『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』   作:パスカルDX

1 / 7
第1話 最強生物、空から宿へ落ちる

第1話 最強生物、空から宿へ落ちる

 

 

 空が燃えていた。

 

 赤く染まった雲の下、巨大な鬼ヶ島が夜空に浮かび、その周囲では雷鳴と覇気が幾度となくぶつかり合っていた。

 

 岩盤は砕け、炎は渦を巻き、地上から見上げる者たちの心臓を震わせるほどの衝撃が、空を通じてワノ国全土へ伝わっていく。

 

 その中心にいたのは、二人の怪物だった。

 

 一人は、麦わら帽子を背負った若き海賊。

 

 そしてもう一人は、百獣海賊団総督――百獣のカイドウ。

 

 長い戦いだった。

 

 数え切れないほどの者が倒れ、立ち上がり、また倒れた。カイドウ自身もまた、これまで経験したことのないほどの攻撃を受けている。

 

 それでも、彼の口元には笑みがあった。

 

「ウォロロロロロ!」

 

 巨大な青龍となったカイドウの咆哮が、暗雲を吹き飛ばす。

 

 対するルフィは、空を覆うほど巨大な拳を振り下ろそうとしていた。

 

 拳には覇気がまとわりつき、触れてもいない空間が軋んでいる。

 

「カイドウォォォォッ!」

 

「来い、麦わらァ!」

 

 その瞬間、両者の力が真正面から激突した。

 

 世界そのものがひっくり返ったかのような轟音が響く。

 

 雷が消え、炎が散り、雲が円形に吹き飛んだ。

 

 カイドウの体を包んでいた炎龍が砕け、巨大な拳が青龍の頭部へと叩き込まれる。

 

「ぐ……おおおおおおッ!」

 

 カイドウの巨体が、空中で大きく揺らいだ。

 

 押し返そうとする。

 

 牙を食いしばり、最後の力を振り絞る。

 

 だが、拳は止まらなかった。

 

 カイドウの巨体は鬼ヶ島を突き抜け、そのままワノ国の大地へと落下していく。

 

 地面が迫る。

 

 岩盤が崩れる。

 

 熱が体を包み込む。

 

 そのはずだった。

 

「……ん?」

 

 落下しながら、カイドウは片目を開いた。

 

 眼下にあったはずの大地が消えている。

 

 代わりに存在したのは、黒い穴だった。

 

 闇というよりも、何もない空間。

 

 穴の周囲には青白い光が走り、雷にも似た音を立てていた。

 

「何だ、こいつァ」

 

 避ける余裕などない。

 

 カイドウの巨体は、そのまま穴へと吸い込まれた。

 

 上下左右の感覚が消失する。

 

 全身を引き裂かれるような圧力。

 

 悪魔の実の力も、覇気も、何もかもが体の奥底から引きずり出されるような感覚に襲われた。

 

「ウォロロロ……面白ェ……!」

 

 普通の人間なら、恐怖で叫び声を上げていただろう。

 

 しかし、そこは百獣のカイドウである。

 

 死ぬかもしれない状況を前にして、むしろ楽しそうに笑っていた。

 

「今度こそ……死ねるってんなら、悪くねェ!」

 

 そう叫んだ直後。

 

 カイドウの意識は、闇の中へ飲み込まれた。

 

          ◇◇◇

 

 フィオーレ王国の辺境。

 

 深い森と小さな集落に囲まれた静かな土地に、一つの魔導士ギルドが存在していた。

 

 その名は《化猫の宿》。

 

 大陸中に名を轟かせるような巨大ギルドではない。

 

 所属する魔導士の数も多くはなく、外から見れば、木造の大きな宿屋とさほど変わらない建物だった。

 

 だが、そこに暮らす者たちにとっては、かけがえのない家である。

 

 その日も、化猫の宿には穏やかな時間が流れていた。

 

「ウェンディ、そっちの薬草を取ってくれるかのう」

 

「はい、マスター!」

 

 水色の長い髪を揺らしながら、少女が棚へと駆け寄る。

 

 彼女の名はウェンディ・マーベル。

 

 化猫の宿に所属する、天空の滅竜魔導士である。

 

 まだ幼さを残した少女ではあるが、治癒魔法を得意としており、近隣の村人たちからも信頼されていた。

 

 ウェンディは棚の上段に手を伸ばした。

 

 しかし、ほんの少しだけ届かない。

 

「ん……もう少し……」

 

「まったく、見ていられないわね」

 

 声と共に、白い小さな影が宙へ浮かんだ。

 

 背中から翼を生やした白い猫――ではなく、エクシードのシャルルである。

 

 シャルルは薬草の袋を前足で持ち上げ、ウェンディへ差し出した。

 

「はい」

 

「ありがとう、シャルル」

 

「次からは椅子を使いなさい。棚ごと倒したら危ないでしょう」

 

「うん。気をつけるね」

 

 ウェンディが素直に頷く。

 

 そのやり取りを、ギルドマスターのローバウルは穏やかな表情で見守っていた。

 

「今日も平和じゃのう」

 

「マスター、その台詞はやめた方がいいと思うわ」

 

 シャルルがじろりとローバウルを見る。

 

「なぜじゃ?」

 

「そういうことを言った直後には、決まって何か起こるものよ」

 

「考え過ぎではないかのう」

 

「いいえ。これは経験から来る予測よ」

 

 シャルルは腕を組み、窓の外へ目を向けた。

 

 空は青く、雲は少ない。

 

 風も穏やかで、鳥たちの鳴き声が森から聞こえてくる。

 

 どう見ても平和そのものだった。

 

「ほれ、何も起きそうにないじゃろう」

 

「そうね。このまま何も起きなければいいけれど」

 

「シャルルは心配性だね」

 

 ウェンディは笑いながら、薬草を机の上へ並べた。

 

 その時だった。

 

 窓の外を、一羽の鳥がものすごい勢いで横切った。

 

 続いて、二羽、三羽。

 

 森にいた鳥たちが、一斉に空へ飛び立っていく。

 

「……何かしら」

 

 シャルルの耳がぴくりと動いた。

 

 鳥だけではない。

 

 森の奥から、獣たちが逃げ惑う気配がする。

 

 地面が、わずかに震えていた。

 

「地震でしょうか?」

 

 ウェンディが不安そうに天井を見上げる。

 

 ローバウルは目を細めた。

 

「いや……上じゃ」

 

「上?」

 

 三人が、同時に空を見上げる。

 

 最初は、小さな黒い点だった。

 

 青空の中央に、ぽつりと浮かぶ影。

 

 それが、みるみるうちに大きくなっていく。

 

「何か落ちてきます!」

 

 ウェンディが声を上げた。

 

「隕石!?」

 

「いや、違うわ!」

 

 シャルルは目を凝らした。

 

 黒い影は長い。

 

 大蛇のように体をくねらせ、雲を引き裂きながら落下している。

 

 やがて、青い鱗が太陽の光を反射した。

 

 二本の角。

 

 鋭い牙。

 

 巨大な爪。

 

「ドラゴン!?」

 

 ウェンディの瞳が大きく見開かれる。

 

 空から落下してきたのは、巨大な青龍だった。

 

 全身は傷だらけで、鱗の一部は砕け、血が風に散っている。

 

 それでもなお、その姿から放たれる威圧感は尋常ではなかった。

 

 ただ落ちてきているだけなのに、周囲の空気が重くなる。

 

「ウェンディ、離れなさい!」

 

 シャルルが叫ぶ。

 

「でも、あのドラゴン……怪我をしています!」

 

「怪我をしているとか、そういう問題じゃないわ! こっちに落ちてくるのよ!」

 

「え?」

 

 ウェンディが青龍の軌道を確認する。

 

 青龍は化猫の宿の真上へ落下していた。

 

「ええええええええっ!?」

 

 ウェンディの悲鳴が響く。

 

「外へ出るんじゃ!」

 

 ローバウルの声で、三人は慌てて建物から飛び出した。

 

 ギルドにいた者たちも、次々と外へ避難していく。

 

 全員が外へ出た直後。

 

 青龍が、化猫の宿へ直撃した。

 

 凄まじい轟音。

 

 地面が大きく揺れ、土煙と木材が空高く舞い上がる。

 

 屋根が吹き飛び、壁が崩れ、窓ガラスが粉々に砕けた。

 

 衝撃でウェンディの体が浮き上がる。

 

「きゃっ!」

 

 シャルルがウェンディの服を掴み、空中で支えた。

 

 しばらくして、土煙がゆっくりと晴れていく。

 

 化猫の宿は、半分ほど潰れていた。

 

 建物の中央には巨大な穴が開き、その中に青龍が横たわっている。

 

 長い体が建物を突き破り、尻尾だけが外へ飛び出していた。

 

「宿が……」

 

 ウェンディが呆然と呟く。

 

「だから言ったでしょう!」

 

 シャルルがローバウルを振り返る。

 

「平和だなんて言うからよ!」

 

「わしのせいかのう!?」

 

「少なくとも半分はマスターのせいよ!」

 

「残り半分は誰のせいなんじゃ?」

 

「落ちてきた龍よ!」

 

 シャルルが青龍を指差す。

 

 青龍は動かない。

 

 目を閉じ、息もしていないように見えた。

 

 ウェンディの表情が変わる。

 

「助けないと」

 

「ウェンディ?」

 

「すごい怪我です。早く治療しないと、このままじゃ死んじゃいます!」

 

 ウェンディは瓦礫の中へ走り出した。

 

「待ちなさい!」

 

 シャルルが追いかける。

 

「危険よ! 目を覚まして襲ってきたらどうするの!」

 

「でも、放っておけないよ!」

 

「あれはドラゴンなのよ!」

 

「ドラゴンでも怪我をしているなら、患者さんです!」

 

 ウェンディは迷わなかった。

 

 巨大な青龍の頭部へ近づき、傷ついた鱗へ手を当てる。

 

 触れた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 

 気絶しているにもかかわらず、青龍の体から恐ろしいほどの力を感じる。

 

 魔力とは違う。

 

 だが、魔力にも似た何か。

 

 何百、何千もの戦場を越え、多くの命を奪ってきた者だけが持つ、濃密な圧力。

 

 ウェンディの手が震えた。

 

 怖い。

 

 本能が、この存在に近づいてはいけないと告げている。

 

 それでも、ウェンディは手を引かなかった。

 

「大丈夫です」

 

 誰に言い聞かせるでもなく、ウェンディは呟いた。

 

「今、治しますから」

 

 青白い光が、ウェンディの両手から溢れ出す。

 

「天の活性魔法……!」

 

 天空の魔力が青龍の体を包み込む。

 

 傷ついた鱗が、少しずつ修復されていく。

 

 だが、あまりにも体が大きい。

 

 治療に必要な魔力も、通常の人間とは比較にならなかった。

 

「ウェンディ、無理をしないで!」

 

「まだ……大丈夫……!」

 

 額に汗を浮かべながら、ウェンディは治癒魔法を続ける。

 

 すると、青龍の体に異変が起きた。

 

 鱗の隙間から、青白い光が漏れ始める。

 

「何、この光……」

 

 シャルルが目を細める。

 

 光は次第に強くなり、青龍の全身を覆っていく。

 

 巨大な体が、少しずつ縮み始めた。

 

「え?」

 

 ウェンディが目を丸くする。

 

 数百メートルはあった長い体が、急速に小さくなっていく。

 

 角も、牙も、爪も消え、龍の姿が人の形へと変化していった。

 

 光が収まった時、瓦礫の中に倒れていたのは、一人の青年だった。

 

 黒い長髪。

 

 二本の太い角。

 

 鍛え上げられた肉体。

 

 年齢は二十代前半ほどに見える。

 

 身長は二メートルを軽く超えており、人間としても十分に大柄だった。

 

 ただし。

 

「……服がありません」

 

 ウェンディが真っ赤になって顔を背けた。

 

「見ちゃ駄目よ、ウェンディ!」

 

 シャルルが慌ててウェンディの顔を両前足で隠す。

 

「見てません! 見てませんから!」

 

「指の隙間から見えているわ!」

 

「見てません!」

 

「とにかく何か掛けなさい!」

 

 ローバウルが大きな布を持ってくる。

 

 それを青年の体へ掛けた直後。

 

 青年の指が動いた。

 

「……ん」

 

 低い声が漏れる。

 

 ウェンディとシャルルが同時に固まった。

 

 青年が、ゆっくりと目を開く。

 

 鋭い瞳だった。

 

 目覚めたばかりだというのに、その眼光だけで周囲の空気が変わる。

 

「……ここは」

 

 青年は上半身を起こした。

 

 頭を押さえ、辺りを見回す。

 

 知らない森。

 

 知らない建物。

 

 見たことのない者たち。

 

 そして、自分の前に立っている小さな少女と白い生き物。

 

「何だ、ここは」

 

「しゃ、喋った……」

 

 ウェンディが驚く。

 

「人の姿なんだから、喋ってもおかしくないでしょう!」

 

 シャルルが小声で突っ込む。

 

 青年は、自分の手を見た。

 

 次に腕を見て、胸元へ視線を落とす。

 

 何度か指を曲げ、拳を握る。

 

「……小さくなってやがる」

 

 立ち上がろうとした瞬間、青年の体がふらついた。

 

 ウェンディが慌てて支えようとする。

 

「危ない!」

 

 だが、体格差がありすぎた。

 

 青年の体重が乗った瞬間、ウェンディは一緒に倒れそうになる。

 

「きゃあっ!」

 

 青年は咄嗟に片手を地面へつき、倒れるのを防いだ。

 

 地面が、拳一つで大きく陥没する。

 

 周囲の者たちが息を呑んだ。

 

「……力も落ちてやがるな」

 

 青年は不満そうに呟いた。

 

「今ので力が落ちているですって?」

 

 シャルルが陥没した地面を見る。

 

 人間の拳でできる穴ではない。

 

「全盛期はどれだけ化け物だったのよ……」

 

「おい」

 

 青年の鋭い視線が、シャルルへ向く。

 

「誰が化け物だ」

 

「あなた以外に誰がいるのよ!」

 

「シャルル!」

 

 ウェンディが慌てて止める。

 

 青年はシャルルを睨んだ。

 

 シャルルも負けじと睨み返す。

 

 しばらく無言の睨み合いが続いた。

 

 先に口を開いたのは、青年だった。

 

「白い狸が喋ってやがる」

 

「誰が狸よ! 私はエクシードよ!」

 

「猫じゃねェのか」

 

「猫でもないわ!」

 

「化猫の宿にいるくせにか」

 

「今起きたばかりなのに、どうして宿の名前を知っているのよ!」

 

 青年は黙って、半壊した建物の看板を指差した。

 

 瓦礫の中に、《化猫の宿》と書かれた看板が転がっている。

 

「……読めるのね」

 

「文字くらい読める」

 

「別の世界から来たような雰囲気を出しているのに?」

 

「別の世界?」

 

 青年の眉が動いた。

 

 ウェンディは恐る恐る話しかける。

 

「あの……ここはフィオーレ王国です。魔導士ギルド、化猫の宿という場所で……」

 

「フィオーレ王国?」

 

 聞いたことのない名だった。

 

 カイドウは記憶を辿る。

 

 ワノ国。

 

 鬼ヶ島。

 

 麦わらとの戦い。

 

 巨大な拳。

 

 そして、落下の途中で現れた黒い穴。

 

「なるほどな」

 

 青年――カイドウは、状況を理解した。

 

「どうやら、妙な場所に飛ばされたらしい」

 

「妙な場所とは失礼ね」

 

 シャルルが腕を組む。

 

「それより、あなた名前は?」

 

「人に名を聞くなら、まず自分から名乗るもんじゃねェのか、白狸」

 

「だから狸じゃないわ!」

 

「わ、私はウェンディです! ウェンディ・マーベル!」

 

 喧嘩になりそうな二人の間へ、ウェンディが割って入る。

 

「この子はシャルルです。それから、こちらは化猫の宿のマスター、ローバウルさんです」

 

「ほう」

 

 カイドウの視線がローバウルへ向く。

 

 老人は、目の前の怪物を見ても動じていなかった。

 

「わしはローバウルじゃ。お主、空から降ってきたが、体は大丈夫かのう?」

 

「空から降ってきた?」

 

 カイドウは周囲を見回す。

 

 半壊した建物。

 

 自分の体の下に広がる巨大な穴。

 

 飛び散った屋根。

 

 折れた柱。

 

 壊れた家具。

 

「……おれがやったのか」

 

「そうよ!」

 

 シャルルが叫んだ。

 

「見事に宿の半分を壊してくれたわ!」

 

「ウォロロロロロ!」

 

 カイドウは豪快に笑った。

 

「笑い事じゃないわよ!」

 

「悪かったな」

 

 まったく悪びれた様子のない声だった。

 

「反省していないでしょう!」

 

「落ちる場所を選べる状況じゃなかったんでな」

 

「それはそうだけど!」

 

 理屈としては正しい。

 

 正しいが、納得しにくい。

 

 シャルルは悔しそうに歯を食いしばった。

 

 ウェンディは、カイドウの体を見た。

 

 若返ったとはいえ、傷がすべて治ったわけではない。

 

 胸元や腕には裂傷が残り、呼吸もわずかに乱れている。

 

「あの、まだ動かない方がいいです」

 

「あ?」

 

「傷が残っています。もう少し治療をしないと」

 

「この程度、傷のうちに入らねェ」

 

 カイドウが立ち上がる。

 

 掛けられていた布がずり落ちそうになり、ウェンディが再び顔を赤くした。

 

「動かないでください!」

 

「何だ」

 

「布が落ちます!」

 

「別に構わん」

 

「私たちが構います!」

 

 ウェンディとシャルルの声が重なった。

 

 ローバウルが咳払いをする。

 

「まずは服を用意した方がよさそうじゃな」

 

「そうしてくれ」

 

「ずいぶん偉そうね。宿を壊した客のくせに」

 

「客?」

 

 カイドウが首を傾げる。

 

「誰がお前らの客になった」

 

「それなら、すぐ出ていってもらいましょう」

 

 シャルルが冷たく言う。

 

「行き先はあるの?」

 

「……」

 

「この国の名前も知らない。お金もない。服もない。知り合いもいない」

 

 シャルルは一つずつ指摘していく。

 

「それで、どこへ行くつもり?」

 

「……」

 

 カイドウは答えなかった。

 

 痛いところを突かれている。

 

 百獣海賊団の総督。

 

 四皇。

 

 最強生物。

 

 その肩書きは、この世界では何の意味も持たない。

 

 部下はいない。

 

 鬼ヶ島もない。

 

 船もない。

 

 金棒すらない。

 

 そして何より。

 

「酒はあるのか」

 

「最初に聞くことがそれなの!?」

 

 シャルルが叫ぶ。

 

 カイドウは真剣な表情だった。

 

「重要なことだ」

 

「食事や寝床よりも?」

 

「酒があれば何とかなる」

 

「ならないわよ!」

 

 ウェンディが困ったように笑う。

 

「お酒なら、少しだけありますけど……怪我をしている時に飲むのはよくないです」

 

「あ?」

 

 カイドウの視線がウェンディへ向く。

 

 その眼光に、ウェンディの肩が跳ねる。

 

「今、何と言った」

 

「け、怪我をしている時に、お酒は駄目だと……」

 

「おれに酒を飲むなと言うのか」

 

 周囲の空気が重くなる。

 

 ギルドの者たちが後ずさった。

 

 シャルルも警戒する。

 

 だが、ウェンディは逃げなかった。

 

 怖い。

 

 膝も震えている。

 

 それでも、治療をする者として譲れないことがある。

 

「駄目です」

 

 ウェンディは、はっきりと言った。

 

「傷が開いてしまいます。それに、今は体力も落ちていますから」

 

 静寂。

 

 カイドウは無言でウェンディを見下ろしている。

 

 ウェンディは涙目になりながらも、視線を逸らさない。

 

 やがて、カイドウが口を開いた。

 

「……一杯だけだ」

 

「駄目です」

 

「樽の半分」

 

「増えています!」

 

「なら、樽の蓋を舐めるだけでいい」

 

「余計に嫌です!」

 

 ウェンディの返答に、周囲が静まり返る。

 

 最強の威圧感を放つ謎の男と、年端もいかない少女。

 

 どう見ても、少女の方が押していた。

 

 カイドウの眉間に皺が寄る。

 

 しかし、次の瞬間。

 

「ウォロロロロロ!」

 

 カイドウは腹を抱えて笑い出した。

 

「面白ェ小娘だ!」

 

「笑っても駄目です!」

 

「命を助けた奴の言葉は聞けってか」

 

「そういうわけでは……」

 

「まあいい」

 

 カイドウは瓦礫へ腰を下ろした。

 

 大きな音を立てて、瓦礫がさらに崩れる。

 

「あっ」

 

 ウェンディが声を漏らす。

 

 シャルルのこめかみに青筋が浮かんだ。

 

「今、宿の残った部分まで壊したわね」

 

「脆い建物だ」

 

「あなたが重すぎるのよ!」

 

「うるせェ白狸だな」

 

「エクシードよ!」

 

 再び口喧嘩が始まる。

 

 ローバウルは髭を撫でながら、楽しそうに笑っていた。

 

「しばらく、ここに滞在してはどうかのう」

 

 シャルルが勢いよく振り返る。

 

「マスター!?」

 

「行く場所もないようじゃし、傷も治っておらん。治療が終わるまで、客として迎えればよい」

 

「こんな危険人物を!?」

 

「危険かどうかは、まだ分からんじゃろう」

 

「宿を半壊させた時点で危険よ!」

 

「事故じゃからのう」

 

「事故で済ませられる規模じゃないわ!」

 

 カイドウは鼻を鳴らした。

 

「客として迎えるだと?」

 

「そうじゃ」

 

「おれは金を持ってねェぞ」

 

「屋根の修理代も払ってもらわねばならんからのう」

 

「……何?」

 

 ローバウルは笑顔のまま続けた。

 

「傷が治ったら、働いて返してもらおうかのう」

 

「このおれを働かせるつもりか、ジジイ」

 

「宿を壊したのはお主じゃ」

 

「ウォロロロロ。面白ェ」

 

 カイドウは立ち上がった。

 

 今度は布をしっかりと腰へ巻いている。

 

「いいだろう。元の場所へ戻る方法が見つかるまで、ここにいてやる」

 

「なぜ上から目線なのよ」

 

 シャルルが呆れる。

 

「ただし、条件がある」

 

「何ですか?」

 

 ウェンディが尋ねる。

 

 カイドウは真剣な顔で答えた。

 

「酒だ」

 

「駄目です」

 

 即答だった。

 

「まだ何も言ってねェぞ」

 

「絶対にお酒の量についてでしょう?」

 

「一日三樽」

 

「多すぎます!」

 

「二樽」

 

「駄目です!」

 

「一樽」

 

「多いです!」

 

「半分」

 

「傷が治るまでは禁止です!」

 

 カイドウの顔が固まった。

 

「……おれを殺す気か」

 

「お酒を飲まないだけで死にません!」

 

「死ぬ」

 

「死にません!」

 

「おれは知っている。酒を飲めない苦しみは、戦いで受けた傷より重い」

 

「そんなわけありません!」

 

 ウェンディが両手を腰へ当てる。

 

「とにかく、治療が終わるまでは我慢してください!」

 

「嫌だ」

 

「駄目です!」

 

「嫌だ」

 

「駄目です!」

 

 最強生物と天空の少女による、あまりにも低次元な争いが始まった。

 

 シャルルは頭を抱える。

 

「何なのよ、この男……」

 

 ローバウルは、二人を見ながら愉快そうに笑っている。

 

「賑やかになりそうじゃのう」

 

「賑やかで済むと思っているの?」

 

 シャルルが半壊した宿を見る。

 

 屋根はない。

 

 壁もない。

 

 入り口は瓦礫に埋もれている。

 

 そこへ、カイドウが大声を上げた。

 

「おい、小娘!」

 

「ウェンディです!」

 

「腹が減った!」

 

「治療が先です!」

 

「肉を持ってこい!」

 

「まず服を着てください!」

 

「酒もだ!」

 

「駄目です!」

 

「ウォロロロロロ!」

 

 笑い声が森中へ響き渡る。

 

 その声に驚き、ようやく戻り始めていた鳥たちが、再び一斉に飛び去っていった。

 

 こうして。

 

 かつて海の皇帝として君臨し、最強生物と呼ばれた男――百獣のカイドウは、異世界フィオーレ王国へ降り立った。

 

 いや。

 

 正確には、魔導士ギルド《化猫の宿》へ墜落した。

 

 この時、ウェンディたちはまだ知らなかった。

 

 目の前にいる若返った大男が、やがてフィオーレ王国全土を巻き込むほどの騒動を起こすことを。

 

 そして、カイドウ自身も知らなかった。

 

 死に場所を求め続けてきた自分が、この小さな宿で、生きるための居場所を見つけることになるなど。

 

「ウェンディ! こいつ、勝手に酒蔵へ向かっているわ!」

 

「カイドウさん!」

 

「ウォロロロロ! 見つけたぞ!」

 

「まだ走っちゃ駄目です!」

 

「止まりなさい、この酔っ払い!」

 

「まだ飲んでねェ!」

 

「飲む前から酔っ払いみたいなものよ!」

 

 化猫の宿の新しい一日は、酒蔵を守る少女と、酒樽を求める最強生物の追いかけっこから始まった。

 

 なお。

 

 その騒動によって、辛うじて残っていた酒蔵の扉も破壊された。

 

 修理代は、当然ながらカイドウの借金へ追加されたのだった。




感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。