Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら   作:階段下から

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第5話 亀の餌

 この子どもが八歳になった頃、ダドリーとその取り巻きたちの遊びに名前がついていた。

 

 ハリー狩り。

 

 名付けたのはダドリーだろう。センスの欠片もない。ただし遊びとしての完成度は認めざるを得なかった。獲物を決め、逃がし、追い、囲む。ピアーズが先回りし、デニスとゴードンが横から挟み、マルコムが背後を塞ぐ。ダドリー本人はほとんど走らない。最後に到着して、さも全てが自分の手柄であるかのようにハリーを殴る。

 

 なお、この件に関しては、迅速かつ的確に火柱を処理した主婦ペチュニアは、とんでもなく使えない馬鹿で阿呆な間抜けになる。

 

 ダドリーが欲しがるものをすべて買い与え、躾などしようともしない。そして食事をするだけで可愛いのか、極めつけにはダッドちゃんダドリーちゃん連呼である。反撃としてダドリーを殴ろうものなら、どんなにダドリーが悪くてもこちらが悪く言われるだろうし、ダドリーのせいでこちらが大怪我しようものなら隠蔽しそうな凄みがある。そう、彼女にとって道徳観や倫理観といったものは、ダッドちゃんの前ではすべてが等しく無力なのだ。もし「どちらかの命を差し出せ」と脅されたとしても、喜んで自分の命を捧げそうな迫力とでも言えば良いだろうか。

 

「……トフィー?」

 

 ふと、嫌な考えが頭をよぎる。基本的に彼女は、ダドリーやバーノンが絡まなければ常識的ではあるのだ。絡むとおかしくなるだけで。

 

 では、彼女の妹であるハリーの母親はどのような人物だったのか。

 

 ……もし、もしもの話ではあるが、姉と同じように、好いた人間や愛した人間が関わると、急に頭のネジが吹っ飛ぶような気の狂った人物だったとしたら。

 

「ちょっとトフィー。無視しないで、わかってるよね」

 

 ハリーが小声で話しかけてくる。

 

 (ああ、わかってるよ。あの配置を考えたのが「ダッドちゃん」だとしたら、あれの成績表は不当に低いね)

 

「楽しそうにしないでよ」

 

 (分析だよ。逃げるには相手を熟知しておいたほうが有利だからね)

 

 そう、今は考えるよりもやることがある。それに考えすぎだろう。たとえ姉妹だったとしても、ペチュニアのような人間がそう沢山いるわけがない。

 

 (動いたよ)

 

 放課後の逃走は、おおよそ決まった手順で始まる。

 

 校門を出たところで背後の声が変わる。笑い声が号令に変わる瞬間には、子どもは振り返らず一目散に走り出す。ここ最近は、自分を見張りに使う対策もとるようになった。始めの一秒が命取りになることを、五回か六回の失敗で学んだらしい。

 

 なお、この子どもは逃げ切ることが多かった。速いのだ。ダドリーの半分しか食べていない痩せた身体で、大人の予想より遥かに速く走る。栄養状態を考えれば説明がつかない。つかないので、これもまた「不思議なこと」の一部だろうとトフィーは考えていた。

 

「うしろ、何人」

 

 (四人。ダドリーは校門で待機している。あれは走る気がないみたいだね)

 

「ピアーズは?」

 

 (左だ。角を先に回った。君の前に出るつもりだよ)

 

「チッ」

 

 (舌打ちだなんて下品だよ。まったく誰の影響かな)

 

「トフィーでしょ」

 

 (心外だ。僕は舌を持っていない)

 

 軽口を叩きながらも、この子どもの足は止まらない。息が上がり、鞄の紐が肩に食い込み、それでも走る。トフィーはその周囲を隅々まで見ていた。塀の高さ。犬のいる庭。開いている門と閉じている門。角を曲がった先が行き止まりだったかどうか。

 

 (右の路地は行き止まりだよ)

 

「わかってる!」

 

 (先週も同じことを言って、うっかり曲がって壁に突き当たったのはどこの誰かな)

 

「うっさい! いま! 走ってる!」

 

 (走りながら口答えする余裕があるなら結構)

 

 塀の低い場所、通り抜けられる駐車場。逃走経路はずいぶん整理された。トフィーはそれらを記憶し、必要なときに提示した。ダドリーには手加減という概念が存在しないため、捕まると必ず怪我をする。打ちどころが悪いだけで死ぬ可能性があるので、こちらとしても協力せざるを得ない。

 

 その日は、少し違った。

 

 路地が塞がっていた。工事の柵、前日まではなかったものだ。トフィーの地図が更新されていなかった。

 

 (不味いね、今すぐ戻れるかい?)

 

「もうダメかも」

 

 背後から足音が一つ、足の速さからしてピアーズだろう。逃げ道がなくなった。

 

 (塀に登って。左の低いところだ)

 

「届かない」

 

 (跳べ)

 

「届かないってば!」

 

 子どもはゴミ箱の陰に飛び込んだ。身を縮めて、膝を抱えて、目を閉じて。何かに耐えるように。

 

 そして——次の瞬間、この子どもは学校厨房の煙突の上に座っていた。

 

 (…………)

 

「……なにこれ」

 

 (こっちが知りたいよハリー。僕は塀に登るために跳べといったのであって、煙突まで空高く跳べとは言ってない)

 

「とんでない。しゃがんだだけ」

 

 (しゃがんで屋根に着く人間がいてたまるか)

 

 眼下を見渡すと、四人が空になったゴミ箱の陰を覗き込んでいた。獲物が消えたことに納得がいかないらしく、ゴミ箱を蹴り、路地の奥を確かめ、それでも見つからずにやがて散っていった。

 

 (とりあえずは撒けたみたいだよ)

 

「おりられない」

 

 (登れたのだから降りられるだろう。……おそらく)

 

「おそらくって、たぶんダメなときに使う言葉でしょ」

 

 (君は僕の言葉を使い方から逆算して覚えるようになったんだな。見上げた洞察力だ。文字通り今見上げられる位置にいるわけだけれど)

 

「ほめてないで助けて」

 

 (残念ながら僕には身体がない。放課後の学校なら先生はまだ残っているはずだから、見かけたら助けを呼べば良い。絶対に不用意に動かないでくれよ)

 

 子どもは煙突にしがみついたまま、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。

 

「……たかい」

 

 (そうだね)

 

「けっこう、いい」

 

 (は?)

 

「街ぜんぶ見える。屋根って、上から見るとけっこう形がちがうんだね」

 

 夕方の光がプリベット通りの屋根を照らしていた。同じ形に見えた家々が、上から見ると微妙に違う角度で並んでいる。この子どもはそれを、落ちる心配より先に面白がっていた。

 

 高いところで嬉しくなる人間の気持ちはよくわからない。わからないが、この子どもの息が落ち着いていくのは把握できた。

 

 その後、なんとか助けを呼ぶことができ、慌てた教師が梯子を持ってきた。なおその数日後、校長からペチュニア宛にご立腹の手紙が来たようで、この子どもはまた叱られ、食事を抜かれた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 そして秋、より根本的な問題に直面した。食事である。

 

「おなかすいた」

 

 (さっき食べただろう)

 

「たりない」

 

 子どもは物置の床に寝転がって、天井を見上げていた。動く気力もないらしい。

 

 ハリー狩りから逃げきるため、ここ最近は走る量が増えている。逃げる、隠れる、また走る。それを毎日。対して食事の量は変わらない。むしろこの子どもの背が伸びはじめた分、必要量は増えているはずだった。

 

 (……まずいね)

 

「なにが」

 

 (量が足りないんだろう。このままだと倒れるよ)

 

「じゃあなんとかしてよ」

 

 (僕に手はないんだが)

 

「知恵はあるでしょ。いつもえらそうにしてるんだから、なんか出して」

 

 言い方に腹は立ったが、この子どもが倒れると困るのも事実ではあった。

 

 (……夜中に台所へ行ったらどうだい? 戸棚の下段、缶詰の奥にビスケットがある。どうせダドリーが全部食べるんだ。誰も数なんか数えていないさ)

 

「盗むってこと?」

 

 (人聞きが悪いね。君の労働に対する未払い分の回収と考えればいい)

 

「やだよ」

 

 (倫理的な理由かい? 飢えるよりはましだと思うが)

 

「ちがう。バレたら三日抜きになるもん。毎日は続けられないし、一日だけ得しても三日損するのはバカでしょ」

 

 なるほど。倫理ではなくリスクの問題か。

 

 (では庭のトマトは)

 

「あれ、おばさんが毎日数えてる。あとぼくが食べたらぜったいバレる」

 

 沈黙が落ちた。この子どもが寝返りを打つ音がした。

 

 (……)

 

 バーノンもペチュニアも世間体を気にし、体面を守る。この家の全ての行動原理はそこにある。芝生の長さも、カーテンの色も、車の型も、すべては「近所からどう見えるか」で決まっている。子どもの扱いも、その基準の内側にある。飢えさせても構わないが、飢えていると近所から思われるのは困るのではないだろうか。

 

 ならば。

 

 (ハリー。明日の庭仕事はいつも通りの時間にやるつもりかい)

 

「うん。その予定」

 

 (結構。ならひとつ提案がある)

 

「なに」

 

 (ダドリーの亀に餌をやる係は君だったね)

 

「うん。あいつすぐペットに飽きたから」

 

 (あの亀の餌を、庭で食べなさい)

 

 この子どもが起き上がった。

 

「……は?」

 

 (食べるふりでいい。口に入れなくていいし、もし口に入れても吐き出してくれればいい。ただし、隣人に見えるような位置で。あの家の奥方は午後三時に庭へ出る。花に水をやる時間だ)

 

「なんで見られなきゃいけないの」

 

 (見られるためにやるんだよ。甥が亀の餌を食べている。それを近所の人間が見た。その情報があの女の耳に入ったとき、彼女が何を思うか想像してごらん)

 

 子どもは黙って、それから顔をしかめた。

 

「……おばさん、ぜったい怒る」

 

 (怒るだろうね。だが怒った後に何をするかが重要だ。彼女は君を叱る。そして、二度と同じことが起きないようにする。彼女にとっての「同じこと」とは、君が飢えることではない。近所に見られることだ。今回は、罰としての食事抜きも逆効果になると考えるだろうから、それもないはずだ)

 

 子どもは、こちらの正気を疑うように顔をしかめている。

 

「どうして亀の餌?」

 

 (一番入手しやすい。ダドリーのペットである以上、亀は飢えないようにする必要がある。世話をする人間が彼女と君以外にいない現状なら、亀の世話を彼女だけで毎日行うのは負担にしかならない。君の手から亀の餌だけを隠し通すことも難しいだろう)

 

「……ずるくない?」

 

 (だが君が気にしているリスクはないよ)

 

 翌日、子どもは実行した。

 

 午後三時。庭の隅、生け垣の切れ目のあたり。隣家の勝手口が開く音がして、じょうろを持った女性が出てきた。

 

 この子どもは亀の餌の袋を手に取った。そして、露骨に周囲を見回した。

 

 (……なぜ確認する。自然にやりなさい)

 

「みてる?」

 

 (見てない。まだ花に水をやっている。それと、僕に話しかけるときはいつものように口パクか小声にしないと、独り言を言っている子どもに見えるよ)

 

「キンチョーしてるんだよ、わかるでしょ」

 

 (はいはい。こっちに気付いたよ)

 

 演技はそれはそれは酷いものだった。袋から粒をつまみ上げ、いったん陽にかざして眺め、それからやけにゆっくりと口へ運ぶ。まるで何かの儀式のようだった。三文芝居もいいところだ。

 

 それでも、効果はあった。

 

 じょうろの水が止まった。隣家の奥方の視線がまっすぐこちらを向いていた。口が半分開き、目を限界まで開いて手の袋と口元を交互に見ていた。

 

 (……よし、もう大丈夫。背を向けて家の中へ、そのまま吐き出しなさい)

 

「……くさい」

 

 (そうだろうね。袋に乾燥させた海老や魚などの表記があったから、生臭いのかもしれない)

 

「口のなかにはりつく」

 

 (ほら、飲み込む前にはやく吐き出して)

 

 その夜、ペチュニアは長々と怒鳴った。

 

「おまえ何をしていたの! 外で! 庭で! 亀の!」

 

 支離滅裂だった。この女がここまで取り乱すのは、火柱の日以来かもしれない。

 

「お隣の奥さんが見ていたのよ。わざわざ電話をかけてきて、お宅の子は大丈夫かって——あの人が周りに何を言いふらすと思っているの! この家がどう見られると——」

 

 (亀の餌なんてものを食べてる人間がいたら、それはもう言いふらしたくなるだろうね)

 

「うるさい」

 

「今なんて言ったの!?」

 

「なんでもないです」

 

 翌朝から、この子どもの皿にトーストが一枚増えていた。

 

「……ぼく、これから亀のえさを食べる子だと思われるんだよね」

 

 (そうかもしれないね)

 

「トースト一枚と引きかえに、なんか大事なもの失った気がする」

 

 (だが君が気にしているリスクはなかっただろう)

 

「……別のリスクがあるって説明してくれればよかったのに」

 

 (世間体を気にする余裕なんてあったかい? 他にリスクがないかどうか、考えずに実行した自分の浅慮を反省するんだね)

 

 子どもは何か言い返そうとして口を開き、結局トーストを食べた。恨みがましい目でこちらを見ながら、一口ずつ、しっかりと。

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