午前六時。
高度育成衛士高等学校の中央講堂には、
まだ朝日が十分に差し込んでいない早い時刻から、全校生徒が集められていた。
入学式が行われた日から、既に半年近くが経過している。
同じ講堂、同じ座席、同じ壇上でありながら、
そこを満たしている空気は当時とはまるで違っていた。
入学式の日、生徒たちが気にしていたのは、
新しく支給された制服の着心地や、
周囲に座る見慣れないクラスメイト、
これから始まる学校生活がどのようなものになるのかという期待や不安だった。
しかし、今ではそうした感情さえ、遠い過去の出来事のように感じられる。
壇上後方に設置された大型スクリーンには、
東京湾全域を再現した立体地図が映し出されていた。
青く表示された海面の上には、
高度育成衛士高等学校が置かれている人工島を中心として、
お台場、羽田空港、沿岸部の軍港や防衛施設が配置されている。
そして、その穏やかな海面の地下には、
地層を内側から食い荒らしていくような赤い立体構造が広がっていた。
東京湾地下BETA構造体。
それが中央政府と軍によって使用されている正式な名称だった。
まだ既存のハイヴと同等の規模へ成長したとは確認されておらず、
反応炉の存在も確定していないため、
公式文書ではハイヴという呼称が避けられている。
だが、候補生たちの間では既に、
誰もがその構造体を東京ハイヴと呼ぶようになっていた。
名称が正式かどうかは、彼らにとって大きな問題ではない。
東京湾の地下へBETAの巨大拠点が形成されつつあり、
その一部が人工島の直下へ迫っている。
それだけで十分だった。
やがて坂柳理事長が壇上へ姿を現した。
身に着けているのは、学校行事で使用する礼服ではない。
東京湾防衛軍の司令官として着用する濃紺の軍服だった。
その左右には、茶柱、星之宮、坂上、真嶋を始めとする教導隊の教師陣が並び、
さらに東京防衛軍から派遣された複数の将校が立っている。
講堂にいる生徒たちは、誰一人として私語を交わさなかった。
これほど早い時刻に全校生徒が集められ、
教師陣だけでなく防衛軍の将校まで壇上へ並んでいる。
地下構造体を巡る方針について、
何らかの決定が下されたのだと、誰もが理解していた。
坂柳理事長は講堂全体をゆっくりと見渡した。
「本日、東京湾地下BETA構造体に対する封鎖作戦が開始されます」
驚きの声や大きなどよめきは起こらなかった。
地下で何かが進行していることも、
軍がいつまでも調査だけを続けるわけにはいかないことも、
候補生たちは既に知らされている。
今さら驚く段階は過ぎていた。
「作戦名称は、鳳翼作戦です」
坂柳理事長の言葉に合わせて、スクリーンの表示が切り替わった。
東京湾を東西から包み込むように、複数の防衛線が描かれていく。
それは巨大な鳥が翼を広げ、
湾の中央に存在する敵を覆い込もうとしているように見えた。
東側へ伸びる北翼。
羽田方面を経由して南へ広がる南翼。
そして、高度育成衛士高等学校の人工島を中心とした中央封鎖線。
その各所へ海上部隊、地下探査部隊、戦術機甲部隊、砲兵部隊、
工兵部隊が配置され、多数の進行矢印が東京湾中央部を取り囲むように伸びている。
「鳳凰が広げた二枚の翼を模した二重防衛線によって、東京ハイヴ周辺を封鎖します」
坂柳理事長の声は、普段と変わらず穏やかだった。
しかし、そこに迷いや弱さはない。
「作戦の目的は三つです」
大型スクリーンへ、作戦目的が順番に表示された。
第一の目的は、東京湾岸部へのBETA進出を阻止すること。
第二の目的は、地下構造体の正確な規模と内部形状を調査すること。
そして第三の目的は、将来行われる攻略作戦に備え、
部隊が侵入し、帰還するための経路を確保することだった。
「鳳翼作戦は、東京ハイヴそのものを攻略する作戦ではありません」
候補生たちの視線が、スクリーンの地下に広がる赤い構造へ集まる。
「現時点では、内部の全容も、縦坑や広間の正確な位置も判明していません。
部隊を投入することは可能ですが、帰還経路を最後まで維持できる保証がありません」
龍園は腕を組んだまま壇上を見ていた。
須藤の表情にも、僅かな不満が浮かんでいる。
目の前に敵の拠点があるのなら、戦力を集めて正面から叩けばいい。
そう考える者にとって、封鎖や調査を優先する鳳翼作戦は回りくどく見えるのだろう。
それでも二人とも、以前のように声へ出して反論することはなかった。
敵の位置も数も分からない地下へ無計画に突入すれば、
どれほどの戦力を持っていても帰還できない。
これまでの講義と実戦映像を通して、その程度のことは理解している。
「ですから、我々は最初に翼を作ります」
スクリーン上では、東京湾の東西へ複数の防衛拠点が築かれ、
人工島を中心とした機動防衛網が形成されていく。
「敵を地下へ完全に閉じ込めることは困難です。
しかし、BETAが地表へ現れる経路を限定し、
人類側が戦う場所を選べる状況を作ることはできます」
坂柳理事長は、立体地図の中央へ視線を向けた。
「東京を守るためには、敵が現れるのを地上で待ち続けるだけでは足りません」
スクリーンへ、三週間前の海上戦闘映像が映し出される。
人工島の防壁へ突撃級が衝突し、硬い外壁を砕いた光景。
東京湾から要塞級が立ち上がり、
戦術機と砲台の集中攻撃を受けながらも前進し続けた光景。
遠方の光線級が赤い照射を放ち、第三砲台を基部から吹き飛ばした瞬間。
候補生たちの多くが、自分の目で見た戦場だった。
「敵が地上へ出現してから対応していたのでは、いずれ防衛線は破られます」
映像が停止し、地下構造を示す図面へ戻る。
「我々は、BETAが地表へ現れる位置そのものを限定します」
地図上へ、複数の封鎖装置を設置する予定地点が表示された。
海底の振動を継続的に監視する震動探知機。
岩盤と地下空洞へ打ち込む地中貫通弾頭。
空洞を内側から崩壊させる爆薬。
そして、BETAの掘削経路へ巨大な障害物として打ち込まれる、
長さ数十メートルに及ぶ地下封鎖杭。
人類側の工学技術と火力を使い、地中へ伸びる道を一つずつ塞いでいく。
BETAの掘削能力を考えれば、永久に封鎖し続けることはできない。
それでも、敵が使用できる出口を減らし、
出現地点を予測できるようにするだけで、防衛側が得られる利点は大きい。
「高度育成衛士高等学校は、鳳翼作戦における中央指揮拠点となります」
その言葉で、講堂の空気がさらに張り詰めた。
この学校が戦場から離されることはない。
それどころか、人工島は作戦全体を統括する中央拠点として、
東京湾防衛戦の中心へ置かれる。
「教師陣および常備戦術機部隊は、鳳翼作戦へ参加します」
壇上に並ぶ茶柱たちは、表情を変えなかった。
既に作戦内容を知らされ、それぞれの役割も決められているのだろう。
「候補生の皆さんには、引き続き訓練を受けてもらいます」
講堂の一部に、僅かな安堵が広がった。
同時に、納得できないような表情を見せる者もいる。
自分から戦場へ出たいわけではない。
それでも、教師や正規軍だけが危険な場所へ向かい、
自分たちは安全な区画で待つしかないという状況を、
素直に受け入れられない生徒もいた。
「ただし、これまでと同じ訓練ではありません」
坂柳理事長の言葉に合わせて、新たな教育課程が表示される。
実機搭乗訓練時間の拡大。
緊急時における出撃手順。
実弾兵装に関する座学。
野外での応急整備。
損傷機や負傷者を回収するための救難行動。
そして、狭い空間で行動するための地下戦闘基礎。
「衛士課程に所属する適性上位者は、本日付で候補生予備隊へ登録されます」
今度は講堂内に、抑えきれないざわめきが生まれた。
予備隊は、正式な実戦部隊ではない。
しかし、軍の編制上で戦力として数えられ、
緊急時には何らかの任務を与えられる立場となる。
「原則として、皆さんを鳳翼作戦の前線へ投入することはありません」
坂柳理事長は慎重に言葉を選んでいた。
候補生を安心させるため、絶対に戦場へ出さないと言い切ることはしない。
「しかし、人工島内部へBETAが侵入した場合には、
候補生予備隊へ基地防衛任務を命じる可能性があります」
スクリーンへ人工島全体の構造が表示された。
格納庫。
軍港。
医療区画。
補給区画。
地下避難路。
候補生が守る可能性のある場所が、赤い線で示されていく。
池の顔が青ざめた。
山内は不安そうに隣の生徒を見る。
須藤は正面を見たまま動かない。
堀北は説明された内容を端末へ記録しているが、その指先には僅かに力が入っている。
平田の表情も硬い。
高円寺は目を閉じたまま、静かに話を聞いていた。
「皆さんが戦いたいと望むか、望まないかとは関係ありません」
坂柳理事長は続ける。
「戦場は、訓練と覚悟のすべてを終えた者だけを選んで現れるわけではありません」
壇上に並ぶ教師陣の表情も重かった。
彼らも候補生を戦わせたいわけではない。
できることなら、自分たちだけで全てを止めたいと考えているはずだ。
しかし、戦わせないと約束できる状況ではなかった。
「だからこそ、今、学んでください」
坂柳理事長の声音が、僅かに柔らかくなる。
「一度の訓練を、ただ一度の訓練として終わらせないでください」
「一つの失敗を、恥じて隠そうとしないでください」
「一人で強くなることよりも、隣にいる者と共に生き残る方法を考えてください」
静かな言葉が、講堂全体へ広がっていく。
「鳳翼作戦は、教師や軍人だけの作戦ではありません」
坂柳理事長は、生徒たち一人一人へ語りかけるように続けた。
「戦術機を整備する者がいます」
「前線へ情報を届ける管制官がいます」
「負傷者を救う医療班がいます」
「住民や生徒の避難を支援する者がいます」
「そして、次に備えて学ぶ皆さんがいます」
「この人工島にいる全員が、鳳翼作戦を支える一員です」
一度息を整えた後、坂柳理事長はさらに続ける。
「皆さんに、英雄になることを求めません」
その言葉を聞き、高円寺が僅かに目を開いた。
「ただ、自分へ与えられた役割を果たしてください」
「恐怖を感じても構いません」
「判断に迷っても構いません」
「ですが、自分の役割を誰かへ任せきりにはしないでください」
穏やかだった声に、僅かに力が加わる。
「東京は、我々が守ります」
講堂が完全に静まり返った。
「皆さんと共に」
最後の一言は、軍司令官から候補生へ下される命令というよりも、
この学校を預かる教育者が交わした約束に近かった。
坂柳理事長は深く頭を下げる。
壇上に並んでいた教師陣と将校たちも、それに続いた。
生徒たちも、誰から指示されることなく立ち上がっていた。
拍手も歓声も起こらない。
全員が無言で敬礼する。
鳳翼作戦。
人類が東京湾の主導権を取り戻すための最初の一歩は、こうして正式に始まった。
午前七時。
講堂での説明が終了すると同時に、人工島全体が作戦配置へ移行した。
軍港では複数の輸送艦が出港準備を進めている。
甲板へ積み込まれているのは、地下探査装置、巨大な海底封鎖杭、
設置作業に使用する重機、そして護衛戦術機を運搬するための設備だった。
東側格納庫では、第十三戦術機甲大隊サムライの主力機が再出撃の準備を整えている。
三週間前の戦闘で損傷し、修理が間に合わなかった機体を除き、
使用可能な不知火が一機ずつ支持架から解放されていく。
南側格納庫では、第七戦術機甲大隊オニキリが待機していた。
赤と黒の識別塗装を施され、長刀を装備した戦術機が、
整備員の誘導を受けながら次々と格納庫を出る。
西側には、第十二機動防衛群シールドが配置されていた。
重装甲の撃震が人工島外周と軍港周辺へ展開し、
海上部隊が離れた後の基地防衛を担う。
教導隊は北部格納庫に集結していた。
茶柱、坂上、星之宮、真嶋が、それぞれの搭乗機と装備を確認している。
一方、候補生たちは第一実機演習場へ移動した。
鳳翼作戦の最中であっても、訓練は予定通り行われる。
むしろ、状況が悪化しつつある今だからこそ、訓練を止めるわけにはいかなかった。
本日の実機搭乗者は十六名。
Dクラスから八名。
他クラスから選抜された八名。
使用機体は、候補生用に調整された吹雪だった。
その搭乗者一覧には、高円寺六助の名前も正式に記載されている。
強化装備へ着替えた高円寺の姿を、須藤は何度も確認していた。
「本当に来たな」
「私にも搭乗記録が必要だからねぇ」
「どうせ、また途中でサボると思ってた」
「必要な時に戦術機へ乗れないのは困る」
高円寺は、強化装備の接続部分を自分で確認している。
普段のように髪や外見を気にする様子も、訓練を面倒がる気配もなかった。
茶柱が近づく。
「高円寺」
「何かな」
「今日は四機編隊での行動訓練を行う」
「了解」
「単独行動は認めない」
「了解」
簡潔な返答が続く。
須藤が不審そうに高円寺を見る。
「気持ち悪ぃな」
「何がだい?」
「お前が素直すぎる」
「命令を聞く必要がある時には、聞くさ」
「訓練なんか必要ねぇって言ってただろ」
高円寺は須藤へ視線を向けた。
「状況が変わった」
短い答えだった。
「東京ハイヴが現実に存在する以上、私が戦術機へ搭乗する可能性も現実になった」
須藤は僅かに驚く。
高円寺は構わず続けた。
「実戦で動くためには、軍が私へ機体を預ける必要がある。
そのためには、規定を満たす訓練記録が必要なのだろう?」
「だから訓練に出るってのか」
「そうだよ」
「だったら最初からやれ」
「最初は必要なかった」
結局、会話は以前と同じ場所へ戻り、須藤は苛立ったように顔をしかめた。
それでも、一つだけ明確になったことがある。
高円寺は戦場を遊びだとは考えていない。
自分の力が必要になる可能性が生まれたからこそ、訓練へ参加することを選んだ。
本日の課題は、四機編隊による移動、状況に応じた隊形変更、
指定区域の防衛、そして損傷機を護衛しながら撤退する訓練だった。
最初に演習へ入る小隊は、堀北、須藤、平田、高円寺の四名。
個性も戦い方も大きく異なる、異質な組み合わせだった。
小隊長は堀北。
須藤が前衛を担当し、平田が右、高円寺が左を守る。
堀北は中央後方から全体を指揮する。
高円寺が機体へ乗り込む前、堀北が声をかけた。
「高円寺くん」
「何かな、堀北ガール」
「訓練中は、私の命令へ従って」
「了解」
あまりにも素直な返答だったため、堀北は逆に警戒するような表情を見せた。
「本当に理解しているの?」
「君が小隊長で、私は左翼を担当する」
「そうよ」
「必要があれば、君が命令を出す」
「その通り」
「なら問題はない」
高円寺はそれだけ答え、昇降機へ乗り込んだ。
その背中を見送りながら、堀北は僅かに眉を寄せる。
「どうした?」
オレが尋ねる。
「素直すぎて、逆に信用できないのよ」
「命令を聞かないよりはいいだろう」
「それはそうだけれど」
本日のオレは第二小隊へ配置されていたため、第一小隊とは別行動になる。
それでも訓練中の様子は、管制映像を通して確認することができた。
実機演習が開始される。
四機の吹雪が支持架を離れ、第一演習場へ出た。
堀北機が中央。
須藤機が前。
平田機が右。
高円寺機が左。
『縦列を維持し、第一地点まで移動する』
堀北が命じる。
『了解』
三機の返答が、ほぼ同時に重なった。
高円寺も遅れてはいない。
縦列が形成され、四機は規定速度で移動を開始した。
須藤は放っておけば前へ出る。
平田は後方や左右にいる他機を気にする。
高円寺は、指定された位置と間隔を寸分違わず維持する。
堀北は中央後方から、それぞれの位置と速度を確認していた。
『須藤くん、速度を落として』
『これでも抑えてる』
『機体間隔が広がっているわ』
『高円寺が遅いんだろ』
『私の速度は規定通りだよ』
高円寺が淡々と答える。
『なら平田か』
『僕も規定速度だよ』
平田も否定する。
『じゃあ堀北が遅ぇんだ』
『あなた一人だけが速いのよ』
堀北に即答され、須藤は舌打ちした。
それでも速度を落とし、編隊との距離を修正する。
第一地点へ到達すると、次の課題である隊形変更へ移った。
縦列から横列。
須藤は右へ移動し、高円寺は左端を維持する。
平田が中央へ入り、堀北が一歩後方から全体を見る形となる。
『隊形変更を開始』
三機が同時に動き始めた。
須藤機の横移動は、他の二機より速い。
高円寺機は必要最小限の動きだけで、指定位置へ入る。
平田は二機の移動速度と距離を見ながら、自分の位置を微調整した。
結果として横列は、ほぼ規定時間内に完成する。
管制室から茶柱の評価が届いた。
『悪くない』
須藤が得意そうな声を出す。
『俺が速かったからな』
『お前が速すぎた分を、平田が余計に調整した』
『結果が同じならいいだろ』
『同じではない』
答えたのは高円寺だった。
須藤が反応する。
『何だよ』
『君が予定より一秒早く位置へ入ったため、平田くんは不要な修正を一度行った』
『だから何だ』
『一秒のずれと、一度の不要な操作が積み重なれば、いずれ事故へつながる』
須藤は一瞬黙った。
高円寺の口調には、相手を責める感情も、見下して楽しむ様子もない。
ただ、観測した事実をそのまま伝えているだけだった。
『お前にだけは言われたくねぇ』
『私も、君に事故を起こされて巻き込まれるのは困る』
『言ってろ』
口では反発しながらも、須藤は次の隊形変更で移動速度を僅かに抑えた。
演習は続く。
障害物が設置された区画を通過し、
模擬BETA標的が置かれた指定区域へ進入する。
四機は課題を重ねるごとに、少しずつ互いの動きを理解し始めていた。
堀北の指揮。
須藤の突破力。
平田の調整能力。
高円寺の精密な機体操作。
一見すれば相性の悪い四人だったが、役割そのものは明確だった。
問題があるとすれば、高円寺が自分からほとんど意見を出さないことだった。
命令された動きは完璧にこなす。
与えられた役割も果たす。
しかし、小隊長が気づいていない危険を先に見つけても、
自ら判断して行動しようとはしない。
模擬要撃級が左側の建物裏へ移動する。
堀北は正面の標的を見ている。
平田は右側の安全を確認している。
須藤は前方へ意識を集中している。
高円寺だけが、左の建物裏へ消えた敵を把握していた。
それでも機体を動かさない。
『左側から来る』
高円寺が報告したのは、模擬要撃級が姿を現す直前だった。
堀北は即座に反応する。
『全機、右へ回避!』
四機が右方向へ移動し、要撃級の模擬攻撃が何もない空間を切り裂いた。
須藤が怒鳴る。
『もっと早く言え!』
『十分に間に合った』
『ぎりぎりだっただろ!』
『最適な時期だった』
『どこがだ!』
堀北が二人の間へ割って入る。
『高円寺くん』
『何かな』
『敵を発見した時点で報告して』
『命令かい?』
『命令よ』
『了解』
高円寺は反論することなく受け入れた。
堀北は僅かに息を吐く。
高円寺は、周囲が当然してくれると思っている行動を自発的には行わない。
しかし、明確に命令すれば従う。
彼を小隊の一員として使うためには、曖昧な期待を持たず、
必要な役割を言葉で示す必要があった。
演習後半は、損傷機を護衛しながら撤退する訓練へ移った。
仮想的に須藤機の左脚部が故障し、歩行速度が大幅に低下したと判定される。
残る三機は、接近する模擬BETAを排除しながら、
須藤機を指定地点まで帰還させなければならない。
須藤はすぐに不満を口にした。
『なんで俺が損傷機役なんだ』
『教官が決めたことでしょう』
堀北が答える。
『俺はまだ動ける』
『損傷判定では、通常速度で移動できないことになっているわ』
『片脚でも戦える』
『またそれを言うの?』
須藤は歩行速度を上げ、前へ出ようとする。
その進路を、高円寺機が塞いだ。
『どけ』
『駄目だ』
『何だと』
『君は損傷機だ』
『ただの訓練だろ』
『訓練で守れない規則を、実戦で守れるとは思わない』
高円寺の声は穏やかだった。
それでも機体を退かせようとはしない。
『私たちの任務は、君を帰還させることだ』
須藤は言葉を止めた。
高円寺機が須藤機の左前方へ入り、敵と損傷機の間に立つ。
平田は右後方を守り、堀北が撤退方向と火力配分を指示する。
模擬戦車級が前方から接近してきた。
高円寺が最初に射撃する。
無駄のない短い連射で、一体目を止める。
続けて二体目。
命中弾だけを必要な数だけ撃ち込み、無駄弾を使わない。
高円寺の射線を抜けた標的を平田が排除し、
堀北は周辺地形を確認して最も安全な撤退経路を選ぶ。
須藤は速度を抑え、三機に守られながら後退を続けた。
『守られるのは気に食わねぇ』
須藤が低く呟く。
『君の気持ちは任務に関係ない』
高円寺が答える。
『お前、実戦でもそう言えるのか』
『必要ならね』
『怖くねぇのか』
短い間があった。
高円寺は、今度はすぐに答えなかった。
『恐怖はある』
須藤が驚いたように聞き返す。
『お前でも?』
『私を何だと思っているのかな』
『化け物』
『失礼だねぇ』
高円寺は小さく笑った。
『私も人間だよ』
その時、正面へ模擬要撃級が現れた。
高円寺機が一歩前へ出る。
『だからこそ、無意味な危険は避ける』
突撃砲による射撃で、要撃級の進路を一度止める。
平田機が側面へ移動し、堀北機が後方から援護射撃の位置へ入る。
『しかし、必要な危険なら受け入れる』
高円寺機は、要撃級の攻撃範囲へ踏み込んだ。
長い腕が振るわれる。
高円寺は最小限の横移動だけで攻撃を避け、そのまま模擬長刀を振り下ろした。
一撃。
要撃級標的が停止する。
『私が真面目に行動するべき場面なら、真面目にやるさ』
須藤は、それ以上何も返さなかった。
その言葉こそが、高円寺六助という人間の本質なのかもしれない。
彼は反復訓練を軽視し、学校の規則にも興味を持たず、
周囲からどう評価されるかも気にしない。
しかし、本物の戦場。
人間の命。
そして、自分の力が必要とされる状況。
そこまで軽く扱っているわけではなかった。
午前十時。
鳳翼作戦第一段階が開始された。
人工島の演習場にいる候補生たちにも、
遠方の軍港と格納庫から響く出撃音が聞こえてきた。
海上輸送艦。
護衛戦術機。
無人探査艇。
地下封鎖装置を搭載した作業船。
東翼にはサムライ大隊。
南翼にはオニキリ大隊。
東京湾中央部には茶柱たち教導隊。
シールド防衛群は、戦力が海上へ出た後の人工島外周を守る。
東京湾全体が、巨大な一つの作戦へ向けて動き始めた。
候補生たちは実機訓練を中断し、演習場脇の管制区画へ移動するよう命じられた。
搭乗していた吹雪は格納庫へ戻さず、演習場で待機させる。
万一の事態へ備えるためだった。
坂柳理事長から送られた命令は、候補生予備隊の搭乗機を、
いつでも起動できる状態で待機させるというものだった。
武装は訓練用であり、実弾は装備されていない。
しかし、戦況によっては実弾兵装へ換装される可能性がある。
候補生たちは、その意味を口へ出さなくても理解していた。
管制モニターには、鳳翼作戦の展開状況が映し出されている。
東翼では、サムライ大隊の不知火が海上輸送艦を護衛していた。
戦術機は海面すれすれの低空を進み、
艦艇周辺へ近づく敵反応と空域を警戒している。
輸送艦の甲板に固定されているのは、
長さ数十メートルに及ぶ巨大な地下封鎖杭だった。
海底へ打ち込み、その衝撃と爆薬によって地下空洞の一部を崩壊させる。
南翼では、オニキリ大隊が海上へ現れた小型BETA群を排除していた。
突撃砲の閃光が暗い海面を照らし、
砲弾が着弾するたびに爆炎と水柱が何度も立ち上がる。
しかし、出現している敵の数は少ない。
これまで確認された大規模なBETA群と比較すれば、
警戒部隊だけでも対処できる程度だった。
東京湾中央では、教導隊が無人探査艇を護衛している。
茶柱の不知火が探査艇へ最も近い位置を守り、
坂上、星之宮、真嶋の機体が周囲へ広がって、海上と海中の各方向を監視していた。
「静かすぎます」
候補生用観察室で、ひよりが小さく呟いた。
CクラスとDクラスの候補生が、同じ大型モニターを見ている。
龍園がひよりへ顔を向ける。
「何がだ」
「BETAの反応です」
ひよりは手元の端末へ、複数の情報を並べていた。
三週間前の海上戦闘記録。
昨夜までに観測された海底振動。
そして、鳳翼作戦開始後の現在の索敵反応。
「前回は、こちらが封鎖線を作り始めるよりも前に、BETAが海上へ現れました」
「今日は出てこねぇな」
「はい」
伊吹が冗談めかして言う。
「こっちの戦力を見て、怯えてるんじゃないの?」
ひよりは首を横に振った。
「BETAが人間と同じように怯えるのかは分かりません」
「なら、何なのよ」
「人類側が何をしているのか、まだ気づいていない可能性もあります」
石崎が安心したように息を吐く。
「だったら、そのまま気づかれない方がいいじゃないっすか」
「ですが」
ひよりは端末上の地下振動データを拡大した。
海底表層付近の反応は静かだった。
しかし、そのさらに深い位置では、複数の振動源が一定方向へ移動している。
「地下反応が、地表へ向かっていません」
龍園の目が細くなる。
「横へ動いてるのか」
「はい」
振動源は東京湾中央部から、人工島の方向へ伸びていた。
ただし、学校や中央格納庫の真下へ直接向かっているわけではない。
人工島北側。
現在は使用されていない旧整備区画の地下。
ひよりは戦前の東京湾開発計画図を別画面へ表示した。
「この移動線は、戦前に計画されていた海底物流トンネルの位置と重なっています」
坂柳有栖が、別の観察席から反応する。
「そのトンネルは、完成前に建設が中止されたはずです」
「はい」
ひよりは頷いた。
「ですが、掘削途中の空洞や、基礎部分は地下へ残っています」
完全に新しい岩盤を掘るより、既に存在する空洞を利用した方が、BETAも速く進める。
坂柳はすぐに父親がいる中央司令部へ通信を送ろうとした。
その瞬間。
人工島北部の地面が揺れた。
最初の振動は小さかった。
演習場で待機している吹雪が歩いた時のものか、
遠方で封鎖杭が打ち込まれた衝撃だと思われた。
だが、二度目の揺れは明らかに大きかった。
観察室の床が震え、天井から下がる照明が左右へ揺れる。
直後、警告音が鳴った。
『人工島北部地下区画で異常振動を検知』
管制画面へ、旧物流トンネル周辺の地図が表示される。
地下二百メートル。
複数のBETA反応。
「来ます」
ひよりが言った。
その直後、北部整備区画の監視映像が大型画面へ切り替わった。
舗装された地面へ、細い亀裂が走る。
最初の一本から枝分かれするように、二本目、三本目の亀裂が広がり、
やがて地面全体を蜘蛛の巣のように覆っていく。
作業を続けていた整備員たちが異変へ気づき、振り返った。
『全員、北部区画から退避してください!』
緊急放送が響く。
整備員たちは工具を捨て、車両から飛び降り、
指定された退避口へ向かって走り始める。
地面が大きく持ち上がった。
次の瞬間、舗装面が内側から爆発した。
大量の土砂と砕けたコンクリートが空へ吹き上がり、
近くに停車していた整備車両が爆風で横転する。
陥没した地面には、巨大な暗い穴が開いていた。
その奥で、何かが動く。
最初に地表へ姿を現したのは、戦車級だった。
一体目が瓦礫を押し退けて外へ出る。
その後ろから二体目、三体目が続き、十体、二十体と数を増やしていく。
やがて数えることさえ難しいほどの戦車級が、地下から地表へ溢れ始めた。
校内警報が、第二種警戒から戦闘状態を示す赤へ切り替わる。
『人工島北部にBETAが侵入しました!』
観察室の空気が凍りついた。
鳳翼作戦へ参加する主力部隊の大半は、既に人工島を離れている。
サムライ大隊は東翼の輸送艦を護衛し、オニキリ大隊は南翼で交戦中。
教導隊は東京湾中央部。
シールド防衛群は人工島外周を守っているが、
北部区画へ直ちに到着できる部隊は多くない。
茶柱たちが戻るにも時間がかかる。
シールド防衛群の一個小隊が、北部侵入地点へ向かうよう命じられた。
しかし、BETAが出現した北部整備区画は、候補生たちが待機している第一実機演習場から近かった。
演習場には、先ほどまで訓練で使用していた吹雪が並んでいる。
主機は停止していない。
候補生用の安全制限は残されているが、即座に搭乗できる状態だった。
管制室へ、坂柳理事長からの通信が入る。
『候補生予備隊は、直ちに搭乗準備へ移行してください』
誰もすぐには動かなかった。
聞き間違いだと思ったわけではない。
命令の意味が、あまりにも重かった。
『繰り返します。候補生予備隊は、直ちに搭乗準備へ移行してください』
実戦。
予備隊へ登録された、その初日。
実機へ搭乗した回数も、まだ数えるほどしかない。
跳躍訓練も、実弾射撃も、対BETA実戦も経験していない。
その候補生たちが今、訓練用の画面ではない現実の映像を通して、
地表へ溢れ出すBETAの群れを見ている。
北部区画と候補生たちの間を隔てる距離は、決して遠くなかった。