Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
この子どもが八歳になった頃、ダドリーとその取り巻きたちの遊びに名前がついていた。
ハリー狩り。
名付けたのはダドリーだろう。センスの欠片もない。ただし遊びとしての完成度は認めざるを得なかった。獲物を決め、逃がし、追い、囲む。ピアーズが先回りし、デニスとゴードンが横から挟み、マルコムが背後を塞ぐ。ダドリー本人はほとんど走らない。最後に到着して、さも全てが自分の手柄であるかのようにハリーを殴る。
なお、この件に関しては、迅速かつ的確に火柱を処理した主婦ペチュニアは、とんでもなく使えない馬鹿で阿呆な間抜けになる。
ダドリーが欲しがるものをすべて買い与え、躾などしようともしない。そして食事をするだけで可愛いのか、極めつけにはダッドちゃんダドリーちゃん連呼である。反撃としてダドリーを殴ろうものなら、どんなにダドリーが悪くてもこちらが悪く言われるだろうし、ダドリーのせいでこちらが大怪我しようものなら隠蔽しそうな凄みがある。そう、彼女にとって道徳観や倫理観といったものは、ダッドちゃんの前ではすべてが等しく無力なのだ。もし「どちらかの命を差し出せ」と脅されたとしても、喜んで自分の命を捧げそうな迫力とでも言えば良いだろうか。
「……トフィー?」
ふと、嫌な考えが頭をよぎる。基本的に彼女は、ダドリーやバーノンが絡まなければ常識的ではあるのだ。絡むとおかしくなるだけで。
では、彼女の妹であるハリーの母親はどのような人物だったのか。
……もし、もしもの話ではあるが、姉と同じように、好いた人間や愛した人間が関わると、急に頭のネジが吹っ飛ぶような気の狂った人物だったとしたら。
「ちょっとトフィー。無視しないで、わかってるよね」
ハリーが小声で話しかけてくる。
(ああ、わかってるよ。あの配置を考えたのが「ダッドちゃん」だとしたら、あれの成績表は不当に低いね)
「楽しそうにしないでよ」
(分析だよ。逃げるには相手を熟知しておいたほうが有利だからね)
そう、今は考えるよりもやることがある。それに考えすぎだろう。たとえ姉妹だったとしても、ペチュニアのような人間がそう沢山いるわけがない。
(動いたよ)
放課後の逃走は、おおよそ決まった手順で始まる。
校門を出たところで背後の声が変わる。笑い声が号令に変わる瞬間には、子どもは振り返らず一目散に走り出す。ここ最近は、自分を見張りに使う対策もとるようになった。始めの一秒が命取りになることを、五回か六回の失敗で学んだらしい。
なお、この子どもは逃げ切ることが多かった。速いのだ。ダドリーの半分しか食べていない痩せた身体で、大人の予想より遥かに速く走る。栄養状態を考えれば説明がつかない。つかないので、これもまた「不思議なこと」の一部だろうとトフィーは考えていた。
「うしろ、何人」
(四人。ダドリーは校門で待機している。あれは走る気がないみたいだね)
「ピアーズは?」
(左だ。角を先に回った。君の前に出るつもりだよ)
「チッ」
(舌打ちだなんて下品だよ。まったく誰の影響かな)
「トフィーでしょ」
(心外だ。僕は舌を持っていない)
軽口を叩きながらも、この子どもの足は止まらない。息が上がり、鞄の紐が肩に食い込み、それでも走る。トフィーはその周囲を隅々まで見ていた。塀の高さ。犬のいる庭。開いている門と閉じている門。角を曲がった先が行き止まりだったかどうか。
(右の路地は行き止まりだよ)
「わかってる!」
(先週も同じことを言って、うっかり曲がって壁に突き当たったのはどこの誰かな)
「うっさい! いま! 走ってる!」
(走りながら口答えする余裕があるなら結構)
塀の低い場所、通り抜けられる駐車場。逃走経路はずいぶん整理された。トフィーはそれらを記憶し、必要なときに提示した。ダドリーには手加減という概念が存在しないため、捕まると必ず怪我をする。打ちどころが悪いだけで死ぬ可能性があるので、こちらとしても協力せざるを得ない。
その日は、少し違った。
路地が塞がっていた。工事の柵、前日まではなかったものだ。トフィーの地図が更新されていなかった。
(不味いね、今すぐ戻れるかい?)
「もうダメかも」
背後から足音が一つ、足の速さからしてピアーズだろう。逃げ道がなくなった。
(塀に登って。左の低いところだ)
「届かない」
(跳べ)
「届かないってば!」
子どもはゴミ箱の陰に飛び込んだ。身を縮めて、膝を抱えて、目を閉じて。何かに耐えるように。
そして——次の瞬間、この子どもは学校厨房の煙突の上に座っていた。
(…………)
「……なにこれ」
(こっちが知りたいよハリー。僕は塀に登るために跳べといったのであって、煙突まで空高く跳べとは言ってない)
「とんでない。しゃがんだだけ」
(しゃがんで屋根に着く人間がいてたまるか)
眼下を見渡すと、四人が空になったゴミ箱の陰を覗き込んでいた。獲物が消えたことに納得がいかないらしく、ゴミ箱を蹴り、路地の奥を確かめ、それでも見つからずにやがて散っていった。
(とりあえずは撒けたみたいだよ)
「おりられない」
(登れたのだから降りられるだろう。……おそらく)
「おそらくって、たぶんダメなときに使う言葉でしょ」
(君は僕の言葉を使い方から逆算して覚えるようになったんだな。見上げた洞察力だ。文字通り今見上げられる位置にいるわけだけれど)
「ほめてないで助けて」
(残念ながら僕には身体がない。放課後の学校なら先生はまだ残っているはずだから、見かけたら助けを呼べば良い。絶対に不用意に動かないでくれよ)
子どもは煙突にしがみついたまま、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……たかい」
(そうだね)
「けっこう、いい」
(は?)
「街ぜんぶ見える。屋根って、上から見るとけっこう形がちがうんだね」
夕方の光がプリベット通りの屋根を照らしていた。同じ形に見えた家々が、上から見ると微妙に違う角度で並んでいる。この子どもはそれを、落ちる心配より先に面白がっていた。
高いところで嬉しくなる人間の気持ちはよくわからない。わからないが、この子どもの息が落ち着いていくのは把握できた。
その後、なんとか助けを呼ぶことができ、慌てた教師が梯子を持ってきた。なおその数日後、校長からペチュニア宛にご立腹の手紙が来たようで、この子どもはまた叱られ、食事を抜かれた。
◇
そして秋、より根本的な問題に直面した。食事である。
「おなかすいた」
(さっき食べただろう)
「たりない」
子どもは物置の床に寝転がって、天井を見上げていた。動く気力もないらしい。
ハリー狩りから逃げきるため、ここ最近は走る量が増えている。逃げる、隠れる、また走る。それを毎日。対して食事の量は変わらない。むしろこの子どもの背が伸びはじめた分、必要量は増えているはずだった。
(……まずいね)
「なにが」
(量が足りないんだろう。このままだと倒れるよ)
「じゃあなんとかしてよ」
(僕に手はないんだが)
「知恵はあるでしょ。いつもえらそうにしてるんだから、なんか出して」
言い方に腹は立ったが、この子どもが倒れると困るのも事実ではあった。
(……夜中に台所へ行ったらどうだい? 戸棚の下段、缶詰の奥にビスケットがある。どうせダドリーが全部食べるんだ。誰も数なんか数えていないさ)
「盗むってこと?」
(人聞きが悪いね。君の労働に対する未払い分の回収と考えればいい)
「やだよ」
(倫理的な理由かい? 飢えるよりはましだと思うが)
「ちがう。バレたら三日抜きになるもん。毎日は続けられないし、一日だけ得しても三日損するのはバカでしょ」
なるほど。倫理ではなくリスクの問題か。
(では庭のトマトは)
「あれ、おばさんが毎日数えてる。あとぼくが食べたらぜったいバレる」
沈黙が落ちた。この子どもが寝返りを打つ音がした。
(……)
バーノンもペチュニアも世間体を気にし、体面を守る。この家の全ての行動原理はそこにある。芝生の長さも、カーテンの色も、車の型も、すべては「近所からどう見えるか」で決まっている。子どもの扱いも、その基準の内側にある。飢えさせても構わないが、飢えていると近所から思われるのは困るのではないだろうか。
ならば。
(ハリー。明日の庭仕事はいつも通りの時間にやるつもりかい)
「うん。その予定」
(結構。ならひとつ提案がある)
「なに」
(ダドリーの亀に餌をやる係は君だったね)
「うん。あいつすぐペットに飽きたから」
(あの亀の餌を、庭で食べなさい)
この子どもが起き上がった。
「……は?」
(食べるふりでいい。口に入れなくていいし、もし口に入れても吐き出してくれればいい。ただし、隣人に見えるような位置で。あの家の奥方は午後三時に庭へ出る。花に水をやる時間だ)
「なんで見られなきゃいけないの」
(見られるためにやるんだよ。甥が亀の餌を食べている。それを近所の人間が見た。その情報があの女の耳に入ったとき、彼女が何を思うか想像してごらん)
子どもは黙って、それから顔をしかめた。
「……おばさん、ぜったい怒る」
(怒るだろうね。だが怒った後に何をするかが重要だ。彼女は君を叱る。そして、二度と同じことが起きないようにする。彼女にとっての「同じこと」とは、君が飢えることではない。近所に見られることだ。今回は、罰としての食事抜きも逆効果になると考えるだろうから、それもないはずだ)
子どもは、こちらの正気を疑うように顔をしかめている。
「どうして亀の餌?」
(一番入手しやすい。ダドリーのペットである以上、亀は飢えないようにする必要がある。世話をする人間が彼女と君以外にいない現状なら、亀の世話を彼女だけで毎日行うのは負担にしかならない。君の手から亀の餌だけを隠し通すことも難しいだろう)
「……ずるくない?」
(だが君が気にしているリスクはないよ)
翌日、子どもは実行した。
午後三時。庭の隅、生け垣の切れ目のあたり。隣家の勝手口が開く音がして、じょうろを持った女性が出てきた。
この子どもは亀の餌の袋を手に取った。そして、露骨に周囲を見回した。
(……なぜ確認する。自然にやりなさい)
「みてる?」
(見てない。まだ花に水をやっている。それと、僕に話しかけるときはいつものように口パクか小声にしないと、独り言を言っている子どもに見えるよ)
「キンチョーしてるんだよ、わかるでしょ」
(はいはい。こっちに気付いたよ)
演技はそれはそれは酷いものだった。袋から粒をつまみ上げ、いったん陽にかざして眺め、それからやけにゆっくりと口へ運ぶ。まるで何かの儀式のようだった。三文芝居もいいところだ。
それでも、効果はあった。
じょうろの水が止まった。隣家の奥方の視線がまっすぐこちらを向いていた。口が半分開き、目を限界まで開いて手の袋と口元を交互に見ていた。
(……よし、もう大丈夫。背を向けて家の中へ、そのまま吐き出しなさい)
「……くさい」
(そうだろうね。袋に乾燥させた海老や魚などの表記があったから、生臭いのかもしれない)
「口のなかにはりつく」
(ほら、飲み込む前にはやく吐き出して)
その夜、ペチュニアは長々と怒鳴った。
「おまえ何をしていたの! 外で! 庭で! 亀の!」
支離滅裂だった。この女がここまで取り乱すのは、火柱の日以来かもしれない。
「お隣の奥さんが見ていたのよ。わざわざ電話をかけてきて、お宅の子は大丈夫かって——あの人が周りに何を言いふらすと思っているの! この家がどう見られると——」
(亀の餌なんてものを食べてる人間がいたら、それはもう言いふらしたくなるだろうね)
「うるさい」
「今なんて言ったの!?」
「なんでもないです」
翌朝から、この子どもの皿にトーストが一枚増えていた。
「……ぼく、これから亀のえさを食べる子だと思われるんだよね」
(そうかもしれないね)
「トースト一枚と引きかえに、なんか大事なもの失った気がする」
(だが君が気にしているリスクはなかっただろう)
「……別のリスクがあるって説明してくれればよかったのに」
(世間体を気にする余裕なんてあったかい? 他にリスクがないかどうか、考えずに実行した自分の浅慮を反省するんだね)
子どもは何か言い返そうとして口を開き、結局トーストを食べた。恨みがましい目でこちらを見ながら、一口ずつ、しっかりと。