天衝作戦の終了から、三時間が経過していた。
午前九時三十分。
高度育成衛士高等学校の西部格納庫には、
東京湾各地から帰還した戦術機が隙間なく並べられている。
不知火、陽炎、撃震、吹雪、そしてオレの武御雷。
装甲の一部を失った機体や、片腕を切り離した機体、
脚部を牽引されながら戻った機体もあった。
白い整備灯に照らされた機体表面には、砲撃による焦げ跡、
地下の泥、中枢内部で付着した有機液の変色が残されている。
どの傷も、東京ハイヴ攻略戦を生き延びた証だった。
戦闘が終わった後も、格納庫の動きは止まらない。
整備員たちは反応炉を停止させ、機体に残された弾薬を抜き取り、
破損した管制ユニットを一つずつ開放していた。
医療班は搭乗者を順番に検査し、自力で歩けない衛士を担架で運んでいる。
帰還した機体が揃ってからでなければ始められない作業も多く、
格納庫は戦闘中と変わらないほど慌ただしかった。
それでも、空気は違う。
整備員の足音にも、医療班の指示にも、
通信機から流れる声にも、これまでにはなかった安堵が混じっている。
東京ハイヴ中枢の活動は完全に停止した。
東京湾地下に残されたBETAの大部分も、
中枢からの統制を失ったことで急速に活動を弱めている。
正規軍は残存個体の掃討と地下空間の封鎖を続けているが、
人工島やお台場方面へ向かう大規模な反応は確認されていなかった。
少なくとも、数時間以内に再び総力戦が始まる可能性はない。
それだけでも、これまでとは大きく違っていた。
オレは医療区画での検査を終え、西部格納庫の端に立っていた。
強化装備はすでに外している。
左腕には固定具が巻かれていたが、骨折ではなかった。
中枢内部から脱出する際、
高円寺機に受け止められた衝撃で筋肉と関節へ負荷がかかっただけらしい。
数日安静にすれば回復する。
医療班からはそう説明された。
だが、格納庫の一角に並ぶ四つの空いた支持架を見ていると、
自分の負傷は取るに足らないものに思えた。
橋本正義。
軽井沢恵。
神崎隆二。
神室真澄。
四人の機体は戻らなかった。
橋本機は浅層防衛線で光線級の照射を受け、
その後の崩落によって正確な位置を失っている。
軽井沢機は地下部隊の帰還路を守った末、
断界作戦によって生じた深い亀裂へ落下した。
神崎機は軌道支援の誘導信号を最後まで維持し、
中枢へ攻撃が直撃した瞬間に反応を失った。
神室機は中枢基部の近くで自爆し、
脱出ユニットも爆煙と海水の中へ消えている。
救難部隊による捜索は続けられていた。
だが、誰も簡単に「きっと戻る」とは言わなかった。
希望を持つことと、現実から目を逸らすことは違う。
平田は軽井沢機が収まるはずだった支持架の前に立っていた。
すでに制服へ着替えているが、顔色は悪く、目元には強い疲労が残っている。
少し離れた場所では、一之瀬が神崎の支持架を見つめていた。
その周囲には柴田や網倉たち、一之瀬クラスの生徒が静かに集まっている。
坂柳有栖は橋本の場所にいた。
いつもと同じように杖を持ち、背筋を伸ばしている。
表情も大きく崩してはいない。
ただし、普段なら橋本とともに近くへ立っていた神室も、今はいない。
伊吹は神室の支持架の前から動かなかった。
石崎とアルベルトが数歩後ろに立ち、何も言わずに彼女のそばへ残っている。
何を言えばいいのか分からない。
それでも、一人にはしない。
その選択だけは、全員ができるようになっていた。
堀北がオレの隣へ来た。
彼女も強化装備を脱ぎ、制服へ戻っている。
左肩には小さな包帯が巻かれていた。
「検査は終わったの?」
「ああ」
「左腕は大丈夫?」
「数日で元に戻るらしい」
「そう」
堀北はそれ以上、怪我について尋ねなかった。
オレと同じように、四つの空いた支持架へ視線を向ける。
「作戦成功の正式発表は、正午に行われるそうよ」
「そうか」
「東京防衛軍と統合司令部が、残存反応を最終確認している」
「ああ」
堀北はしばらく黙った後、小さな声で尋ねた。
「喜んでいいのかしら」
「勝ったことをか」
「ええ」
オレはすぐには答えられなかった。
ホワイトルームであれば、結果だけを見ればよかった。
目的は達成された。
東京ハイヴ中枢は破壊された。
敵の大規模戦力は壊滅した。
戦略的には明確な勝利。
犠牲者数は数字として記録され、それ以上の意味を持たない。
だが、今は違う。
橋本も、軽井沢も、神崎も、神室も、数字ではない。
声を知っている。
行動を知っている。
最後に何を選んだのかも知っている。
「喜んでもいいと思う」
堀北がこちらを見る。
「失ったことを忘れないなら」
堀北はしばらく考えた。
「喜びと悲しみを、両方抱えるのね」
「たぶん、そういうことだ」
勝ったことを否定すれば、四人が作った結果まで否定することになる。
失ったことを忘れれば、その勝利は別のものになる。
片方だけを選ぶ必要はない。
堀北は小さく頷いた。
「以前の綾小路くんなら、そうは言わなかったでしょうね」
「そうかもしれない」
「変わったわ」
「お前もな」
堀北は僅かに笑った。
「それは知ってる」
午前十時。
第一作戦会議室では、天衝作戦の最終報告が行われていた。
坂柳理事長。
茶柱。
坂上。
星之宮。
真嶋。
サムライ3。
北・南迎撃隊の指揮官。
統合司令部の参謀。
候補生からは、オレ、堀北、龍園、高円寺、平田、一之瀬、
伊吹、坂柳、七瀬、宝泉、天沢、八神が出席している。
全員に疲労が残っていた。
それでも、作戦の結果と損失を確認しなければ、戦いを終わらせることはできない。
正面スクリーンには、東京湾周辺の地図が表示されていた。
赤いBETA反応はまだ残っている。
ただし、どれも小さく、互いに連動していない。
正規軍が包囲し、順番に排除を進めている。
東京ハイヴ深部には中枢反応がなく、新しい掘削活動も確認されていない。
浅層の活動も、ほとんど停止していた。
統合司令部の参謀が報告する。
「東京ハイヴ中枢構造体の完全破壊を確認しました」
「東京湾地下に残るBETA反応は、
作戦開始前の三パーセント以下まで低下しています」
「現在残っている個体は、中枢による統制を失った孤立群と判断されます」
参謀は一度言葉を止めた。
「東京湾岸に展開していた大規模BETA戦力は、事実上壊滅しました」
会議室から歓声は上がらなかった。
しかし、誰もが長く息を吐き、張りつめていた肩の力を僅かに抜いた。
ようやく。
本当に。
終わったと考えられるだけの情報が揃った。
坂柳理事長が尋ねる。
「地下空間の安全確認は、どこまで進んでいますか」
「完全ではありません」
参謀が答える。
「崩落危険区域が多く、残存BETAが潜伏している可能性もあります。
東京ハイヴ跡への本格調査は、少なくとも数週間後になるでしょう」
「人工島とお台場の避難解除は?」
「安全が確認された区域から、段階的に行います」
すぐには帰れない。
道路も、橋も、港も、地下施設も壊れている。
それでも、「戻れるかもしれない」という未来が生まれた。
これまでは守ることしかできなかった。
逃げる。
耐える。
道を閉じる。
それだけだった。
今は違う。
復旧する。
再建する。
人を戻す。
そうした言葉を使える。
坂柳理事長は会議室全体を見渡した。
「天衝作戦における人員損失を報告します」
室内の空気が再び重くなる。
正規軍戦死者、二十七名。
重傷者、六十四名。
行方不明者、十一名。
候補生については、現時点で四名を戦死として記録する。
橋本正義。
軽井沢恵。
神崎隆二。
神室真澄。
四人の名前がスクリーンに並んだ。
平田は目を逸らさなかった。
一之瀬も。
坂柳も。
伊吹も。
全員が正面から名前を見る。
坂柳理事長は続けた。
「四名の正式な戦死認定については、
救難部隊の捜索終了まで保留すべきだという意見もあります」
平田の指先が僅かに動く。
「しかし、確認されている状況を踏まえ、作戦記録上は戦死として扱います」
厳しい判断だった。
曖昧なままにすれば、人はいつまでも待ち続ける。
だが、諦めることとも違う。
「これは、捜索を打ち切るという意味ではありません」
平田。
一之瀬。
坂柳。
伊吹。
四人が僅かに顔を上げる。
「僅かでも可能性がある限り、救難部隊は捜索を継続します」
絶対に見つかるとは言わない。
根拠のない希望も与えない。
それでも、探す。
今できる限りのことを続ける。
茶柱が戦闘記録を確認しながら尋ねた。
「候補生部隊の評価は?」
参謀が答える。
「当初の想定を大幅に上回りました」
「地下救援、中層撤退、浅層防衛、中枢誘導、内部破壊。
どの局面でも、候補生部隊の働きがなければ作戦成功は困難だったと判断します」
龍園が腕を組んだまま言う。
「なら、最初から候補生を正式戦力に入れておけば良かったって話か?」
参謀が眉を寄せる。
「それは結果論だ」
「そうかよ」
龍園はそれ以上追及しなかった。
坂柳理事長が静かに口を開く。
「候補生を戦場へ投入した判断が、正しかったとは言い切れません」
全員が理事長を見る。
「必要でした。そして彼らは、その任務を果たしました」
「ですが、必要だったから正しい。成功したから正しい。
それほど単純な話ではありません」
教師である茶柱たち。
司令官である坂柳理事長。
生徒を戦場へ送った者たち。
その判断は、勝利によって消えるものではない。
「我々は、これからもこの判断を検証し続けます」
「二度と、同じ状況を作らないために」
成功したからすべて正しいわけではない。
犠牲が出たからすべて間違いだったわけでもない。
簡単な答えは出ない。
だから、忘れずに考え続ける。
それもまた、戻った者たちの役割だった。
会議終了後。
廊下へ出た龍園は、先を歩いていた宝泉を呼び止めた。
「宝泉」
宝泉が面倒そうに振り返る。
「何だ」
「中枢内部では、よく命令を守ったな」
宝泉の眉が動く。
「喧嘩売ってんのか」
「褒めてる」
「お前に褒められても嬉しくねぇ」
以前にも似たやり取りがあった。
だが、今回の龍園は笑わなかった。
「七瀬の位置を見てた」
宝泉の表情が変わる。
「当たり前だ」
「前は見てなかった」
「一度言われりゃ分かる」
龍園は僅かに口元を上げる。
「一度じゃなかった気がするがな」
「うるせぇ」
そこへ七瀬が来る。
「宝泉くん」
「何だ」
「茶柱先生から、内部破壊隊は医療区画で再検査を受けるようにと言われています」
「もう検査した」
「中枢内部へ入った方は全員、もう一度です」
「面倒くせぇ」
宝泉は文句を言う。
それでも歩き始める。
龍園が顎で医療区画の方向を示した。
「行け」
「命令すんな」
七瀬が言う。
「では、私からのお願いです」
宝泉は七瀬を見る。
「お前、最近遠慮がなくなったな」
「戦場で学びました」
龍園が小さく笑う。
「何笑ってんだ」
「少しは使えるようになったと思ってな」
「駒扱いすんな」
三人は医療区画へ向かって歩いていく。
宝泉は先頭にいる。
だが、その歩幅は七瀬に合わせられていた。
午前十一時。
西部軍港では、残存BETAの掃討へ向かっていた正規軍機が、
最後の帰還を始めていた。
海上の煙は薄くなり、
中枢があった場所には無人探査船と大型作業艦が集まっている。
高円寺機も格納庫へ運び込まれた。
左跳躍ユニットを失い、左脚部出力も大きく低下している。
爆薬二基を中核まで運んだ機体は、全身に有機液の腐食跡と亀裂を残していた。
医療検査を終えた高円寺は、自分の吹雪を見上げている。
「美しくないねぇ」
隣にいた須藤が呆れる。
「お前が自分で壊したんだろ」
「任務のためだ」
「なら、格好いいじゃねぇか」
高円寺が須藤を見る。
「君が私の美的判断へ口を出すとはね」
「壊れてても戻ってきた。それで十分だろ」
高円寺は改めて自分の機体を見上げた。
外装は焼け。
左脚は動かず。
全身に傷が残っている。
それでも爆薬を運び。
オレを受け止め。
最後まで戻ってきた。
「確かに」
高円寺は静かに答えた。
「今回は悪くない」
須藤が笑う。
「素直じゃねぇな」
「君に言われる筋合いはない」
二人が言い合っていると、整備足場の上から真嶋が怒鳴った。
「機体の前で騒ぐな!」
須藤が上を見上げる。
「先生、直るのか?」
真嶋は損傷箇所を確認しながら答えた。
「時間はかかる」
「でも直るんだな?」
「直す」
迷いのない答え。
高円寺は当然のように頷く。
「当然だね」
「修理費はお前に請求する」
「学校負担にしたまえ」
須藤が顔をしかめる。
「やっぱり可愛くねぇ」
少し離れた場所で、星之宮が笑った。
坂上も僅かに表情を緩めている。
茶柱は呆れた顔で見ていたが、止めようとはしなかった。
格納庫に笑い声が戻っている。
それ自体が。
あまりにも久しぶりだった。
正午。
高度育成衛士高等学校の全校放送が始まった。
避難区画。
医療棟。
格納庫。
軍港。
海上艦隊。
東京湾岸各地の拠点。
すべてへ、坂柳理事長の声が届く。
「高度育成衛士高等学校の皆さん」
「東京防衛軍、統合司令部、そして東京湾岸で戦ったすべての皆さんへ」
画面には、東京湾周辺の地図が映し出されている。
中枢反応はない。
残存BETAは掃討中。
新たな掘削反応も確認されていない。
「本日午前六時十三分、東京ハイヴ中枢構造体の活動停止を確認しました」
「その後の調査によって、中枢の再起動反応がないこと、
東京湾地下の大規模BETA反応が消失したこと、
残存個体が統制を失っていることを確認しています」
坂柳理事長は一度言葉を止めた。
「これをもって」
「東京ハイヴは、攻略されたものと判断します」
誰もすぐには反応できなかった。
あまりにも長く、その言葉を待ち続けていた。
守る。
逃げる。
耐える。
失う。
それを何度も繰り返した末に。
ようやく。
攻略した。
東京ハイヴは消えた。
最初に歓声を上げたのは、避難区画にいた一人の子どもだった。
それに続いて、別の子どもが声を上げる。
大人たち。
整備員。
正規軍の兵士。
候補生。
歓声と拍手が次々と広がっていく。
泣きながら抱き合う者。
その場へ膝をつく者。
何も言えず、天井を見上げる者。
東京湾の艦艇が汽笛を鳴らした。
一隻。
二隻。
やがて、海上に残るすべての艦から低い音が響き、東京湾全体へ広がっていく。
格納庫では、帰還した戦術機の機体灯が勝利信号を点滅させた。
人工島全体が、初めて純粋な歓声に包まれる。
だが、坂柳理事長はその歓声が少し落ち着くのを待った。
「この勝利を、我々だけのものとは考えません」
歓声が静かになる。
「帰還できなかった者がいます」
「橋本正義くん」
「軽井沢恵さん」
「神崎隆二くん」
「神室真澄さん」
四人の名前が、全校へ響く。
「そして正規軍、海上艦隊、航空隊、整備班、救難部隊でも、
多くの方が東京を守るために命を落としました」
「我々が今日、東京奪還と呼べる日を迎えられたのは、
彼らが最後まで自分の役割を果たしたからです」
「通信を守った者」
「帰還路を開いた者」
「誘導信号を通した者」
「中枢の倒壊方向を変えた者」
橋本。
軽井沢。
神崎。
神室。
「戦場では、大きな攻撃だけが勝利を作るわけではありません」
「誰かが見えない場所を見て、誰かが帰る道を守り、誰かが次の者へ役割を渡す」
「その積み重ねが、東京ハイヴ中枢を破壊しました」
平田と佐藤と松下は軽井沢の支持架前で放送を聞いていた。
一之瀬は神崎の場所。
坂柳は橋本。
伊吹は神室。
それぞれが、戻らなかった者のいた場所に立っている。
坂柳理事長は続けた。
「今日から東京は、戦場ではなく、帰る場所へ戻っていきます」
「すぐに元通りにはなりません」
「街は壊れ、道路も港も学校も、多くのものを失いました」
「ですが、再建することはできます」
「人がいる限り、何度でも」
叫ぶような演説ではない。
それでも、声には確かな力があった。
「我々は東京を取り戻しました」
「今度は東京を、生きられる場所へ戻します」
「これより高度育成衛士高等学校は、
戦時特別体制を解除し、復旧・救援体制へ移行します」
衛士候補生たちは、今度は瓦礫を片づけ、人を戻し、街を直す側へ回る。
「戦いは終わりました」
「そして、これから生活が始まります」
放送が終わる。
拍手が再び起こった。
先ほどよりも静かで、長い拍手だった。
午後一時。
西部格納庫中央では、簡易追悼式が行われた。
正式な合同慰霊式は後日。
今日は、候補生と教師、正規軍の一部だけが集まっている。
四つの空いた支持架の前に、小さな机が並べられた。
写真。
名前。
戦術機部隊章。
橋本正義。
軽井沢恵。
神崎隆二。
神室真澄。
最初に坂柳有栖が前へ出た。
橋本の写真は、少し軽い笑みを浮かべている。
坂柳はしばらく何も言わなかった。
周囲も静かに待つ。
やがて。
「あなたは、最後まで軽い方でしたね」
普段の坂柳らしい言葉だった。
だが、声は僅かに揺れている。
「ですが、あなたが守った通信は、決して軽いものではありませんでした」
橋本は最後まで通信を維持した。
その通信が神室を動かし。
地下部隊の位置を地上へ伝えた。
「私はあなたを、便利な方だと思っていました」
「どこへでも入り、誰とでも話し、必要な情報を持ち帰る」
「それがあなたの役割だと」
坂柳は一度言葉を止める。
「ですが、あなたは役割だけではありませんでした」
杖を持つ手へ、僅かに力が入る。
「もう少し、あなた自身を見ておけばよかった」
そして、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
次に平田が軽井沢の前へ立つ。
写真を見つめる。
何度か口を開こうとするが、言葉が出ない。
誰も急かさない。
長い沈黙の後。
「軽井沢さん……」
名前を呼んだだけで、声が詰まった。
平田は一度目を閉じ、呼吸を整える。
「僕は、ずっと誰かを守りたいと思っていた」
「でも、最後は君に守られた」
軽井沢が開いた道。
光線級へ撃った百二十ミリ。
最後まで守った帰還路。
「君が道を空けたから、僕たちは戻れた」
「僕は君を助けられなかった」
平田の声が震える。
「それでも、君が最後に言った言葉を忘れない」
戻ってきてくれて、よかった。
「戻ってきたよ」
涙が落ちる。
平田は隠そうとしなかった。
「ありがとう」
軽井沢の写真へ、長く頭を下げる。
平田がゆっくりと場所を譲ると、
少し離れたところに立っていた佐藤と松下が前へ出た。
二人とも、ここへ来るまで何度も泣いたはずだった。
それでも、軽井沢の写真を正面から見た瞬間、
抑えていたものが再び込み上げてくる。
佐藤は胸元で両手を握りしめた。
何かを言おうと口を開く。
だが、最初は声にならなかった。
「軽井沢さん……」
ようやく呼べた名前は、ひどく震えていた。
写真の中では、軽井沢がいつものように笑っている。
少し強気で。
誰よりも自分を可愛く見せようとして。
それでも、友達と一緒にいる時だけ見せる柔らかな笑顔。
佐藤は一歩近づいた。
「一緒に買い物しようって約束したじゃない……」
軽井沢から返事はない。
「もっと服とか、アクセとか見ようって……」
「次の休みが取れたら、絶対に行こうって言ったじゃん……」
佐藤は必死に声をつなごうとした。
だが、言葉を重ねるほど涙が溢れてくる。
「私たち、花の女子高生だもんねって……」
あの時は笑いながら口にした言葉だった。
制服と強化装備ばかりの毎日。
戦術機。
警報。
BETA。
そんな現実の中でも、自分たちは普通の高校生なのだと確かめるための言葉。
佐藤は写真へ手を伸ばしかけた。
だが、触れる直前で指が止まる。
「何で……」
声が崩れた。
「何で、先に行っちゃうの……」
膝から力が抜ける。
佐藤はその場へ座り込み、両手で顔を覆った。
「まだ何もしてないのに……」
「買い物も」
「写真も」
「全然……」
「できてないのに……」
松下は隣で唇を噛んでいた。
泣き崩れた佐藤の肩へ手を置こうとする。
だが、その手も震えている。
普段の松下なら、周囲の状況を見て冷静に振る舞えた。
羽田空港でもそうだった。
炎上する旅客機。
崩壊する格納庫。
押し寄せるBETA。
恐怖を抱えながらも、必要な判断を続けた。
だが今は、考えるべき作戦も、守るべき防衛線もない。
目の前に残されているのは。
もう果たすことのできない約束だけだった。
松下は軽井沢の写真を見つめる。
「三人でプリクラ撮ろうって……」
静かな声だった。
「古い機種でもいいからって」
「変な落書きして」
「目を大きくして」
「誰が一番盛れてるか比べようって……」
軽井沢なら、きっと自分が一番だと言っただろう。
佐藤と松下が否定すれば、笑いながら言い返したはずだ。
そんな光景が。
まだ実際には一度も起きていないのに。
三人の記憶のように、松下の頭の中へ浮かんでくる。
「約束したじゃない……」
松下の声も震え始めた。
「絶対に行こうって」
「三人で行くって……」
最後まで耐えようとしていた表情が崩れた。
松下は佐藤の隣へ膝をつき、彼女の肩を抱く。
だが、慰めることはできなかった。
自分も同じように泣いている。
「軽井沢さんがいないと……」
松下は言葉を詰まらせる。
「三人じゃないよ……」
佐藤が松下へしがみついた。
二人は互いを支えるように抱き合い、その場で声を上げて泣いた。
買い物へ行きたかった。
アクセサリーを選びたかった。
制服で街を歩きたかった。
三人で写真を撮りたかった。
何でもないことばかりだった。
戦場の勝敗にも。
人類の未来にも。
何の影響も与えない、小さな願い。
それでも。
彼女たちにとっては。
戦いの先にある未来そのものだった。
松下は涙を拭うこともできないまま、写真へ向かって言った。
「ずっと待ってるから……」
「いつか三人で行けるって、思ってたのに……」
佐藤も泣きながら顔を上げる。
「軽井沢さんの服も」
「アクセも」
「私たちが選ぶはずだったのに……」
二人の嗚咽が、静かな室内へ響く。
平田は少し離れた場所で目を伏せていた。
何も言わなかった。
今は励ます言葉も、前を向かせる言葉も必要ではない。
失ったものの大きさを。
果たせなかった約束の痛みを。
二人がそのまま受け止める時間が必要だった。
写真の中で、軽井沢は変わらず笑っていた。
まるで。
次の休日になれば。
いつもの調子で二人を誘い。
どの服が一番似合うか言い合いながら。
三人で街へ出かけるつもりだったかのように。
一之瀬は神崎の前へ出た時から、涙を流していた。
「神崎くん」
声が震える。
「私、まだ怒ってるよ」
周囲の何人かが僅かに顔を上げる。
「勝手に残って、私を頼むって龍園くんに言って」
龍園は少し離れた場所で聞いている。
「自分で言ってよ」
「戻ってきて、直接言ってよ」
戻らないことは分かっている。
それでも。
言わずにはいられない。
「だけど、神崎くんが誘導信号を通してくれたから、みんなが助かった」
「東京も助かった」
「だから、ありがとうって言わないと」
一之瀬は涙を拭かず、僅かに笑おうとした。
「ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」
「私の隣で、違うことは違うって言ってくれて、ありがとう」
一之瀬にとって神崎は、ただ支えてくれるだけの人ではなかった。
間違っている時には止める。
優しさだけで進もうとする時には、現実を示す。
それができる人だった。
「これからも、言ってほしかった」
最後の言葉は小さかった。
「本当に、ありがとう」
龍園は目を逸らさなかった。
神崎から託された言葉を、忘れないために。
最後に伊吹が神室の前へ立つ。
石崎とアルベルトが後ろへいる。
伊吹は腕を組み、険しい顔で写真を見た。
「神室」
名前を呼ぶ。
「私、あんたのこと、そんなに好きじゃなかった」
神室なら、おそらく「私も」と返す。
伊吹も分かっている。
「喋り方はムカつくし、無愛想だし、すぐ一人で行くし、人の言うことも聞かないし」
石崎が小さく呟く。
「伊吹もじゃ……」
伊吹が振り返る。
「何?」
「何でもない」
石崎は慌てて口を閉じる。
伊吹は再び神室を見る。
「でも最後は、来てって言った」
一人で行かなかった。
伊吹。
石崎。
アルベルト。
三人を呼んだ。
「ちゃんと私たちを使ったのに」
「それでも助けられなかった」
伊吹の拳が強く握られる。
「あんた、橋本のところへ行かないって言ったじゃん」
神室の最後の声。
そっちには行かないから。
「嘘つき」
怒ったように言う。
だが、目には涙が浮かんでいる。
「中枢の倒れる方向が変わった」
「学校も残った」
「あんたのおかげで」
伊吹は視線を落とす。
言いたくない。
それでも言う。
「ありがとう」
「次に会ったら、絶対文句を言うから」
写真を睨むように見る。
「覚えといて」
石崎は泣いていた。
アルベルトは静かに敬礼する。
伊吹も最後に姿勢を正し、神室へ敬礼した。
茶柱が四人の前へ出る。
「橋本」
「軽井沢」
「神崎」
「神室」
一人ずつ名前を呼ぶ。
「お前たちは候補生だった」
「本来、戦場へ送るべきではなかった」
「素直に戦うなと言うべきだったんだ」
教師として。
大人として。
茶柱は逃げずに言葉を続ける。
「だが私は、お前たちへ命令した」
「戦え」
「守れ」
「戻れ」
「何度も」
「そして、全員を戻せなかった」
茶柱は深く頭を下げた。
「教師として謝る」
「すまなかった」
長い沈黙。
誰も動かない。
やがて茶柱は顔を上げる。
「それでも、お前たちが命令されたから戦っただけではないことも分かっている」
橋本は通信を守った。
軽井沢は道を作った。
神崎は信号を通した。
神室は倒壊方向を変えた。
すべて、自分で考え。
自分で選んだ。
「お前たちの判断と勇気を、私は誇りに思う」
茶柱の声が僅かに揺れる。
「よく戦った」
そして。
「帰してやれなくて、すまない」
追悼式が終わったのは、午後二時近くだった。
候補生たちは、それぞれの部屋へ戻り、休息を取るよう命じられた。
だが、すぐに眠れる者は少ないだろう。
オレは校舎屋上へ向かった。
中央講堂跡と東京湾を見渡せる場所。
空には雲が流れている。
昨日までなら、戦闘機、砲煙、光線級の閃光があった。
今は何もない。
ただ、青い空が広がっている。
堀北が先に手すりの前へ立っていた。
「また一人か」
オレが言うと、堀北が振り返る。
「今はね」
以前と同じ会話だった。
堀北は海へ視線を戻した。
「終わったわね」
「ああ」
「本当に?」
東京ハイヴは消えた。
戦闘も終わった。
だが、人の中ではすぐに終わらない。
「作戦は終わった」
「そうね」
堀北は遠くの街を見る。
「戦う前は、勝てば全部元に戻ると思っていた」
「戻らないものもある」
「ええ」
中央講堂。
街。
四人。
同じ形では戻らない。
「でも、元に戻すんじゃなくて、新しく作るのかもしれない」
「高育もか」
「そうなると思う」
衛士育成学校であることは変わらない。
東京以外にもBETAは存在し、世界全体の戦争が終わったわけではない。
それでも、ただ戦うためだけの学校ではなくなる。
「授業は再開されるらしいわ」
「早いな」
「茶柱先生が、作戦検証も授業の一部だって」
「教師らしい」
「鬼教官らしい、でしょ」
堀北は僅かに笑った。
「綾小路くん」
「何だ」
「また戦術機へ乗る?」
「必要なら」
「そう」
堀北は海を見たまま答える。
「私は、また乗ると思う」
「怖くないのか」
「怖い」
迷わず認めた。
「だから、誰かと乗る」
戦術機は一人で操縦する。
だが、戦うのは一人ではない。
「一人で戦わない」
坂柳理事長が繰り返した言葉。
「綾小路くんも」
「分かっている」
「本当に?」
「お前は何度でも言うんだろ」
堀北は少し笑う。
「ええ」
屋上の扉が開いた。
仲間たちが次々と屋上へ上がってくる。
「どうして全員いるんだ」
須藤が答える。
「茶柱先生に校外へ出るなって言われたからな」
龍園。
「屋上は校内だ」
高円寺。
「休憩に適した場所を選んだだけさ」
宝泉。
「こいつらについてきただけだ」
七瀬。
「宝泉くんが一番先に歩いていました」
「言うな」
天沢が笑う。
「素直じゃないね」
八神。
「少し静かにしましょう」
平田と一之瀬も来ていた。
表情はまだ重い。
それでも、一人ではない。
ひよりが東京の街を見る。
「よく見えますね」
龍園が答える。
「壊れてるけどな」
「これから直ります」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
ひよりは穏やかに続ける。
「でも、直す人がいます」
人工島の下では、作業車と人が動いている。
整備員。
兵士。
生徒。
瓦礫を運び。
道路を確認し。
電力を戻そうとしている。
龍園はしばらく見つめた後。
「そうだな」
と答えた。
坂柳有栖が言う。
「父は今日中に復旧計画を作成するそうです」
伊吹が呆れる。
「今日中?」
「休めと言っても聞きませんので」
高円寺。
「美しくない働き方だね」
須藤。
「お前が言うな」
小さな笑いが起こる。
平田は海を見たまま、小さく呟いた。
「軽井沢さん」
誰にも聞こえないほどの声だった。
だが、一之瀬には聞こえていた。
彼女は触れない。
ただ隣にいる。
龍園が一之瀬を見る。
神崎から託されたことを、どうすればいいのかは分からない。
それでも。
「一之瀬」
「何?」
「神崎のことだが」
一之瀬の表情が変わる。
龍園は言葉を選ぶのが得意ではない。
「最後まで、お前のことを気にしてた」
一之瀬の目に再び涙が浮かぶ。
「うん」
「それだけだ」
「ありがとう」
龍園は目を逸らす。
ひよりは何も言わず、少しだけ彼の近くへ立った。
伊吹は海を見ながら呟く。
「神室」
石崎が小さく答える。
「うん」
アルベルトも黙って同じ方向を見る。
坂柳は杖を握り直した。
「橋本くんは、最後まで騒がしい方でした」
高円寺が言う。
「騒がしい男だったねぇ」
「あなたにだけは言われたくないでしょう」
「私は上品だからね」
須藤が即座に返す。
「どこがだ」
また笑いが起こる。
坂柳も、僅かに笑った。
忘れたわけではない。
悲しみが消えたわけでもない。
それでも笑える。
それも、戻らなかった者たちを持ち帰る方法の一つなのかもしれない。
午後三時。
崩壊した中央講堂跡には、
正規軍、候補生、整備員、避難民が集められていた。
正式な式典ではない。
演説台もない。
残っているのは瓦礫と青空。
そこへ日本国旗、高育校旗、天衝作戦参加部隊旗が掲げられている。
坂柳理事長が人々の前へ立った。
「皆さん」
「今朝、東京ハイヴは活動を停止しました」
「東京は奪還されました」
大きな拍手が起こる。
坂柳理事長はそれが静まるのを待った。
「これから復旧が始まります」
「長い時間がかかるでしょう」
「戦いよりも地味で、見えにくく、終わりが分かりにくい仕事です」
道路。
電気。
水。
住居。
港。
学校。
墓。
すべてを作り直さなければならない。
「ですが、戦場を街へ戻すことは、中枢を破壊することと同じくらい重要な任務です」
「高度育成衛士高等学校は、今後も衛士を育成します」
世界には、まだBETAがいる。
戦いそのものが終わったわけではない。
「しかし、戦う方法だけを教える学校にはしません」
茶柱が静かに理事長を見る。
「帰る方法を」
「仲間へ頼る方法を」
「失ったものを持ち帰る方法を」
「そして、戦いが終わった後にどう生きるのかを」
「教える学校にします」
高育は変わる。
「皆さんは候補生として、衛士として、東京を守りました」
「ですが今日からは、再び生徒です」
須藤が少し妙な顔をする。
宝泉が鼻で笑う。
天沢も僅かに口元を緩める。
「授業があります」
「試験があります」
「訓練も、掃除も、食事もあります」
坂柳理事長が少しだけ笑う。
「喧嘩は困りますが」
周囲の視線が宝泉へ集まった。
「俺を見るな」
七瀬が小さく笑う。
坂柳理事長は続けた。
「そうした普通の時間を、もう一度取り戻してください」
「東京を取り戻すということは、街だけを取り戻すことではありません」
「日常を」
「未来を」
「自分で選べる時間を」
「取り戻すことです」
最後に、坂柳理事長は深く敬礼した。
「皆さん」
「本当に、ありがとうございました」
正規軍。
教導隊。
候補生。
全員が敬礼を返す。
風が吹き。
三つの旗が青空の下で大きく揺れた。
夕方。
人工島西側の海は、夕日に染まっていた。
赤い。
だが、爆炎の赤ではない。
太陽の色だった。
オレは一人で格納庫脇を歩いていた。
修理待ちの吹雪が並んでいる。
オレの嘗ての機体も、その中にあった。
右脚部外装は交換が必要。
肩部には中枢内部の腐食跡。
それでも。
一緒に戻ってきた。
オレは機体の装甲へ手を触れた。
冷たい。
戦術機は道具だ。
本来なら、それ以上でも以下でもない。
だが、この機体に乗って。
須藤と。
高円寺と。
堀北と。
龍園と。
平田と。
一之瀬と。
七瀬と。
宝泉と。
天沢と。
八神と。
教師と。
正規軍と。
一緒に戦った。
ホワイトルームでは、道具に意味はなかった。
目的を達成する。
壊れれば交換する。
それだけだった。
今は違う。
機体に残る傷を見ると。
そこに出来事と人の姿が重なる。
「綾小路くん」
後ろから堀北の声。
「何をしているの?」
「機体を見ていた」
「そう」
堀北も、自分の吹雪を見る。
左肩に傷が残っている。
「直るそうよ」
「そうか」
「また訓練で使うって」
「すぐにか」
「茶柱先生だから」
二人で少しだけ笑う。
堀北が夕暮れの東京を見る。
「東京は、これからどうなると思う?」
「直る」
「ひよりさんと同じことを言うのね」
「人がいる」
「それも同じ」
「なら、正しいんだろ」
堀北は海へ視線を戻した。
「綾小路くん」
「何だ」
「私たち、勝ったのよね」
今度は迷わなかった。
「ああ」
はっきりと答える。
「勝った」
四人を失った。
多くの正規軍も戻らなかった。
それでも。
東京ハイヴは破壊された。
東京は守られた。
その事実まで否定することはできない。
「東京を取り戻した」
堀北は静かに目を閉じる。
「そう」
風が吹く。
遠くの海では作業船が中枢残骸を回収し、
上空では輸送機が復旧物資を運んでいる。
警報は鳴らない。
夕日がゆっくりと沈んでいく。
その夜。
人工島では久しぶりに通常照明が使われた。
非常灯ではない。
薄暗い避難区画でもない。
食堂には人が集まり、温かい食事から湯気が立っている。
須藤は大盛りを頼み、茶柱に食べすぎだと注意される。
高円寺は料理の味へ文句を言い。
龍園はそれを見て笑う。
宝泉と須藤は再び言い合いを始め。
七瀬が止め。
天沢が面白がって煽り。
八神は静かに食事を続ける。
ひよりは食後に本を開き。
坂柳は紅茶を飲み。
伊吹、石崎、アルベルトは同じ机を囲んでいる。
平田と一之瀬も別の席にいる。
一人ではない。
食堂には空いた椅子がある。
軽井沢。
神崎。
橋本。
神室。
四人がいたはずの場所。
だが、名前は消えない。
誰かの記憶の中に残る。
誰かの判断を変える。
誰かの行動へつながる。
その未来の中で、生き続ける。
オレは食堂全体を見渡した。
うるさい。
まとまりがない。
非効率。
それでも。
温かい。
茶柱が全員へ告げる。
「明日は午前九時集合だ」
須藤が声を上げる。
「休みじゃねぇのかよ!」
「作戦報告書を作成する」
宝泉が顔をしかめる。
「面倒くせぇ」
「下級生も全員だ」
天沢。
「先生、鬼だね」
八神。
「必要なことだと思います」
高円寺が言う。
「私は十分な休養が必要だ」
真嶋がすぐに返す。
「お前は機体修理費の説明を受けろ」
「学校負担だろう」
星之宮が小さく笑う。
「平和だね」
坂上も頷く。
「そうだな」
茶柱は全員を見渡す。
「静かに食べろ」
それでも声は、以前より少しだけ柔らかかった。
夜の東京湾へ、少しずつ灯りが戻り始めている。
街はまだ暗い。
完全には復旧していない。
だが、完全な闇でもない。
東京ハイヴは消えた。
戦いは終わった。
明日からは。
授業。
報告書。
訓練。
復旧作業。
普通の生活が始まる。
橋本。
軽井沢。
神崎。
神室。
四人の席は空いたままだ。
だが、その名前は誰かの記憶、判断、行動、未来の中へ残り続ける。
オレは窓の外を見た。
東京の空は青かった。
崩れたビルも。
傷ついた街も。
まだ残っている。
失われたものも多い。
帰ってこなかった仲間もいる。
だが。
人類は生き残った。
東京は残った。
そして、オレもここにいる。
以前のオレにとって、生きる意味は与えられるものだった。
ホワイトルーム。
命令。
任務。
成果。
必要とされたことをこなす。
それだけだった。
衛士になってからも変わらないと思っていた。
人類を守るために戦う。
明日の平和への礎となる。
そのために生きる。
そのために戦う。
それがオレの人生なのだと。
疑ったことはなかった。
だが、この学校で多くの人間と出会った。
数え切れない仲間たち。
誰かのために戦う者たち。
未来を信じて戦う者たち。
傷ついても前へ進む者たち。
その姿を見ているうちに。
オレは少しずつ理解した。
未来とは。
誰かに与えられるものではない。
誰かに決められるものでもない。
自分で選び取るものだ。
東京奪還。
それは街を取り戻す戦いだった。
人類の生存圏を取り戻す戦いだった。
だが、それだけではない。
オレたち自身が。
自分の未来を選ぶ権利を取り戻す戦いでもあった。
戦いは終わった。
もう、命令だけに従って生きる必要はない。
誰かの期待だけを背負って生きる必要もない。
これから先。
どこへ行くのか。
誰と生きるのか。
何を守るのか。
それを決めるのはオレ自身だ。
窓の向こうで朝日が昇る。
新しい一日が始まる。
かつて戦場で聞いた言葉が脳裏をよぎった。
明日の平和への礎となれ。
あの日のオレは、その意味を理解していなかったのかもしれない。
礎になることは終わりではない。
その先にある未来を。
誰かが生きるための願いだったのだ。
そして今。
オレはようやく、その未来へ辿り着いた。
戦いのために生きるのではない。
生きるために未来へ進む。
人類が取り戻した明日へ。
仲間たちが守り抜いた明日へ。
オレ自身の意思で。
オレ自身の足で。
歩いていく。
高度育成衛士高等学校。
東京ハイヴ攻略戦。
天衝作戦。
全作戦終了。
人類は未来を勝ち取った。
そしてオレもまた。
初めて、自分自身の未来を手に入れた。
THE END