『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』 作:パスカルDX
第1話 最強生物、空から宿へ落ちる
空が燃えていた。
赤く染まった雲の下、巨大な鬼ヶ島が夜空に浮かび、その周囲では雷鳴と覇気が幾度となくぶつかり合っていた。
岩盤は砕け、炎は渦を巻き、地上から見上げる者たちの心臓を震わせるほどの衝撃が、空を通じてワノ国全土へ伝わっていく。
その中心にいたのは、二人の怪物だった。
一人は、麦わら帽子を背負った若き海賊。
そしてもう一人は、百獣海賊団総督――百獣のカイドウ。
長い戦いだった。
数え切れないほどの者が倒れ、立ち上がり、また倒れた。カイドウ自身もまた、これまで経験したことのないほどの攻撃を受けている。
それでも、彼の口元には笑みがあった。
「ウォロロロロロ!」
巨大な青龍となったカイドウの咆哮が、暗雲を吹き飛ばす。
対するルフィは、空を覆うほど巨大な拳を振り下ろそうとしていた。
拳には覇気がまとわりつき、触れてもいない空間が軋んでいる。
「カイドウォォォォッ!」
「来い、麦わらァ!」
その瞬間、両者の力が真正面から激突した。
世界そのものがひっくり返ったかのような轟音が響く。
雷が消え、炎が散り、雲が円形に吹き飛んだ。
カイドウの体を包んでいた炎龍が砕け、巨大な拳が青龍の頭部へと叩き込まれる。
「ぐ……おおおおおおッ!」
カイドウの巨体が、空中で大きく揺らいだ。
押し返そうとする。
牙を食いしばり、最後の力を振り絞る。
だが、拳は止まらなかった。
カイドウの巨体は鬼ヶ島を突き抜け、そのままワノ国の大地へと落下していく。
地面が迫る。
岩盤が崩れる。
熱が体を包み込む。
そのはずだった。
「……ん?」
落下しながら、カイドウは片目を開いた。
眼下にあったはずの大地が消えている。
代わりに存在したのは、黒い穴だった。
闇というよりも、何もない空間。
穴の周囲には青白い光が走り、雷にも似た音を立てていた。
「何だ、こいつァ」
避ける余裕などない。
カイドウの巨体は、そのまま穴へと吸い込まれた。
上下左右の感覚が消失する。
全身を引き裂かれるような圧力。
悪魔の実の力も、覇気も、何もかもが体の奥底から引きずり出されるような感覚に襲われた。
「ウォロロロ……面白ェ……!」
普通の人間なら、恐怖で叫び声を上げていただろう。
しかし、そこは百獣のカイドウである。
死ぬかもしれない状況を前にして、むしろ楽しそうに笑っていた。
「今度こそ……死ねるってんなら、悪くねェ!」
そう叫んだ直後。
カイドウの意識は、闇の中へ飲み込まれた。
◇◇◇
フィオーレ王国の辺境。
深い森と小さな集落に囲まれた静かな土地に、一つの魔導士ギルドが存在していた。
その名は《化猫の宿》。
大陸中に名を轟かせるような巨大ギルドではない。
所属する魔導士の数も多くはなく、外から見れば、木造の大きな宿屋とさほど変わらない建物だった。
だが、そこに暮らす者たちにとっては、かけがえのない家である。
その日も、化猫の宿には穏やかな時間が流れていた。
「ウェンディ、そっちの薬草を取ってくれるかのう」
「はい、マスター!」
水色の長い髪を揺らしながら、少女が棚へと駆け寄る。
彼女の名はウェンディ・マーベル。
化猫の宿に所属する、天空の滅竜魔導士である。
まだ幼さを残した少女ではあるが、治癒魔法を得意としており、近隣の村人たちからも信頼されていた。
ウェンディは棚の上段に手を伸ばした。
しかし、ほんの少しだけ届かない。
「ん……もう少し……」
「まったく、見ていられないわね」
声と共に、白い小さな影が宙へ浮かんだ。
背中から翼を生やした白い猫――ではなく、エクシードのシャルルである。
シャルルは薬草の袋を前足で持ち上げ、ウェンディへ差し出した。
「はい」
「ありがとう、シャルル」
「次からは椅子を使いなさい。棚ごと倒したら危ないでしょう」
「うん。気をつけるね」
ウェンディが素直に頷く。
そのやり取りを、ギルドマスターのローバウルは穏やかな表情で見守っていた。
「今日も平和じゃのう」
「マスター、その台詞はやめた方がいいと思うわ」
シャルルがじろりとローバウルを見る。
「なぜじゃ?」
「そういうことを言った直後には、決まって何か起こるものよ」
「考え過ぎではないかのう」
「いいえ。これは経験から来る予測よ」
シャルルは腕を組み、窓の外へ目を向けた。
空は青く、雲は少ない。
風も穏やかで、鳥たちの鳴き声が森から聞こえてくる。
どう見ても平和そのものだった。
「ほれ、何も起きそうにないじゃろう」
「そうね。このまま何も起きなければいいけれど」
「シャルルは心配性だね」
ウェンディは笑いながら、薬草を机の上へ並べた。
その時だった。
窓の外を、一羽の鳥がものすごい勢いで横切った。
続いて、二羽、三羽。
森にいた鳥たちが、一斉に空へ飛び立っていく。
「……何かしら」
シャルルの耳がぴくりと動いた。
鳥だけではない。
森の奥から、獣たちが逃げ惑う気配がする。
地面が、わずかに震えていた。
「地震でしょうか?」
ウェンディが不安そうに天井を見上げる。
ローバウルは目を細めた。
「いや……上じゃ」
「上?」
三人が、同時に空を見上げる。
最初は、小さな黒い点だった。
青空の中央に、ぽつりと浮かぶ影。
それが、みるみるうちに大きくなっていく。
「何か落ちてきます!」
ウェンディが声を上げた。
「隕石!?」
「いや、違うわ!」
シャルルは目を凝らした。
黒い影は長い。
大蛇のように体をくねらせ、雲を引き裂きながら落下している。
やがて、青い鱗が太陽の光を反射した。
二本の角。
鋭い牙。
巨大な爪。
「ドラゴン!?」
ウェンディの瞳が大きく見開かれる。
空から落下してきたのは、巨大な青龍だった。
全身は傷だらけで、鱗の一部は砕け、血が風に散っている。
それでもなお、その姿から放たれる威圧感は尋常ではなかった。
ただ落ちてきているだけなのに、周囲の空気が重くなる。
「ウェンディ、離れなさい!」
シャルルが叫ぶ。
「でも、あのドラゴン……怪我をしています!」
「怪我をしているとか、そういう問題じゃないわ! こっちに落ちてくるのよ!」
「え?」
ウェンディが青龍の軌道を確認する。
青龍は化猫の宿の真上へ落下していた。
「ええええええええっ!?」
ウェンディの悲鳴が響く。
「外へ出るんじゃ!」
ローバウルの声で、三人は慌てて建物から飛び出した。
ギルドにいた者たちも、次々と外へ避難していく。
全員が外へ出た直後。
青龍が、化猫の宿へ直撃した。
凄まじい轟音。
地面が大きく揺れ、土煙と木材が空高く舞い上がる。
屋根が吹き飛び、壁が崩れ、窓ガラスが粉々に砕けた。
衝撃でウェンディの体が浮き上がる。
「きゃっ!」
シャルルがウェンディの服を掴み、空中で支えた。
しばらくして、土煙がゆっくりと晴れていく。
化猫の宿は、半分ほど潰れていた。
建物の中央には巨大な穴が開き、その中に青龍が横たわっている。
長い体が建物を突き破り、尻尾だけが外へ飛び出していた。
「宿が……」
ウェンディが呆然と呟く。
「だから言ったでしょう!」
シャルルがローバウルを振り返る。
「平和だなんて言うからよ!」
「わしのせいかのう!?」
「少なくとも半分はマスターのせいよ!」
「残り半分は誰のせいなんじゃ?」
「落ちてきた龍よ!」
シャルルが青龍を指差す。
青龍は動かない。
目を閉じ、息もしていないように見えた。
ウェンディの表情が変わる。
「助けないと」
「ウェンディ?」
「すごい怪我です。早く治療しないと、このままじゃ死んじゃいます!」
ウェンディは瓦礫の中へ走り出した。
「待ちなさい!」
シャルルが追いかける。
「危険よ! 目を覚まして襲ってきたらどうするの!」
「でも、放っておけないよ!」
「あれはドラゴンなのよ!」
「ドラゴンでも怪我をしているなら、患者さんです!」
ウェンディは迷わなかった。
巨大な青龍の頭部へ近づき、傷ついた鱗へ手を当てる。
触れた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
気絶しているにもかかわらず、青龍の体から恐ろしいほどの力を感じる。
魔力とは違う。
だが、魔力にも似た何か。
何百、何千もの戦場を越え、多くの命を奪ってきた者だけが持つ、濃密な圧力。
ウェンディの手が震えた。
怖い。
本能が、この存在に近づいてはいけないと告げている。
それでも、ウェンディは手を引かなかった。
「大丈夫です」
誰に言い聞かせるでもなく、ウェンディは呟いた。
「今、治しますから」
青白い光が、ウェンディの両手から溢れ出す。
「天の活性魔法……!」
天空の魔力が青龍の体を包み込む。
傷ついた鱗が、少しずつ修復されていく。
だが、あまりにも体が大きい。
治療に必要な魔力も、通常の人間とは比較にならなかった。
「ウェンディ、無理をしないで!」
「まだ……大丈夫……!」
額に汗を浮かべながら、ウェンディは治癒魔法を続ける。
すると、青龍の体に異変が起きた。
鱗の隙間から、青白い光が漏れ始める。
「何、この光……」
シャルルが目を細める。
光は次第に強くなり、青龍の全身を覆っていく。
巨大な体が、少しずつ縮み始めた。
「え?」
ウェンディが目を丸くする。
数百メートルはあった長い体が、急速に小さくなっていく。
角も、牙も、爪も消え、龍の姿が人の形へと変化していった。
光が収まった時、瓦礫の中に倒れていたのは、一人の青年だった。
黒い長髪。
二本の太い角。
鍛え上げられた肉体。
年齢は二十代前半ほどに見える。
身長は二メートルを軽く超えており、人間としても十分に大柄だった。
ただし。
「……服がありません」
ウェンディが真っ赤になって顔を背けた。
「見ちゃ駄目よ、ウェンディ!」
シャルルが慌ててウェンディの顔を両前足で隠す。
「見てません! 見てませんから!」
「指の隙間から見えているわ!」
「見てません!」
「とにかく何か掛けなさい!」
ローバウルが大きな布を持ってくる。
それを青年の体へ掛けた直後。
青年の指が動いた。
「……ん」
低い声が漏れる。
ウェンディとシャルルが同時に固まった。
青年が、ゆっくりと目を開く。
鋭い瞳だった。
目覚めたばかりだというのに、その眼光だけで周囲の空気が変わる。
「……ここは」
青年は上半身を起こした。
頭を押さえ、辺りを見回す。
知らない森。
知らない建物。
見たことのない者たち。
そして、自分の前に立っている小さな少女と白い生き物。
「何だ、ここは」
「しゃ、喋った……」
ウェンディが驚く。
「人の姿なんだから、喋ってもおかしくないでしょう!」
シャルルが小声で突っ込む。
青年は、自分の手を見た。
次に腕を見て、胸元へ視線を落とす。
何度か指を曲げ、拳を握る。
「……小さくなってやがる」
立ち上がろうとした瞬間、青年の体がふらついた。
ウェンディが慌てて支えようとする。
「危ない!」
だが、体格差がありすぎた。
青年の体重が乗った瞬間、ウェンディは一緒に倒れそうになる。
「きゃあっ!」
青年は咄嗟に片手を地面へつき、倒れるのを防いだ。
地面が、拳一つで大きく陥没する。
周囲の者たちが息を呑んだ。
「……力も落ちてやがるな」
青年は不満そうに呟いた。
「今ので力が落ちているですって?」
シャルルが陥没した地面を見る。
人間の拳でできる穴ではない。
「全盛期はどれだけ化け物だったのよ……」
「おい」
青年の鋭い視線が、シャルルへ向く。
「誰が化け物だ」
「あなた以外に誰がいるのよ!」
「シャルル!」
ウェンディが慌てて止める。
青年はシャルルを睨んだ。
シャルルも負けじと睨み返す。
しばらく無言の睨み合いが続いた。
先に口を開いたのは、青年だった。
「白い狸が喋ってやがる」
「誰が狸よ! 私はエクシードよ!」
「猫じゃねェのか」
「猫でもないわ!」
「化猫の宿にいるくせにか」
「今起きたばかりなのに、どうして宿の名前を知っているのよ!」
青年は黙って、半壊した建物の看板を指差した。
瓦礫の中に、《化猫の宿》と書かれた看板が転がっている。
「……読めるのね」
「文字くらい読める」
「別の世界から来たような雰囲気を出しているのに?」
「別の世界?」
青年の眉が動いた。
ウェンディは恐る恐る話しかける。
「あの……ここはフィオーレ王国です。魔導士ギルド、化猫の宿という場所で……」
「フィオーレ王国?」
聞いたことのない名だった。
カイドウは記憶を辿る。
ワノ国。
鬼ヶ島。
麦わらとの戦い。
巨大な拳。
そして、落下の途中で現れた黒い穴。
「なるほどな」
青年――カイドウは、状況を理解した。
「どうやら、妙な場所に飛ばされたらしい」
「妙な場所とは失礼ね」
シャルルが腕を組む。
「それより、あなた名前は?」
「人に名を聞くなら、まず自分から名乗るもんじゃねェのか、白狸」
「だから狸じゃないわ!」
「わ、私はウェンディです! ウェンディ・マーベル!」
喧嘩になりそうな二人の間へ、ウェンディが割って入る。
「この子はシャルルです。それから、こちらは化猫の宿のマスター、ローバウルさんです」
「ほう」
カイドウの視線がローバウルへ向く。
老人は、目の前の怪物を見ても動じていなかった。
「わしはローバウルじゃ。お主、空から降ってきたが、体は大丈夫かのう?」
「空から降ってきた?」
カイドウは周囲を見回す。
半壊した建物。
自分の体の下に広がる巨大な穴。
飛び散った屋根。
折れた柱。
壊れた家具。
「……おれがやったのか」
「そうよ!」
シャルルが叫んだ。
「見事に宿の半分を壊してくれたわ!」
「ウォロロロロロ!」
カイドウは豪快に笑った。
「笑い事じゃないわよ!」
「悪かったな」
まったく悪びれた様子のない声だった。
「反省していないでしょう!」
「落ちる場所を選べる状況じゃなかったんでな」
「それはそうだけど!」
理屈としては正しい。
正しいが、納得しにくい。
シャルルは悔しそうに歯を食いしばった。
ウェンディは、カイドウの体を見た。
若返ったとはいえ、傷がすべて治ったわけではない。
胸元や腕には裂傷が残り、呼吸もわずかに乱れている。
「あの、まだ動かない方がいいです」
「あ?」
「傷が残っています。もう少し治療をしないと」
「この程度、傷のうちに入らねェ」
カイドウが立ち上がる。
掛けられていた布がずり落ちそうになり、ウェンディが再び顔を赤くした。
「動かないでください!」
「何だ」
「布が落ちます!」
「別に構わん」
「私たちが構います!」
ウェンディとシャルルの声が重なった。
ローバウルが咳払いをする。
「まずは服を用意した方がよさそうじゃな」
「そうしてくれ」
「ずいぶん偉そうね。宿を壊した客のくせに」
「客?」
カイドウが首を傾げる。
「誰がお前らの客になった」
「それなら、すぐ出ていってもらいましょう」
シャルルが冷たく言う。
「行き先はあるの?」
「……」
「この国の名前も知らない。お金もない。服もない。知り合いもいない」
シャルルは一つずつ指摘していく。
「それで、どこへ行くつもり?」
「……」
カイドウは答えなかった。
痛いところを突かれている。
百獣海賊団の総督。
四皇。
最強生物。
その肩書きは、この世界では何の意味も持たない。
部下はいない。
鬼ヶ島もない。
船もない。
金棒すらない。
そして何より。
「酒はあるのか」
「最初に聞くことがそれなの!?」
シャルルが叫ぶ。
カイドウは真剣な表情だった。
「重要なことだ」
「食事や寝床よりも?」
「酒があれば何とかなる」
「ならないわよ!」
ウェンディが困ったように笑う。
「お酒なら、少しだけありますけど……怪我をしている時に飲むのはよくないです」
「あ?」
カイドウの視線がウェンディへ向く。
その眼光に、ウェンディの肩が跳ねる。
「今、何と言った」
「け、怪我をしている時に、お酒は駄目だと……」
「おれに酒を飲むなと言うのか」
周囲の空気が重くなる。
ギルドの者たちが後ずさった。
シャルルも警戒する。
だが、ウェンディは逃げなかった。
怖い。
膝も震えている。
それでも、治療をする者として譲れないことがある。
「駄目です」
ウェンディは、はっきりと言った。
「傷が開いてしまいます。それに、今は体力も落ちていますから」
静寂。
カイドウは無言でウェンディを見下ろしている。
ウェンディは涙目になりながらも、視線を逸らさない。
やがて、カイドウが口を開いた。
「……一杯だけだ」
「駄目です」
「樽の半分」
「増えています!」
「なら、樽の蓋を舐めるだけでいい」
「余計に嫌です!」
ウェンディの返答に、周囲が静まり返る。
最強の威圧感を放つ謎の男と、年端もいかない少女。
どう見ても、少女の方が押していた。
カイドウの眉間に皺が寄る。
しかし、次の瞬間。
「ウォロロロロロ!」
カイドウは腹を抱えて笑い出した。
「面白ェ小娘だ!」
「笑っても駄目です!」
「命を助けた奴の言葉は聞けってか」
「そういうわけでは……」
「まあいい」
カイドウは瓦礫へ腰を下ろした。
大きな音を立てて、瓦礫がさらに崩れる。
「あっ」
ウェンディが声を漏らす。
シャルルのこめかみに青筋が浮かんだ。
「今、宿の残った部分まで壊したわね」
「脆い建物だ」
「あなたが重すぎるのよ!」
「うるせェ白狸だな」
「エクシードよ!」
再び口喧嘩が始まる。
ローバウルは髭を撫でながら、楽しそうに笑っていた。
「しばらく、ここに滞在してはどうかのう」
シャルルが勢いよく振り返る。
「マスター!?」
「行く場所もないようじゃし、傷も治っておらん。治療が終わるまで、客として迎えればよい」
「こんな危険人物を!?」
「危険かどうかは、まだ分からんじゃろう」
「宿を半壊させた時点で危険よ!」
「事故じゃからのう」
「事故で済ませられる規模じゃないわ!」
カイドウは鼻を鳴らした。
「客として迎えるだと?」
「そうじゃ」
「おれは金を持ってねェぞ」
「屋根の修理代も払ってもらわねばならんからのう」
「……何?」
ローバウルは笑顔のまま続けた。
「傷が治ったら、働いて返してもらおうかのう」
「このおれを働かせるつもりか、ジジイ」
「宿を壊したのはお主じゃ」
「ウォロロロロ。面白ェ」
カイドウは立ち上がった。
今度は布をしっかりと腰へ巻いている。
「いいだろう。元の場所へ戻る方法が見つかるまで、ここにいてやる」
「なぜ上から目線なのよ」
シャルルが呆れる。
「ただし、条件がある」
「何ですか?」
ウェンディが尋ねる。
カイドウは真剣な顔で答えた。
「酒だ」
「駄目です」
即答だった。
「まだ何も言ってねェぞ」
「絶対にお酒の量についてでしょう?」
「一日三樽」
「多すぎます!」
「二樽」
「駄目です!」
「一樽」
「多いです!」
「半分」
「傷が治るまでは禁止です!」
カイドウの顔が固まった。
「……おれを殺す気か」
「お酒を飲まないだけで死にません!」
「死ぬ」
「死にません!」
「おれは知っている。酒を飲めない苦しみは、戦いで受けた傷より重い」
「そんなわけありません!」
ウェンディが両手を腰へ当てる。
「とにかく、治療が終わるまでは我慢してください!」
「嫌だ」
「駄目です!」
「嫌だ」
「駄目です!」
最強生物と天空の少女による、あまりにも低次元な争いが始まった。
シャルルは頭を抱える。
「何なのよ、この男……」
ローバウルは、二人を見ながら愉快そうに笑っている。
「賑やかになりそうじゃのう」
「賑やかで済むと思っているの?」
シャルルが半壊した宿を見る。
屋根はない。
壁もない。
入り口は瓦礫に埋もれている。
そこへ、カイドウが大声を上げた。
「おい、小娘!」
「ウェンディです!」
「腹が減った!」
「治療が先です!」
「肉を持ってこい!」
「まず服を着てください!」
「酒もだ!」
「駄目です!」
「ウォロロロロロ!」
笑い声が森中へ響き渡る。
その声に驚き、ようやく戻り始めていた鳥たちが、再び一斉に飛び去っていった。
こうして。
かつて海の皇帝として君臨し、最強生物と呼ばれた男――百獣のカイドウは、異世界フィオーレ王国へ降り立った。
いや。
正確には、魔導士ギルド《化猫の宿》へ墜落した。
この時、ウェンディたちはまだ知らなかった。
目の前にいる若返った大男が、やがてフィオーレ王国全土を巻き込むほどの騒動を起こすことを。
そして、カイドウ自身も知らなかった。
死に場所を求め続けてきた自分が、この小さな宿で、生きるための居場所を見つけることになるなど。
「ウェンディ! こいつ、勝手に酒蔵へ向かっているわ!」
「カイドウさん!」
「ウォロロロロ! 見つけたぞ!」
「まだ走っちゃ駄目です!」
「止まりなさい、この酔っ払い!」
「まだ飲んでねェ!」
「飲む前から酔っ払いみたいなものよ!」
化猫の宿の新しい一日は、酒蔵を守る少女と、酒樽を求める最強生物の追いかけっこから始まった。
なお。
その騒動によって、辛うじて残っていた酒蔵の扉も破壊された。
修理代は、当然ながらカイドウの借金へ追加されたのだった。
感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!