Q. もしも1981年11月1日の夜が物凄く寒かったら 作:階段下から
ハリーが十歳になった年の夏、庭の生け垣の下に蛇がいた。
ペチュニアはこの子どもに庭の草むしりを言いつけて、自分は日陰の窓辺に立っていた。見張っているというよりは、雑草が一本でも残っていないかを確認するための立ち位置だろう。ダドリーは居間で扇風機の前に陣取り、アイスキャンディーを二本同時に食べている。
土は固く雑草は根が深く、引くと途中で千切れる。千切れた根は残りまた生える。この作業に終わりがないことを、この子どもは知っている。
(水分を取りなさい)
「あとで」
(後でと言った人間が、去年何回ふらついたか教えようか)
「わかったよ、うるさいな」
そして水を飲まない。どうやら喉が渇いていることと、水を飲むことが、この子どもの中では別々の事項として処理されているらしい。指摘されて初めて喉が渇いていると気づくようだ。身体を持たない自分より、身体を持つこの子どものほうが疎いのはどういう理屈なのか。
生け垣の下に手を伸ばしたところで、この子どもの動きが止まった。
小さな蛇がいた。
細い体を日陰に伸ばして、じっとしている。庭にいてもおかしくない種類だ。毒はない。人間を見れば普通は逃げるが、暑さのせいか動きたくなさそうだ。
子どもは逃げなかった蛇を見下ろして、それから何気なく言った。
「暑いね」
トフィーの思考が止まった。
独り言の延長だった。トフィーに話しかけるときと同じ調子で蛇に向かって。だが、今の声は。
蛇が頭を持ち上げた。
「暑い?」
舌が空気を舐めた。
「暑いに決まっているだろう。見ればわかることを口に出すな。ここは日陰だ、私の場所だ。話しかけるな」
「えっ」
「それとその大きな足をどけろ。邪魔だ」
この子どもは慌てて足を引いた。蛇はもう一度だけ舌を出し、生け垣の奥へするりと消えていった。
芝を刈る機械の音が、遠くの庭で鳴っている。窓辺のペチュニアは、こちらを見ていなかった。
「……なんかヤなやつだった」
子どもは、ただそれだけ言って草むしりに戻った。
(……ハリー)
「なに」
(今、蛇に何を言われたんだい)
「暑いのは見ればわかるって。あと足どけろって。ぼくが謝る前にいなくなった」
(……そう)
「トフィーもそう思うでしょ、感じ悪いよね」
(……ああ、そうだね)
会話が成立していた。この子どもは蛇の言葉を「聞いた」のではない。理解して、返事をして、それを不愉快に思っていた。気に入らない相手の話をされたときと同じ顔で。
そして本人は、それが異常だとは露ほども思っていない。
(ハリー。今、君は英語を話していなかったよ)
「え?」
(君が蛇に話しかけたとき、口から出ていた音だ。あれは英語ではなかった)
「なにそれ。ふつうに喋ったよ」
(君にとってはそうなのか)
子どもは怪訝な顔をして、それから興味を失ったらしく雑草を引き抜く作業に戻った。今蛇と話したことより、目の前の草のほうが優先度が高いらしい。
トフィーはそうもいかなかった。
◇
(もう一度、あの生け垣へ行ってくれないか?)
「なんで」
(確認したいことがある)
「もういないよ。逃げたもん」
(他の個体がいるかもしれない。庭に一匹しかいないと決まったわけではないだろう)
この子どもは露骨に嫌そうな顔をした。それでも生け垣の下を覗き込んだあたり、好奇心のほうが勝ったらしい。
いなかった。
(では、今ここで先ほどの言葉を喋ってほしい)
「なにを」
(さっきと同じことを。「暑いね」でいい)
「暑いね」
(……英語だね)
聞き間違いか? いや、だとしたら蛇があのような返事をするわけがない。蛇が目の前にいなければ出ないのか、蛇が近くにいれば勝手に出るのか。そして本人は話している自覚がない。
「そりゃそうでしょ」
(さっきは違ったんだよ)
「じゃあどうやってやるの」
(それを僕が聞いているんだ)
数日ほど、この不毛なやり取りが続いた。
ひとつ分かったことがある。この子どもは、意図的にあの音を出せない。
四日目、絵を描かせてみることにした。
(本物でなくてもいいのかもしれない。蛇の形であれば反応する可能性がある)
「どうやって」
(そこの土に描いてみて)
この子どもは腕まくりをして気合を入れ、土の上で棒を動かし始めた。
……もうすでに良くない結果になる気がしたが、蛇であれば画力がなくてもいけるだろう。
「できた!!」
(……)
(それは、何?)
「へび」
(違うよ)
「へびだよ!?」
(僕には、踏まれたミミズか、千切れた紐にしか見えないのだけれど)
実際そう見えた。長さだけはある。だが太さが場所によって歪で、途中で線が途切れている。そしてどちらの先端もなぜか二股に分かれていた。頭はどっちだ。判別がつかない。
「しっぽだよ、これ」
(ではこちらは)
「あたま」
(同じ形だけど)
「へびってそういうもんでしょ」
(違うが?)
この子どもは不服そうに棒を握り直した。二匹目を描いた。
一匹目より悪かった。
(……これは?)
「がんばった」
今度は、何故か全体的に角ばっているジグザグの何かがあった。
(頑張った結果がこれか)
「トフィーはうるさいなあ! じゃあ描いてみてよ!」
(描けたら苦労していないよ)
ともあれ、話しかけさせた。
「暑いね」
英語だった。
(……やはり駄目か)
「へびなのに」
(君がそう主張しているだけだ。力のほうは、あれを蛇だと認識していないんだろう)
「ぼくの力なのに、ぼくの言うこと聞かないの?」
(そうらしいね。……もっとも、僕にもあの絵は蛇に見えなかったのだから、力のほうが正しい)
「ひどい」
三匹目を描き始めたところで、ペチュニアが窓から顔を出した。
庭の土に、正体不明の長いものが三つ並んでいる状態だった。この子どもは棒を持って立ち尽くしており、状況としては言い逃れが難しかった。
「何をしているの!」
「……ちょっと芸術を」
「家事の途中で遊ぶなと何度言えば——」
結局、庭全体を掃かされた。
「……ぜんぶトフィーのせいだからね」
(結果としては有益だったよ。君の労働と引き換えに、ひとつ仮説が潰れたわけだ)
「ぼくの労働、安すぎない?」
◇
二匹目の蛇が現れたのは、それから十日ほど経った朝だった。
物置の扉の隙間を細いものが横切った。この子どもが気づいて身を乗り出し、トフィーが指示を出すより早く声をかけていた。
「ねえ、そこ危ないよ。おばさんに見つかったら」
「知っている」
出た。
(ハリー、そのまま続けなさい。聞きたいことがある)
「なに聞けばいいの」
(まず、名前を聞いてみて)
「名前ある?」
「ない」
(では、どこから来たのか)
「どこから来たの」
「外だ」
どちらも端的で、本当に会話が成立しているか怪しい。
(……もう少し詳しく聞きなさい)
「もうちょっとくわしく」
「外の外だ」
役に立たなかった。
(……この個体は知能が低いのかい?)
「トフィーがしつこいだけじゃない?」
「その通りだ」
蛇が同意し、子どもが吹き出した。
(今のは僕の言葉に反応したのか? 僕の声が聞こえている?)
「聞こえてないと思う。たぶん、ぼくの言い方で返事をしたんじゃないかな」
(……なるほど)
蛇は壁の隙間へ入っていった。この子どもは名残惜しそうに、しばらくその隙間を眺めていた。
「トフィー」
(何だい)
「ぼく、へびとしゃべれるってことでいいの?」
(そう見えるね)
「すごくない?」
(……そうだね)
「なにその間」
(何でもないよ)
「ぜったい何かあるでしょ」
(僕にもわからないことがあるんだよ。前にもそう言ったろう)
この子どもは疑わしそうな顔をしたが、引き下がった。それから、思いついたように言った。
「まあ。うん。トフィーが分かんないのは、しょうがないよね」
(どういう意味だい)
「だって、トフィーってぼくが考えたやつでしょ」
——……は?
(なんだって?)
「え? ちがうの?」
(……もう一度言ってごらん)
「だからぁ、トフィーはぼくの頭の中にいるんでしょ。だから、ぼくの知らないことは知らないんだと思ってた」
…………。
ただの子どもだ。何も知らない、無知で愚かな子ども。
殺さないのは自分も道連れになるから。殺せないだけだ。
そう。それだけの理由で、この子どもを自分は危険から遠ざけ生かしている。
「……トフィー?」
(——思い上がるな)
「え」
(驕るなと言っている。この僕が、君の頭から湧いて出たものだと? 君の、その思いつきと行動の間に何も挟まないような、考えなしの頭から?)
「そこまで言わなくても」
(僕は君の空想ではない。断じて違う。いいか、断じて違う)
抑えられなかった。抑えるという発想自体、そもそも出てこなかった。
(君が生まれるよりも前から僕は存在していた。君の頭が何かを想像できるようになるよりも遥かに前からだ。それを九年も共にいて、君の、頭の中の、作り物だと——)
「わ、わかった! わかったから!」
(わかっていない)
わかっていない。この子どもは何ひとつわかっていない。
九年だ。
この物置で、この子どもが泣くのを見て、笑うのを見て、殴られるのを見て。そのすべてを見ていた。声だけしか使えない状態で、危ないと、逃げろと言い続けた。
結局は自分のためだ。この子どもが死ねば自分も消える。
だが。
その相手が、自分を実在の何かだとは思っていなかった。
声をかけたのも、名前をつけたのも、毎晩おやすみと言ったのも。全てはこの子どもの内側で完結する遊びだった。相手がいると思っていなかった。九年間、誰もいない場所に向かって喋っていたつもりだったのか。
————では、自分は何だ。
名前は与えられた。菓子の名前を。呼ばれもした。それでこの世界に定着したような気になっていた。輪郭を得たと思っていた。
輪郭など、なかった。
この子どもの頭の中の、都合のいい何かとして扱われていただけだ。
だから疑問を持たれなかった。だから怯えられもしなかった。受け入れられていたのではない。存在していないと思われていたから、何の問題も生じなかっただけだ。
あの夜、玄関先で震えていた子どもに、九年かけてようやく声が届くようになった。
届いていなかった。
届いた先に、自分はいなかった。
(——僕は、ここにいる)
言い放ってから、自分でも驚いた。
この言葉は。この言葉を使ったのは、子どものほうだった。
まだ言葉を覚えたばかりの頃。物置の隅で蜘蛛の巣をつついて、この子どもは言った。ぼくと、くもと、なぞのこえ。ここにいるのはそれだけ。と。
数えられていた。
蜘蛛と同列ではあったが、確かに数の中に入れられていた。あのとき初めて、自分はこの世界の「何か」として勘定された。名前を得るよりも前に。
それを、自分は長年抱えていた。
この子どもは覚えていないだろう。まだ言葉を覚えたばかりの頃の言葉だ。覚えているはずがない。
…………。
同じ物置にいて、同じ夜を過ごして、同じ言葉を交わしてきたはずなのに。
——この子どもは全てを過去のものとして通り過ぎ、自分だけが一つずつ拾い抱えている。
腹が立った。
この子どもにではない。いや、この子どもにもだ。だがそれよりも。
数年前の言葉を未だに抱えている自分のほうが、よほど惨めで滑稽ではないか。
三歳に満たない子どもが、蜘蛛を数えるついでに口にした一言だ。意味などなかった。数に入れられたと思ったのは自分の解釈にすぎない。それを、後生大事に抱えて、あまつさえ拠り所にしていた?
(……)
馬鹿げている。
この物置ごと燃やしてしまえたら、この感情は消えるだろうか。
——いや。物置ではない。
この子どもごと消してしまえば、それで終わりだ。
思考がそこへ滑り込んだ。だが違和感は覚えなかった。都合の悪いものは消せばいい。なかったことにすればいい。
知っている感触だった。この選択肢を、自分は前にも選んだことがある。
記憶ではなく、手つきとして残っている。誰かを消した。自分に繋がる何かを、根こそぎ。理由は思い出せない。だが不快だったのだろう。不快なものが在ることが、許せなかったのだろう。
だから消した。それで解決した。
無意識のうちに、手を動かそうとした。動かそうとして、自分にそもそも肉体が無いことを思い出した。
何故。僕には肉体が無いのだろうか。あの首に手をかけられないことが、心底口惜しい。
(君が考えたのではない。君が生まれる前から、僕はどこかにいた。僕は、君の頭の中ではなく、君の中にいる。違いがわかるか)
「……ちょっとわかんない」
(君がどう思おうと、僕は君ではない)
子どもは、しばらく黙っていた。
それから、小さな声で言った。
「ごめん」
謝られると、それはそれで腹が立った。
「でもさ。じゃあ、なんでぼくにしか見えないの」
(——)
子どもは、まずいことを言ったと思ったのか慌てて毛布を被った。
「もう寝る! おやすみ!」
(ハリー)
「おやすみ!」
◇
蛇と話す。
その能力に覚えがあった。記憶ではなく、身体が覚えているような感覚。喉の奥で舌の位置が変わり、音が滑って出ていく。
そしてその能力が誰のものかも。
問題は、この子どもがそれを持っていることだ。
……この子どもは、僕のことを自らの一部だと思っていた。頭の中で作ったものだと、想像上のものだと。そう思ったまま呼び続けていた。
では、こうは考えられないか?
名前を与えられた。子どもが決めた名前を受け取った。呼ばれるたびに応えた。その名前は、子どもの内側で作られたものだ。
もしも、この子どもが僕を自らの一部だと扱っているあいだ、子どもと僕の境界がその自認に合わせて動いていたとしたら。
蛇の言葉が、子どもの口から出た。制御ができていない状態で。
それは、僕の能力をこの子どもが使っていることになるのではないだろうか?
——……喰われている?
もしかすると、少しずつ。少しずつ混じっている可能性もある。
この子どもに声が届くようになったのはいつだったか。この子どもから距離をとれるようになったのはいつからだったか。
呼ばれて、応えて、教えて。そのたびに何かが混ざり、自分が削れているとしたら。
九年かけて、自分はこの子どもの一部になりかけている?
冗談ではない。
(……)
この子どもさえいなければ。
子どもが消えれば、混ざりようがない。
思考がまたそこへ滑り込んだ。今度は衝動ではなかった。この子どもが消えれば自分も消える。だが自分が自分でなくなるよりは、消えたほうがましだ。
——生き延びるために生かしてきた。その原則を今なら捨てられる。
毛布の中で、この子どもが寝返りを打った。
安心しきった顔で眠っている。僕のことを頭の中の何かだと思っている顔で。
できない。手がない。声しかない。それだけの理由で、思考は行き止まりに突き当たった。
……ならば、抱えておこう。
この不快を。この憎悪を。この殺意を。
混ざりかけているものを引き剥がす手段がないのであれば、せめてこれ以上混じらないよう境界を引くべきだ。こちらがこの子どもを憎んでいれば、少なくとも同一存在などという悍ましい考えには至らないだろう。
◇
その夜、記憶が動いた。
蛇の件で揺さぶられたせいか、衝動のせいか。その夜はいつもよりも深かった。
石造りの城。
長い廊下。壁に掛かった額縁の中で、描かれた人間が動いている。動く階段。手すりを掴んで待つ時間。蝋燭が宙に浮いている。大広間の天井には星空が映っていた。
匂いがあった。古い羊皮紙。埃。蝋。石の冷たさ。自分はそこを歩いていた。
(……ホグワーツ)
その名前が、不意に浮かんだ。
名前が出た瞬間、他のものが芋づるに繋がるかと思った。繋がらなかった。名前だけが、霧の中にぽつんと置かれていた。地図に一つだけ印がついて、周りが白いままのような状態だ。
だが、それでも進展ではあった。
自分はそこで学び、何かを得て、何かを始めた。何か大きくて偉大なことを。
そして、その名前には蛇の匂いがした。
なぜそう思ったのかは、わからない。城と蛇に何の関係があるのか。だが浮かんだ名前と、昼間この子どもの口から出た音は、同じ場所から来ている。それだけは確信できた。
自分はそこにいた。そしてこの子どもにも迎えがくるだろう。
蛇と話せる人間が二人いる。その事実に寒気を覚えた。
◇
朝が来て、この子どもが目を覚ました。
「おはよう、トフィー」
(おはよう)
「……なんか声、冷たくない?」
(気のせいだよ)
「ぜったい怒ってるでしょ」
(怒ってはいない。分類しているだけだ)
「なにを!?」
(君と僕を)
「ごめんってば! 昨日謝ったじゃん!?」
(謝罪の有効期限は僕が決める)
「うそでしょ!? そんなのあり!?」
この子どもは寝癖のついた頭を掻きながら物置の扉を押した。廊下から光が差し込んで、額の傷が一瞬だけ見えた。