初実戦の翌朝。
高度育成衛士高等学校の第一講義棟には、
普段より早い時間から明かりが点いていた。
窓の外はまだ薄暗い。
東京湾の上には灰色の雲が広がり、
海上に設置された鳳翼作戦の作業灯だけが、夜の名残のように浮かんでいる。
人工島北部。
昨日、BETAが地中から出現した区画は、厚い装甲壁によって封鎖されていた。
崩落した旧物流トンネルの周囲には、
第十二機動防衛群シールドの撃震が配置されている。
巨大な機体が微動だにせず立ち、地中から届く僅かな振動を監視していた。
一見すれば、戦闘は終わったように見える。
だが、島内の誰もそうは思っていなかった。
BETAは外からだけではなく、足元から現れる。
その事実が、人工島全体の空気を変えていた。
オレたち候補生予備隊は、午前五時から第一講義室へ集められている。
堀北。
須藤。
平田。
高円寺。
龍園。
一之瀬。
神崎。
そしてオレ。
昨日、吹雪へ搭乗した八名。
他の候補生は別室で通常訓練を受けている。
この部屋にいるのは、初実戦の事後検証対象者だけだった。
全員の前には端末。
正面には大型スクリーン。
画面には昨日の戦場が映っている。
崩れた整備棟。
炎上する車両。
道路を埋める戦車級。
地中から現れる要撃級。
そして、それに向き合う八機の吹雪。
映像は音声も含めて記録されている。
誰が何を言ったのか。
誰がどこへ動いたのか。
すべてが残っている。
「再生を始める」
茶柱が言った。
前方には茶柱、坂上、星之宮、真嶋。
四人とも昨日の鳳翼作戦から帰還したばかりだ。
茶柱の不知火は外装に複数の損傷。
坂上の陽炎も右脚部へ被弾。
星之宮機は突撃砲を一門失っている。
真嶋の撃震には、海中から現れた要撃級と接近戦を行った跡が残っていた。
教師陣も無傷ではない。
それでも候補生より早く、この部屋へ来ていた。
映像が始まる。
人工島北部。
陥没。
戦車級の群れ。
昨日と同じ光景。
だが、実際に操縦席で見た時とは違う。
俯瞰映像。
上空監視機。
各機の視界。
管制記録。
複数の情報が同時に表示される。
「停止」
茶柱が映像を止めた。
候補生八機が、演習場を出た直後。
まだ敵と接触していない。
「この時点での問題を言え」
誰もすぐには答えなかった。
須藤が画面を見る。
「俺たちの間隔が狭い」
茶柱が須藤を見る。
「続けろ」
「前の機体が止まったら、後ろも避けられねぇ」
「その通りだ」
須藤は少し意外そうな顔をした。
褒められると思っていなかったのだろう。
茶柱は映像を拡大する。
第一小隊。
堀北。
須藤。
平田。
高円寺。
四機が演習場出口で僅かに密集している。
「実機出撃に慣れていないため、前の機体を見すぎている」
茶柱は説明する。
「敵を見ていない。地形も見ていない。仲間の背中だけを追っている」
堀北が手元の端末へ入力する。
「今回は事故が起きなかった」
茶柱の声が冷たくなる。
「だが、出口付近で一機が転倒していれば、後続全機が止まっていた」
須藤が腕を組む。
「初実戦だったんだから、仕方ねぇだろ」
「仕方ないで終わらせるなら、検証を行う意味はない」
茶柱は須藤を見る。
「失敗したことを責めているのではない」
一度言葉を切る。
「同じ失敗を、次も初めてのように繰り返すことを責めている」
須藤は何も返さなかった。
映像が進む。
最初の射撃。
八機の突撃砲。
砲口炎。
道路に連続する着弾。
戦車級の群れが爆煙へ消える。
画面越しでも、実弾射撃の衝撃が伝わる。
「停止」
今度は坂上。
着弾地点が表示される。
一発。
二発。
三発。
多数の弾丸が同じ地点へ集中していた。
「火力の無駄だ」
坂上が言う。
「全員が先頭の敵を狙っている」
神崎が映像を見る。
「射撃区域の分担がありませんでした」
「そうだ」
「ですが、事前に敵の数が分からなかった」
「分からないなら、なおさら分けろ」
坂上が地図へ線を引く。
道路左。
中央。
右。
「第一小隊が左と中央。第二小隊が中央と右。最低限、それだけでも重複は減る」
龍園が鼻で笑う。
「初めて本物を見りゃ、全員一番近い奴を撃つ」
坂上は龍園へ視線を向ける。
「お前も同じだったな」
映像が切り替わる。
龍園機。
一射目。
一之瀬機と同じ敵へ射撃。
弾道が重なる。
「戦果を焦ったか?」
「違ぇよ」
龍園は否定した。
「目の前の奴を消した方が早かった」
「一体を早く消し、次の三体へ弾を残さない」
坂上の声は厳しい。
「それを焦りという」
龍園の目が僅かに細くなる。
反論はしなかった。
映像が進む。
医療搬送車。
戦車級が方向を変える。
神崎の最初の射撃が外れる。
オレが続けて撃つ。
「停止」
神崎が自分から口を開いた。
「俺の照準が高い」
坂上が頷く。
「理由は」
「搬送車両が近く、地面へ着弾させることを恐れました」
「その判断自体は間違っていない」
坂上は画面を拡大する。
「だが、恐れて照準を上げれば命中しない。撃てないなら撃つな。別の位置へ動け」
神崎は拳を握る。
「はい」
一之瀬が横から神崎を見る。
「でも、二回目は当たったよ」
神崎は一之瀬へ視線を向ける。
「一回目を外した事実は消えない」
「消さなくていいんじゃないかな」
一之瀬は静かに答える。
「次に当てるために覚えておけば」
神崎は少しだけ表情を緩めた。
検証は続く。
堀北の指示。
須藤の前進。
高円寺の制止。
龍園による整備棟倒壊。
一之瀬の搬送車防護。
一つずつ停止される。
成功した行動も、結果だけでは評価されない。
「なぜ、その位置を選んだ」
「他に方法はなかったのか」
「一秒遅れていたらどうなった」
「仲間が動かなかった場合は」
教官たちは何度も問う。
答えのない質問もある。
それでも考えさせる。
画面に要撃級が現れる。
地中から這い上がる巨体。
八機が百二十ミリ砲を構える。
一斉射撃。
爆炎。
煙の中から進み続ける要撃級。
教室の空気が僅かに強張る。
昨日の恐怖が戻ってくる。
映像であっても、あの時の振動や警告音を思い出す。
「ここからは高円寺の行動を検証する」
茶柱が言う。
高円寺機が前へ出る。
要撃級の攻撃を引きつける。
横方向への噴射。
回避。
候補生全機の再装填。
二射目。
要撃級撃破。
茶柱が映像を停止。
「高円寺」
「何かな」
「自分の行動を説明しろ」
高円寺は画面を見る。
「再装填完了まで、およそ二秒足りなかった」
「だから前へ出た?」
堀北が尋ねる。
「そうだよ」
「命令では位置を維持することになっていた」
「維持すれば、要撃級の攻撃がレッドヘアーくんか平田ボーイへ届いた」
須藤が高円寺を見る。
高円寺は続ける。
「私が最も正確に回避できると判断した」
「自信過剰ね」
堀北の声は冷たい。
「否定はしない」
高円寺は平然としている。
茶柱が問いかける。
「失敗した場合は?」
「私の機体が損傷した」
「それだけか?」
高円寺は少し考える。
「私の機体が倒れれば、後方の射線を塞ぐ」
「他には」
「要撃級がさらに前進する」
「他には」
高円寺の表情から、僅かに余裕が消える。
「レッドヘアーくんたちが、私を助けようとする可能性がある」
「そうだ」
茶柱は画面へ複数の予測線を表示する。
高円寺機が回避に失敗。
転倒。
須藤が前進。
平田が援護。
堀北が射撃位置を変更。
八機の射線が崩れる。
医療搬送車が止まる。
「お前の判断が成功したことで、全員が助かった」
茶柱は言う。
「だが、お前が失敗すれば、全員が崩れた」
高円寺は黙っている。
「自分が成功することだけを前提にするな」
「私が失敗する可能性を考えろと?」
「違う」
茶柱は即座に否定する。
「お前が失敗しても、部隊が生き残る形を作れ」
高円寺の目が僅かに動く。
「それが連携だ」
しばらく沈黙。
やがて高円寺は小さく頷いた。
「了解」
須藤が驚いたように高円寺を見る。
高円寺は反論しなかった。
自分の行動が間違いだったとは思っていないだろう。
だが、茶柱の指摘も理解している。
茶柱は堀北を見る。
「小隊長としてはどうだ」
堀北は映像を見た。
高円寺の前進。
自分の驚き。
二射目の命令。
「私が、高円寺くんの動きを想定していませんでした」
「当然だ。命令違反だからな」
「ですが、高円寺くんが前へ出なければ危険だったことも、私は気づけなかった」
堀北は悔しそうに拳を握る。
「小隊全体の再装填時間を、把握できていませんでした」
茶柱は頷く。
「高円寺だけの問題ではない」
堀北が顔を上げる。
「小隊長が戦場を完全に把握することは不可能だ」
「では、どうすれば」
「部下に見せろ」
茶柱は答える。
「お前が見えないものを、他の者に見せる」
「報告させる?」
「それも一つだ」
「でも、高円寺くんは必要な時まで報告しません」
「なら、報告の基準を決めろ」
堀北は以前の訓練を思い出したようだった。
発見した時点で報告する。
自分から動かない高円寺へ、明確な命令を出す。
「曖昧な命令は、曖昧な結果を生む」
茶柱は言う。
「人間は、お前の期待通りには動かない」
須藤を見る。
高円寺を見る。
平田を見る。
「だから相手を知れ」
坂柳理事長の演説と同じ。
隣の者を知る。
堀北は小さく答えた。
「はい」
映像は、撤退場面へ進む。
シールド防衛群の到着。
候補生隊の後退。
須藤が撃ち続けようとする。
高円寺が止める。
「ここは評価する」
茶柱が言った。
須藤が顔を上げる。
「須藤。お前は敵を追わなかった」
「命令だったからな」
「以前のお前なら、無視したかもしれない」
「……かもな」
須藤は否定しなかった。
「なぜ止まれた」
須藤は少し考える。
「高円寺が言ったからだ」
高円寺が僅かに眉を上げる。
「私が?」
「ああ」
須藤は画面を見たまま言う。
「こいつが前に出た時、ふざけてねぇって分かった」
高円寺は何も答えない。
「そんな奴が任務は終わったって言うなら、終わりなんだろうと思った」
茶柱が問う。
「私の命令では止まらないのか?」
須藤は僅かに慌てる。
「そういう意味じゃねぇ」
教室に小さな笑いが起こった。
張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
星之宮が肩をすくめる。
「佐枝ちゃん、人望で負けてる?」
「黙っていろ」
「冗談だって」
茶柱は星之宮を睨む。
だが、それ以上は追及しなかった。
最後。
坂柳理事長の言葉。
候補生へ感謝し、戦わせたことを謝罪した場面。
映像が終わる。
スクリーンが暗くなる。
「昨日の任務は成功だ」
茶柱が告げた。
「戦死者なし。搬送対象者全員救出。候補生機の損傷は一機のみ」
高円寺機。
左肩小破。
「だが、成功したから問題がなかったわけではない」
端末に、それぞれの評価表が送られる。
操縦。
射撃。
連携。
判断。
命令遵守。
精神状態。
細かい項目。
高円寺は操縦、判断、射撃で最高評価。
命令遵守だけが低い。
須藤は射撃と前衛適性が高い。
視野と弾薬管理が低い。
堀北は指揮と情報処理。
臨機応変さに課題。
平田は護衛と連携。
優先順位の決定が低い。
龍園は戦場構築と即応判断。
独断性と危険管理に問題。
一之瀬は護衛能力。
自機を危険へ置きすぎる傾向。
神崎は正確性。
緊張時の初動。
オレの評価は。
操縦。
射撃。
判断。
すべて上位。
だが、突出した数値にはなっていない。
茶柱の記載。
「状況全体を把握している可能性あり。自発的な指揮を避ける傾向」
やはり気づかれている。
「本日の訓練は、午後から開始する」
茶柱が言う。
須藤が驚く。
「今からじゃねぇのか」
「午前中は休息だ」
誰もすぐには反応しなかった。
茶柱の口から休めと言われるとは思っていなかったのだろう。
「実戦後の身体は、自分で思う以上に疲労している」
坂上が続ける。
「手の震え、吐き気、不眠、過度な興奮。異常ではない」
平田が僅かに視線を下げる。
眠れなかったのかもしれない。
「隠すな」
坂上は全員を見る。
「精神状態を申告することは、弱さではない」
須藤が自分の手を見る。
「俺は平気だ」
「それを決めるのは医療班だ」
「自分のことだぞ」
「自分だから、正確に見えないことがある」
高円寺が須藤へ言う。
「君は昨日から三度、右手を握り直しているよ」
須藤が高円寺を見る。
「見てたのか」
「目に入っただけさ」
須藤の右手。
僅かな震え。
操縦桿を握っていた感覚が残っているのだろう。
須藤は拳を握る。
隠そうとする。
だが、すぐに力を抜いた。
「……医療班に行けばいいんだな」
坂上が頷く。
「そうしろ」
事後検証終了。
候補生たちは医療区画へ移動する。
簡易検査。
心拍。
睡眠。
神経反応。
心理面談。
オレは特に問題なし。
須藤は軽度の興奮状態。
平田は睡眠不足。
一之瀬は搬送車へ接近した戦車級の映像が、何度も頭へ浮かぶと申告した。
高円寺は正常。
龍園も大きな異常はなし。
ただし、戦闘後も長時間交感神経の興奮が続いていた。
本人は気にしていない。
医療区画を出る。
廊下の窓から北部区画が見える。
昨日崩した整備棟。
巨大な瓦礫。
封鎖された穴。
工事車両が何十台も動いている。
「俺たちが壊したんだよな」
須藤が言う。
龍園が隣で答える。
「俺と綾小路だ」
「細けぇな」
「事実だろ」
「修理、どれくらいかかるんだろう」
平田が心配そうに見る。
高円寺が答える。
「完全復旧には数か月だろうね」
「そんなに?」
「ただし、軍事施設は機能優先で復旧する。外見は後回しさ」
須藤が瓦礫を見る。
「学校に見えなくなってきたな」
誰も否定しなかった。
入学時。
校舎。
寮。
演習場。
学校であることを示す建物が多かった。
今は防壁。
戦術機。
装甲車両。
封鎖区画。
作戦灯。
日を追うごとに軍事基地の側面が強くなっている。
昼前。
候補生たちは食堂へ集まった。
昨日の出撃者以外には、通常通りの授業が行われている。
それでも話題は、鳳翼作戦と北部戦闘。
池が須藤へ詰め寄る。
「本物のBETA、どうだった?」
須藤が食事を口へ運びながら答える。
「でかい」
「それだけ?」
「数も多い」
「怖くなかったのか?」
須藤の手が僅かに止まる。
以前なら、怖くないと即答しただろう。
だが今回は。
「怖ぇに決まってんだろ」
池が驚く。
須藤は続ける。
「でも、怖いからって止まったら、後ろの車がやられる」
「よく動けたな」
「動くしかなかった」
須藤の返答は簡単だった。
英雄の言葉ではない。
自慢もない。
実際に戦場を見た者の言葉。
少し離れた席では、軽井沢と佐藤麻耶、松下千秋が三人で食事をしていた。
目の前にあるのは、いつもと変わらない食堂の定食だった。
だが三人とも、最初の数分は箸を動かすことさえ忘れていた。
周囲では北部区画の戦闘について話す声が聞こえている。
実弾。
BETA。
搬送車。
要撃級。
どれも、中学までの学校生活にはなかった言葉ばかりだった。
佐藤が小さく息を吐く。
「なんかさ」
軽井沢が顔を上げた。
「何?」
「こういう話ばっかりしてると、私たち本当に高校生なのかなって思わない?」
松下も頷く。
「分かる。朝起きて訓練して、授業受けて、また警報が鳴って」
「普通の女子高生って、もっと別のことで悩んでるよね」
軽井沢は箸で小さくご飯を崩しながら言った。
「服とか」
佐藤の表情が少し明るくなる。
「そう、それ!」
「もっと服とかアクセとか買いたいよねぇ」
松下も会話へ乗る。
「分かる。制服と強化装備ばっかりじゃ、さすがに飽きる」
軽井沢は自分の袖を見る。
「強化装備って体にぴったりしすぎるし、全然かわいくないし」
佐藤が笑う。
「機能重視だから仕方ないでしょ」
「分かってるけどさ」
軽井沢は少し不満そうに言った。
「髪型とかも、もっとちゃんとしたいし」
「訓練ある日は崩れるから無理じゃない?」
松下が現実的に返す。
「だから休みの日」
軽井沢は即答した。
「休みの日に三人で買い物行こうよ」
佐藤が目を輝かせる。
「いいね!」
「アクセとか見たい」
「ピアスは規則で駄目じゃなかった?」
松下が尋ねる。
「別にピアスじゃなくても、イヤリングとかあるじゃん」
軽井沢は指で耳元を示した。
「ブレスレットとか、ネックレスとか」
「戦術機に乗る時は外さないと怒られるけどね」
佐藤の言葉に、三人は少しだけ笑った。
松下が続ける。
「でも、私たち花の女子高生だもんね」
軽井沢が吹き出す。
「自分で言う?」
「だって本当でしょ」
「まぁ、そうだけど」
佐藤も笑いながら頷いた。
「せっかく高校生なんだから、制服で遊びに行ったり、写真撮ったりしたいよね」
「プリクラも撮りたい」
軽井沢。
「まだ一回も撮ってないじゃん」
「この島にプリクラ機あるの?」
松下。
「購買区画の奥に一台あるって聞いた」
佐藤が言う。
「古い機種らしいけど」
「古くてもいいよ」
軽井沢は少し楽しそうに答えた。
「三人で撮って、変な落書きしよう」
「軽井沢さん、絶対盛るでしょ」
松下が言う。
「当たり前じゃん」
「現実より目を大きくするやつ」
「それは佐藤さんもでしょ」
「私は自然にするし」
「絶対嘘」
三人の会話は、少しずついつもの調子へ戻っていく。
戦術機。
BETA。
東京ハイヴ。
それらが消えたわけではない。
次の警報がいつ鳴るかも分からない。
それでも。
かわいい服が欲しい。
アクセサリーを選びたい。
友達と写真を撮りたい。
放課後に寄り道したい。
そんな何でもない願いは、まだ三人の中に残っていた。
松下が箸を置く。
「じゃあ決まりね」
「何が?」
佐藤が尋ねる。
「次にちゃんと休みが取れたら、三人で買い物」
軽井沢も頷く。
「絶対行こう」
佐藤が笑う。
「うん」
その約束が、いつ叶うかは分からない。
それでも三人は。
戦場の話ではなく。
次の休日の話をしながら。
少し冷めた食事を、最後まで食べ続けた。
少し離れた席。
ひよりが資料を広げている。
食事にはほとんど手をつけていない。
龍園が向かいへ座った。
「何見てる」
ひよりが顔を上げる。
「鳳翼作戦の公開資料です」
「昨日も見てただろ」
「昨日とは内容が変わっています」
龍園は勝手に端末を覗く。
東京湾地下地図。
封鎖杭。
振動。
昨日の侵入経路。
「何か気づいたか」
ひよりは少し迷った。
「確信はありません」
「構わねぇ」
「昨日、BETAは旧物流トンネルを利用しました」
「それがどうした」
「偶然ではないと思います」
龍園が眉を動かす。
ひよりは複数の地図を重ねる。
現在の人工島。
建設中の古い人工島。
戦前計画。
地下配管。
廃棄された連絡坑。
「BETAの掘削経路が、人類側の地下構造へ重なりすぎています」
「空洞の方が掘りやすいだけじゃねぇのか」
「それもあると思います」
ひよりは頷く。
「ですが、昨日使われた物流トンネルは、途中で埋め戻されています」
「BETAが掘り当てた」
「はい」
「偶然だろ」
「それだけなら」
ひよりは別の地点を示す。
東部防壁地下。
軍港給水管。
北側地下電力路。
過去三か月の振動は、それらの周囲へ集中している。
龍園の目が細くなる。
「島の構造を知ってるみてぇだな」
「そこまでは言えません」
「言ってるのと同じだ」
「BETAが地図を読んでいるとは思いません」
ひよりは言葉を選ぶ。
「ですが、地中の振動、熱、電力、空気の流れ。
何かを利用して、人類の地下設備を探している可能性があります」
龍園は黙って地図を見る。
「どこへ報告した」
「まだです」
「なぜだ」
「確信がないからです」
「確信してからじゃ遅ぇ」
龍園はひよりの端末を取る。
「坂柳に送れ」
「坂柳さんに?」
「司令部へ直接送っても、候補生の推測で終わる」
龍園はAクラス席を見る。
坂柳有栖。
神室。
橋本。
「お姫様なら、使える形にする」
ひよりは少し考えた。
「龍園くんが報告するのでは?」
「俺が言えば、あいつはまず疑う」
「仲が悪いんですね」
「良くする必要がねぇ」
ひよりは小さく笑った。
「では、私から送ります」
端末で資料をまとめる。
龍園は食事を始める。
「お前」
「はい?」
「飯も食え」
ひよりの食事はほとんど残っている。
「後でいただきます」
「冷めるぞ」
「もう冷めています」
龍園は僅かに顔をしかめた。
「なら早く食え」
「心配してくれているんですか?」
「体力基準で実機に乗れてねぇ奴が、飯まで抜いたらどうしようもねぇだろ」
「そうですね」
ひよりは素直に箸を取った。
龍園はそれ以上何も言わない。
だが、ひよりが食べ始めたことを確認してから、自分の食事へ戻った。
しばらくの間、二人の間には食器の触れ合う音だけが流れた。
ひよりは数口食べた後、端末の横へ置いていた一冊の本へ目を向ける。
龍園も、その視線に気づいた。
「また本か」
「はい。地下生態系についての学術書です」
「食事中まで読む内容じゃねぇな」
「今日は読んでいません」
「開いてあるだろ」
「気になる箇所に印をつけていただけです」
龍園は本の表紙を見る。
専門用語ばかりが並んだ、候補生向けとは思えない分厚い本だった。
「面白ぇのか、それ」
「面白いですよ」
「地下の虫や菌の話がか?」
「それだけではありません」
ひよりは箸を置かずに答えた。
「光の届かない環境で、生物がどのように適応するのか。
限られた資源をどう分け合い、あるいは奪い合うのか。
ハイヴ内部を考えるうえでも参考になります」
龍園が僅かに目を細める。
「BETAを生態系として見るのか」
「完全に同じではありません」
「ですが、敵をただの怪物と考えるより、
環境に適応した存在として見た方が、行動を予測しやすいかもしれません」
「本から戦い方を探してんのか」
「本は、知らない人の経験を借りられますから」
ひよりは少し笑った。
「自分一人では、一生かかっても体験できないことを知ることができます」
龍園は箸を動かしながら言う。
「書いた奴が間違ってる場合もある」
「もちろんです」
「なら信用できねぇだろ」
「一冊だけを正しいと思わなければいいんです」
ひよりは穏やかに答えた。
「違う意見の本を読み比べて、自分で考えます」
「面倒な読み方だな」
「龍園くんも似たような読み方をしているのではありませんか?」
龍園の箸が僅かに止まった。
「何の話だ」
「以前、『堕落論』を読んでいましたよね」
「見てたのか」
「隠していませんでしたから」
「お前みたいに四六時中、本を見てる奴に見つかっただけだ」
ひよりは小さく笑う。
「意外でした」
「何がだ」
「龍園くんは小説よりも、経営学や心理学の本を読む人だと思っていました」
「それも読む」
「やはり」
龍園は特に否定しなかった。
机上の端末には、戦術資料だけでなく、
組織論や集団心理に関する書籍の記録も残っている。
「人間を動かすなら、人間が何で動くかを知る必要がある」
「恐怖ですか?」
「恐怖だけじゃねぇ」
龍園は即座に答えた。
「欲。損得。意地。仲間意識。自分だけは助かるって思い込み」
「随分たくさんありますね」
「人間は単純に見えて面倒だからな」
「だから学術書を?」
「使えるものは使う」
龍園らしい答えだった。
ひよりは少し考えた後、尋ねる。
「では、『堕落論』は何に使うんですか?」
龍園は面倒そうに視線を上げた。
「何でも使うために読むわけじゃねぇ」
「そうなのですか?」
「人間が追い詰められた時、綺麗事だけじゃ生きられねぇって話は嫌いじゃない」
龍園は窓の外に並ぶ戦術機を見た。
「立派な理想を並べてる奴ほど、土壇場で崩れることもある」
「ですが、堕ちたからこそ人間らしく生きられる、という考え方でもあります」
「お前はそう読むのか」
「はい」
ひよりは頷いた。
「完璧でなくてもいい。弱さや醜さを認めた後で、
どう生きるかが大切なのだと思います」
龍園は僅かに笑った。
「随分と都合のいい読み方だな」
「本の読み方は、読む人の数だけありますから」
「作者に怒られるぞ」
「龍園くんも、作者の意図だけを探して読むタイプではないでしょう?」
「まぁな」
二人の視線が一瞬だけ重なる。
龍園は人間の弱さを、支配や交渉へ利用するために読む。
ひよりは同じ弱さを、理解し、受け入れるために読む。
選ぶ本も。
文章から得るものも違う。
それでも、人間は理屈だけでは動かないという点では、二人の考えは近かった。
ひよりが言う。
「龍園くんは、思っていたより読書家なんですね」
「お前と一緒にするな」
「私は嬉しいです」
「何でだ」
「本の話ができる人が、クラスにいるので」
龍園は明らかに面倒そうな顔をした。
「俺は読書会をやる気はねぇぞ」
「では、読み終えた本を教えていただくだけでも」
「断る」
「『堕落論』の次は何を読むんですか?」
「聞いてねぇな」
「経営学ですか?心理学ですか?」
「飯を食え」
龍園は会話を打ち切るように言った。
ひよりは楽しそうに箸を動かす。
「はい」
「あと、本を読みながら食うな」
「今日は読んでいません」
「読みそうな顔をしてる」
「どんな顔でしょう」
「お前の顔だ」
ひよりは声を立てずに笑った。
龍園はそれ以上何も言わず、自分の食事へ戻る。
だが、食事を終える少し前。
「地下生態系の本」
龍園が不意に言った。
「はい?」
「読み終わったら、使えそうなところだけまとめろ」
ひよりの表情が明るくなる。
「龍園くんも読みますか?」
「全部読むとは言ってねぇ」
「では、要点をお伝えします」
「戦術に使える部分だけだ」
「分かりました」
龍園は興味がないような顔をしていた。
それでも、ひよりが嬉しそうに本を閉じたことを確認すると、僅かに口元を緩めた。
数分後。
坂柳の端末へ、ひよりから資料が届く。
坂柳は画面を開く。
神室が横から覗く。
「何?」
「椎名さんからです」
「珍しいね」
橋本も近づく。
「CクラスからAクラスへ情報提供か。裏がありそうだ」
「あなたは何でも裏を考えますね」
坂柳は資料を読む。
最初は穏やかな表情。
だが、地下経路の重なりを確認すると、笑みが薄くなる。
「神室さん」
「何」
「父へ連絡します」
「そんなに重要?」
「重要かどうかを、確かめる必要があります」
坂柳はすぐに司令部回線を申請した。