第二隔壁の内側では、真嶋が巨大な弁のハンドルへ両手をかけ、
全身の力を込めながら回し続けていた。
一回転させるだけでも、長期間使用されていなかった弁は激しい抵抗を返してくる。
真嶋は足を踏ん張り、
腕だけではなく肩と背中の力まで使って、さらにもう一回転させた。
天井を走る配管の内部では、絶縁樹脂の圧力が急速に上昇していた。
壁面へ取り付けられた計器の針は、通常使用域を越え、
危険を示す赤い範囲の手前まで跳ね上がっている。
『弁の完全開放まで、あと二回転です!』
管制室からの報告が地下通路へ響いた。
しかし、真嶋の背後では、教導隊と施設防衛隊が既に限界へ近づいていた。
旧配線室の奥へ開いた侵入口からは、戦車級が絶え間なく這い出してくる。
狭い補助扉を通れる程度の小型種とはいえ、
数が増えれば人間用の防衛装備だけで押し止めることは難しい。
茶柱は散弾銃を肩へ押し当て、接近する戦車級へ射撃を続けていた。
銃声が鳴るたびに、狭い地下通路の壁と天井が震える。
至近距離から散弾を浴びた戦車級が後方へ押し戻されるが、
その身体を乗り越えるように次の個体が迫ってくる。
やがて茶柱の散弾銃から、引き金を引いても発砲されない乾いた作動音が返った。
弾倉が空になったのだ。
茶柱は武器を下げ、腰部の弾薬へ手を伸ばした。
その僅かな隙を狙ったように、一体の戦車級が前方へ飛び出してくる。
坂上がすぐに大型盾を振るい、正面から敵の身体を叩き返した。
戦車級は壁へ激突したが、その横を抜けるように別の個体が回り込んでくる。
星之宮が軽機関銃を向け、引き金を引いた。
だが、機関銃から返ってきたのは発砲音ではなく、
弾切れを知らせる乾いた作動音だけだった。
「最悪!」
星之宮は迷うことなく機関銃を捨て、腰へ装着していた拳銃へ持ち替える。
施設防衛隊員の一人も前へ出て、星之宮の死角から近づく戦車級へ発砲した。
複数の弾丸を受けた個体は一度動きを止めたが、
その隊員の足元へ別の戦車級が迫っていた。
隊員は避けようとして姿勢を崩し、その場へ倒れ込む。
茶柱は弾薬交換を中断し、すぐに隊員の腕を掴んだ。
「下がれ!」
戦車級の目前から、倒れた隊員を力任せに引きずり戻す。
『負傷者一名!』
別の防衛隊員が叫んだ。
真嶋は、背後で起きている戦闘を振り返らなかった。
振り返れば、自分も武器を取って援護したくなる。
しかし、ここで弁を開けなければ、敵を止める手段そのものが失われる。
真嶋は歯を食いしばり、最後の力を込めてハンドルを回した。
重い金属音が響く。
弁のハンドルが、規定された最後の位置へ入った。
壁面の警告灯が、赤から緑へ切り替わる。
『弁の完全開放を確認!』
直後、天井を通る太い配管が大きく震えた。
旧配線室内の壁と天井へ設けられていた複数の噴射口が一斉に開き、
高粘度の絶縁樹脂を大量に放出する。
白灰色の粘液が滝のように壁面と床へ流れ落ち、侵入口周辺へ広がった。
前方へ押し寄せていた戦車級の身体にも、大量の樹脂がまとわりつく。
粘度の高い液体へ脚部を取られた個体は、急激に動きを鈍らせた。
脚が床へ貼りつき、前へ進もうとするたびに身体が傾く。
後続の戦車級も次々と樹脂の中へ踏み込み、
先に動けなくなった個体へ重なりながら、その場で身動きを封じられていく。
流れ続ける樹脂は、戦車級だけではなく、床へ開いた侵入口の周囲にも流れ込んだ。
穴の縁から地下へ注ぎ込み、BETAが上がってくる経路そのものを埋め始める。
「完全硬化まで九十秒だ!」
真嶋が叫んだ。
茶柱は状況を確認すると、即座に撤退命令を出した。
『全員、第二隔壁まで後退しろ!』
施設防衛隊は、足を負傷した隊員を二人がかりで抱え上げる。
坂上は最後尾へ入り、大型盾を敵の方向へ向けたまま後退した。
星之宮は拳銃で、樹脂の範囲から逃れた個体を撃ち続ける。
茶柱も散弾銃の再装填を終え、追ってくる戦車級へ散弾を浴びせて押し戻した。
しかし、樹脂は敵だけを止めるわけではない。
急速な硬化が始まり、通路の床そのものが白灰色の塊へ変わりつつあった。
撤退する人間の靴底にも粘液がまとわりつき、一歩ごとに足を引かれる。
真嶋が振り返って叫ぶ。
「走れ! 固まる前に隔壁を抜けろ!」
全員が、第二隔壁へ設けられた人間用の小型扉を目指して走り始めた。
完全硬化まで、残り七十秒。
その時、撤退経路の右側にある保守通路で、新しい反応が現れた。
第一作戦管制室で地下地図を見ていたひよりが、誰よりも早く変化へ気づく。
「敵は前方だけではありません」
坂柳有栖がすぐに尋ねた。
「数は分かりますか?」
「少なくとも五体です。教導隊の撤退経路へ、左側の保守通路から接近しています」
情報は直ちに教導隊回線へ送られた。
『次の交差点で、左側通路から戦車級が接近しています』
茶柱が走りながら応じる。
『別の回避経路は?』
『ありません。第二隔壁へ行くには、その交差点を通過する必要があります』
教導隊と施設防衛隊が交差点へ到達した時、
左側の通路から戦車級の群れが姿を現した。
敵は撤退経路を塞ぐように、狭い通路いっぱいへ広がっている。
前方には第二隔壁。
後方からは硬化を続ける絶縁樹脂と、そこから辛うじて逃れた戦車級が迫っていた。
完全硬化までの残り時間は、五十五秒。
坂上が最前列へ出た。
大型盾を両手で構え、通路を塞ぐ敵へ正面から向き合う。
「押し切る!」
茶柱が盾の横へ並び、散弾銃を構えた。
星之宮は拳銃を撃ち続け、
真嶋は負傷した防衛隊員へ肩を貸しながら交差点へ入る。
残る施設防衛隊員も、教導隊の背後から射撃へ加わった。
銃声が狭い通路へ激しく反響し、着弾による火花と白い煙が視界を覆う。
先頭の一体が止まった。
続いて二体目。
三体目も複数の銃弾を受け、通路の壁へ倒れ込む。
しかし、四体目の戦車級は射撃を受けながらも前進を止めず、
坂上が構える大型盾へ正面から激突した。
坂上の身体が大きく押し戻され、靴底が床を滑る。
「邪魔だ!」
その時、第二隔壁の外側から、聞き覚えのある声が響いた。
茶柱が驚いたように反応する。
『須藤?』
第二隔壁の外側では、須藤が工兵用の大型作業衝撃杭を抱えていた。
それは本来、崩れた瓦礫や変形した扉を破砕するための装備であり、
隔壁越しに通路内部へ杭を打ち出すことも想定されている。
須藤は小型扉へ向かって叫んだ。
「扉を開けろ!」
茶柱が怒鳴り返す。
『命令違反だ!お前たちは第三隔壁へ下がれと命じられたはずだ!』
「中に先生たちがいるだろ!」
須藤の隣には龍園もいた。
「説教なら、ここから出てから好きなだけしろ」
高円寺は、衝撃杭の制御盤と隔壁扉の作動状態を確認している。
「小型扉の完全開放には八秒かかる」
オレは、監視映像に映る教導隊と隔壁の距離を確認した。
交差点から第二隔壁までは約二十メートル。
教導隊の前には、まだ動ける戦車級が二体残っている。
背後からは、通路全体を覆う硬化樹脂が迫っていた。
残り時間は四十秒。
「扉を開ければ、戦車級も隔壁の外へ出る可能性がある」
第三隔壁側へ移動していた堀北の通信が入る。
『でも、開けなければ先生たちが間に合わない可能性があるわ』
短い検討の後、坂柳理事長が最終判断を下した。
「第二隔壁の小型扉開放を許可します」
茶柱が即座に反応する。
『司令官!』
「候補生は、隔壁の外側からのみ支援してください」
坂柳理事長は、許可と同時に明確な制限を加えた。
「隔壁内部へ入ることは禁止します」
須藤が答える。
「了解!」
小型扉がゆっくりと開き始める。
隙間が広がるにつれて、通路の向こうに坂上たちの姿が見えた。
しかし、教導隊と扉の間には、まだ二体の戦車級が残っている。
須藤は工兵用衝撃杭を小型扉の正面へ押し出した。
圧縮空気装置を起動する。
巨大な金属杭が凄まじい勢いで通路内へ突き出され、
先頭の戦車級へ正面から直撃した。
敵の身体は衝撃によって後方へ弾かれ、そのまま通路の壁へ強く押しつけられる。
龍園が装置の再充填を手伝いながら叫ぶ。
「もう一発だ!」
高円寺が通路内の敵の位置を見て、杭の角度を調整する。
「二射目は、右へ五度ずらしたまえ。真っ直ぐ撃てば、倒れた個体へ吸収される」
須藤は苛立ったように答えた。
「分かってる!」
圧縮装置の再充填が終わる。
二射目。
再び巨大な衝撃杭が扉の内側へ打ち出され、残る戦車級を大きく押し返した。
茶柱は生まれた射線へ散弾銃を向け、至近距離から射撃する。
散弾を受けた最後の個体が動きを止めた。
「今だ!」
教導隊と施設防衛隊が一斉に隔壁へ向かって走る。
最初に負傷した防衛隊員が小型扉を通過する。
その身体を支えていた真嶋が続いた。
次に星之宮。
坂上は大型盾を持ったまま扉を抜ける。
最後に茶柱が振り返りざまに散弾を撃ち込み、小型扉の外へ飛び出した。
扉は直ちに閉じられる。
残り十九秒。
隔壁の向こうでは、絶縁樹脂が交差点まで到達していた。
白灰色の粘液は急激に硬化し、
通路へ残されていた戦車級の身体を床や壁ごと固めていく。
侵入口を完全に封鎖したわけではない。
それでも、旧配線室から流れ込むBETAの速度を大幅に低下させることには成功した。
茶柱は息を整えるより先に、須藤の胸元を掴んだ。
「命令違反だ!」
須藤も激しく息を切らしている。
「でも、助かっただろ!」
「結果だけを見て、自分の行動を正当化するな!」
「じゃあ、先生たちを見捨てろってのか!」
「私たちは、自力でも撤退できた!」
「扉を抜けた時には、残り十九秒だったんだぞ!」
二人は互いに睨み合った。
茶柱の手から、僅かに力が抜ける。
須藤の言う通りだった。
候補生の支援がなくても、教導隊は第二隔壁へ間に合った可能性がある。
だが、戦車級に進路を阻まれ、負傷者を抱えた状態で、
樹脂が硬化する前に抜けられなかった可能性も同じだけ残っている。
高円寺が静かに口を開いた。
「茶柱ティーチャー」
「何だ」
「レッドヘアーくん一人の判断ではない」
茶柱が高円寺を見る。
「私とドラゴンボーイ、綾小路ボーイも、
外側から支援する必要があるという判断へ同意した」
龍園も答える。
「扉を開けろと言ったのは俺だ」
オレも続ける。
「残り時間と距離、敵の数を見て、外側からの支援が必要だと判断した」
須藤は三人を見た。
自分一人だけが責任を負うつもりだったのだろう。
第三隔壁側から、堀北の声も届く。
『私も、第二隔壁の開放へ賛成しました』
平田も続く。
『僕も同じ判断でした』
一之瀬の声も入る。
『私もです』
茶柱は、候補生たちの声を黙って聞いていた。
彼らは状況を確認せず、無計画な英雄行動へ走ったわけではない。
監視映像を確認し、残された時間と教導隊の位置を見た。
互いに意見を交わし、外側から支援するという一つの選択を作った。
最終的には、坂柳理事長も扉の開放を許可している。
一人の暴走ではない。
部隊全体で作り、司令官の承認を得た判断だった。
茶柱は須藤の胸元から手を離した。
「それでも、お前たち自身が扉の前へ立つ必要はなかった」
声の厳しさは変わらない。
龍園が鼻で笑う。
「工兵用の機材が、自分で勝手に動くとでも思ってんのか?」
「施設工兵へ任せればよかった」
「工兵は第三隔壁の閉鎖作業へ回されてた」
茶柱は言葉を止めた。
その状況は、彼女も理解している。
候補生たちは、あの瞬間に第二隔壁付近で衝撃杭を動かせる唯一の人員だった。
最善の方法ではなかったかもしれない。
それでも、他に即応できる者はいなかった。
茶柱はその場にいる候補生たちを見渡した。
「詳しい行動検証は後で行う」
そして、第三隔壁の方向を示す。
「今は全員、第三隔壁まで下がれ」
須藤は反発しなかった。
「了解」
自分たちの判断が、完全に正しかったとは思っていない。
それでも、あの場では必要な行動だったと考えているのだろう。
午前零時二十九分。
第三隔壁では、最後まで中央講堂地下へ残っていた生徒たちが、装甲扉を通過していた。
軽井沢と櫛田。
そして、避難中に足を痛めた女子生徒。
二人は女子生徒を左右から支え、隔壁の向こう側へ入る。
平田が人数を確認した。
「全員通過した!」
神崎も名簿と実人数を照合する。
「欠員なし!」
直後、第三隔壁の巨大な装甲扉が降下した。
厚い扉が床へ接触し、複数の機械式ロックが順番に作動する。
これによって、中央講堂地下と学生避難区画は完全に分断された。
候補生。
教師。
施設防衛隊。
全員が第三隔壁よりも学校側へ退避している。
第一隔壁と第二隔壁の内側には、戦車級、硬化した絶縁樹脂、
そして塞がれつつある侵入口だけが残された。
現時点では封鎖に成功している。
だが、戦いが終わったわけではない。
旧配線室のさらに下からは、より多くの地中振動が伝わっていた。
BETAは、樹脂で固められた侵入口を内側から押し広げようとしている。
坂柳理事長が命令を下した。
「中央講堂を放棄します」
中央講堂は、入学式、全校集会、
学校行事が行われてきた、高度育成衛士高等学校の象徴だった。
「地上から建物全体を封鎖してください」
さらに続ける。
「地下区画へ無人機を投入し、
BETA反応が増加した場合には、中央講堂の基礎ごと崩落させます」
副官が確認する。
「学生避難通路への影響は?」
「第三隔壁より学校側の地下構造へ補強材を設置してから実行します」
真嶋が必要な作業時間を計算する。
「最低でも二時間は必要です」
副官が尋ねる。
「絶縁樹脂の封鎖は、それまで持つと思いますか?」
「分からない」
真嶋は正直に答えた。
坂柳理事長は監視映像を見た。
硬化した樹脂に捕らえられた戦車級。
その奥にある侵入口。
さらに深い場所から聞こえる掘削音。
「教導隊は休んでください」
茶柱が反応する。
「まだ動けます」
「負傷者が出ています」
坂上は、盾へ加わった強い衝撃によって痛めた左腕を押さえていた。
星之宮の頬には、壁面の破片で生じた擦り傷がある。
真嶋の両手は、無理に弁を回したことで皮膚が裂け、血が滲んでいた。
茶柱自身も、強化装備の肩部を破損している。
「後続の警戒は、施設防衛隊へ任せます」
茶柱は候補生たちへ視線を向けた。
「候補生は?」
「避難区画へ戻します」
坂柳理事長の声は穏やかだった。
しかし、決定を変える余地はない。
「今夜、彼らは十分に働きました」
茶柱はそれ以上反論しなかった。
午前一時。
全校生徒は、地下の学生避難区画へ集められていた。
クラスごとにまとまり、壁際や床へ座っている。
しかし、眠っている者はほとんどいない。
学校の中心である中央講堂の地下へ、BETAが侵入した。
その事実を知り、平静を保てる者は少なかった。
Dクラスでは、池が戻ってきた須藤へ駆け寄る。
「先生たちは?」
「全員戻った」
「怪我は?」
「大きなものじゃねぇ」
池は、ようやく息を吐いた。
少し離れた場所では、軽井沢が平田の前へ立っている。
「戻ってきたね」
「うん」
平田は柔らかく微笑んだ。
「軽井沢さんも、無事でよかった」
軽井沢は僅かに目を見開いた。
周囲の生徒がいる場所で、平田から名前を呼ばれたことに驚いたのだろう。
「私は逃げてただけ」
「足を痛めた子を助けたと聞いたよ」
「櫛田さんも一緒だったし」
「それでも、軽井沢さんがいなければ避難はもっと遅れていた」
軽井沢は視線を逸らした。
「別に」
「ありがとう」
平田の言葉へ、軽井沢は返事をしなかった。
それでも、緊張していた肩から僅かに力が抜けていた。
Cクラスでは、ひよりが龍園へ地下地図を表示した端末を見せている。
「侵入口が作られた位置は、やはり不自然です」
龍園は面倒そうに答える。
「またその話か」
「中央講堂の真下です」
「見りゃ分かる」
「ですが、講堂には常時稼働している大型電力設備も、大きな熱源もありません」
龍園は端末の画面を見た。
「人が集まる場所だ」
「はい」
入学式。
全校集会。
数日前に行われた作戦説明。
中央講堂には、何度も多数の生徒や職員が集まっている。
石崎が不安そうに尋ねた。
「BETAは、人間そのものを追ってるってことですか?」
ひよりは首を横へ振る。
「まだ断定はできません」
伊吹も口を挟む。
「でも、BETAが地上へ出た時、講堂には誰もいなかったんでしょ?」
「だからこそ、現在の人間ではなく、
過去に残された何らかの痕跡を追っている可能性があります」
「匂いみたいなもの?」
「分かりません」
ひよりは端末上へ、可能性のある要素を書き出した。
振動。
熱。
呼吸によって排出される二酸化炭素。
微細な生体反応。
あるいは、それら複数の要素を重ねて、
人間が長時間集まった場所を判断しているのかもしれない。
龍園が低い声で言った。
「だったら、今いる避難区画も危ねぇな」
現在、全校生徒が一つの地下避難区画へ集中している。
もしBETAが人間の集団によって残される反応を感知できるのなら、
無人の中央講堂より、今いる避難区画の方が大きな標的になり得る。
ひよりの表情が変わった。
「司令部へ報告します」
第一作戦管制室では、坂柳有栖も同じ可能性へ気づいていた。
「避難区画を分散させるべきです」
父親である坂柳理事長へ提案する。
「全校生徒を一か所へ集め続けるのは危険です」
副官が反論した。
「地上区画の安全は、まだ確認できていません」
「全員を地上へ出す必要はありません」
坂柳は、人工島地下の防護区画を表示した。
西部地下区画。
北西医療区画。
軍港地下倉庫。
寮棟地下区画。
人工島には、複数の防護施設が存在している。
「全校生徒を四つの群へ分け、それぞれ別の防護区画へ移動させます」
「移動中にBETAの侵入が発生する危険もある」
「現在の区画が直接狙われた場合は、全校生徒が同時に危険へ晒されます」
坂柳理事長は娘を見る。
「根拠は?」
「中央講堂です」
坂柳有栖は答えた。
「BETAは現在の熱源ではなく、多数の人間が集まった痕跡を追った可能性があります」
ほぼ同じ時刻に、ひよりからも同様の報告が届いた。
二人が別々に分析し、ほぼ同じ結論へ到達している。
「仮説です」
坂柳有栖は認める。
「ですが、危険を承知した上で、一か所へ集め続ける理由もありません」
坂柳理事長は地下地図を見た。
生徒を分散させる場合の移動経路。
各群へ配置できる護衛。
地下通路の状態。
残存するBETA反応。
短い検討の後、決断する。
「全校生徒を四群へ分けて移動させます」
続けて具体的な配置を命じた。
「各群へ教師一名と、候補生予備隊を二名以上配置してください」
茶柱が反応する。
「教導隊には、休息命令が出ていたはずです」
「撤回します」
坂柳理事長は、僅かに苦しそうな表情を見せた。
「申し訳ありません」
茶柱は首を横へ振る。
「命令をください」
午前一時十五分。
全校生徒の再移動が始まった。
一つの避難区画へ集まっていた生徒を、四つの区域へ分散する。
Aクラスを中心とした第一群は西部地下区画。
Bクラスを中心とした第二群は北西医療区画。
Cクラスを中心とした第三群は軍港地下区画。
Dクラスを中心とした第四群は寮棟地下の別区画へ向かう。
完全にクラス単位で分けられたわけではない。
各区画の収容能力、負傷者の数、医療設備、護衛要員を考慮して調整されている。
平田と軽井沢はDクラス側へ配置された。
一之瀬と神崎はBクラス中心の群。
龍園とひよりはCクラス中心の群を担当する。
堀北とオレは、A群とD群が分岐する連絡区画へ配置された。
高円寺と須藤は中央物資搬送路へ回される。
坂柳有栖は司令部へ残り、四群の位置と地下反応を監視する。
再び長い避難列が作られた。
しかし、生徒たちは最初の避難時よりも落ち着いていた。
一度、地下避難の手順を経験している。
何より、中央講堂地下へ残った候補生と教師が全員戻ってきたことを知っている。
恐怖が消えたわけではない。
それでも、どこへ向かい、どう動けばいいのかは理解できていた。
移動途中、床が僅かに揺れた。
列全体の足が止まりかける。
平田が大きな声を出した。
「大丈夫! 立ち止まらないで、そのまま歩いて!」
軽井沢も続く。
「前だけ見て!後ろを振り返らないで!」
櫛田は不安そうな生徒へ、優しく声をかけた。
「ゆっくりで大丈夫だから、歩き続けよう!」
避難を動かしているのは教師だけではない。
生徒が生徒へ声をかけ、恐怖で止まりそうになる仲間を前へ進ませている。
中央物資搬送路では、自動牽引装置が故障した輸送車両を、
須藤と高円寺が後方から押していた。
須藤は額から汗を流しながら叫ぶ。
「重すぎるだろ、これ!」
高円寺は呼吸を乱していない。
「君は、体力自慢ではなかったのかな?」
「お前も押せ!」
「押しているよ」
「もっと力を入れろ!」
高円寺が僅かに押す力を増した。
それまで動かなかった車両が、重い金属音を響かせながらゆっくりと前進する。
須藤が驚いた。
「最初からやれ!」
「床の傾斜と君の力が最も効率よく重なる時期を待っていただけさ」
C群では、ひよりが歩きながら端末を確認していた。
龍園が注意する。
「今は資料を閉じろ」
「ですが、地下反応が変化する可能性があります」
「画面を見ながら歩いて転んだら、分析どころじゃねぇ」
ひよりは端末を閉じた。
「分かりました」
伊吹が横から言う。
「龍園に心配されてるね」
ひよりは小さく笑った。
「そうですね」
龍園が二人を睨む。
「余計なことを言うな」
石崎は列の後方へ向かって声をかけている。
「もう少しっす! みんな、焦らず進んでください!」
アルベルトは大型の医療機材を一人で抱え、
歩みが遅れている生徒の速度へ合わせていた。
Cクラスも、龍園一人の命令だけで動いているわけではない。
全員が、自分にできる役割を探していた。
午前一時四十七分。
全校生徒の分散移動が完了した。
欠員はない。
新たな負傷者も出ていない。
中央講堂地下では、絶縁樹脂による封鎖が維持されていた。
しかし、侵入口周辺の圧力は上昇を続けている。
地上では、中央講堂そのものを崩落させる準備が進められていた。
無人重機が、第三隔壁より学校側の地下構造へ補強材を設置する。
中央講堂周辺は完全な立入禁止区域となり、
第十二機動防衛群シールドの戦術機が建物を包囲していた。
仮に大型種が地表へ出た場合には、戦術機部隊が講堂ごと破壊する。
午前二時二十分。
地下補強作業が完了した。
崩落用の爆薬も、中央講堂の基礎部分へ設置されている。
建物の中には、既に誰もいない。
壇上。
整然と並べられた椅子。
学校の校旗。
入学式で使用された演台。
坂柳理事長が、新入生へ初めて語りかけた場所。
全校生徒の拍手が響いた空間。
すべてが、避難させられることなくそのまま残されていた。
監視映像越しに、坂柳理事長は無人となった講堂内部を見つめる。
副官が尋ねた。
「私物や記録品の回収を行いますか?」
「行いません」
「せめて校旗だけでも」
「人を戻さないでください」
即答だった。
中央講堂は、高度育成衛士高等学校の象徴だった。
しかし、どれほど大切な象徴であっても、人命より優先されることはない。
真嶋から報告が入る。
『爆破準備が完了しました』
坂柳理事長が尋ねる。
「地下侵入口の状態は?」
『絶縁樹脂による封鎖が、限界へ近づいています』
監視映像では、硬化した樹脂へ複数の亀裂が走っていた。
その奥では、戦車級が身体を押しつけ、封鎖を破ろうとしている。
さらに深い場所には、これまでよりも大きな影が動いている。
侵入口そのものも、地下から少しずつ広げられていた。
現時点では要撃級が通れる幅ではない。
だが、時間の問題だった。
坂柳理事長は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
再び目を開く。
「中央講堂を放棄します」
静かな声だった。
「爆破してください」
起爆信号が送られた。
最初に、地下の基礎支柱へ設置された爆薬が作動する。
続いて床面下へ埋め込まれた複数の爆薬が起爆した。
地面が内側から大きく持ち上がり、講堂の床へ太い亀裂が走る。
固定されていなかった椅子が跳ね上がり、壇上が大きく傾いた。
天井から照明器具が落下し、床へ叩きつけられる。
さらに次の爆発が起きる。
講堂中央部が大きく沈み込んだ。
巨大な建物全体が、外側へ吹き飛ぶのではなく、内側へ向かって崩れ始める。
屋根。
外壁。
鉄骨。
窓ガラス。
校旗。
演台。
そこで積み重ねられてきた学校の記憶と共に、すべてが濃い粉塵へ飲み込まれていく。
巨大な火柱が立ち上がるような派手な爆発ではなかった。
重く、ゆっくりと、建物が持つ数千トンもの質量そのものが地下へ沈んでいく。
南部格納庫を破壊した時とは異なる。
爆炎の力ではなく、膨大なコンクリートと鉄骨の重量によって、地下構造を押し潰していく。
崩落した中央講堂は、旧配線室、第一隔壁、硬化した絶縁樹脂、
侵入口、そして内部へ残されていたBETAをまとめて地下へ押し込んだ。
人工島全体へ、重い振動が伝わる。
四つの避難区画に分散した生徒たちも、その揺れを感じた。
誰も詳しい説明を聞いていない。
それでも、何が起きたのかは理解できた。
中央講堂。
学校の中心が、失われた。
やがて崩壊が収まった。
地上に残ったのは、粉塵へ覆われた巨大な瓦礫の山と、
建物が存在していた場所へ生まれた深い窪地だった。
地下のBETA反応は、急激に減少している。
残されている反応は、さらに深い場所にあるものだけだった。
地表へつながっていた経路は、完全に封鎖された。
管制官が報告する。
「中央侵入口の閉鎖を確認しました」
続いて別の報告。
「講堂地下のBETA反応は、九割以上停止しています」
第一作戦管制室へ安堵が広がった。
だが、歓声を上げる者はいない。
坂柳理事長は、瓦礫へ変わった講堂を見つめていた。
娘の坂柳有栖が、隣へ立つ。
「入学式を行う場所が、なくなりましたね」
有栖が静かに言った。
「ええ」
「卒業式も、あの講堂で行う予定だったのですか?」
坂柳理事長は少しだけ笑った。
「そのつもりでした」
有栖は瓦礫から目を離さない。
「では、新しく作らなければなりませんね」
父親が娘を見る。
「全員が卒業するための場所を」
坂柳理事長の表情が、僅かに和らいだ。
「そうですね」
午前三時。
人工島全体へ出されていた警報は、一度解除された。
ただし、全校生徒を四つの防護区画へ分散した状態は継続される。
地上へ戻るのは、周辺の安全が改めて確認される朝以降となった。
候補生予備隊は、第一作戦管制室へ集められていた。
茶柱たち教導隊もいる。
第二隔壁で負傷した施設防衛隊員は、既に医療区画へ運ばれていた。
脚部の裂傷と肩部の打撲を負っているが、命に別状はない。
戦死者はゼロ。
ただし、中央講堂は失われた。
茶柱が候補生たちへ告げた。
「本日の行動検証は、明日行う」
須藤が尋ねる。
「説教も明日か?」
「覚悟しておけ」
「了解」
須藤は逃げようとはしなかった。
高円寺が口を開く。
「私も検証対象になるのかな?」
「当然だ」
「第二隔壁の開放は、司令官が許可したはずだよ」
「その許可が出る前に、工兵用機材を勝手に持ち出したのはお前たちだ」
龍園が笑う。
「結果として助かったんだから、いいだろ」
茶柱が龍園を睨む。
「お前は特に厳しく検証する」
「好きにしろ」
堀北が茶柱へ尋ねた。
「中央講堂は、完全に失われたのですか?」
「再建には長い時間がかかる」
「そうですか」
堀北の声には、僅かな寂しさが混じっていた。
入学式。
坂柳理事長の演説。
この学校へ入って、最初に聞いた言葉。
建物は失われた。
しかし、そこで聞いた言葉まで消えたわけではない。
平田が静かに言った。
「また作れます」
全員が平田を見る。
「坂柳理事長も、南部格納庫を失った時に言っていました」
施設は、また建てられる。
平田は続ける。
「だから、僕たちが卒業する頃までに、新しい講堂を作ればいい」
須藤が笑った。
「卒業できればな」
堀北が睨む。
「縁起でもないことを言わないで」
須藤は肩をすくめた。
「でも作るなら、前より大きい方がいいだろ」
龍園が言う。
「無駄だ」
須藤が反発する。
「何でだよ」
「卒業する頃には、人数が減ってるかもしれねぇ」
一之瀬の表情が曇る。
神崎が龍園を睨んだ。
「今、言うことか?」
龍園は、その場にいる全員を見た。
「だから、減らさねぇようにするんだろ」
言葉は冷たく聞こえた。
だが、その意味は違っていた。
「ここまで来て、建物だけ残って、人間が消えてたら笑えねぇ」
ひよりが小さく頷いた。
「そうですね」
高円寺も口を開く。
「少なくとも、私が卒業する場所は必要だ」
須藤が呆れる。
「結局、自分のためかよ」
高円寺は自然な口調で返した。
「私が卒業する時に、君たちも残っていればいい」
須藤が少し驚いたように高円寺を見る。
「それ、俺たちの心配をしてんのか?」
「都合よく受け取って構わないよ」
候補生たちの間に、小さな笑いが起きた。
深夜の警報。
地下通路での戦闘。
中央講堂の崩壊。
それでも、全員が生きている。
まだ笑う余裕が残されている。
それは確かな、小さな勝利だった。
朝。
人工島へ朝日が昇る。
中央講堂が存在していた場所には、巨大な瓦礫の山が残されていた。
粉塵はまだ完全には収まっていない。
学校の校旗も、崩れた壇上や演台と共に瓦礫の下へ埋まっている。
しかし、校舎と学生寮は立っている。
戦術機格納庫も残っている。
人工島外周の防壁も失われていない。
そして何より、生徒たちが残っている。
坂柳理事長は、崩れた中央講堂の前へ一人で立っていた。
そこへ茶柱が歩いてくる。
「休まなくてよろしいのですか?」
坂柳理事長が振り返る。
「茶柱先生こそ」
「私は慣れています」
「私も、司令官の仕事には慣れているつもりです」
二人は並び、瓦礫を見た。
茶柱が報告する。
「候補生たちは全員無事です」
「そうですか」
坂柳理事長は、僅かに安堵した。
茶柱は続ける。
「中央を狙われました」
北部。
南部。
そして中央。
坂柳理事長が頷く。
「ええ」
「次は西か東でしょうか」
坂柳理事長は、瓦礫の向こうに広がる東京湾へ視線を移した。
「あるいは、同時かもしれません」
茶柱は拳を握った。
「いつまで、守り続ければいいのでしょう」
守る。
塞ぐ。
崩す。
一つの侵入口を閉じれば、BETAは別の道を作る。
人類はその道を発見し、再び塞ぐ。
終わりが見えない攻防だった。
坂柳理事長は静かに答えた。
「守るだけでは、終わりません」
茶柱が隣を見る。
「鳳翼作戦は封鎖作戦です」
「ですが、封鎖だけを続けても、東京ハイヴは成長を止めません」
「では、どうするのですか?」
坂柳理事長の声が、静かに強くなる。
「次の段階へ進みます」
端末へ、東京湾地下構造の地図が表示される。
まだ完成していない東京ハイヴ。
成長を続ける縦坑。
人工島と東京湾岸へ伸びる複数の侵入経路。
茶柱が尋ねた。
「内部へ入るのですか?」
「まずは調査部隊を投入します」
「危険です」
「承知しています」
「本格的な攻略作戦には、まだ早すぎます」
「攻略ではありません」
坂柳理事長は、瓦礫となった中央講堂を見た。
「ですが、敵の中心がどこにあり、何が動いているのかを知らなければ」
声は穏やかだった。
それでも、決意は揺らいでいない。
「我々は、守る場所を一つずつ失い続けることになります」
南部格納庫。
中央講堂。
次は、どこを失うのか。
学校。
東京。
そして、人類そのもの。
地上で待っているだけでは、少しずつ奪われ続ける。
「地下偵察作戦を立案します」
茶柱の表情が険しくなる。
「作戦名は?」
坂柳理事長は、しばらく考えた。
鳳翼作戦。
鳳凰の翼を広げ、敵を封じ込めるための作戦。
その次に必要なのは、暗い地下へ人類側から光を入れることだった。
「暁光作戦」
夜明けの光。
人類が未知の地下へ、初めて自ら踏み込むための名。
「東京ハイヴ内部へ、無人探査隊を投入します」
茶柱が尋ねる。
「護衛は?」
「教導隊とサムライ大隊から選抜します」
茶柱は何も言わなかった。
自分も選抜されるだろうと分かっている。
「候補生は?」
「参加させません」
坂柳理事長は明確に答えた。
「今回こそ、大人たちの仕事です」
茶柱は小さく息を吐いた。
「そうなることを願います」
中央講堂の瓦礫へ朝日が差し込み、地面へ長い影を落としていた。
その地下。
崩落した侵入口のさらに奥では、複数の戦車級が瓦礫を掘り返している。
しかし、地上へ戻ろうとしているわけではない。
塞がれた経路を捨て、別の方向へ移動していた。
東京ハイヴの深部へ。
その動きと入れ替わるように、さらに大きな反応が地下から上昇を始める。
今度の進路は、人工島ではなかった。
お台場方面。
東京湾岸。
高層建築群。
まだ避難途中の民間人が残されている場所。
人類が高度育成衛士高等学校を守ることへ戦力と注意を集中させている間に。
東京ハイヴは初めて、その腕を。
学校の外へ伸ばそうとしていた。