Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら   作:階段下から

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第6話 留守番

 (ハリー、触るんじゃない)

 

「さわってない」

 

 (今まさに花瓶に手が伸びていただろう)

 

「きれいだったから」

 

 (触ろうとしてるじゃないか)

 

 その年の冬、ハリーは生まれて初めて、この家にひとりで残された。

 

 きっかけはミセス・フィッグの体調不良だった。近所に住む猫好きの老婦人で、ダーズリー一家が出かけるときには決まってこの子どもの預け先になる。ところが風邪を引いたか何かで、しばらく人を預かれる状態ではなくなったそうだ。

 

 そしてその週末、バーノンの会社の集まりがあった。妻と息子を伴って出席するのが慣例らしい。

 

「連れていくのは論外だ」

 

「かといって、イボンヌに預けるわけにも……」

 

 台所で夫婦が長いこと相談しているのを、階段下から聞いていた。この子どもをどうするかという議題が、旅行かばんの積み方と同じ調子で検討されている。

 

 結論として、留守番になった。

 

 ペチュニアは二十分ほどハリーに約束事を伝えた。二階に上がるな。冷蔵庫を開けるな。テレビをつけるな。電話に出るな。庭に出るな。窓辺に立つな。誰か来ても応対するな。物置から出ていいのは水を飲むときと手洗いのときだけ。

 

「わかったの?」

 

「わかりました」

 

 バーノンが最後に付け加えた。

 

「小僧、何かひとつでもなくなっていたり、壊れていたりしたら——わかっているな」

 

「はい」

 

 玄関の扉が閉まり、車が出ていく音が遠ざかった。

 

「…………」

 

 この子どもは十秒ほど、廊下に立っていた。もしかしたらあのような一家でも、いなくなったら心細いのかもしれない。しかしこちらとしては、またとない機会である。

 

 (さて。まずやることだが)

 

「うん」

 

 (滅多にない良い機会だ。この家の書類がどこにあるか調べたい。おそらく居間の棚か、あの男の机だ。手紙、証書のたぐい、特に君の名前が書かれているものを——)

 

 子どもは台所へ向かい冷蔵庫を開けた。

 

 (……ハリー)

 

「ちょっとだけ」

 

 (さっき何を言われたか覚えているかい)

 

「覚えてる。でも守りますなんて言ってないでしょ」

 

 では先ほどの小気味いい返事は何だったのか。廊下で立ち尽くしていたのは、心細いとかではなく、何をするか決めかねていた間だったのか。

 

 子どもは牛乳を一口飲み、瓶の位置を几帳面に戻し、それからハムを一枚だけ抜き取った。抜き取ったあと、残りの枚数を丁寧に広げ、減ったように見えないよう並べ直している。手際が良かった。誰に教わったわけでもないのに。

 

 (ハリー?)

 

「毎日やってれば覚えるよ」

 

 はたして食事の用意で覚えられるたぐいのものだろうか?

 

 その後、子どもは居間へ行った。

 

 トフィーは期待した。棚がある。引き出しがある。書類がある可能性が最も高い場所だ。

 

 子どもはテレビの前に座り込んだ。

 

 (……おい)

 

「テレビ」

 

 (それは見ればわかる。何を見ているんだ)

 

「わかんない。でもテレビ見たい」

 

 箱の中で何かが動いていた。色のついた人間のようなものが走り、跳ね、大きな音を立てて転倒し、また起き上がる。観客の笑い声が入っている。どこかにいる観客の声だけが、この箱を通って居間に流れ込んでくる。

 

 こちらとしては、箱の中で人間が動く仕組みには興味が持てなかった。

 

 動く写真なら見たことがある。と、思う。どこで見たのかは思い出せないが、見慣れているという感覚だけが残っている。珍しくもない。

 

 それよりも、あの夫婦がこの子どもを嫌々ながらも養育していることのほうが気にかかっていた。金銭でも受け取っているのか、それとも何かしらの見返りなどがあるのか、興味は尽きない。

 

 問題は、この子どもがこの箱に完全に釘付けになっていることだった。

 

 (ハリー)

 

「んー」

 

 (棚を見なさい。左から二段目だ)

 

「んー」

 

 (返事の中身がないのだけれど)

 

「んんー」

 

 三十分が経過した。

 

 この子どもはチャンネルを変えた。今度は動物が映っていた。草原を走る何かの群れ、落ち着いた声の男が解説をしている。

 

「トフィー、あれ何?」

 

 (知らないよ。僕が生きていた頃はこんなものなかった。と思う)

 

「じゃあ何して遊んでたの」

 

 ……答えは出てこなかった。自分が覚えている記憶をあさってみたが、遊んでいた記憶はひとつもなかった。思い出せないのか、そもそもそんな思い出があるのかもよくわからない。

 

 (本を、読んでいたと思う)

 

「つまんなそう」

 

 (有意義だったよ)

 

 この子どもの意識は、箱の中に映る動物たちへと戻っていった。

 

 諦めることにした。

 

 諦めたので、ひとりで探すことにした。

 

 身体はない。手もない。だが見ることはできる。この子どもから離れられる距離には限りがあるが、同じ階の範囲であれば、なんとか意識を伸ばせるだろう。

 

 居間の棚、写真立て。ダドリーの写真ばかりが並んでいる。年ごとに一枚ずつ、横に丸くなっていく子どもの記録。ハリーの写真はない。

 

 引き出し。請求書、保証書、バーノンの会社の書類。ドリルの型番が並んだ一覧表。

 

 書類の束をめくることはできないので、上に置かれたものしか読めなかった。それでも分かったことがある。

 

 この家に、おかしな金の流れが見当たらなかった。

 

 バーノンの給与。住宅の支払い。光熱費。学費。どこにも余分な入金がない。

 

 (なるほど)

 

 仮説がひとつ潰れた。

 

 この家が子どもを引き取ったのは、金銭のためではない? 誰かがこの夫婦に報酬を払っていて、それで面倒を見ているのだろうと考えていた。人間はそういうふうに動くものだ。利益がなければ、わざわざ嫌いな相手を家に置き続けたりしない。

 

 だが金は動いていない。

 

 では、なぜ?

 

 あの女は子どもを憎んでいる。あの男に至っては存在自体を不快がっている。追い出す手段はいくらでもあった。役所に相談する、施設に預ける、遠縁に押しつける。世間体を気にする夫婦なら、むしろそちらのほうが体裁がいい。

 

 それなのに、もう七年間も子どもはここにいる。道理が通らなかった。

 

 ……情報が足りない。書類も見える範囲を確認することしかできていない。一旦は保留にするしかないだろう、足りない状態で結論を出すのは愚か者のすることだ。

 

 他にも見れるものがないか探したところ、居間の壁際の裏手にあたる位置に細長い戸棚があることに気付いた。その上段の奥に、布のようなものが押し込まれている。

 

 毛布だった。

 

 薄く白っぽい、子ども用の。

 

 見覚えがあった。七年前、玄関先に置かれていた子どもがくるまっていたもの。あの夜の空気の冷たさごと、それはトフィーの最初の記憶としてこびりついている。

 

 捨てられていなかった。

 

 七年も奥に押し込まれたまま、この家に存在していた。

 

 捨てるのを忘れた。捨てる機会がなかった。処分するより仕舞うほうが早かった。解釈はどのようにも成立する。

 

 トフィーはそれをしばらく見つめていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 意識が朦朧としたため、急いで子どもの近くへ戻ったところ、何故か子どもは階段を上りきったところにいた。

 

 (ハリー、二階には上がるなと言われていたはずだけれど)

 

「言われた」

 

 (それで?)

 

「上がっちゃった」

 

 開き直りが早い。

 

 (テレビはどうしたんだい?)

 

「あきた」

 

 なら書類探しを手伝えと言いたかったが、先ほどの毛布を思い出し口を噤んだ。

 

 ダドリーの部屋は、物置の四倍はあった。壊れたおもちゃが床に散乱している。半分に折れた模型。画面の割れたゲーム機。角の潰れた本。使われた形跡のないスポーツ用品。

 

 子どもは、それらを踏まないように歩いていた。

 

 机の上に、コンピュータがあった。去年の誕生日に買い与えられて、三週間で飽きられたものだ。埃を被っている。

 

「これ、動くのかな?」

 

 (触るなと言われただろう)

 

「言われたけど」

 

 (ハリー)

 

「動くか見るだけ」

 

 この子どもは電源を入れた。

 

 箱が唸り画面が緑色に光った。文字が流れて止まり、点滅する四角が現れた。

 

「うわっ」

 

 声が小さかった。息を詰めている。

 

 子どもの横顔を見た。目が開いて、頬が上気して、手が触れる直前で止まっている。

 

 見覚えのある顔だった。炎を覗き込んだときも、煙突の上から街を見たときも、この子どもはこういう顔をする。危険だろうが興味を引かれるものを前にして、恐れるより先に前へ出る。

 

 つまり、制御が効かなくなる直前の顔だ。

 

 (……僕は知らないよ。念のため言っておくが)

 

「いいの!?」

 

 (知らないからね)

 

「わかった!」

 

 絶対わかってない。今ので何がわかったんだ。

 

 子どもは文字盤に指を置き、片っ端から押していく。押した文字が、そのまま画面に出た。

 

「うわ、出た」

 

 もう一度押し、そのまま名前を打っている。画面にはHARRYと文字が並んだ。

 

「ぼくの名前!」

 

 (そう見えるね)

 

「トフィーの名前も打てるよ!」

 

 (やめておきなさい)

 

「なんで?」

 

 (消し方がわからないんだろう。誰かに見られたらどうする)

 

 子どもは押しかけた指を止めて、それから別の文字を探しはじめた。文字を消す方法を押しながら見つけるつもりらしい。実際、いくつか試したところで文字がひとつ消えた。

 

「消えた」

 

 (結構。では全部消して戻ろう)

 

「待って、これ何かできそう」

 

 (何か?)

 

「わかんないけど、なんかできそうな感じがする!」

 

 根拠がなかった。だが顔つきは真剣で、目は輝いていた。

 

 そのまま大量の文字盤を押し始めた。指の動きがどんどん速くなって、押すたびに小さく笑って。

 

 そう。自分は、トフィーはそこで気づくべきだったのだ。

 

 この子どもの力は、強い感情に連動する。恐怖、怒り、焦り——そして、たぶん、それだけではない。

 

 (——ハリー、ちょっと)

 

 遅かった。

 

 画面が一瞬だけ白く光り、ブチッと音がしてそれから真っ暗になった。

 

 唸り続けていた箱が静かになり、沈黙が落ちた。

 

「……あれ?」

 

 子どもがもう一度電源に触れた。何も起きなかった。押した。叩いた。裏側の線を確かめた。

 

 何も起きなかった。

 

「トフィー」

 

 (うん)

 

「こわれた」

 

 (そうだね)

 

「ぼく、たぶん」

 

 (だろうね)

 

 子どもの顔から、さっきまでの熱が引いていくのが見えた。

 

「トフィー……」

 

 (落ち着いて、まだ二時間ある)

 

 トフィーは切り替えた。反省は後だ、今はこの破壊をどう隠蔽するかだろう。そして感情の高ぶりでより悲惨なことにならないよう、子どもを落ち着かせる必要もある。

 

 (まず、この部屋を出る前にやることがある。君が踏んだ場所、動かしたもの、触ったもの。全部元に戻すところからだ。埃の積もり具合は覚えているかい)

 

「……机の上、文字の指のあと」

 

 (袖で少し拭いて。ただし拭いた跡が残らないように、少しだけ)

 

 この子どもは言われた通りに動いた。

 

 他の場所も確認しながら階段を降り、居間も元に戻した。テレビの熱が引くのを待つあいだ、この子どもは窓の外を見ていた。

 

 (次に、君の問題だ)

 

「ぼく?」

 

 (聞かれたら、どう答える)

 

「知らない、って言う」

 

 (駄目だ。声が上擦っているし、目線が泳いでいる)

 

 亀の餌の三文芝居も酷い出来だったが、後ろめたいのかより残念なことになっている。

 

「じゃあどうすんの」

 

 (もっと自然体にできるかい? 表情を変えない。目を逸らさない。逸らしすぎるのも見つめすぎるのも同じだ。普通に、いつも通りに)

 

「普通ってむずかしい」

 

 (……では練習しよう。二階に上がったかい?)

 

「上がってません。ずっと物置にいました。水も一回しか飲んでないし、テレビも——」

 

 (駄目だね下手くそ)

 

 ほぼ自白しているようなものである。何故これでいけると思った。

 

「なんで! ちゃんと言ったよ!」

 

 (言いすぎ。誰も水のことなんて聞いてない。言い訳ばかりでやましいことがあるように見える。もう一度。二階に上がったかい?)

 

「……上がってません」

 

 (……まあ、いいだろう)

 

 全然よくはなかった。だが、この子どもの演技力に期待するのは諦めたほうがよさそうだ。誤魔化す方法を変えたほうがまだ勝率はあるだろうか。

 

 (いいかい。喋るな。それだけでいい。聞かれたことだけに短く答えて、あとは黙っているんだ。君が黙っていれば、あの夫婦は勝手に不機嫌になって終わるだろう)

 

「それならできる」

 

 子どもは、うなずいた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 一家が帰ってきた。ペチュニアは家中をくまなく点検した。棚。冷蔵庫。テレビの裏側。物置の中。ハムの枚数まで数えていた気配がある。

 

 バーノンは物置の前に立って、この子どもをしばらく睨んでいた。

 

「何もしていないだろうな」

 

「はい」

 

 それだけだった。

 

 ダドリーがコンピュータの故障に気づいたのは、五日後だった。飽きて放置していたものを、久しぶりに使おうとして動かないと騒いだ。

 

 ペチュニアはすぐに新しいものを買うと約束した。バーノンは製品の品質について長々と文句を言った。

 

 誰も、この子どもを名指しはしなかった。

 

 ただ、バーノンの目が一度だけ、物置のほうを向いた。

 

 証拠はない。理屈もない。それでもあの男は、何かが起きるとこの子どもを見る癖がついている。

 

 その夜、物置の中でこの子どもが言った。

 

「バレなかったね」

 

 (そうだね)

 

「トフィーのおかげ?」

 

 (当然だろう。君ひとりなら、五分で自白していたよ)

 

「そんなことないよ」

 

 (練習で水を飲んだ回数まで喋った人間が?)

 

「……あれは練習だから」

 

 (本番でなくてよかったね)

 

 この子どもは黙って毛布にくるまった。しばらくして、寝返りを打ちながら言った。

 

「でもちょっと楽しかった」

 

 (壊しておいて言う台詞かい)

 

「あれは事故。次があったらこわさないよ」

 

 (無理だろう)

 

「こわさないってば」

 

 悪びれもしなかった。どちらもだ。

 

 なお、直感が働いたのか、単に気に入らなかったのか、以降ダーズリー家がこの子どもをひとりで留守番させることは二度となかった。

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