人類の宇宙開発が軌道に乗っているときも、難航している時も、土星はただじっと黙って、その輪から水と酸素を供給し続けた。人類は土星があったからこそ開発を続け、太陽系の外に飛び立つことができた。だから今でも、何かを継続するにあたって気が滅入ったり、努力が肝心な時は、地球に住んでいる人は空を見上げて土星を想像する。
宇宙開発における土星は、人類における努力であった。
(百鬼夜行の宇宙歴史家による著書より)
「すっごく綺麗な数字が出ちゃったね…」
光の速さは秒速30万km。秒数をかけると高度はぴったり100kmである。
「ノドカ、見てよこれ。誤差はもうほとんどないと言っていい範囲だよ。」
望遠鏡のスクリーンには誤差:極小(0.00000000027……)と書かれている。
でも、ノドカは元気がないのか布団から起き上がらない。そして、布団の中で何か呟いている。
「どうしてだろう」
「どうして100kmなんだろう」
ノドカは布団の上でじっと考えている。心なしか、落ち込んでいるようにも見える。しかし、突然起き上がって言った。
「考えても何も分かんないから、とりあえず手当たり次第いろんな星とのデータを集めよう。」
冷静で妥当な判断である。
だが、ノドカの心は大丈夫だろうか。ノドカは主に観測と既存の知識と幾何学の計算でこの分野に取り組んできた。その、幾何学の部分でありえないずれが生じているのである。既に完成しているはずの式の、文字一つが急に狂い出してしまったわけで、平常心を保つのはだいぶ難しいことだろう。
ただ、ノドカはこれでも研究者。そして、野望を持っている。こんなことで立ち止まるわけにはいかなかった。
「うん。分かったよ、ノドカ。私も手伝うね。」
そこから幾度と夜を跨ぎ、いろいろな惑星のデータが集まっていった。
ところが…
「どうして…どうして100kmになるの…」
結果は何故かどの星も同じ。観測点からの距離は100kmと表示される。これがもし本当なら、全ての惑星は地球の周りを全く同じ間隔で公転していることになってしまう。それも、お互いに全くぶつからない一糸乱れぬ動きで。
何が考えられるだろうか。少しでもノドカのためになろうと思って必死に考える。
「ちょっと思ったんだけど、やっぱりノドカがこうして動かせている以上、光の速さは常に色々変わってて、発射後に加速度的に速くなったりしてるんじゃないの?」
「えっと、それは、ないと思う。」
「どうして?」
「直感?」
いつも論理的だったノドカはついにこんなことを言い始めてしまった。
「あ、いや、直感っていうのはね、ヤマカンじゃなくて、光を操作してる時の感覚から何となく分かるの。遠すぎると曖昧にはなるんだけど、速度くらいなら何となくは分かるから。」
うーん、結構死角のない能力を持っているようだ。ならば、ここまでの体系が全て完全だと仮定して、現実的な路線を考えてみよう。
「私たちを中心に、半径100kmの半球型バリアが張られてる、とかは?」
「…つまり、透明な謎のバリアがあって私達はそれ越しに星を眺めてるってこと?」
「うん…だけど、現実離れしてるよね…ちょっと言ってみただけ。」
「透明で光を通すのに、私が打つ光は反射するバリア…あるならすっごく不思議だね。」
「い、言ってみただけだって!」
「じゃあ、行ってみよう。」
「え?」
「バリアの境界があるかもしれない場所に、行ってみようか。」
え、えーと…それは無理があるんじゃない!?だって、仮にそれがあるとして直線距離で最短100km、100kmなんて移動手段はどこにもない。いや、もしかしたら作れるのかも?
キヴォトスに超長距離の移動手段はない。何故ならキヴォトスは半径30kmほどの円のような形をしているため、神秘を持つ生徒はその気になれば一瞬で横断できると言っていい。だから、技術力はあっても大型船は主に観光用の短距離のものだし、飛行機なんてものはそもそも存在しない。キヴォトスは海で囲まれているため、その気になれば航続距離の長い船舶の作成を試みる生徒もいると思うかもしれないが、キヴォトスの海は一定の距離を越えると二度と生きては帰ってこれないという伝説が、それを踏みとどまらせた。
「シグレちゃん。手、繋いでてくれる?」
…!?!?ど、どど、どうしたの!?今日のノドカは妙に落ち着いててかっこいい…
君はそっと手を繋ぐ。
「あ、それからテルもね。」
「キィ」
テルがノドカの肩に乗った。
「じゃあ、行くよ。」
どこに!?ノドカ、どこに!?
「目を瞑って。そして、一歩前に進んで。」
とりあえず言われた通りにしてみると…
ばしゃっばしゃっ
「ここは…海!?」
見渡す限りの海は浅かったので、溺れることはなかった。
「一応、99km離れたところくらいまではきてみたけど、あれがキヴォトスだね。」
確かに、薄らと影が見える。と思うと、急に学園都市が鮮明になったように感じた。ノドカが、何か光を強めてくれたのだろうか。いや、ちょっと待とう。ノドカはいつの間に瞬間移動ができるようになったんだ?神秘の力が極端に増大したのか?
「ノドカ…いつの間に瞬間移動を…」
「瞬間移動じゃないよ。ただ、私たちのいた場所からここまでの空間の性質を捻じ曲げて…具体的には跨いでいる空間全体の絶対光速を極端に遅くして、縮小。私達が一歩出た後に、元に戻しただけだよ。」
「なんかものすごく進歩してない!?これだったら、もう星に直で行って確かめれば良くない!?」
「シグレちゃん…星に直で言ったら、血が凍って窒息して体が極端に膨張して…
「あぁぁぁごめん!言ってみただけだけ!」
ノドカ、今日は何でこんなに冷静なんだろうか。いや、これも素晴らしいが。
「じゃあ、100km地点まで歩いてみよっか。にしても、私としてはこんなに浅くて歩ける方が不思議。沿岸部は深いのに、どうなってるんだろう。」
確かに、それはそうだ。ここは浅すぎて船も来れないだろう。うん?待てよ…?
「ちなみに信じられないくらいここが深かったらどうしてたの?」
「?また戻ればいいだけだよ。」
本当、便利な神秘してるなぁ。
「そろそろじゃないかな。もしかしたら、バリアの裏側が見えるかもね。へへっ」
待って私今ノドカに揶揄われてる!?こんな体験初めて…!
ゴンッ
「い、痛ぁ!」
ニヤついていた君の頭は突如何かに猛烈にぶつかった。あれ?そこにはなにもなかったはずなのに。
そこには何もないはずだった。見渡す限りの海が続いていた。だが、何か、大きな何かが立ち塞がっていた。