Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
紅茶の淹れ方には、正解がある。
少なくとも、ダーズリー家ではそうらしい。
九歳の春、子どもの仕事に紅茶を淹れることが加わった。それまではペチュニアが淹れていたものを、朝食の支度と一緒に任されるようになったのだ。信頼されたわけではない。ただ単純に自分の手間をひとつ減らしただけだろう。
ペチュニアの説明は、二分で終わった。
「茶葉はここ、ポットはそこ、カップは上の棚。あの人は砂糖を二つ、私は一つ。以上よ」
いや、二分もなかった。台所でここそこどこだと指で示し、砂糖の数を教えただけだった。
「あの、どのくらい——」
「見ていたでしょう?」
何も見ていない。子どもが朝食の支度を始める時には、ほぼ紅茶は淹れ終わっていることが多かった。それにこの子どもは注意散漫なのだ、隣での作業など見ていたとしても記憶にないだろう。
家事を手伝うようになって数年は経っているので、教えたと誤解する気持ちはわからなくはない。わからなくはないが、よくこの子どもにあの説明で任せようという気持ちになるものだ。自分は絶対に御免被るが。そのまま彼女は台所を出て行った。
(……あれで教えたつもりでいるらしいね)
「まあ、いいよ」
(よくないだろう)
「お湯入れるだけでしょ? よゆーよゆー楽勝だって」
(……ハリー)
「だいじょうぶ、いける。ぼくこういうの得意だから」
もうこの時点で嫌な予感しかしなかった。
この子どもは今まで紅茶を淹れたことがない。触ったこともない。それにも関わらず自信だけは満々だった。腕まくりまでして気合いを入れている、勘弁してくれ。
(ねえ。僕には何を根拠に得意だと言っているのか、理解ができないのだけれど)
「なんとなく」
(なんとなく)
「見てて。ちゃんとやるから」
嫌な予感しかしない。勘弁してくれ。
◇
結局、見ていることしかできないというのは、大変無力なものである。力及ばず、哀れな茶葉が熱湯に無残に虐げられる様を見守るしかなかった。
そしてそのまま紅茶のような何かは食卓へと並んでしまった。
(ハリー、もう一度淹れなおさないか……?)
「なんで? ちゃんと紅茶っぽいよ?」
色だけである。沸騰したお湯がそのまま注がれたものは本当に紅茶と言えるのだろうか? 絶対ペチュニアはそんな豪快な作業はしていなかったはずである。そもそもあれは人間が飲める温度なのだろうか。
バーノンは一口飲んだ。
「ブフォッ——!? ゴフッ、ゴホッ!」
そして吹き出した。
新聞の一面に茶色い点が飛び散り、ペチュニアが悲鳴を上げた。ダドリーが「コーンフレーク!」と叫んだ。バーノンは咳き込みながらカップを叩きつけるように置き、受け皿が鳴り、こぼれた紅茶がテーブルクロスへ広がっていった。
「なん、なんだこれは!?」
バーノンは口髭についた紅茶を手の甲で拭った。若干涙目である。
「渋くて飲めたもんじゃない! これは紅茶か? なんの罰だ? おまえは湯を沸かすこともできんのか小僧!」
「……すみません」
ペチュニアが布巾を持って走ってきてテーブルを拭きながら「あなた、新聞が」と言い、ダドリーが「ぼくのコーンフレークにかかった!」と泣き言をぼやいている。バーノンは口に残った紅茶っぽい何かと戦っており、ダーズリー家の朝の食卓は崩壊した。
子どもは、そのあいだに台所の入口に避難していた。
(……ハリー)
「なに」
(笑うんじゃない)
「笑ってない」
(口が震えているよ)
「がまんしてる」
(そのまま我慢しなさい。今笑ったら三日は抜かれそうだ)
なお、その騒ぎのあいだ、ペチュニアは自分のカップを一度も口につけなかった。拭き終わってから席に戻り、それから飲んだ。一口飲んで眉が動いた。それだけだった。何も言わずに淡々と飲み干した。
教えれば早いだろうに、と思ってからトフィーはその考えを取り下げた。教える気があるなら、そもそも最初に伝えているだろう。
物置に戻ってから、この子どもは小さな声で言った。
「ぼく自信あったんだけどな」
(嘘だろう?)
その自信はどこから来ているんだ。そしてバーノンに対して悪びれもしていない。
「だって熱いほうがおいしいでしょ」
(人間が飲むものだよ。せめて火傷をしない程度の温度で出すものだろう)
もしくは、この子どもはバーノンを人間扱いしていないか。
「じゃあ何度?」
(知るものか)
「知らないの!?」
(僕が紅茶を淹れたことがあると思うかい?)
……実際のところはよくわからなかった。記憶を探ってみたが、紅茶に関するものは何ひとつ出てこなかった。飲んだ記憶も、淹れた記憶も、誰かに淹れさせた記憶もない。
妙な話ではある。流石に紅茶くらいは飲んでいたはずだが。飲まなかったのか。それとも覚える価値のないこととして処理していたのか。
どちらにせよ、今は役に立たない。
(いいかい。あの男は「渋い」「飲めたものじゃない」と言っていた。であれば、そうならないようにすればいい)
「それだけ?」
(それだけだ。渋くならなければ良いのだから)
「ぼくが?」
(君しかいないだろう? 食事抜きにならないように頑張ってくれ)
子どもは心底面倒そうな顔をした。さっきまでの自信に満ち溢れた顔はどこへやったんだ。
◇
それから二週間ほど、バーノンの反応で実験し続けた。
といっても、実験できる回数は一日一度である。しかも失敗すれば怒鳴られる。条件としては最悪の部類だった。
(まず温度だ。沸騰した湯をそのまま使うのはやめて、少し置いてから注ごう)
「どのくらい?」
(さあ? だから試すんだよ。今日は数えて三十まで待ちなさい)
「てきとうじゃん」
(基準がなければ比較すらできないよ。適当でもいいから、まず一つ基準を決めるんだ)
三日目、バーノンは一口飲み、動きを止め、それからカップの中を覗き込んだ。
眉だけが、ゆっくりと中央へ寄った。顔の他の部分は何も起きていないので、眉だけが独立して動いているように見えた。紅茶かどうか、中身を疑っているのだろうか? 新聞を持ち上げ、置き、もう一度覗き込み、それから何も言わずに全部飲んだ。飲みながら口髭がふるふると波打っていた。
(……あれは何の儀式なんだ)
「怒られなかったね」
(怒られてはいないが、あの顔は紅茶だとも思っていないだろう。それより、今日はお湯の沸かし方を変えていたけど)
「うん。長めに沸かした。しっかり沸かしたほうがいいかなって」
(長く沸かすと何かが変わるみたいだね。悪い方向に。次からは沸いたら止めようか)
「なんで悪くなるの」
(知らない。だが、あの顔からして続けるのは良くなさそうだ)
四日目、葉を入れて湯を注いだ直後に、子どもはカップへ注いでしまった。うっすら色のついたお湯……としか言いようのないものが出来上がった。
バーノンはそれを一目見て、カップを持ち上げもしなかった。
「小僧! おまえはこれを紅茶だと思うか?」
「はい」
「……これはただの色のついたお湯だ。紅茶ではない。わかるか?」
「……はい」
そこから三分ほど、この男は紅茶について述べた。内容はおおむね正しいのだろう。だろうが長い。
(まあ、あれは有益だったな)
「怒られたのに?」
(あの男が三分かけて説明したおかげで、待つ必要があることが分かっただろう?)
「どのくらい」
(足りなければ増やせばいいさ)
五日目、今度は一口で分かったらしい。バーノンは口に含んだまま数秒静止し、それから飲み込み、ゆっくりと新聞を畳んだ。畳み終わってから言った。
「渋い」
それだけだった。それだけで済ませたので、たぶん一番最初よりはましだったのかもしれない。
「めんどくさい飲み物だね、飲めればなんだっていいのに」
(まったくだ)
七日目、バーノンは一口飲んで、カップを持ったまましばらく黙っていた。何が悪いのか自分でも分からないという顔だった。
「……何かが違う」
「はい」
この男は結局、それ以上言わずに飲み干した。
十日目あたりから、怒鳴られなくなった。
褒められもしなかった。バーノンは黙ってカップを口に運び、新聞をめくり、それだけだった。何も言われないというのが、この家における最高評価だった。
(合格だね)
「うん」
この子どもは少し嬉しそうだった。
ペチュニアは、そのときも何も言わなかった。何も言わずに、黙って渋い紅茶も薄い紅茶も飲み干していた。
トフィーはそれを見ていた。そもそも認められて嬉しがるのは筋が違うと思ったが、口には出さなかった。出したところで、この子どもの機嫌が悪くなるだけだ。
◇
六月のことだった。夕方の居間で、バーノンが紅茶を飲んでいた。テレビがついている。ニュースの終わりの、軽い話題を流す時間帯だった。
畑の映像が映っていた。
麦の畑に、大きな円が描かれている。上から撮った映像で、幾何学的な模様が幾重にも重なっていた。麦は折れているのではなく、渦を巻くように倒れている。ミステリーサークルと呼ばれるものらしい。
地元の農家が困惑した顔で何かを話し、続いて専門家らしい男が現れ、自然現象の可能性について説明していた。それから別の男が現れ、これは人間の仕業ではないと断言した。
「くだらん」
バーノンがカップを置いた。
「誰かのいたずらに決まっとる。夜中に板か何かで踏み倒したんだ。そんなことも分からんのか、あの連中は」
ペチュニアは編み物をしながら、うなずいたようなうなずかないような角度で首を動かした。
「まったく、こういう番組をやるからいかんのだ。まともじゃない話をまともなことのように扱う。子どもが本気にしたらどうする」
ダドリーは何も聞いていなかった。菓子を食べていた。
「うちは違うぞ。うちはな、この通りでいちばんまともな家だ。おかしなものとは無縁の、まっとうな——」
紅茶のおかわりを運んできた子どもが、そこで口を開いた。
「ふつうって、なに?」
バーノンが止まった。
トフィーも固まった。
(ハリー)
「ふつうってなに?」
皮肉ではなかった。少なくとも、本人の中では純粋な質問だったはずだ。
だが質問というものは、時と場合によっては非難と受け取られる。
バーノンの顔が赤くなった。
「……なんだと」
「ふつうって何をみていってるのかなって。この家がふつうなら、ふつうって、こういうのなんだなって」
(——ハリー、そこまでだ)
「子どもを階段の下で育てるのって。それがふつうならふつうでいいけど」
完全な沈黙が落ちた。
編み棒の音が止まっていた。ダドリーが咀嚼をやめてこちらを見ていた。テレビの中では、まだ誰かが麦の話をしていた。
バーノンが立ち上がった。
椅子が後ろに倒れた。紅茶がこぼれ、口髭が持ち上がった。この男が立ち上がるだけで、居間の空気が半分になったように感じられた。
「今、なんと言った」
「ふつうがどういうのか——」
「黙れ!」
窓が開いていた。
六月の夕方、どの家も窓を開けている。バーノンはそのことに、怒鳴った直後に気づいたようだった。
この男は素早く窓を閉めに行き、カーテンを引き、それからもう一度こちらへ向き直った。一連の動作に、怒りの持続は一切損なわれていなかった。むしろ移動中に増幅されていた。
「口を利くな」
「……え?」
「今日から一週間だ。この家で口を利くことを禁じる! わかったな小僧!」
この子どもは何も言わなかった。言えなかったのか、言わないことにしたのかは、判別がつかなかった。
ただ、うなずいてこの子どもは居間を出た。
◇
物置の扉が閉まった。暗がりの中で、この子どもは膝を抱えて座っていた。しばらくそのままだった。
(……ハリー)
「…………」
(喋っていいよ。あの男に聞こえない)
「……いいの?」
(あの一家に聞こえなければ良いだろう。僕は関係ないからね)
この子どもは顔を上げた。それから、少し笑った。
「屁理屈じゃん」
(君の得意分野だろう)
沈黙が落ちた。今度は重くない沈黙だった。
「……ぼく、変なこと言った?」
(……)
「なんで怒られたのか、わかんない」
(君は彼が答えられない質問をした。人は、答えられない質問をされると困る。答えられないことを認めるより、怒るほうが楽だからだ)
それに、あの反応は少し妙だった。まるでまともでないものを知っているかのような反応。いや、まともではないものを見たかのような拒絶。もし何かを知っているからこそ、拒絶しているのだとしたら——
「じゃあ、ぼくは変じゃない?」
(……ああ、変じゃない)
変ではない。この子どもは何もしていない。このような環境であれば、当たり前に気になることではある。ただまともに扱われなかっただけだ。
この子どもは天井を見上げた。物置の天井は低い。手を伸ばせば届く。
「じゃあさ! これからも気になったら言っていいの?」
(駄目だ)
「なんで!?」
(言って得をするかどうかは別だからだよ。どうせ答えは返ってこないだろう。返ってくるのは怒声だけだ)
「じゃあ黙ってればいいの」
(黙るのではなく、時と場所を選んで。誰に、いつ、それだけの話だよ)
この子どもは、しばらく考えていた。
「むずかしい」
(練習すればいい。時間はあるよ)
実際、時間だけはあった。
◇
一週間が明けた朝、この子どもは何事もなかったように紅茶を淹れた。
バーノンは黙ってそれを飲んだ。そして、この子どもはそのまま黙っていた。
一週間が終わったのに、喋らない。聞かれたことに短く答えるだけで、それ以外は何も言わない。
三日ほど経った頃、バーノンのほうが落ち着かなくなっていた。
「あー……小僧、その、もう喋っていいんだぞ」
「はい」
それだけだった。
この男は新聞の陰でしばらく唸っていた。自分で禁じたものを自分で解除しようとして、応じてもらえないという状況を、どう処理していいのか分からないらしい。
(……ハリー)
「なに」
(いや、なんでもない)
この子どもは満足そうだった。
早速やり返しているし、教えたことも悪用されている。悪用というほどでもないが、少なくとも自分の意図した使い方ではなかった。
だが、どうやら有効そうではあった。