グスタフ王は分厚い冊子の表紙を太い指先で軽やかに二度、叩いた。
たったそれだけの仕草にも、大陸全体の勢力図を一人で塗り替えようとする絶対者固有の重みが宿っている。
「――ライオネル少佐の身分についてだが、キャメロット連合王国政府とはすでに裏で話がついてある」
重厚な低音が、部屋の空気を振動させた。グスタフ王は深い眼光をディネルースへと向け、滔々と語り始める。
「彼は一時的に、キャメロットの軍人としての籍と階級を保持したまま、我が国への『特別軍事派遣』という名目で、このオルクセンに滞在する……だが、それはあくまでも海を隔てた外交上の建前に過ぎん」
「建前、ですか」
ディネルースは栗色の髪を揺らし、鋭い眉をわずかに寄せた。グスタフ王は深く頷く。
「実質において、彼はオルクセン国軍客員大佐、および私直属の軍事顧問となる。今後は我がオルクセンの軍令に基づき、私の命令だけを聞いてもらう契約だ。国軍参謀本部であっても、彼に直接の命令を下すことはできん。もちろん、君もだ、ディネルース」
グスタフ王の言葉は、この人事が単なる士官の派遣などではなく、オルクセンとキャメロットの間で極めて高度かつ緻密な政治的駆け引きが行われた結果であることを物語っていた。
国王直属の軍事顧問――即ち、オルクセンの正規の指揮系統からは完全に独立し、王の命令によってのみ動く特権的な立場。
ディネルースは、執務机の傍らに立つ人間族の男を、爪の先から髪の毛一本に至るまで改めるように見つめ直した。
(この育ちの良さそうな、どこか浮世離れした美貌の男が……私と一万二千の
この男――ライオネル少佐、いやオルクセン国軍における「ライオネル客員大佐」は、自らの身の上に下された破格の特権にも一切の動揺を見せず、ただ磁器のカップを弄びながら、不敵とも取れる薄い微笑を唇にたたえているだけだった。
「大佐、君の分もな。黒を基調とした、オルクセン国軍騎兵科の大佐用をあらかじめ用意させてある」
だが、新たに客員大佐となり、彼女の頭上に君臨する「顧問殿」となった男が、滑らかな手つきで自身の胸元にそっと手を当て、優雅に一歩前へ踏み出したのだ。
「――陛下。まことにありがたく、誇りに存じますが」
ライオネルは端正な顔立ちに、極めて優美な、しかしどこか確信犯的な笑みを浮かべてグスタフ王を見やった。
「なにかな、ライオネル大佐」
「正式に着任し、ダークエルフの皆との日々の訓練を開始するまでは……どうか、このキャメロット連合王国の騎兵少佐の軍服でいることをお許しいただけないでしょうか」
彼が身にまとっているのは、キャメロットが世界に誇る王立騎兵連隊の、あまりにも目を引く「真っ赤な騎兵服」――チューダー・レッドであった。
オルクセン国軍の機能的で重厚な黒色軍服とは完全に対極にある、戦場での華やかさと幾世紀もの伝統を形にしたような、眩いばかりの真紅の装束。
グスタフ王は意外そうに、その太い眉を跳ね上げた。
「なぜだ? 我が国の軍服が体に合わぬわけではあるまい」
「まさか。我が主君たる陛下の御用意されたものです、寸分の狂いもなく最高峰の仕立でしょう」
ライオネル大佐は悪びれる風もなく、むしろ己が纏う装束の美しさを誇るように軽く胸を張ってみせた。
その
「ただ……単純な話でございますよ、陛下――この方が、私に似合っていますので」
「ぬ……?」
「ダークエルフの女たち、そして我が旅団長となるアンダリエル少将に、最初の挨拶を終えるその時まで、この服でいさせてください。異国の『真紅の騎兵』というものがどのような存在であるか、まずはその目に焼き付けていただきたいのです」
「……何だと?」
ディネルースの横顔に、一瞬だけ鋭い緊張が走った。
彼女は男の言葉の裏にある「意図」を、即座に、そして完璧に理解した。
(この男……ただの自惚れ屋や伊達男などではない!)
単に自らの美貌や見映えを気にしているのではないのだ。
これから始まる地獄のような過酷な訓練を前に、自らの指導を受けることになるダークエルフの女たちに対して、「キャメロットの伝統と圧倒的な騎兵の誇り」を、その身を以て強烈な視覚的強迫として刻みこもうとしている。
血のように真っ赤な軍服を翻して走る、一人の異種族の騎士。それがどれほど美しく、どれほど洗練され、そしてどれほど恐ろしい存在であるか。
その示威行動を兼ねているのだ。
ライオネルの言葉を聞いていたグスタフ王は、しばらくの間、言葉もなく男の顔を凝視していた。
やがて――王の巨躯が微かに揺れ、呆れたような、しかし実に愉快そうな鼻鳴らしが漏れた。
「……フン。ハハハッ! 相変わらず、見せ方というものを実に極めている男だな」
グスタフ王は笑い声を収めると、太い指で机を軽くたたいた。
「よかろう。最初の挨拶の儀が終わるまでは、その派手な赤を纏っているがいい――だが、大佐」
王の表情から笑みが消え、冷徹な覇者の顔が戻る。
「ひとたび訓練が始まれば、貴公も我がオルクセンの軍人だ。その服を土と汗で汚し、血に塗れる覚悟はできているんだろうな?」
「もちろんでございます、陛下」
ライオネル客員大佐は、微塵の迷いもなく胸を張った。
「これからのヴァルターベルクは……私の『赤』と、彼女たちの『褐色』、そしてオルクセンの『黒』が混じり合う、最高に熱い戦場となるでしょう」
「言ったな」
「ええ。お約束いたします」
ライオネルはそう言い切ると、ゆっくりと視線を移動させ、隣に立つディネルースへと向き直った。
その
「……アンダリエル少将」
「何だ、顧問殿」
ディネルースはあえて冷ややかな声を返し、真っ直ぐに男を見据えた。
ライオネルは唇の端を吊り上げ、どこか楽しげに囁く。
「君たちの乗馬は見事だ。だが、それはあくまで『個』の術に過ぎない。隊列を組み、数百の馬首を揃えて突撃する真の騎兵集団の凄まじさを、君たちはまだ知らない」
「知らぬだと?」
「そうだ。本当の騎兵突撃とは、地面を揺らし、敵の全精神を恐怖で叩き潰す芸術だ。君たちにそれを叩きこむ……私のしごきは、白エルフどもの仕打ちよりも過酷かもしれませんよ? もちろん、グスタフ陛下の提唱される『旅団戦闘団』の新戦術も取り入れますよ」
「ハ……ッ!」
ディネルースは短く、吐き捨てるように笑った。
「笑わせないでいただきたいな、キャメロットの貴公子。
「それは頼もしい。だが、言葉通りであることを祈るよ。最初の数週間で、半数の女が泣きついて辞退したいと言い出さなければいいが」
ライオネルはそういうと、手にしていた乗馬用の白革手袋で自身の乗馬ズボンをパンと叩いた。
「泣き言を言う者がいるとすれば、それはあなたの方だ、大佐」
ディネルースは一歩踏み込み、ライオネルの背の高い体躯に視線をぶつけた。
「ふ……ハハハ!いいぞ、素晴らしい度胸だ!」
ライオネルは愉悦に満ちた声を上げて笑った。
その男の放つ危険な熱気と、自らの内に滾る不屈の復讐心が交差し、ディネルースの背骨を走る神経が、最高潮に昂っていく。
(こいつは狂っている……だが、この男は本物だ)
己の技術と美学に絶対の自信を持ち、一切の妥協を許さない男。
グスタフ王は、二人の間の火花を散らす凄まじい緊張感を満足そうに見つめながら、再び灰皿から葉巻を拾い上げ、火を点けた。
「話はまとまったな。ディネルース、ライオネル。明日よりヴァルターベルクの南郊演習場にて、直ちに新旅団の結成作業に入れ」
「「御意」」
二人の声が、完璧な呼吸で重なった。
「オルクセンの未来と、お前たちの復讐と野望の成就を……楽しみにしているぞ」
王が吹き出した紫煙の向こうで、真っ赤な軍服の人間と、褐色の肌を持つ黒エルフの将軍が、静かに、そして確かな殺意と覚悟を込めて互いに見つめ合っていた。
新たな時代の胎動が、いま確かに鳴り響いていた。
(第3話に続く)