第38話 横浜基地
輸送機の小さな窓から見下ろした横浜は、
オレが知っている横浜とは大きく異なっていた。
海岸線に沿って広がっているはずの街には、今も無数の建物が残っている。
しかし、その多くは人々の生活を支えるためのものではなかった。
高層ビルの屋上には対空砲が設置され、
主要道路には装甲車両が並び、港湾施設には巨大な輸送艦が停泊している。
一般車両が走ることを前提に造られた道路の一部は、
戦術機が移動するために補強されていた。
横浜ベイブリッジの周辺にも複数の防衛陣地が築かれ、
橋の両端には大型の探知装置と迎撃設備が配置されている。
遠くから見れば美しい港町に見える。
だが近づけば近づくほど、
その街が人類の生存を守るための巨大な要塞へ変えられていることが分かった。
「見えてきたわね」
隣の座席に座っていた堀北が窓の外へ目を向けた。
輸送機の振動で黒髪がわずかに揺れている。
「横浜基地か」
「あれだけの規模なのに、地上から確認できる施設は一部だけらしいわ。
地下には研究区画、司令区画、格納庫、居住区まで存在しているそうよ」
堀北は事前に受け取った資料を何度も読み込んでいた。
おそらく横浜基地についての知識だけなら、
既に基地内で暮らしている衛士候補生にも劣らない。
それでも、実際に目の前へ現れた基地の規模には多少驚いているようだった。
「随分と物々しい場所だな」
通路を挟んだ向かい側から、龍園が窓の外を眺めながら言った。
その隣では高円寺が足を組み、
基地にも街にも興味がないような表情で目を閉じている。
「人類の希望と呼ばれている施設らしいですよ」
龍園の前方に座っていた坂柳が、杖の持ち手に両手を重ねながら答えた。
「もっとも、希望という言葉は便利です。現実がどれほど悲惨であっても、
それを口にするだけで前を向いているように聞こえますから」
「相変わらず嫌な見方をする女だな」
「龍園くんほどではありません」
坂柳は穏やかに微笑んでいた。
その横には一之瀬が座り、膝の上に置いた狙撃装備の資料を読んでいる。
今回の派遣が決まってから、一之瀬は狙撃訓練へ力を入れていた。
東京での戦いにおいては、一之瀬は遠距離支援を担当しなかった。
しかし現在、その命中精度は候補生の水準を大きく超え、
正式な衛士たちからも高く評価されている。
横浜基地には、同じく狙撃を得意とする衛士がいると聞いていた。
一之瀬自身も、その人物との共同訓練を楽しみにしているようだった。
「もう少しで着陸しますよ」
一之瀬は顔を上げると、近くに座っているひよりへ声をかけた。
ひよりは分厚い本を閉じ、栞を丁寧に挟んだ。
「ありがとうございます。一之瀬さん」
「その本、ずっと読んでいたね。揺れているのに酔わないの?」
「慣れていますから。それに、本を読んでいると気持ちが落ち着くんです」
「椎名は戦場へ向かってるようには見えねぇな」
龍園が横から口を挟んだ。
「龍園くんも、そこまで緊張しているようには見えません」
「俺が震えてたら、お前は安心するのか?」
「少しだけ珍しいものを見た気分になると思います」
ひよりが微笑むと、龍園は鼻で笑った。
その後方には櫛田と鬼龍院が座っている。
櫛田は窓の外を眺めながらも、周囲の空気を敏感に探っていた。
見知らぬ環境へ入れば、櫛田はいつも以上に明るく振る舞う。
新しい人間関係の中で自分の立場を確保するためだ。
鬼龍院は櫛田とは対照的に、基地へ近づいても普段と変わらなかった。
背筋を伸ばし、腕を組み、自信に満ちた表情で横浜の街を見下ろしている。
「鬼龍院先輩は横浜基地へ来たことがあるんですよね?」
櫛田が尋ねた。
「一度だけな。ただし、以前は短期間の視察に過ぎなかった。
今回は正式な派遣だ。行動の自由も大きく違うだろう」
「横浜基地には御剣冥夜さんがいるんですよね?」
「ああ」
鬼龍院の口元がわずかに上がった。
「会ってみたい人物ではある。
御剣という名が、この国で何を意味するのか知らない者はいないからな」
「同じ名家の出身同士、話も合いそうですね」
「どうだろうな。名家に生まれたというだけで気が合うとは限らない。
ただ、背負わされるものについては理解できるかもしれん」
鬼龍院の言葉に、坂柳が静かに視線を向けた。
名家に生まれた者。
その表現は坂柳にも当てはまる。
同時に、御剣冥夜という人物が背負っているものは、
鬼龍院や坂柳とは比較にならないほど大きい。
二人はその事実も理解しているはずだった。
輸送機が徐々に高度を下げていく。
窓の外を横切っていた雲が消え、基地の滑走路が大きく見え始めた。
誘導灯が一直線に並び、その両側には複数の整備車両が待機している。
さらに奥には、巨大な格納庫が並んでいた。
格納庫の開放された扉の向こうには、戦術機の脚部が見える。
不知火。
吹雪。
撃震。
そして、他の機体とは明らかに異なる輪郭を持つ武御雷。
紫色の装甲が格納庫の照明を反射し、周囲の機体を従えるように立っている。
オレが東京で搭乗した武御雷と、基本的な形状は同じだった。
しかし、横浜基地で見る武御雷は違って見えた。
ここには、あの機体が持つ本来の歴史を知る者がいる。
御剣冥夜。
そして白銀武。
事前資料によれば、白銀武も現在は武御雷を任されている。
オレを含め、同じ基地に三機の武御雷が揃うことになる。
「随分と見られているようね」
堀北が言った。
滑走路脇には、複数の整備兵や基地職員が集まっていた。
歓迎のためではない。
彼らの視線は、輸送機そのものへ向けられている。
正確には、東京方面から派遣されてきた候補生たちへ向けられていた。
前回の戦いによって、オレたちの名前は予想以上に広まっている。
高度育成高等学校の候補生部隊。
未熟な訓練機を主力としながら、東京防衛線を支えた学生たち。
そして、武御雷一機でBETA群の進路を封鎖した衛士候補生。
事実の一部だけが切り取られ、噂は大きくなっている。
期待もあれば、疑いもあるだろう。
戦場で功績を挙げたとしても、オレたちが正式な衛士ではない事実は変わらない。
輸送機の車輪が滑走路へ接触した。
強い振動が機内へ伝わり、機体が減速していく。
全員の身体がわずかに前へ傾いた。
やがて輸送機は指定された位置で停止した。
後部ハッチが開き、冷たい外気が機内へ流れ込んでくる。
東京を出発した時よりも、海の匂いが強かった。
「全員、降りる準備をしろ」
茶柱の声が響いた。
教師として同行している茶柱は、輸送中もほとんど口を開かなかった。
オレたちが横浜基地でどのような扱いを受けるのか。
どのような人物と出会うのか。
それを黙って観察していたのだろう。
茶柱の隣では、星之宮が座席から立ち上がりながら大きく伸びをしている。
「やっと着いたのね。ずっと座ってたから肩が凝っちゃった」
「遊びに来たわけではないぞ、星之宮」
「分かってるって。でも緊張しすぎても仕方ないでしょ?」
「少なくとも、お前から緊張というものを感じたことはない」
「佐枝ちゃんは緊張しすぎなのよ」
「その呼び方はやめろ」
二人の会話を聞きながら、オレたちは順番に輸送機を降りた。
滑走路へ足をつけた瞬間、基地内の広さが改めて分かった。
地上だけでも一つの街に近い規模がある。
滑走路の周囲には、管制塔、格納庫、整備施設、
物資集積所が広がり、その間を軍用車両が絶えず行き交っている。
上空では戦闘機が旋回し、遠方からは大型輸送ヘリの回転翼音が聞こえていた。
その騒音の中で、オレたちを迎えるために複数の人物が待っていた。
先頭に立っているのは、白髪混じりの男性だった。
年齢を重ねているが、背筋は伸びている。
表情には長く軍人として生きてきた者特有の厳しさがあった。
パウル・ラダビノッド。
横浜基地司令。
その隣には白衣姿の女性が立っている。
香月夕呼。
横浜基地副司令であり、人類の未来を左右する研究を任されている人物。
資料で何度も見た顔だった。
実際に対面すると、軍人というよりも研究者としての印象が強い。
ただし、その目は並んでいるオレたちを一人ずつ観察していた。
品定めという表現が近い。
さらに夕呼の隣には、軍服姿の女性がいた。
神宮司まりも。
白銀武たちを育てた教官。
その後ろには、七人の候補生と一人の少女が並んでいる。
白銀武。
鑑純夏。
御剣冥夜。
榊千鶴。
彩峰慧。
珠瀬壬姫。
鎧衣美琴。
そして社霞。
彼らの顔は、事前資料で確認していた。
だが写真だけでは分からないものもある。
白銀武は、こちらを強く意識していた。
視線が最初からオレへ向いている。
敵意ではない。
ただし、純粋な歓迎とも違う。
オレが武御雷へ搭乗していること。
東京防衛戦で挙げた戦果。
それらを含め、白銀武はオレという人間を見極めようとしていた。
「遠路ご苦労だった」
ラダビノッドが低い声で言った。
騒音の中でも、不思議と聞き取りやすい声だった。
「横浜基地司令のパウル・ラダビノッドだ。
諸君の東京における戦果は、既に報告を受けている。
多くの犠牲が出る中、諸君が果たした役割は決して小さくない」
ラダビノッドはそこで一度言葉を止めた。
「しかし、ここは横浜基地だ。
諸君が東京でどれほどの戦果を挙げていようと、
横浜基地における実績は存在しない。我々も諸君を特別扱いするつもりはない」
厳しい言葉だったが、当然の判断でもある。
過去の戦果だけで信用を得られるほど、戦場は甘くない。
「諸君には、横浜基地所属部隊との合同訓練へ参加してもらう。
その結果次第で、今後の部隊編成と役割を決定する」
ラダビノッドの視線がオレへ向いた。
「特に綾小路候補生」
「はい」
「君には武御雷が与えられているそうだな」
「はい」
「武御雷は優れた戦術機だ。しかし、優れた機体が優れた衛士を作るわけではない」
「承知しています」
オレが答えると、ラダビノッドは小さく頷いた。
続いて夕呼が一歩前へ出た。
「堅苦しい挨拶は司令に任せるわ。香月夕呼よ。
細かい説明は後で行うけど、あなたたちには横浜基地で行われている
複数の計画へ協力してもらうことになる」
夕呼は坂柳、高円寺、鬼龍院、一之瀬へ順番に目を向けた。
最後にオレを見て、口元をわずかに上げる。
「興味深い素材が随分と揃っているみたいね」
「素材とは、あまり嬉しい呼び方ではありませんね」
坂柳が答えた。
初対面の基地副司令に対しても、普段と変わらない口調だった。
夕呼は怒るどころか、面白そうに坂柳を見た。
「あなたが坂柳有栖ね。資料どおり、口の減らない子だわ」
「香月副司令も、資料どおりの方に見えます」
「それは褒め言葉として受け取っておくわ」
二人が微笑み合った。
ただし、その間に流れている空気は穏やかではない。
坂柳は相手の思考を探っている。
夕呼も同様だった。
わずかな会話だけで、互いに警戒すべき相手だと判断したのだろう。
「あなたが茶柱先生ね」
まりもが茶柱へ声をかけた。
「神宮司教官ですね。生徒たちの指導については、事前に報告を受けています」
「教官でいいわ。これから一緒に候補生を見ることになるんだから、
そこまで固くならなくてもいいでしょう?」
「私は元々こういう性格です」
「そうみたいね」
まりもは苦笑した。
「あなたの生徒たち、随分と個性的だって聞いているわ」
「否定はしません」
「特に綾小路くん。優秀だけど、仲間との連携に問題があるとも聞いている」
「問題があるというより、本人が一人で解決できてしまうことが多いだけです」
「それが問題なのよ。一人でできるから一人でやる。
それを続けていたら、いつか周りがついてこられなくなるわ」
茶柱がオレを見た。
「本人の前で言うことではないでしょう」
「本人の前だから言うの」
まりもは迷わず答えた。
「聞かせた方がいいことを、聞こえない場所で言っても意味がないわ」
茶柱はわずかに目を細めた。
反論しようとしたわけではない。
まりもの考え方を測っている。
「熱心な方ですね」
「教師なんだから当然でしょう?」
「当然と言い切れる教師ばかりではありません」
その言葉には、茶柱自身の過去も含まれているのだろう。
まりもは何かを感じ取ったようだったが、それ以上は踏み込まなかった。
「夕呼先生!」
星之宮が明るい声を上げた。
「初めまして。星之宮知恵です」
夕呼は星之宮を見た。
その視線は明らかに警戒している。
「あなたも教師?」
「そうですよ。見えません?」
「軍事施設へ到着した直後に、
その調子で話しかけてくる教師は珍しいと思っただけよ」
「夕呼先生は思ってたより綺麗な人ですね」
「何の話?」
「白衣も似合ってますし、大人の女性って感じがします」
「用件がないなら、後にしてくれる?」
「冷たいですね。もっと仲良くしましょうよ」
夕呼の眉がわずかに動いた。
茶柱がため息をつく。
「すみません。星之宮はいつもこうです」
「あなたも苦労しているのね」
「理解していただけて助かります」
星之宮は二人を見比べた。
「えっ、ちょっと待って。もう私だけ仲間外れ?」
「到着早々、妙な連帯感を作らないでちょうだい」
夕呼は呆れながらも、星之宮を完全に拒絶しているわけではなかった。
相性が悪いというより、星之宮の距離の詰め方に慣れていないのだろう。
大人たちの挨拶が続く間、候補生同士も互いを観察していた。
最初に動いたのは鑑純夏だった。
純夏は堀北の前へ歩み寄る。
「あの、初めまして。鑑純夏です」
「堀北鈴音よ。よろしく」
堀北は丁寧に答えた。
ただし表情は少し固い。
純夏は人との距離を縮めることに迷いがない。
一方で堀北は、初対面の相手へ自分から心を開くような人間ではない。
「東京での戦い、本当にすごかったって聞いてるよ」
「私一人の功績ではないわ。全員で生き残った結果よ」
「そういうところ、榊に似てるかも」
純夏が振り返る。
その視線の先にいた榊千鶴が、眼鏡の位置を直した。
「鑑。初対面の相手に余計なことを言わないで」
「余計じゃないよ。堀北さんも委員長っぽいし」
「委員長ではないわ」
堀北は即座に否定した。
「でも、部隊をまとめていたんでしょ?」
「必要だったから、役割を担っただけよ」
千鶴が堀北の前へ出る。
「榊千鶴です。鑑が失礼しました」
「気にしていないわ」
堀北と千鶴が向き合う。
二人とも背筋が伸び、立ち方にも性格が表れていた。
「東京防衛戦では、部隊指揮も担当したと聞いています」
千鶴が尋ねた。
「状況に応じてね。あなたも部隊をまとめているそうね」
「私は委員長ですから」
「その呼び方に、正式な役職としての意味があるの?」
「最初は候補生たちのまとめ役として呼ばれていただけです。
ただ、責任を放棄するつもりはありません」
「そう」
堀北の目がわずかに変わった。
興味を持った時の反応だった。
「責任を背負うことと、自分だけで抱え込むことは違うわ」
「それはあなた自身にも言えるのではありませんか?」
千鶴がすぐに返した。
純夏が二人の間で視線を往復させる。
「もしかして、もう意見がぶつかってる?」
「別にぶつかっていないわ」
「確認しているだけです」
堀北と千鶴がほぼ同時に答えた。
純夏は少し困ったように笑った。
「やっぱり似てるかも」
その言葉に、堀北と千鶴は揃って純夏を見た。
その様子を見ていた櫛田が、堪えきれず小さく笑った。
一方、坂柳と鬼龍院は御剣冥夜の前に立っていた。
冥夜は二人に対し、丁寧に頭を下げる。
「御剣冥夜だ。遠方より横浜基地へ来られたこと、心より歓迎する」
「坂柳有栖です。御剣さんにお会いできることを楽しみにしていました」
「鬼龍院楓花だ。こちらこそ、よろしく頼む」
三人の会話には、他の候補生とは異なる空気があった。
言葉遣いや立ち振る舞いだけではない。
生まれ育った環境によって自然に身についたものが、それぞれの態度に表れている。
「鬼龍院という名は聞いたことがある」
冥夜が言った。
「私の家を知っているのか」
「ああ。直接の交流はなかったが、名家の一つとして記憶している」
「それは光栄だな」
鬼龍院は笑った。
「もっとも、私は家の名を利用することはあっても、家の名に使われるつもりはない」
「率直な方だ」
「遠回しな言い方は好まないのでな」
冥夜は不快に思うどころか、鬼龍院の言葉を気に入ったようだった。
坂柳が二人を見ながら口を開く。
「御剣さんは、自らの立場を重荷だと感じたことはありますか?」
冥夜は坂柳へ視線を移した。
初対面で尋ねるには、踏み込んだ質問だった。
鬼龍院も坂柳を見る。
「坂柳、最初から随分と深いところへ入るな」
「失礼しました。
ただ、御剣さんとは表面的な挨拶だけで終わらせたくありませんでしたので」
冥夜はしばらく黙った。
「重荷だと感じたことがないと言えば、嘘になる」
やがて、静かに答えた。
「だが、与えられた立場から逃げれば、それによって苦しむ者がいる。
ゆえに私は、自らの立場を受け入れている」
「立場を受け入れることと、立場に支配されることは違います」
坂柳が言った。
「御剣さんは、その違いを理解しているようですね」
「あなたも同じような経験があるのか?」
「私の場合は、父が偉大すぎるだけです」
坂柳は微笑んだ。
「父の娘として見られることには慣れています。
しかし、私は私です。父の功績が、私自身の価値になるとは考えていません」
「私も同意する」
鬼龍院が続けた。
「家が何を成したかと、自分が何を成すかは別の話だ」
冥夜は二人を見た。
「あなた方とは、いずれゆっくり話をしてみたい」
「私もです」
坂柳が答える。
鬼龍院も満足そうに頷いた。
少し離れた場所では、一之瀬と珠瀬壬姫が向き合っていた。
二人が並ぶと、髪の色が近いことがよく分かる。
一之瀬は背が高く、女性らしい体つきをしている。
壬姫は小柄で、全体的に幼い印象があった。
壬姫は一之瀬の顔を見上げた後、視線を少し下へ動かし、すぐに慌てて顔を逸らした。
「どうかした?」
一之瀬が尋ねる。
「い、いえ、何でもありません」
「珠瀬、顔が赤いぞ」
美琴が横から言った。
「赤くないです!」
「一之瀬さんを見てから、ずっと様子がおかしい」
「鎧衣さん、余計なことを言わないでください」
壬姫は両手を振りながら否定した。
一之瀬は困ったように微笑む。
「私、何か変だったかな?」
「違います!」
壬姫は勢いよく答えた。
「一之瀬さんが、とても綺麗なので驚いただけです」
「ありがとう。でも、壬姫ちゃんも可愛いよ」
「一之瀬さんに言われると、複雑です」
「どうして?」
「髪の色は似ているのに、全然違いますから」
壬姫は自分の身体を見下ろした。
言いたいことは分かった。
一之瀬も理解したようだったが、からかうことはしなかった。
「私は壬姫ちゃんみたいに、小さくて可愛い雰囲気も羨ましいけどな」
「本当ですか?」
「本当だよ」
「その言葉、信じます」
壬姫は少しだけ機嫌を直した。
「それより、壬姫ちゃんは狙撃が得意なんだよね?」
一之瀬が尋ねると、壬姫の表情が変わった。
先ほどまでの戸惑いが消え、衛士としての真剣さが現れる。
「はい。遠距離支援を担当することが多いです」
「私も狙撃を担当しているの。
横浜基地へ来たら、壬姫ちゃんと一緒に訓練したいと思ってたんだ」
「私も、一之瀬さんの記録を見ました」
壬姫の声に、わずかな対抗心が混じる。
「東京での命中率、本当にすごいです。でも、私も負けません」
「うん。私も負けるつもりはないよ」
二人は笑顔で向き合った。
穏やかな会話だが、既に競争は始まっている。
少し離れた場所で、龍園は彩峰慧を見ていた。
彩峰も龍園を見ている。
どちらも自分から挨拶を始めようとはしない。
「おい」
先に口を開いたのは龍園だった。
「彩峰だったな」
「……そう」
「随分と愛想がねぇな」
「……そっちも」
「俺はこれでも愛想はいい方だぜ」
彩峰は返事をせず、龍園を見た。
明らかに信用していない目だった。
龍園は不快になるどころか、楽しそうに笑う。
「話を聞かねぇタイプか」
「聞いてる」
「だったら返事くらいしろ」
「返事した」
「面倒な女だな」
「……お互いさま」
龍園の笑みが少し深くなった。
「お前、見た目より面白ぇじゃねぇか」
「面白くない」
「俺が決める」
彩峰は龍園から視線を逸らした。
拒絶したというより、これ以上付き合う必要がないと判断したようだった。
ただし、龍園もそれ以上は追わなかった。
相手を急いで理解する必要はない。
いずれ訓練や戦場で、嫌でも本性を見ることになる。
高円寺は美琴に話しかけられていた。
「君が高円寺六助か。資料に書いてあった以上に大きいな」
美琴が高円寺の身体を興味深そうに見ている。
「私の肉体は、選ばれた人間だけが到達できる芸術品だからね」
「すごい自信だ」
「事実を述べているだけさ」
「体力測定の記録も見たぞ。普通の人間とは思えない数値だった」
「普通という基準で私を測られても困る」
高円寺は髪をかき上げる。
「ところで君は、私に何か用かな?」
「いや。面白そうな人だと思っただけだ」
「見る目があるようだね」
「そうか?」
美琴は首を傾げた。
高円寺は自分が褒められたと確信しているようだった。
ひよりは少し離れた場所で、社霞と向き合っていた。
霞はひよりが持っている本を見ている。
ひよりはその視線に気づいた。
「本がお好きなんですか?」
霞は少し間を置いてから答えた。
「……嫌いじゃない」
「これは、東京を出る前に借りた本なんです。
基地に図書室があると聞いたので、そちらも楽しみにしていました」
「……ある」
霞が言った。
「案内できる」
「本当ですか?」
ひよりの表情が明るくなる。
「お願いします」
「……うん」
会話はそこで途切れた。
しかし二人とも、沈黙を気まずいとは感じていないようだった。
ひよりは霞の隣に立ち、霞も離れようとはしない。
言葉を多く必要としない者同士、既に何か通じるものがあるのかもしれない。
候補生たちの交流が始まる中、白銀武だけはまだオレの前へ来ていなかった。
武は少し離れた場所から、オレを見ている。
その隣で純夏が何か話しかけていたが、武は短く答えただけだった。
やがて純夏が堀北たちの方へ移動すると、武はゆっくりと歩いてきた。
「綾小路清隆だな」
「ああ」
「白銀武だ」
「知っている」
武の眉がわずかに動いた。
「資料で見たってことか?」
「そうだ」
「俺も、お前のことは聞いてる」
武はオレの目を見た。
「東京で武御雷を使って、BETAの大群を一人で止めたそうだな」
「一人ではない。高円寺たちが中核へ爆弾を設置するまでの時間を稼いだだけだ」
「それでも、普通にできることじゃない」
「必要だったからやった」
武の表情が変わった。
「必要なら何でもするのか?」
「質問の意味が分からない」
「仲間を囮にすることも、切り捨てることも、作戦に必要なら迷わないのかって聞いてる」
周囲の空気が変わった。
堀北がこちらを見る。
純夏も武の声に気づき、会話を止めた。
まりもと茶柱も、オレたちの様子を見ている。
武は最初から、オレの考え方を確かめるつもりだったらしい。
「状況による」
オレは答えた。
「全員を救おうとして全員が死ぬなら、救える人間を優先する」
「簡単に言うんだな」
「簡単ではない。だが、判断を遅らせれば犠牲は増える」
「だからって、最初から誰かを諦めていい理由にはならないだろ」
「諦めることと、現実を見ることは違う」
武の拳が握られる。
「現実を理由にして、助けられる仲間まで切り捨てる奴を俺は何人も見てきた」
「オレがそうだと言いたいのか?」
「まだ分からない。だから聞いてる」
武は一歩近づいた。
敵意はない。
だが譲るつもりもない。
「俺は、助けられる可能性があるなら最後まで助ける」
「その判断によって、別の仲間が危険になるとしてもか?」
「危険にしない方法を探す」
「必ず見つかるとは限らない」
「それでも探す」
迷いのない答えだった。
理想論と切り捨てることは簡単だ。
しかし武は、理想を口にするだけの人間ではない。
実際にそれを実行し、多くのものを失いながらも戦い続けてきた。
だからこそ、その言葉には重さがある。
「お前とは考え方が合わないみたいだな」
武が言った。
「そのようだ」
「でも、同じ部隊で戦うなら、勝手なことはさせない」
「それはオレの台詞でもある」
武は一瞬黙った。
その後、少しだけ笑った。
友好的な笑みではない。
互いを挑発するような笑みだった。
「なら、訓練で確かめようぜ」
「ああ」
白銀武。
感情を優先し、全員を救おうとする男。
オレとは異なる思考。
オレの判断そのものを否定し、自分の答えを押し通そうとする。
同じ部隊へ入れば、衝突は避けられないだろう。
「武!」
まりもの声が飛んだ。
「初対面の相手に喧嘩を売らない!」
「喧嘩じゃないですよ」
「周りからは喧嘩にしか見えなかったわよ」
まりもが武へ近づき、その頭を軽く叩いた。
「痛っ」
「綾小路くんも、挑発に乗らないの」
「乗ったつもりはありません」
「あなたはそう言うと思ったわ」
まりもはため息をつく。
その隣へ茶柱が来た。
「綾小路。合同訓練が始まる前から問題を起こすな」
「問題は起こしていません」
「お前も同じことを言うのか」
「佐枝ちゃん、そっちの生徒も似たような感じね」
まりもが茶柱へ言った。
「一緒にしないでください」
「どう見ても同じでしょう?」
「綾小路は声を荒らげていません」
「声を荒らげなければ問題ないわけじゃないでしょう」
「武、お前はもう少し冷静になれ」
ラダビノッドが声をかける。
武は姿勢を正した。
「申し訳ありません」
「意見を持つことは悪くない。しかし、相手を理解する前に結論を出すべきではない」
「はい」
ラダビノッドは次にオレを見た。
「綾小路候補生も同様だ」
「はい」
「君たちは今後、同じ戦場へ立つ可能性が高い。
互いの考えが異なるなら、訓練の中で理解しろ。
戦場で意見をぶつけている時間はない」
その通りだ。
戦闘中に武と判断が分かれれば、部隊全体が危険にさらされる。
どちらが正しいかではない。
互いの判断基準を把握し、行動を予測できるようにする必要がある。
夕呼が腕を組み、オレと武を見比べた。
「面白い組み合わせね」
「夕呼先生、面白がらないでください」
まりもが注意する。
「正反対の人間を同じ部隊に入れたら、どんな結果になるか興味があるだけよ」
「実験じゃないんですよ」
「戦術も部隊編成も、広い意味では実験よ。
成功するか失敗するかは、やってみなければ分からないもの」
夕呼は周囲へ視線を向けた。
「到着直後で悪いけど、あなたたちには一時間後から基地施設を案内するわ。
その後、格納庫で各自の搭乗機を確認してもらう」
龍園が反応した。
「随分と急だな」
「休みたいなら休んでもいいわよ。ただし、訓練開始は明朝五時。
基地の構造を覚えていなくても、こちらは待たないけど」
「誰が休むと言った?」
龍園は笑った。
「話が早くて助かるわ」
夕呼が指を鳴らすと、基地職員が端末を操作した。
格納庫の大型扉がゆっくりと開いていく。
内部に並ぶ戦術機の全身が、次第に露わになった。
中央には三機の武御雷が立っている。
紫色の武御雷。
白銀武が搭乗する機体。
冥夜の武御雷。
そして、オレのために調整された武御雷。
同じ機種でありながら、それぞれの機体は異なる存在感を放っていた。
その左右には不知火が並び、
さらに後方には改修された吹雪や支援装備を装着した機体が待機している。
一之瀬が狙撃用装備を見つけた。
壬姫も同時に気づいたらしい。
二人は目を合わせる。
「壬姫ちゃん」
「はい」
「後で、あの装備を一緒に見てもいい?」
「もちろんです。でも、先に選ぶのは私です」
「それは競争かな?」
「はい。最初の勝負です」
一之瀬が笑う。
「負けないよ」
その近くでは、彩峰が格納庫の隅にある売店を見ていた。
視線の先には、補給物資と一緒に運び込まれた食品が並んでいる。
龍園がその視線を追う。
「焼きそばパンが気になるのか?」
彩峰が龍園を見る。
「……悪い?」
「いや。俺も中坊の頃はよく食った」
彩峰の目がわずかに動いた。
「……毎日?」
「毎日じゃ飽きる。だが、腹が減ってる時にはちょうどいい」
「……分かる」
「ようやくまともに話したな」
「さっきも話した」
「お前にとっては、あれが会話なのか?」
「……会話」
龍園は笑った。
「なら、今度どっちがうまい焼きそばパンを見つけるか勝負するか?」
「くだらない」
彩峰はそう答えながら、もう一度売店を見た。
完全に興味がないわけではないようだった。
堀北は千鶴と並び、格納庫の配置を確認している。
純夏が二人の間へ入って話しかけ、二人から同時に注意されていた。
坂柳と鬼龍院は冥夜の説明を聞きながら、武御雷を見上げている。
ひよりと霞は、格納庫内でもほとんど言葉を交わしていない。
それでも二人は自然に並んで歩いていた。
茶柱とまりもは候補生たちを見守り、星之宮は夕呼の隣で質問を続けている。
異なる場所で生きてきた者たち。
異なる考えを持つ者たち。
本来なら出会うことのなかった二つの集団が、横浜基地で同じ戦場へ立とうとしている。
その先に何が待っているのかは、まだ誰にも分からない。
少なくとも、この時のオレたちは横浜基地へ到着したばかりだった。
基地の地下深くで、複数の観測装置が小さな異常を捉えていたことも知らない。
横浜沖の海底で、これまで確認されていなかった振動が発生していることも知らない。
管制室では、担当者が観測結果を機器の誤差として処理しようとしていた。
しかし、振動は消えなかった。
一度目よりも強く。
二度目よりも広い範囲で。
海底のさらに下で、何かがゆっくりと動き始めていた。