになれば声をかけた。

 

 ……正直なところ、ここまで細かく気を配るつもりはなかった。必要最低限の養育ではあるが、この家にいる限りは飢え死にするようなことにはならず、死の危険はないだろうと。油断していた。慢心していた。問題は、この子どもが予測できない挙動をすることだった。

 

 まず、最初にダーズリー家で火柱が上がったのは、ペチュニアが洗い終わった皿の水切りをするために目を離した一瞬のことであった。

 

 ベーコンの脂がフライパンから溢れ、コンロの火に落ち、炎が立ち上がった。三十センチほど。子どもの顔のすぐ前で。

 

 (ハリー下がって)

 

「わあー」

 

 下がらなかった。

 

 この子どもは炎を覗き込んでいた。目を丸くして、口を半分開けて、少し身を乗り出して。

 

 (ハリー!)

 

「きれい」

 

 (離れてハリー!)

 

「オレンジのとこと、いろがちょっとちがうとこがある。したのほう」

 

 (おい! 聞こえてるだろ下がれ!)

 

「ハリー!?」

 

 ペチュニアの悲鳴が背後から飛んだ。皿を取り落とす音。皿を落としたままこちらへ駆けつけ、コンロのつまみを叩くように捻り、流しの濡れ布巾を掴んでフライパンに被せた。彼女の迅速な対応により、炎は消え、台所に脂の焦げた匂いが残った。

 

「あんた、何を——火から離れなさい! こんなことも——」

 

 声は震えていた。ペチュニアはそのまま流れるような動作で子どもの肩を掴んでコンロから引き剥がし、それから慌てたように手を離した。触れてしまったことを後悔したような手つきだった。

 

 (まさか彼女に心底同意する日が来るとは思わなかったよ)

 

 ペチュニアは、子どもの頬に煤がついていないか確かめるように視線を動かして、額のあたりで一度止まって、それから逸らした。緑の目のあたりだけは正確に避けていた。

 

 そして、怪我がないことを確かめ終わったのか、途端に怒鳴りはじめた。

 

「何を考えているの! この家を焼くつもり!? 油の量も適当で、ダドリーに何かあったらどうするの、あの子は二階で寝ているのよ!」

 

 (……焼死する順番として、二階のほうが後だと思うけれどね)

 

「ちょっとうるさい」

 

「今なんて言ったの!?」

 

「なんでもないです」

 

 子どもが口答えしたと勘違いしたのか、ペチュニアはそのまま火の扱いを叱りつけながら子どもを階段下に押し込んだ。扉が閉まり、鍵の音がした。この状態であれば、朝食は抜きになるだろうし、あの可哀想なベーコンも焦げていることだろう。

 

 暗がりの中で、子どもは不満そうに座っていた。

 

「トフィーのせいで、おこられたんだけど」

 

 こちらが何故声を荒げているのか少しも伝わっていない。自己保存の本能が致命的に欠けている。

 

 (僕のせいではないよ。正直、君はもっと反省したほうが良い。……罰の与え方については別途文句はあるけどね。火の扱いと、食事を抜くことに何の関係があるんだ)

 

「ふたりともおこりすぎ、すぐきえたじゃん」

 

 (火が消えたのは彼女のおかげだし、もし消えなかったら最悪家ごと燃えていただろうね)

 

「それはこまる」

 

 困るどころではない。なぜ身の危険に対してそんなにふわっとしているんだ。実感がないのか?

 

 (というか、まず油だ。あんなにいつも多く入れないだろう?)

 

「おおいほど、おいしいかなって」

 

 (違う。せめて自己判断せずに教わったいつもの分量を守ってくれ。それと火加減だ、強火で放置していただろう)

 

「……はやくおわらせたかったんだもん」

 

 (急いだ結果、朝食を抜かれて物置にいるわけだ。君の言う効率ってこういうことなのかい?)

 

「うるさい」

 

 (あと二点ある)

 

「まだあるの!?」

 

 当たり前だクソガキ。こちらの声を無視してのぞき込み、挙句の果てには「綺麗」である。自分がその綺麗なものにベーコンのようにこんがりと焼かれる可能性を一ミリたりとも考えていない。

 

 その日は、子どもが寝てしまうまで何が悪かったのかを延々と話し続けた。

 

 なお、問題は料理だけではない。草むしりでは手に切り傷を作り、皿洗いでは皿を割り、掃除ではうっかり洗剤を舐めそうになり……こういうことが何度も続いたため、ほぼ監視に近い状況に陥っているのである。

 

 (ハリー。刃の近くに指を置く癖は、早いうちに直しておかないと)

 

「わかってるよ」

 

 (わかっている、と言う人間が刃の三ミリ先に親指を置くものかな?)

 

「たまたま。だいじょうぶ」

 

 (指を切り落としてからでは遅いんだよ? 本当にわかっているのかい?)

 

 声をかける頻度はお察しである。この子どもは慣れてくるとすぐに手を抜こうとする。家事がこんなに危険なものになるとは思いもしなかったし、ダーズリー家がこんなにも死の危険と隣り合わせになるとも思わなかった。……まあ、それはダーズリー一家が一番思っていることかもしれないが。

 

「……ねえ、ぼくのことしんぱいしてないでしょ」

 

 (していないね。君が死ぬと僕も消えるかもしれない。それだけの話だ)

 

「うわさいてー」

 

 (正直者だと言ってほしいな)

 

「トフィーってさ、ときどきすっごくうるさい」

 

 (君が危なっかしいからだよ。今月だけで皿を三枚割った人間の台詞じゃない)

 

「二枚だよ」

 

 嘘である。今月は既に三枚割っている。しれっと物事を改ざんするのは、忘れたのかバレなければ問題ないと考えているのか。

 

 (一枚はバレる前に庭に埋めただろう。何を無かったことにしているんだ)

 

 子どもは心底うんざりした顔でこちらを見上げた。

 

 (……とはいえ、君は言えば覚える子だ。そうだろう?)

 

 機嫌を損ねてすねられても困る。実際、物覚えは悪くはないはずなのだ。毎回自分の判断で手順を変えようとするのが問題なのであって。

 

「べっつに。トフィーがうるさいから、おぼえるほうがはやいの」

 

 (つまり僕は騒音だとでも?)

 

「うん」

 

 (即答するんじゃない)

 

 うっかりダーズリー家を何度も消し炭にしようとした子どもは、反省の色も見せずにぼやいている。

 

「あと、たまになにいってるかわかんない」

 

 (……ああ、それは僕の落ち度だ。君の語彙にまだない言葉を使ってしまっているようだ)

 

「ごい?」

 

 (知っている言葉の数のことだよ)

 

「トフィーはほんとにむずかしいことばすきだね」

 

 好きなのではない。そういう話し方しか記憶にないだけだ。

 

 そもそも、五歳児に合わせて語彙を落とす必要があること自体が不愉快だった。相手が理解できるまで噛み砕いてやるのは教師の仕事であって、家事を教えてやるのは任せた側が必要最低限はするべきである。どちらも自分の仕事ではない。どうしてこんなことになってしまっているのか。いや、せめて興味本位の『やってみた』は、誰かが止めるべきか。

 

 (……いいかい。今後は君にわかる言葉を選ぶよう努力する。その代わり、わからなかったときは黙っていないで確認しなさい)

 

「うん」

 

 (返事が早いね。本当にわかっているのかい)

 

「わかんない」

 

 (…………)

 

「でもきけばいいんでしょ。だからいまはわかんなくていいじゃん」

 

 屁理屈である。腹立たしい。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 家事にもいくらか慣れ、危機的状況に陥ることは減ってきた頃。子どもはダドリーと同じ小学校に通うことになった。この子どもの世界が、初めて家の外へと広がる出来事だった。

 

 しかし広がった世界は、あまり優しくなかった。

 

 ダドリーが学校を支配していた。体が大きく、声が大きく、取り巻きを従える術を生まれながらに——あるいはバーノンとペチュニアの教育の成果として——身につけていた高慢な子どもだった。ダドリーの取り巻きたちは、ダドリーが嫌うものを嫌い、ダドリーが標的にするものを標的にしている。

 

 この子どもは、標的だった。

 

 初日から。

 

 ようやく死ぬ危険が減ってきたと思った矢先に、体重が倍ある生き物が脅威として追加された。しかもこちらは手が出せない。実に面白くない。

 

 夜、物置の中でこの子どもは膝を抱えていた。

 

「今日だれもぼくとしゃべってくれなかった。ダドリーがにらむから。……あいつがにらむと、みんなきゅうにべつの方むく。すごい才能だよ。いやな方の」

 

 (あの体格の子どもに逆らうのは荷が重いのだろう。つまり、君が避けられているのは、君に問題があるからじゃない。ダドリーを恐れているからだよ。この違いは、よく覚えておくといい)

 

「同じじゃん」

 

 (違うよ。原因が違えば、対処も変わる。同じに見える問題でも、根元を見れば別のものだということは、よくある話だよ)

 

 この子どもは顔を上げた。緑の目が、暗がりの中でトフィーのほうを見ていた。

 

「トフィーはさ、いつもなんでそうなるか考えるよね」

 

 (考えなければ、正しく動くことはできないよ)

 

「ぼくは、考えてもどうにもなんないこと、多いけど」

 

 (今はそうかもしれない。だが原因を理解していれば、状況が変わったときに動ける。今の君は準備の段階にいるんだよ、ハリー。準備を怠らない人間は、機会が来たときに必ず掴めるものだ)

 

 この子どもは黙って、それからぽつりと言った。

 

「……べつにいいけどさ。あいつらの話、つまんないし。ダドリーが昨日なに食べたとか、テレビでなに見たとか。トフィーの話のほうが百倍おもしろいし」

 

 慰めを求めているのではなかった。この子どもは、本当にそう思っている。

 

 (それは光栄だが、比較対象が君と同い年の子どもでは僕も張り合いがないよ)

 

「じゃあもっとおもしろい話して」

 

 (注文が多いね)

 

 この子どもの世界は狭い。学校で孤立し、家で冷遇され、話し相手は見えない声だけ。それを不満にも思っていない。これが普通だと思っている。

 

 好都合ではある。この子どもが他に味方を見つけたら、自分の優先順位は下がる。孤立していればいるほど、こちらの言葉は重くなり、耳を傾ける頻度は増えるだろう。今のところ競合はいない。ダドリー及びダーズリー家は論外だし、教師は誰もこの子どもを見ていないのだから。

 

 そんな風に悠長に構えていたある日。

 

 最初の「不思議なこと」が起きたのは、この子どもが七歳のときだった。

 

 ペチュニアがこの子どもの髪を切った。この子どもの黒い髪は頑固に跳ねており、どう切ってもまとまらない。ペチュニアは苛立ちながら、雑で乱暴な散髪を行い、ほとんど丸刈りに近いところまでバッサリとやった。前髪だけは残した——額の傷を隠すために。

 

 子どもは鏡を見て泣きそうな顔をし、物置に戻って毛布を頭から被った。

 

「……明日、学校いきたくない」

 

 (そこまで気に入らなかったかい?)

 

「みんなに笑われる」

 

 (ダドリーの取り巻きは、君の髪型がどうであれ笑うよ。それは今に始まったことじゃない)

 

「それはそうだけど……」

 

 (だが、気持ちはわかるよ。自分の望まない姿で人前に立つというのは、誰にとっても愉快なことじゃない。残念ながら、僕にできることは何もないけれど)

 

 この子どもは毛布の中で黙っていた。

 

 次の日、朝が来てこの子どもが毛布を取ったとき、髪は元に戻っていた。

 

 昨夜切られたはずの髪がまるで何事もなかったかのように。いつもの長さで、いつものように頑固に跳ねている。

 

 トフィーは驚かなかった。正確には、驚いたがそれ以上に腑に落ちた。この子どもの中に何かがある。普通の人間にはない特別な何か。自分の中にもある——あった——力と同じ種類の才能。

 

「トフィー、髪が!」

 

 (戻っているね)

 

「なんで? ……いや、なんでもいいや。やった」

 

 この子どもは鏡の前で髪をぐしゃぐしゃとかき回した。いつもの跳ねて収まらない黒い髪。昨日まで泣きそうだった顔が、すっかり晴れていた。

 

 (理由は気にならないのかい)

 

「だって戻ったし。おばさんのほうが気になるよ。また切ろうとするかな?」

 

 (おそらくね。だが、また伸びるんじゃないかな。……同じことが繰り返されるなら、そのうち諦めるだろう)

 

 ペチュニアは髪が戻っていることに気づき、顔を真っ赤にしてこの子どもを物置に閉じ込めた。食事は一日抜きだった。

 

 その夜、トフィーは考えていた。

 

 この子どもにはちからがある。自分の中にある——あった——ものと同じ何か。杖を握る感覚。呪文が喉を昇る感覚。あの記憶の断片たちと同じ世界に、この子どもは属している。

 

 それはつまり。

 

 あの世界。自分がかつて歩いていた世界が、いつかこの子どものもとへ迎えにくるということだ。

 

 そしてあの世界から迎えが来たら、子どもに近づくものも増えるだろう。問題は、子どもに両親の仇を教え、子どもに仇討ちをさせようとする人間がいないかどうかである。そして子どもの中に巣くっている存在に気付かれる可能性。

 

 (……)

 

 まだ先の話だ。そう思ってしまう無力な自分が気に食わなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。