re:spring~もしも有馬公生が中学1年生の頃に逆行したら~   作:東雲るぅ

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「なぜわたしたちはこの地上に置かれたんだとおもう?チャーリー・ブラウン」
「他人をしあわせにするためさ」

チャーリー・ブラウン


3.再演

 ────────そして、コンクール当日が訪れた。

 

 

 

「次、13番、有岡さん、準備を……」

 

 会場のスタッフが、静粛に告げた。

 場所は待合室。並べられた椅子に、公生とかをりが座っていた。

 ここでもう2時間は待っている。

 一人また一人と、参加者が舞台に呼ばれていく。

 かをりは14番。次の演奏者が終わったら、舞台に上がるのだ。

 

 タキシードを身にまとった公生は、隣に座っているかをりに視線を移す。

 

「緊張している、宮園さん?」

「……うん」

 

 演奏会用のカラードレスに着替えたかをりは、ぼんやりと、心ここにあらずといった顔だった。

 

「もしかしてコンクールは初めて?」

「ううん、何回か出場したことはあるよ。けど、全国規模の大会には今まで出たことがなくて……」

「よしっ、じゃあ深呼吸して、いち、にっ、さん、息を吐いて」

 

 かをりは、公生の指示通りに、息を吸って、吐く。

 それからほっとした様子で、口を開いた。

 

「だ、だいじょうぶかも」

「怖い、失敗する、そう思うたびに、そうしてごらん。きっと落ち着けるから」

「さすが有馬君……」

 

 かをりがぼうっと口にすると、公生はぴしゃりと言い放つ。

 

「その言葉を口にするのは禁止」

「え? ご、ごめんなさい」

「別に悪く言っているわけじゃないよ。ただ、今日のオーディエンスや審査員が注目するのは、君。僕はあくまで伴奏者なんだ」

 

 公生は続けて、こう言い放った。

 

「このコンテストで演奏する誰よりも君がすごいことを、みんなに教えてあげよう」

 

 これは、公生にとっての誓いの言葉でもあった。

 

「僕が君をサポートする。君を輝かせてみせる」

 

 公生の瞼の裏には、記憶の中にいる、太陽のように輝くかをりの姿があった。

 

「だって君は、誰よりも美しい演奏家だからね」

「はわわ、有馬君、な、なにを言っているの……」

 

 かをりは、沸騰したやかんのように顔を真っ赤にさせる。

 公生も、我に返って、自分の発言を思い出して、恥ずかしさで悶えた。

 

 ふたり揃って、顔を真っ赤にさせて黙り込んでいると、会場スタッフから声がかかる。

 

「次の方14番、宮園さん、準備をお願いします」

 

 公生とかをりは椅子から立ち上がり、自分の楽器を携えて、ステージへ繋がる通路を進む。

 

 公生は、緊張をほぐすように小さくつぶやいた。

 

「エロイエッサム、エロイエッサム、我は求め訴えたり────」

 

 

 ★

 

 

「公生……ほんとうにピアノを弾くんだ」

 

 暗がりの観客席。

 そこで椿は、ひとりごちた。

 

 ステージのサイドから、二人の人影が現れる。

 正装を身に着けた、公生とかをりだ。

 隣に着席していた渡が心配そうに口にした。

 

「公生のやつ、丸々半年も弾いてなかったんだろう。ブランクがあるはずだぜ。大丈夫かな……」

「きっと、問題ないよ」

「なんでさ」

 

 椿は思い返すように、舞台上の薄く灯った照明を見上げた。

 

「最近、公生の家からピアノの音色が聞こえてくるの」

 

 幼い頃、公生の自宅からよくピアノの音色が聞こえていた。椿はそれを聞くのが好きだった。

 だが1年前、公生の母が亡くなり、目の光を失った公生は、ピアノを弾かなくなった。

 

「昨日……夜だったかな。公生のおうちからピアノが聞こえてきたの。まるで昔みたいな、柔らかい、自由なピアノの音だった……」

 

 椿は嬉しく思った。

 公生が、またピアノを弾くようになってくれて。

 

「まぁ、色々あったかもしれないけど、公生は立ち直ったんじゃねえの?」

「うーん、そうなんだけどさ……」

 

 渡の言葉に、椿はどうにも頷けずにいる。

 

(ヘンなたとえだけど、公生がずいぶん遠くに行っちゃったみたい……)

 

 あの入学式の日から、公生は、なんだか大人びた雰囲気をまとっている。

 まるで、何年かぶりに再会して友人のように感じるのだ。

 

 椿と渡が話しているうちに、舞台の準備が整った。

 グランドピアノの前に腰かけた公生。ヴァイオリンを鎖骨に乗せ、弓を構えたかをり。

 

 その瞬間、椿は見逃さなかった。

 

 公生とかをりの視線が絡み合った。

 椿の胸が、チクチクする。

 二人の姿が、心の奥底から通じ合っている恋人のように思えた。

 

(あれ……なんでだろ。公生は幼馴染なのに……)

 

 静寂だったホールに、ヴァイオリンの重厚な音色と、それを支えるようなピアノの音が、鳴りひびく。

 演奏が、はじまった。

 

 

 ★

 

 

 公生は、運命を感じていた。

 藤和音楽コンクール第一予選の課題曲は『サンサーンス 序奏とロンドカプリチオーソ』。

 その曲は、公生にとって思い出深い。

 2年後の未来、藤和音楽祭コンクールの2次予選で宮園かをりと協奏した、課題曲であった。

 

 なんという運命なのだろう、と公生は思った。

 

(滑り出しは……よし、順調!)

 

 かをりのヴァイオリンは、粗があり、たどたどしさがあった。

 なにより、かをりの息が荒い。そして弦を持つ手が小刻みに震えている。

 緊張しているのだろう。

 

(大丈夫だよ、宮園さん……)

 

 公生は、魔術師のように自在に両手を動かし、鍵盤をなぞる。

 

(やっぱり……イメージ通りにいかないなぁ。手が小さいからちょっと弾きにくい)

 

 中学一年生の頃の小さな体なので、手も小さいし、筋力が育っていない。

 だからイメージ通りに、体が動かず、演奏がしづらい。

 

(彼女が太陽ならば、自分は月だ)

 

 このコンテストで採点対象となるのは、宮園かをり。

 今求められるのは、いかに彼女の演奏を支えられるのかだ。

 

(せいいっぱい宮園さんが輝けるようにする……。それが僕がやるべきこと)

 

 公生のピアノは、太陽を影で見守る月のように、穏やかな音を立てる。

 そのおかげで緊張がほぐれたのか、かをりの演奏は安定しているようだった。

 

(うん……コンディションは良好みたいだね)

 

 このままいけば1次予選を間違いなく通過するだろう。

 そう確信した公生は、かをりにちらりと視線を送る。

 余裕を得つつあるのか、かをりが見返してくる。

 

(まぁ、そもそもこの曲は難しいんだよな。中学1年でこれを弾ける宮園さんは相当な逸材だよ……)

 

 ふいに演奏中だというのに、公生は考え込んでしまう。

 

(本当にこのままでいいのかな?)

 

 公生はかをりと演奏がしたかった。それが今、こうやって叶った。

 だというのに、なにかが足りないような気がしてならない。

 

 いったい、何が物足りないというのだ。しばらく考え込んだ公生は、思い至る。

 

(宮園さんの演奏ってこんなものだったっけ?)

 

 公生の知るかをりの演奏は、もっと自由気ままだった。

 テンポも強弱も伴奏者も、作曲家の意図すらも無視して演奏。

 楽譜を「五線譜の檻」と呼び捨ててしまうほどに、彼女は楽譜に忠実であることを嫌った。

 

 今の宮園かをりは、譜面をさらうだけの、悪く言えばありきたりな演奏。

 それはもっとも彼女が嫌うものではなかったのか?  

 

(宮園さん……?)

 

 異変が起こったのは、演奏が終盤の入ってからのことだった。

 かをりの演奏が、突然おかしくなった。テンポ、リズム、それらがズレだして、崩壊していく。

 

 公生は、かをりの方に視線をやったあと、背筋が凍った。

 

 かをりは、青ざめた顔をしていた。

 今にもヴァイオリンを落としてしまいそうなほどに、握りしめたの手は震えていた。

 

 今のかをりは、かつての有馬公生とそっくりだった。

 

 

 ★

 

 

 いやだ、死にたくない。

 

 かをりの心は、恐怖で埋め尽くされていた。

 

『僕を君の伴奏者にしてほしい』

 

 あの病室で、憧れの有馬公生はそう言い放った。

 絶望の中にいたかをりにとって、公生は、まるで地獄の中で垂らされた蜘蛛の糸のように思えた。

 

『わたしと舞台で演奏してください』

 

 だから、かをりは必死で縋り付いたのだ。

 自分はあと数年で死ぬ。

 その現実を忘れたくて、公生との練習に必死で取り組んで、現実から目をそらしたかった。

 

 けれど、いくら現実から目をそらそうとも、かをりは向き合わざるを得ない。

 

 暗がりの向こうに座っている観客席。静謐な演奏ホールの空間。本番の緊張感。

 ここは、自分の演奏を披露し、採点してもらう場所。

 それは、演奏者にとっての現実だ。

 

 ────『あの子が長くないってどういうことですか!』

 

 思いだすのは、両親の悲痛な叫び。

 かをりの手が震えた。

 

(……怖いよ。死にたくないよ)

 

 かをりは「余命数年」という現実をあらためて実感した。

 

(そっか、わたし、死んじゃうんだ。死んじゃって、ヴァイオリンも弾けなくなるし、カヌレも食べられなくなるんだ)

 

 どうせ死ぬなら、演奏をしたって、無意味なのではないか?

 

 そう思えば、先ほどまで熱心に動いていた手も、緩やかになっていく。

 かをりのヴァイオリンは、歪んだ不協和音を奏でた。

 

(じゃあ、なんで今演奏しているんだろう?)

 

 たとえどんな素晴らしい演奏をしても、理想のヴァイオリニストになっても、どんな素敵な恋をしても、たくさんのカヌレを食べることができても……。

 

 自分が今まで積み上げてきた感情も、思い出も。

 残されたわずかな時間さえも。

 

 死んでしまえば、全部、無意味だ。

 

 

 かをりは、演奏を停止させた。

 それに伴い、公生もピアノをとめた。

 

 観客席がざわつく。

 動揺、困惑、呆れ、不安、心配。さまざまな感情でホールはいっぱいだった。

 

(わたし、サイテーだ。本当に、何をしているんだろ)

 

 脱力したかをりは、ヴァイオリンと弦をだらん、と地面に向けて垂らす。

 

(ごめんなさい、公生君、伴奏をしてくれた君に泥を塗っちゃった……ごめんなさい)

 

 演奏者が途中で演奏を放棄するなんて、この時点でかをりのコンクールは失敗だ。

 さらには伴奏者になってくれた公生の評判に、傷がつくかもしれない。

 

(わたしと違って、有馬君は誰もが認めるすごいピアニストなのに。どうして、わたしなんかのために……)

 

 自己嫌悪。後悔。絶望。

 かをりの中で、負の感情がうずまいて、その場から逃げ出したくなって。

 

「……あ」

 

 視線を感じる。

 顔を上げたかをりは、その視線の正体を知る。

 公生は、暖かいまなざしでこちらを見ていた。それから彼は声高に叫んだ。

 

「アゲイン!!」

 

 それは、音楽室で彼が言った言葉だ。

「もう一度」と求める彼の声。 

 だけどかをりは、その言葉が以前とまったく別の意味であるように聞こえた。

 

 ピアノの音が鳴り響く。

 手が止まった演奏者を無視して、伴奏者である公生は弾き直しているのだ。

 

「……有馬くん」

 

 疑問が浮かぶ。

 何のために、自分は舞台に立っている? 

 どうして自分は、ヴァイオリニストを目指したのか? 

 

(理由なんて……わかりきっている)

 

 宮園かをりは、有馬公生に恋をした。

 そして、いつか同じ舞台で一緒に演奏をしたいと思った。

 

 その憧れは、今この時この場所で、実現している。

 

 かをりは、震える手で弓を握り締めた。

 

(わたしは死ぬ。それは変えられないのかもしれない)

 

 この先、自分は悲惨な最期を迎えるかもしれない。

 けど、そんなのどうだっていい。

 かをりは、ヴァイオリンを構える。

 

(今は、公生君と一緒に音楽を演奏できればそれでいい!)

 

 弓が弦を擦った。

 

 この演奏が終わったら、やりたいことをやろう。

 怖かったコンタクトレンズをつけてみよう。

 可愛らしいオシャレをしてみよう。

 もっと笑顔で天真爛漫に! 

 

(……わたし、公生君のことが好きになって良かった)

 

 大好きな有馬公生が好きになってくれるような、素敵な女の子に! 

 

(届くかな……届くといいな、わたしの気持ち)

 

 まるで砂を噛むような音。

 次の瞬間、音が跳ねた。

 火花のように、空気を弾く。 

 

 この瞬間をもって、宮園かをりは、演奏家として完成した。

 

 

 ★

 

 

 椿は、会場の雰囲気が一変したのを感じ取った。

 

(これって予選落ちたよね……なんで、もういっかい?)

 

 伴奏者である公生によって、弾き直された『序奏とロンドカプリチオーソ』。

 観客席の人々はどよめく。

 たしかにコンクール内の規則では、時間内であれば弾き直しは可能だ。

 だが今更、評価は覆らない。

 

 しかしそれでも、観客席にいた人々は、ただ釘付けになっていた。

 

 宮園かをりも演奏を再開した。

 だが音が違う。荒々しいというのに、美しさが伴っている。

 

(……本当に、かをちゃんが弾いているの? さっきとまるで別人みたい)

 

 それは作曲家の譜面などまるで無視。自分らしく、生き生きとした演奏。コンクールの趣旨などまるで気にしていない。

 

 椿は宮園かをりの演奏に言葉を失った。

 だが、次の瞬間、それを凌駕する感情が押し寄せた。

 

 かをりの演奏とぶつかるように、もう一つの音が現れる。

 あれはピアノの音。

 有馬公生の演奏だ。

 

 椿は、腹の底からビリビリするような感覚を味わった。

 

 手が鍵盤の上を、蜘蛛の足のように自在に動く。

 

 それは、楽譜の指示を無視したものだ。

 だがそれは、宮園かをりの演奏とは全く異質なものだった。

 恐ろしいほどの緻密さ。だというのに、その音色は感情をかきたててくる。

 

(公生って、こんな演奏ができるんだ……)

 

 ふと見渡せば、観客席にいる全員が、白昼夢を見ているかのように舞台に釘付けだ。

 

 ホールは宮園かをりの演奏が支配していた。

 だがこの空間に、もう一人の支配者である有馬公生が降り立った。

 

 ピアノの旋律。耳に入った途端、椿の頭の中に情景が浮かぶ。

 それはフランスの街並みだ。

 朝の、建物に挟まれた小径。雨を含んだ石畳がほの暗く光り、街路樹の葉から雫が落ちていた。

 

 椿は、昔聞いたある言葉を思い出す。

 音楽とは、人の聴覚を強く刺激する。そしてそれ以上に五感を刺激してくる。

 まさに、この演奏こそがそうなのだろう。

 

 ────だが。

 

 次の瞬間、風景が霧散した。

 力づくで、ピアノの音色が引きつぶされているのだ。

 

 宮園かをりの演奏だ。

 

 ヴァイオリンが押し切るように、旋律をねじ込む。

 観客の意識が、かをりのヴァイオリンに飲み込まれていく。

 しかし瞬く間に、ピアノがそれを飲みこみ、観客の注意を取り戻す。

 かと思えば、ヴァイオリンの音色が前へ突き破る。

 

 ふたりの演奏が、お互いの個性を主張するかのように、ぶつかりあう。

 

 観客の誰かがぼそりとこぼした。

 

「まるで、殴り合いみたいだ……」

 

 

 ★

 

 

「こんなものは、厳粛なコンクールにふさわしくない……」

 

 審査員の風間は、眉間にしわを寄せた。

 

(あの14番の宮園という娘はくだらん。ここを自分のコンサート会場かなにかだと思っている……)

 

 それよりも、と風間はにらみつけるような視線を舞台に移す。

 

(しかし有馬公生! お前には心底呆れた!)

 

 風間は、昔の有馬公生の演奏を思い返す。

 譜面通りに、一切ズレのない、機械的で正確無比。まるでメトロノームの振り子のようなピアノ。 

 だが久しぶりに姿をあらわし、表舞台に立ったかと思えば、伴奏という役割すらも放棄する愚行に走る。

 

(つまらん、おまえたちはコンテストに失格だ)

 

 風間は吐き捨てるように、宮園かをりのチェックシートに不合格のバツをつける。

 それから興味がないとばかりに、目を閉じる。

 

 目を閉じる……だが、旋律はどうしても聞こえてしまう。

 

 認めたくない。認められない。はずなのだが……。

 せめぎあうヴァイオリンとピアノの旋律が、閉ざしたはずの心を、無理やりこじ開けてくる。

 

 それから風間は顔をしかめつつも、ひとりの聴衆として、この恐ろしくも荒々しい音楽を聞き入った。

 

 

 ★

 

 

 公生は、全身が灼けつくような感覚に襲われる。

 これは、自分の体が疲労で削られているのだ。

 今、自分の体は限界を超えて稼働しているのかもしれない。

 体はまだ中学1年生。

 逆行してきた自分が思い描くイメージと演奏の技術を無理やり発揮しようとしても、肉体がついてくはずがない。

 

(……なんだか心と体が別物みたいでヘンな感じだ)

 

 公生はかをりへ静かに視線を送り、心の中でこう語りかける。

 

(もっと君なら、できるだろう?)

 

 未来の世界で、公生の師匠だった人物はこう言った。

 

 ────『時として、伴奏者とヴァイオリニストはせめぎあうものよ』

 

(そうだね、紘子さん。やっぱり、こうするのが一番だ)

 

 言葉ではけっして伝えない。音楽で背中を押すのだ。

 君ならできる、見せてごらん、と。

 そうして繰り広げられるのは、お互いの個性を主張するかのような、でたらめな演奏だ。

 

(あはは、ちょっとやりすぎたかな? これは後で審査員の人に怒られるかもしれないな……)

 

 公生は伴奏者としての役割を忘れているし、一方かをりは、コンテストで勝ち抜くという目的を忘れているらしい。

 

(けど、君も僕もこういう音楽家なんだし、仕方がないか)

 

 そして、ついに演奏にピリオドが打たれた。

 弾き終えたヴァイオリンとピアノ。

 

 ホールは、沈黙に包まれた。

 

 誰も、拍手しない。

 いや、できない。

 

 きっと息をすることすら、忘れている。

 

 

 

 

 

 

 

 パチパチ、と誰かが拍手した。

 伝搬したかのように、他の観客たちも拍手を送る。

 それがどんどん広まって、会場内は聴衆者たちの拍手の音で満たされた。

 やがて会場は歓声で埋め尽くされた。

 

 賞賛の声、鳴りやまない拍手の中、公生は椅子から立ち上がる。

 それから観客席を前に、呆然としているかをりに近づく。

 

「演奏が終わったら、あいさつ」

「うん!」

 

 かをりは慌てた様子で、ぺこりと頭を下げる。公生も続いて礼をした。

 

 かをりは、目を輝かせて、舞台の向こうの観客席を眺めている。

 公生は、かをりに告げた。

 

「君はすごい演奏家だってことを、今日この場にいるみんなが知ったんだ」

「有馬君……」

「戻ろっか、椿と渡が待っているよ」

 

 舞台から立ち去ろうと、かをりの手を掴んで、公生は歩き出した。

 

 その時である。

 

(っ、痛っ……なんだ?)

 

 焼き付くような痛みが、両手に走った。

 公生は、咄嗟に自分の両手を見下ろした。

 特に、なにかケガをしたわけではない。

 

 試しに、指を動かしてみるが、さきほどの痛みが襲ってこない。

 

(なんだったんだ、今のは? 筋肉痛だったりして?)

 

 背後にいたかをりが、心配そうに首をかしげている。

 

「どうしたの有馬君?」

 

 公生は「大丈夫だよ」と気丈に振る舞った。

 

 

 

 

 

 その後、舞台から出た公生とかをりを、椿と渡が迎えいれた。

 そして数時間後、第一予選の結果が発表された。

 

『14番 宮園かをり』の横には、バツのマーク。

 結果は、不合格であった。

 

 それは当然の帰結だろう。

 

 演奏の中断。

 コンテストの採点基準においては、致命的であり、かをりも公生もハナから失格を受け入れていた。

 そんな惨状に反し、観客からは絶賛の声が途切れなかった。

 

「あの二人の演奏をもっと聞きたい」「次の予選に進ませるべきだ」「有馬公生はやはり神童だった」「いや、一番すごかったのはあの少女だ」

 

 しかしそんな議論の声はむなしく、一次予選敗退という結果に終わった。

 

 未来の知識を持つ公生のみが知ることだが、翌年、藤和音楽コンクールは『聴衆推薦』という制度が導入される。

 観客が推薦した演奏者を特別枠として二次へ通過させる仕組みだが、今の時点ではそれは存在しない。

 もしあれば、観客たちの声により、かをりは次の選考を進めたかもしれない……。

 

「ごめんね、有馬君、せっかく伴奏役になってくれたのに。こんな結果に終わっちゃって……」

 

「いいんだ。それに、僕だって後半好き勝手弾いていたし、気にすることはないよ」

 

 しょんぼりするかをりを、公生が励ました。

 

「公生とかをちゃんの演奏すっごくよかった!」

「まるでライブ会場みたいだったぜ。出場者の中で一番人気なんじゃねえのか?」

 

 別に構わない。

 椿と渡が、今回の演奏をほめちぎってくれている。

 例え審査員が、聴衆が絶賛しようとも、公生にとって二人の賞賛がやはり一番うれしかった。

 

 現に、かをりも喜ばしそうに、頬を緩ませていた。

 

 

 ★

 

 

 それから、数日後。

 HR後の閑散とした放課後の教室。

 そこに、かをりの恥ずかしがるような声が響いた。

 

「みんな、どうかな……」

 

「おお! かをちゃん似合っている!!」

「かをりちゃんの魅力が何倍にも膨れ上がっているぜ! もう学年イチのマドンナといってもいいんじゃないかぁ?」

 

 渡と椿がきゃっきゃっと騒ぎ立てている。

 かをりは、頬をポリポリかきながら、言った。

 

「あはは、ありがとう。思い切って、イメチェンしてみたんだ。パパとママもすごく褒めてくれたの」

 

 公生は、思わず見とれてしまった。

 

 髪結びをほどき、背中まで伸ばした鮮やかな金髪。

 黒縁のメガネを外して、コンタクトをつけている。

 まるで輝く太陽のような、天真爛漫な印象を受ける。

 

 今のかをりは、そう、未来の世界で出会った宮園かをりと同じ姿をしている。

 

 どきり、と心臓が高鳴った。

 

「有馬君は……どう?」

 

 かをりは、髪を指で巻きながら、上目遣いで感想を求めてくる。

 

「えっと……」

 

 頭がかぁっと熱い。

 どうしてなのか、何も喋れない。

 そうこうしているうちに、椿と渡が騒ぎ出した。

 

「公生! なに口ごもっているの? ここは『カワイイ!』って答えるのがスジってもんでしょ」

「そうだぜ、そうだぜ、かをりちゃんを口説く絶好のチャンスだぜ」

「え、えっと……」

 

 公生は、勇気を出して告げた。

 

「すごく素敵だよ、宮園さん」

 

 その一言。

 かをりは、目をぱちっと見開いたあと、だんだんと顔が朱色に染まっていく。

 

「うん。嬉しい。有馬君にそう言ってくれるなんて……」

 

 そう発して、かをりは俯いて一言も話さなくなった。

 公生も、恥ずかしくなって、口をつぐんだ。

 そんな状態を、ニヤニヤと観察していた渡。一方椿は、一瞬だけ複雑そうな表情を浮かべた。

 

「おっとヤベエ、部活の時間だ!」

「私も私も! じゃあね、公生、かをちゃん、二人で仲良くしててね~」

 

 やがて、二人は用事を思い出したのか、教室の外へ出ていく。

 教室に残されたのは、黙り込んだままの公生とかをりだった。

 

(こういう状態になるの、今回で何回目なんだ?)

 

 お互いに、言葉が詰まって沈黙してしまう。

 

(宮園さんはどうしていつもこんな態度を取るのだろうか……? もしかして、僕が挙動不審になるから困ったりして……)

 

 そんな公生に対して、かをりが意を決したように言った。

 

「一緒に帰らない? 放課後、寄りたいところがあるの」

「どこに?」

「ケーキ屋さん」

 

 かをりは、はにかんだ。

 

「病院の分のカヌレ。お返ししたいから」

 

 まるで夏に咲く向日葵のような笑みだった。

 公生の心臓が高鳴る。

 

 これから自分たちの未来はどうなるのか分からない。

 ただ、今は、今この瞬間は。

 もう一度、宮園かをりと同じ時間を過ごせることに心から感謝をした。

 

 

 

 

 

 

「あ、紘子さん、お久しぶりです」

 

「有馬公生です……」

 

「少し、紘子さんにご相談したいことがあるんです」

 

「はい、どうしても助けたい人がいるんです」

 

 

 

 




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