興国二年。小田城に北畠親房がいた。筆を執っていた。

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駆けた矢、染みる筆

「っ、いかん」

 

 北畠親房は思わず声を漏らした。

 書き損じた箇所を、筆の墨で黒く塗り潰す。

 

 この小田城に連日攻め寄せてくる足利方が原因──ではなかった。

 そういう喧噪に、もう心乱れることはない。

 もっと単純で、どうしようもない理由である。

 

「老いたな、儂も」

 

 眉間を指でつまみ、疲れを揉みほぐす。

 己の齢を数えるのは、長男の顕家の死でやめた。

 そうしても萎びるものは萎び、衰えるものは衰えていくのだ。

 親房は湯の入った椀を手に取った。

 

「……ん」

 

 しかし飲まず、そのまま机に戻す。

 喧噪の質が変わった。

 勝鬨が上がっている。

 それも、遠方へ呼びかけるような声だ。

 

 とにかく筆を進めていると、簾の向こうに澄んだ気配がやってきた。

 

「入りなさい」

「失礼いたします。入道、御無事ですか」

「相変わらず速いな、中将。もう戻ったのか」

「はい。私の留守を突かれましたね」

 

 部屋に入ってきた武将が座り、太刀を置いて背筋を伸ばす。

 春日中将である。

 

「宇都宮の手勢は囮だったか」

「そのようで。彼らにそういう考えは無かったようですが」

「どうにも浮足立っている一族だ。足利も内心、上手く使い捨ててやろうとしか思うておるまい」

 

 親房は筆を置き、椀を掲げて己が腹心を手招く。

 春日中将は一度頭を下げてから美しい所作で寄ってきて、椀を受け取った。

 そして、冷めた湯を一息に飲み干した。

 

 その白塗りの鎧には、拭いきれぬ血が至る所にこびりついている。

 中将が京より奥州へ下向した頃から、顕家と共に戦い始めた頃から、ずっと纏っている鎧だった。

 歳も顕家よりいくらか上程度。

 幼い頃には親房自ら、学問や作法を教えたこともある。

 息子のようなものだった。

 

「……また書き直しをなさっておいでで?」

「然様。この城では史書も改められんのだ。その上、最近は書き損じも多くなった。何度書いても、納得のいくものが出来ん」

 

 とんとんと、親房は墨の乾いた巻物を指で突いた。

 

「奥州の頃は、何十という文書を一晩で誤りなく書いておったのに」

「詮無きことかと。あの頃とは何もかも」

「言うな。分かっておる。小田も、そろそろ限界であろうしな」

 

 春日中将の眼前で、再び筆を滑らせ始める。

 城に群がっていた足利方を一蹴したばかりだというのに、目の前の若き公家は戦の昂奮一つ残していない。

 涼しい顔をして、そのまま次の戦へ向かってしまいそうですらある。

 まるで、あの頃の顕家が乗り移ったかのようだ。

 それはつまり──

 

「失礼します」

 

 鉄のような堅い声が、簾を叩く。

 親房が許すと中将は素早く端に控え、一人の武士が入ってきた。

 城の主、小田治久である。

 小田は立ったまま、太刀を佩いたままに、無表情でこちらを見下ろしてくる。

 

「入道。誠に申し訳ございませんが、城を落としたく思います」

「うむ。これまで大変な苦労をかけた」

 

 分かりきっていた小田の申し出に、親房は筆を休めずに頷いた。

 

「畏れ多くも、先帝より賜った"治"の字を穢し……」

「そのようなことはない。建武の折からこの苦境まで、そなたは篤く忠を為した。……小田治久よ、大儀であった」

 

 武士が膝を折り、ひれ伏す。

 親房も春日中将も、礼を返した。

 

「しかし。すまぬが儂も中将も、首級にはなってやれんぞ」

「承知の上です。……御武運を」

「いつ頃に城を落とす?」

「来月の頭になるかと」

 

 裏切られたとは思っていなかった。

 大半の武士の道理は、損得や存亡に依るものなのである。

 北条が滅びるより前から、ずっとそうだ。

 歴史がそれを証し、親房自身も目の当たりにしてきた。

 武士だけでなく、公家も多くはそうだった。

 

 ごく一部の者達が、"例外"だというだけの話である。

 "例外"は、あとどれだけいることか。

 

「開城は今月中にしなさい。足利が焦れる」

「しかし、それではお二方の脱出が」

「中将、手筈を整えよ」

「かしこまりました」

 

 春日中将が拝礼し、居住まいを正す。

 放たれた武の気配に、小田の顔が僅かに強張った。

 これで、寝首をかかれることもあるまい。

 

「さて。厚かましくも居候の身ではあるが、書くべきはここで書ききらせてもらおうか」

「それは……何度かお話いただいた、"正統"の書でござりますか?」

「うむ。時分に急かされた方が、儂はやる気になるのかもしれん。奥州の頃など、特にそうであったしな」

 

 親房の言を聞き、中将が思い出したように吹き出す。

 手を払うと、未だ青年の公家は声をあげて笑った。

 小田が、不思議そうに首をかしげる。

 

「我々が奥州にいた頃の話です、小田殿。今は亡き陸奥大介に入道は、ひたすら仕事を投げつけられていたのですよ」

「は、はあ……」

「まったく、あの小僧めが。着任早々からして、『奥羽中に片っ端から文を出します。三日で仕上げるべし』などと言い出しおってな」

 

 父上なら出来るでしょうと、意地悪く笑った息子。

 

「誰彼に同じ文をばら撒けばよい、というわけではないのだ。国に国の歴史があるように、人には人の歴史があるのだから。多くのことを調べ上げてからが当然。にもかかわらず、顕家の奴は」

「入道は……本当に三日で?」

 

 半ば乾いた筆を、親房は再び墨に浸した。

 巻物の上で文字が、あの頃のような速度で生み出される。

 

「もちろん、仕上げたとも。三日間、一睡もしなかった。この北畠親房が長年培ってきた学識をもって趣向を凝らし、宮の御名に相応しい文を山と積み上げたのだ。そして……」

 

 筆を走らせながら、親房は小田に向けて指を三本立てた。

 

「三通。顕家は三通読んで、『読めたものではない。私が書きます』と投げ捨ておった」

 

 小田の瞳が、俄かに輝く。

 

「あやつが初めに書いた文は……たったこれだけ」

 

 親房は紙の端を破り、小田に渡した。

 

「……っ」

 

 やはりそうだ。

 あの頃、何度も見た眼差し。

 奥州の武士達と同じ眼差しが、紙切れを熱く見つめている。

 

 

『芯の通った国を作る。文には文で応じ、武には武で応じる』

 

 

 そんな簡潔な内容に、宮の名前と北畠顕家の名前を添えただけ。

 それで、多くの者が集まってきた。

 多くが従い、命を賭けた。

 抗った者もまた、文武を問わず頻繁に挑んできた。

 

 小田の大柄な身体が、震え出した。

 だが、それは危うさだ。

 北畠顕家が抱き、駆け抜け、散っていった時と同じものだ。

 

 親房は、机を強く叩いた。

 

「!!」

「小田治久よ、世話になった。足利に降っても、家を永く保たれよ」

「は……ははっ!」

「まあ、文ではそなたのことを悪しざまに書くがな。それは堪えてもらいたい」

 

 小田が何とも言えない笑みを浮かべる。

 筆が書を綴るだけの静かな時が、しばし流れた。

 

 完成。

 

 親房は筆を置き、春日中将と共に再び頭を下げた。

 小田は深く拝礼し、退出していった。

 

「……顕家ならば、あの武士を踏み止まらせたろうな。城を落とすという考えすら、起こさせなかったであろう」

「ええ、入道。間違いなく」

「小田までもが、高氏めに降る。東国も、これで一区切りか」

「そうでしょうね」

「儂は吉野に戻り、次の手を打つ。中将は……」

 

 若き公家は、意地悪そうに微笑んだ。

 物心ついた頃から、"北畠顕家"にあてられ続けてきた男だ。

 学問も政も戦も、その全てをあの息子と共に過ごしてきた男だ。

 後を追うのを、これ以上引き止められはしない。

 

「……はあ。儂も、もう少しばかり粘るぞ」

「ありがとうございます」

 

 ひれ伏す中将に、親房は天井を仰ぐ。

 

 顕家は、放たれた矢のような息子だった。

 人の歩みでは到底追いつけない、何かだった。

 

 だからこそ誰もが必死に、後を追った。

 だからこそ春日中将も、そうしてしまう。

 

 自分には出来ない、危うい生き方だ。

 自分には、この筆一本しかないのだから。

 

 顕家は、筆一本すらも無数の矢に変えた。

 矢に変えて、多くを突き刺した。

 

 自分にとって筆とは、どこまでも自身の考えを写すものでしかない。

 壮大に書き綴ろうが、鋭く突き刺さり、すぐさま異常な熱をかき立てるものではないのだ。

 

「まったくもって、どうしようもないな」

 

 何がどうしようもないのだろう。

 駆け抜けていった息子か。

 その後を追いかける中将か。

 のろのろと地を這っている自分か。

 それとも、世の流れそのものか。

 

 

「まったく。儂には、これしかない」

 

 

 老人は墨をたっぷり含ませた筆を、紙へ力任せに押し付けた。

 染み込んでいく。

 広がっていく。

 やがて机にすら、黒色が広がり始めた。

 

 押し付けられた筆が、紙と机をしとどに濡らして物語る。

 

 これしかない。

 これしかないが、これこそが、北畠親房だと。

 


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