『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』 作:パスカルDX
第11話 最強生物、連合軍の美しすぎる指揮官を警戒する
六魔将軍討伐連合軍の出発まで、あと二日。
化猫の宿では、朝から慌ただしく準備が進められていた。
広間の長机には、包帯、傷薬、解毒薬、魔力回復用の薬草、保存食、水筒、携帯用の毛布が整然と並べられている。
ウェンディとシャルルは、その一つ一つを確認していた。
「包帯は、これで三十本ね」
「もう少しあった方がいいかな?」
「連合軍には治療を受ける人が多いかもしれないわ。念のため、十本追加しましょう」
「うん」
ウェンディは頷き、倉庫から新しい包帯を持ってこようとする。
だが。
椅子から立ち上がった瞬間。
巨大な手が、彼女の肩を押さえた。
「座ってろ」
「カイドウさん?」
「おれが取ってくる」
「包帯の場所が分かるんですか?」
「倉庫だろ」
「倉庫のどこです?」
「棚だ」
「棚が十二個あります」
「全部持ってくる」
「駄目です!」
ウェンディは慌ててカイドウの上着を掴んだ。
「必要な物だけ持ってきてください!」
「探すのが面倒だ」
「全部運ぶ方が大変でしょう!」
「軽い」
「重さの問題ではありません!」
カイドウは、今日も普段通りだった。
否。
正確には、普段以上に落ち着きがなかった。
ウェンディが連合軍へ参加すると決まってからというもの、彼の過保護はさらに悪化している。
出発用の鞄を一日に七回確認し。
保存食の量を勝手に増やし。
薬草の中に毒が混じっていないか匂いを嗅ぎ。
水筒の蓋が緩くないか、自分の力で締めすぎて開かなくした。
夜になれば、ウェンディの部屋の前で見張り。
朝になれば、服装と靴底を確認する。
靴紐が少しでも緩ければ、その場で結び直す。
ただし、カイドウの指では細い靴紐を扱いにくいため、毎回巨大な結び目ができてしまう。
「この結び目では歩けません!」
「ほどけねェ」
「ほどくこともできません!」
「なら切れ」
「新しい靴ですよ!」
その騒動が、今朝だけですでに二度起きていた。
「ウェンディ」
シャルルが呆れた顔で言う。
「この男を集合地点へ連れていく方が、六魔将軍と戦うより大変かもしれないわ」
「聞こえてるぞ、白狸」
「エクシードよ」
「カイドウさんは集合地点までです」
ウェンディは強調した。
「着いたら、化猫の宿へ帰ってくださいね」
「考えておく」
「約束しました!」
「助けを呼ばれるまで待つとは言った」
「はい」
「どこで待つかは決めてねェ」
「ここで待ってください!」
「集合地点の近くで待つ」
「それでは帰ったことになりません!」
「森の中に隠れる」
「カイドウさんが隠れられると思いますか?」
巨大な体。
二本の角。
人間離れした気配。
さらに、少しでも不機嫌になれば周囲の動物たちが逃げ出す。
木の後ろへ立っても、両肩と角が完全に出るだろう。
「龍になって雲の中へ隠れる」
「もっと目立ちます!」
「小さくなる」
「できるんですか?」
「できねェ」
「では言わないでください!」
朝から響く、いつもの言い争い。
ローバウルは広間の奥で、その様子を静かに眺めていた。
表情には穏やかな笑み。
だが、その手には六魔将軍に関する資料が握られている。
連合軍結成。
四つの正規ギルドから集められる精鋭。
闇ギルドの頂点の一角。
古代魔法ニルヴァーナ。
戦いが始まれば、何が起きるか分からない。
ウェンディが無事に戻る保証もない。
そして。
ローバウル自身にも、残された時間は多くなかった。
「マスター?」
ウェンディが呼ぶ。
ローバウルは我に返った。
「どうしました?」
「いや。何でもない」
「少し顔色が悪いですよ」
「年寄りじゃからのう。朝は体が重いのじゃ」
「治療しましょうか?」
「必要ない」
ローバウルは笑った。
「出発前のお前が、無駄に魔力を使うことはない」
「でも」
「本当に大丈夫じゃ」
ウェンディは心配そうに彼を見る。
その隣。
カイドウは、ローバウルを鋭く見つめていた。
「ジジイ」
「何じゃ?」
「また何か隠してるな」
ローバウルの目が僅かに細くなる。
「何のことじゃ」
「マグノリアへ行く前も同じ顔をしてた」
「お主の思い過ごしじゃ」
「そうか」
カイドウはそれ以上追及しなかった。
だが、納得したわけではない。
人の嘘。
敵意。
恐怖。
長年、裏切りと戦場の中で生きてきたカイドウは、それらを見抜くことに慣れている。
ローバウルは、確実に何かを隠している。
しかも。
それはウェンディに関係することだった。
カイドウが口を開こうとした、その時。
化猫の宿の外。
森の向こうから、巨大な魔力が近づいてきた。
「……」
カイドウの顔が変わる。
シャルルも耳を動かした。
「何か来るわ」
「魔物ですか?」
ウェンディが立ち上がる。
「違う」
カイドウも椅子から立った。
「人間だ」
低い声。
「かなり強ェ」
直後。
化猫の宿を包む森へ、白い光が差し込んだ。
◇◇◇
その光は、太陽のものではなかった。
森の木々の隙間から入り込んだ白い光は、淡い桜色を帯び、風もないのに花びらのような光の粒を舞わせていた。
空気が変わる。
清らかでありながら。
同時に、圧倒的な威厳を秘めた魔力。
宿にいた魔導士たちが一斉に入り口へ視線を向ける。
「敵か?」
カイドウの口元が上がった。
「違います!」
ウェンディが反射的に言う。
「まだ誰かも分かっていません!」
「強い奴が来る」
「だからって戦おうとしないでください!」
「向こうが喧嘩を売ってきたら仕方ねェ」
「普通に挨拶してください!」
シャルルは窓の外を確認する。
木々の上。
白い翼を広げた人影が、ゆっくりと降下してくる。
「人が飛んでいるわ」
「エクシードではなく?」
「人間よ」
白い翼。
それは鳥のものではない。
純白の魔力によって形作られた、巨大な天使の翼だった。
羽ばたくたび。
光の羽根が舞い落ち。
木々へ触れた光は、傷んだ枝や葉を鮮やかに蘇らせていく。
「治癒魔法……?」
ウェンディが目を見開いた。
人影は、化猫の宿の前へ静かに降り立った。
魔力の翼が消える。
光の羽根も、空気へ溶けるように消えていった。
現れたのは、一人の女性だった。
腰まで届く、長い桜色の髪。
風になびく髪は、光を受けて淡い輝きを放っている。
瞳もまた、鮮やかな桜色。
白を基調とした長い外套には、金色の縁取りと肩飾り。
胸元には赤い宝石の首飾り。
腰には桜色の短いスカート。
左肩には、《妖精の尻尾》の紋章が刻まれていた。
美しい。
その一言だけでは足りないほど、目を引く容姿。
だが。
彼女が人々の視線を集める理由は、美しさだけではない。
全身から漂う魔力。
力を抑えているにもかかわらず、周囲の空気が彼女を中心に動いているように感じられる。
妖精の尻尾所属の魔導士。
天使魔法の使い手。
そして。
魔法評議院から、大陸でも特に優れた十人の魔導士として認められた存在。
聖十大魔導。
サクラ・ヴィンセント。
「化猫の宿で、間違いありませんね」
サクラは、宿の建物を見上げた。
柔らかく。
それでいてよく通る声。
「妖精の尻尾より参りました。サクラ・ヴィンセントと申します」
ローバウルが杖をつき、入り口へ向かう。
「遠いところを、よく来てくださった」
「ローバウル殿ですね」
サクラは胸へ手を当て、丁寧に頭を下げた。
「今回の連合軍において、指揮を任されました。出発前に、化猫の宿の代表者と直接お話ししたいと思い、訪問させていただきました」
「連合軍の指揮官?」
ウェンディが小さく呟く。
サクラの視線が、彼女へ向いた。
桜色の瞳が、優しく細められる。
「あなたが、ウェンディ・マーベルさんですね」
「は、はい!」
ウェンディは慌てて姿勢を正した。
「化猫の宿所属、天空の滅竜魔導士のウェンディ・マーベルです!」
緊張のあまり、声が少し裏返る。
サクラは微笑んだ。
「お会いできて光栄です」
「こ、こちらこそ!」
「マカロフ様から、お話を聞いています。若くして優れた治癒魔法を使い、天空の滅竜魔法まで操る、とても将来有望な魔導士だと」
「そ、そんな。私はまだ……」
ウェンディの頬が赤くなる。
聖十大魔導から、直接褒められた。
嬉しさ。
恥ずかしさ。
緊張。
さまざまな感情が混ざり、どのような表情をすればいいか分からない。
サクラはウェンディへ近づいた。
「今回、あなたが参加してくださることを、とても心強く思います」
手を差し出す。
ウェンディも両手で握ろうとした。
だが。
二人の手が触れる直前。
巨大な手が、間へ入った。
「待て」
低い声。
サクラが顔を上げる。
カイドウが、ウェンディの前へ立っていた。
サクラほど背の高い女性でも、カイドウと比べれば小さく見える。
彼女はカイドウの顔を見上げた。
二本の角。
黒い長髪。
圧倒的な体格。
そして、その奥に眠る龍の力。
「あなたが」
サクラの桜色の瞳が僅かに鋭くなる。
「百獣のカイドウですね」
「ああ」
「マカロフ様とラクサスから伺っています」
「雷の小僧は、何と言ってた」
「非常に強く、非常に面倒で、非常に酒臭い男だと」
広間が静まり返った。
シャルルが口元を押さえる。
ウェンディも、笑いを堪えるように俯く。
カイドウの眉間に深い皺が刻まれた。
「あの小僧……」
「間違っていないわ」
シャルルが言う。
「白狸」
「エクシードよ」
「酒臭くねェ」
「昨夜も飲んでいたでしょう」
「一杯だけだ」
「二杯目を勝手に注ごうとしました」
「杯の大きさを確認した」
「また、その言い訳ですか!」
ウェンディが叫ぶ。
サクラは、そのやり取りを見て少し目を丸くした。
マカロフから聞いた話。
異世界から来た龍。
ラクサスと互角に殴り合った怪物。
国を滅ぼしかねない力を持つ危険人物。
その男が。
小さな少女に酒の量を管理されている。
「それで」
カイドウは、サクラを見下ろす。
「なぜウェンディへ触ろうとした」
「握手です」
「必要ねェ」
「初対面の挨拶ですが」
「口で十分だ」
「カイドウさん!」
ウェンディがカイドウの上着を引く。
「サクラさんは連合軍のリーダーです!」
「知ってる」
「挨拶をしてくださったんです!」
「危険かもしれん」
「妖精の尻尾の魔導士ですよ!」
「聖十大魔導です」
サクラが静かに付け加えた。
カイドウの目が光る。
「聖十大魔導?」
「はい」
「強いのか」
サクラは僅かに微笑んだ。
「少なくとも、連合軍の皆様を守る責任を任される程度には」
カイドウの口元が上がる。
「ウォロロロロ」
ウェンディの顔が青くなる。
「カイドウさん」
「何だ」
「戦いませんよ」
「まだ何も言ってねェ」
「顔が戦う気です!」
「強い奴へ、強いか聞いただけだ」
「笑い方が悪党です!」
サクラは、カイドウを真っ直ぐ見つめていた。
圧倒的な威圧感。
普通の魔導士なら、目を合わせるだけで足が震える。
だが。
サクラは微動だにしない。
「手合わせをご希望ですか?」
「サクラさん!?」
ウェンディが驚く。
「面白ェ」
カイドウの笑みが深くなる。
「カイドウさん!」
「ただし」
サクラは続ける。
「今は、その時ではありません」
カイドウの笑みが少し消える。
「六魔将軍との戦いを控えています。味方同士で無駄に魔力や体力を消耗することは、指揮官として許可できません」
「おれは連合軍の一員じゃねェ」
「では、なおさらです」
サクラは静かに言い切った。
「部外者との戦闘へ、時間を使う理由がありません」
「部外者だと?」
カイドウの周囲に、僅かに黒い稲妻が走る。
宿の者たちが息を呑む。
サクラの長い桜色の髪が、圧力を受けて揺れた。
それでも。
彼女の表情は変わらない。
「正式な連合軍の参加者ではないのでしょう?」
「ああ」
「ならば、私の判断は正しいはずです」
「おれが誰か知って言ってるのか」
「百獣のカイドウ」
サクラは答える。
「異世界から来た龍。圧倒的な肉体と、魔法とは異なる力を持つ。ラクサスと互角以上に戦い、山を破壊した」
「半分は雷の小僧だ」
「そこを訂正する必要がありますか?」
「ああ」
「では、山を半分破壊した危険人物」
「言い方が悪くなってねェか」
「事実です」
サクラは一歩も退かない。
カイドウの目が細くなる。
「強いだけじゃねェな」
「褒め言葉として受け取ります」
「気に入った」
「私は、まだあなたを気に入っていません」
「はっきり言う女だな」
「指揮官として、危険な人物を警戒するのは当然です」
二人の間に、見えない火花が散る。
ウェンディは慌てて間へ入った。
「二人とも、喧嘩は駄目です!」
「私は喧嘩をしていません」
サクラが答える。
「おれもだ」
カイドウも言う。
「どう見ても、喧嘩の直前です!」
シャルルが溜息を吐く。
「サクラという人も、かなり気が強そうね」
「聞こえていますよ、白いエクシードさん」
「シャルルよ」
「失礼しました、シャルルさん」
「白狸とは大違いね」
「誰が白狸だ」
「あなたが毎日呼ぶからでしょう!」
◇◇◇
サクラを広間へ迎え。
ローバウルは、彼女のために温かい茶を用意させた。
長机の中央。
ローバウル。
サクラ。
ウェンディ。
シャルル。
そしてカイドウが席につく。
正確には。
カイドウだけは、サクラとウェンディの間へ無理やり椅子を置こうとした。
「カイドウさん」
「何だ」
「そこは狭いです」
「おれが座る」
「椅子が入りません!」
「机を動かす」
「壊れます!」
「少しだ」
「カイドウさんの少しは信用できません!」
結局。
カイドウはウェンディの真後ろへ座ることになった。
椅子へ深く腰を下ろし。
腕を組み。
サクラを見張る。
「……」
サクラは茶を一口飲んだ後、カイドウを見た。
「先ほどから、なぜ私を見ているのですか?」
「見張りだ」
「私は敵ではありません」
「まだ分からん」
「妖精の尻尾所属です」
「知ってる」
「連合軍の指揮官です」
「知ってる」
「聖十大魔導です」
「それが怪しい」
「聖十大魔導であることが?」
「強い奴ほど、何を考えてるか分からん」
サクラは少し考えた。
「それは、あなた自身にも当てはまるのでは?」
シャルルが吹き出した。
ウェンディも口元を押さえる。
カイドウの眉が動く。
「おれは分かりやすい」
「確かに」
サクラは頷いた。
「戦いたい。酒を飲みたい。ウェンディさんを守りたい」
「最後が違ェ」
「違わないわ」
シャルルが言う。
「違いません」
ウェンディも続けた。
「マグノリアでも、ずっと私の手を繋いでいたんですよ」
「人が多かった」
「診療所では、男の助手さんを尋問しました」
「怪しかった」
「青い天馬の使者さんにも、家族構成を聞きました」
「あいつも怪しかった」
「まだ続きがありますか?」
サクラが尋ねる。
「たくさんあります」
ウェンディは指を折って数え始める。
「町で水たまりがあると、勝手に抱き上げます」
「転ぶ」
「森では、五歩以上離れません」
「魔物が出る」
「私の靴底を毎朝確認します」
「減ってる」
「食事では、お肉を勝手に増やします」
「成長期だ」
「夜は部屋の前で寝ます」
「見張りだ」
「連合軍へ行くと決まってから、鞄を一日に七回確認します」
「六回だ」
「七回です!」
「一回は、酒が入るか確認しただけだ」
「それも数えます!」
サクラは、しばらく黙っていた。
やがて。
「なるほど」
小さく頷く。
「完全にお父様ですね」
「違ェ!」
カイドウの怒声が響く。
茶の表面が波打った。
「大声を出さないでください!」
ウェンディが叱る。
「父親じゃねェ!」
「では、保護者ですか?」
「護衛だ」
「頼んでいません!」
「しかし」
サクラは微笑む。
「ウェンディさんを大切にされていることは、よく分かりました」
「別に大切にしてねェ」
「では、連合軍へ参加する彼女が怪我をしても問題ないのですか?」
「誰が怪我をさせる」
カイドウの声が一瞬で低くなる。
机に置かれた杯が、小さく震えた。
「ウェンディへ傷一つつけたら」
「つけたら?」
「六魔将軍だろうが連合軍だろうが、まとめて潰す」
「カイドウさん!」
「あなたのせいで連合軍まで敵にしないでください!」
「怪我をさせる方が悪い」
「戦いへ行くんです!」
「だから、おれがついていく」
「集合地点までです!」
サクラはカイドウを観察する。
怒り。
執着。
不器用な心配。
それらすべてが、ウェンディへ向けられていた。
危険な男。
それは間違いない。
だが。
少なくとも、ウェンディを意図的に傷つけることはない。
むしろ。
彼女が傷ついた場合、六魔将軍以上の災害になる可能性がある。
「一つ確認させてください」
サクラが言う。
「何だ」
「連合軍の集合地点まで、ウェンディさんへ同行する予定なのですね?」
「ああ」
「その後は?」
「残る」
「帰ります」
ウェンディが同時に答えた。
サクラは二人を交互に見る。
「どちらですか?」
「残る」
「帰ります!」
「おれが決める」
「マスターが決めました!」
「おれは化猫の宿の魔導士じゃねェ」
「背中に紋章があります!」
カイドウの背中には、化猫の宿の紋章が刻まれている。
本人は客だと言い張っていたが、いつの間にか依頼を受け。
報酬から修理代を引かれ。
ギルドの仕事を手伝っている。
どう見ても、立派な所属魔導士だった。
「お主は、わしの許可を得て依頼を受けておる」
ローバウルが言う。
「なら、わしの指示へ従ってもらう」
「ジジイ」
「何じゃ」
「今だけ客へ戻る」
「都合のいい時だけ戻らないでください!」
ウェンディが叫ぶ。
「では」
サクラは茶の杯を置く。
「指揮官として、私から明確に申し上げます」
空気が変わった。
先ほどまでの柔らかな雰囲気。
それが消えたわけではない。
だが。
声には、聖十大魔導としての威厳が宿っていた。
「百獣のカイドウ。あなたの連合軍への無断参加は認めません」
「お前に決められるのか」
「今回の指揮官は私です」
「おれに命令するのか」
「連合軍の活動地域へ入るならば」
サクラの背後へ、白い光が集まる。
一対の天使の翼が、ゆっくりと広がった。
宿の広間が、清らかな魔力で満たされていく。
「私の指示に従っていただきます」
カイドウの周囲へ。
黒い稲妻が走る。
「従わなかったら?」
「連合軍とウェンディさんの安全を脅かす者として、私が排除します」
正面から。
何の迷いもなく。
サクラは百獣のカイドウへ言い切った。
宿にいた魔導士たちが息を呑む。
ローバウルは目を細め。
シャルルは身構える。
ウェンディは慌てて立ち上がった。
「サクラさん!」
「心配はいりません」
サクラは、カイドウから視線を逸らさない。
「今すぐ戦うつもりはありません」
「おれはあるぞ」
「カイドウさん!」
「面白ェ女だ」
カイドウが立ち上がる。
椅子が後方へ倒れた。
床は壊れていない。
だが。
彼の体から溢れ出す圧力により、窓が震え始める。
「おれを排除する?」
「必要ならば」
「聖十大魔導だからできると思ってんのか」
「できるかどうかではありません」
サクラの翼から、白い羽根が舞う。
「しなければならない時は、します」
「ウォロロロロ!」
カイドウが大きく笑った。
「ますます気に入った!」
「私は、あなたを気に入っていないと言ったはずです」
「強がる奴は嫌いじゃねェ」
「強がりではありません」
「なら試すか」
カイドウの右腕へ、青い鱗が浮かび上がる。
サクラの背後には、巨大な光輪。
その中から、白い剣を持つ天使の影が現れようとしていた。
「やめてくださあああああい!」
ウェンディの叫びが、広間へ響き渡った。
二人の魔力が止まる。
ウェンディは、カイドウとサクラの間へ立っていた。
両手を広げ。
頬を膨らませ。
明らかに怒っている。
「何をしているんですか!」
「こいつが、おれを排除すると言った」
「カイドウさんが無断でついてくると言うからです!」
「お前を守る」
「私は連合軍のみんなと行きます!」
「指揮官が信用できん」
「まだ会ったばかりでしょう!」
「おれを排除すると言った」
「カイドウさんが挑発したんです!」
「先に命令したのはこいつだ」
「指揮官だからです!」
ウェンディは今度はサクラを見る。
「サクラさんもです!」
「はい」
「カイドウさんの挑発へ乗らないでください!」
「申し訳ありません」
サクラは素直に頭を下げた。
「指揮官として、彼の危険性を確認する必要があると判断しました」
「確認のために戦わないでください!」
「以後、注意します」
「……」
ウェンディは目を瞬かせた。
素直。
カイドウとは違い、叱られればすぐに謝る。
「分かってくださればいいです」
「ありがとうございます」
サクラは微笑む。
ウェンディも、少し安心したように笑った。
その光景を見て。
カイドウの顔が、僅かに険しくなる。
「おい」
「何ですか?」
「なぜ、こいつには優しい」
「謝ってくれたからです」
「おれも謝ればいいのか」
「謝れますか?」
「……」
カイドウは黙る。
シャルルが鼻で笑った。
「できないでしょう」
「できる」
「では、言ってみなさい」
カイドウはサクラを見る。
サクラも待つ。
「……」
長い沈黙。
カイドウの口が僅かに開く。
「悪かった」
非常に小さな声だった。
「聞こえませんでした」
サクラが言う。
カイドウの額に青筋が浮かぶ。
「聞こえてただろ」
「指揮官として、正確に確認する必要があります」
「お前、性格が悪いな」
「褒め言葉として受け取ります」
「サクラさん」
ウェンディが苦笑する。
「カイドウさんは、今ので精いっぱいなので……」
「そうなのですか?」
「はい。たぶん」
「たぶんとは何だ」
「カイドウさん、もう一度です」
「嫌だ」
「謝ってください」
「一度言った」
「サクラさんに聞こえていません」
「聞こえてた」
「もう一度です!」
ウェンディが両手を腰へ当てる。
カイドウは彼女を見る。
次にサクラ。
最後に、広間の奥に置かれた酒樽を見る。
「今夜の一杯」
ウェンディが静かに言う。
カイドウの顔が歪んだ。
「……悪かった」
今度は、広間全体に聞こえる声だった。
サクラは満足そうに頷く。
「謝罪を受け入れます」
「二度と言わん」
「次に悪いことをしたら、また言ってもらいます」
ウェンディが答える。
「面倒だ」
「その言葉は禁止です!」
緊張していた宿の魔導士たちから、笑い声が漏れた。
◇◇◇
「それでは、本題へ入りましょう」
騒ぎが落ち着いた後。
サクラは、連合軍に関する資料を机へ広げた。
フィオーレ王国の南東部。
広大な森。
その中にある、青い天馬所有の別荘。
さらに奥には、古代都市の遺跡が点在している。
「現在、六魔将軍はこの一帯を中心に活動しています」
サクラが地図の森を指差す。
「ニルヴァーナも、この地域に存在すると考えられています」
「六魔将軍の居場所は分かっているんですか?」
ウェンディが尋ねる。
「正確には分かっていません」
「では、集合後に捜索するんですか?」
「はい。ただし」
サクラは、別の資料を開いた。
「彼らも、連合軍が結成されたことを把握している可能性があります」
「待ち伏せね」
シャルルが言う。
「その危険があります」
「敵が来るなら、探す手間が省ける」
カイドウが言う。
「あなたは参加しません」
サクラが即座に返す。
「まだ言うか」
「何度でも言います」
「本当に気が強い女だな」
「聖十大魔導ですから」
ウェンディは資料へ目を通す。
六魔将軍。
コブラ。
レーサー。
エンジェル。
ホットアイ。
ミッドナイト。
ブレイン。
六人の名。
だが。
使用する魔法については、不明な点も多い。
「情報が少ないですね」
「闇ギルドです。自分たちの能力を簡単には公開しません」
サクラは頷く。
「だからこそ、連合軍では各ギルドの連携が重要になります」
「妖精の尻尾からは、誰が参加するんですか?」
「ナツ、グレイ、エルザ、ルーシィ、ハッピー」
話で聞いた顔ぶれ。
ウェンディは安心する。
「青い天馬は?」
「一夜、ヒビキ、レン、イヴ」
カイドウの顔が険しくなる。
「男が四人」
「またですか」
ウェンディが溜息を吐く。
サクラはカイドウを見る。
「何か問題がありますか?」
「ウェンディへ近づけるな」
「連合軍の仲間です」
「男だ」
「だから何です?」
「危険だ」
「六魔将軍よりも?」
「ああ」
「カイドウさん!」
ウェンディが立ち上がる。
「青い天馬の皆さんは味方です!」
「男は何を考えてるか分からん」
「カイドウさんも男でしょう!」
「おれは分かりやすい」
「それは先ほど認めました」
サクラが言う。
「酒、戦い、ウェンディさん」
「最後を勝手に入れるな」
「間違っていますか?」
「……」
カイドウは答えない。
サクラは話を続けた。
「蛇姫の鱗からは、ジュラ、リオン、シェリー」
「ジュラ」
カイドウが反応する。
「十聖大魔道だな」
「はい」
「お前とどちらが強い」
「魔導士の強さは、単純に比較できません」
「戦えば分かる」
「戦いません」
「つまらん」
「連合軍は、あなたの強者探しの場ではありません」
「強い奴が何人もいるんだろ」
「います」
「なら行く」
「帰ってください」
「嫌だ」
「駄目です」
カイドウとサクラ。
互いに一歩も譲らない。
ウェンディは頭を抱える。
「どうして、この二人はこんなに相性が悪いんですか……」
「似ているからでしょう」
シャルルが答えた。
「どこがだ」
「どこがですか?」
二人の声が重なる。
「そういうところよ」
「一緒にするな」
「一緒にしないでください」
また重なる。
ローバウルが静かに笑った。
「連合軍の指揮は、任せられそうじゃな」
「本当に?」
シャルルは疑わしそうにサクラを見る。
「カイドウと会話を続けられる時点で、精神力は十分じゃ」
「確かに」
「どういう意味だ」
カイドウが低い声で言う。
「褒めているんじゃよ」
「そうは聞こえん」
◇◇◇
説明が一段落した後。
サクラはウェンディへ視線を向けた。
「あなたの魔法について、少し確認してもよろしいですか?」
「はい」
「天空の滅竜魔法。治癒、状態異常の解除、身体能力の強化。そして戦闘魔法」
「はい。まだ未熟ですけど」
「謙遜する必要はありません」
サクラは優しく言った。
「自分の力を正確に把握することは、仲間を守るために必要です」
ウェンディは真剣な顔で頷く。
「分かりました」
「まず、治癒魔法を使える範囲は?」
「一人ずつなら、重い怪我でもある程度は治せます。でも、失った体力までは戻せません」
「複数人へ同時に使うことは?」
「軽い傷ならできます。でも、魔力の消耗が大きくなります」
「毒や麻痺は?」
「種類によります。魔法によるものなら、時間がかかるかもしれません」
「なるほど」
サクラは丁寧に記録する。
カイドウは、二人の会話を聞きながら眉を寄せていた。
「魔力の消耗が大きい?」
「はい」
ウェンディが答える。
「何人も治療すると、疲れてしまいます」
「なら、治療するな」
「何を言っているんですか!」
「自分が倒れたら意味がねェ」
「無理はしません」
「お前の無理は信用できん」
「カイドウさんに言われたくありません!」
「私は」
サクラが静かに口を挟む。
「指揮官として、ウェンディさんへ無理な治療はさせません」
カイドウがサクラを見る。
「本当だな」
「はい」
「敵より、こいつを先に守れ」
「カイドウさん!」
「それは約束できません」
サクラは即答した。
カイドウの目が鋭くなる。
「何?」
「連合軍には、全員を守る責任があります」
「ウェンディを優先しろ」
「できません」
「指揮官なんだろ」
「だからこそです」
サクラの声は穏やかだった。
「私はウェンディさんだけを守るために、連合軍を率いるのではありません」
「なら、お前は信用できん」
「しかし」
サクラはカイドウを真っ直ぐ見つめる。
「ウェンディさんを見捨てるつもりもありません」
「……」
「全員で出発し、全員で帰る。それが私の目標です」
カイドウは黙る。
「絶対か」
「絶対とは言えません」
サクラは正直に答えた。
「戦場に、絶対はありません」
その言葉を。
カイドウは誰よりも理解していた。
どれほど強くても。
どれほど準備をしても。
一瞬の油断。
一つの裏切り。
一度の判断ミス。
それだけで、すべてを失う。
「ですが」
サクラは続ける。
「絶対ではないからこそ、私は最善を尽くします」
「綺麗事だな」
「そうかもしれません」
「守れなかったら?」
「その責任は、私が負います」
「死んでもか」
「必要ならば」
サクラは迷わない。
カイドウは、しばらく彼女を見ていた。
やがて。
「お前」
「はい」
「死ぬ覚悟だけで、指揮官をやるな」
サクラの目が僅かに見開かれる。
「死んだら責任は取れねェ」
「……」
「生きて帰って、失敗した奴へ頭を下げろ」
それは。
少し前までのカイドウなら、絶対に口にしなかった言葉だった。
頭を下げる。
失敗を認める。
生きて責任を取る。
ウェンディと過ごす中で。
ヤマトとの過去を思い返す中で。
彼の中に生まれ始めた、新しい考え方。
ウェンディは驚いたようにカイドウを見上げる。
「カイドウさん……」
「何だ」
「今、とてもいいことを言いました」
「普通だ」
「前なら、死んだ奴が弱いって言いそうでした」
「お前、おれを何だと思ってる」
「少し前まで、本当に言っていたでしょう」
シャルルが冷静に指摘する。
カイドウは何も言い返せない。
サクラは。
僅かに笑った。
「分かりました」
「あ?」
「生きて責任を取ります」
「ああ」
「あなたが連合軍の邪魔をした場合も、生きたまま連れ帰り、ローバウル殿とウェンディさんへ謝罪していただきます」
「待て」
「生きて責任を取るのでしょう?」
「おれの話じゃねェ」
「同じです」
「やはり、お前は気に入らん」
「光栄です」
◇◇◇
昼食の時間。
サクラは、化猫の宿の食卓へ招かれた。
彼女の前には、野菜のスープ、焼きたてのパン、肉料理。
ウェンディは隣の席へ座っている。
カイドウは。
当然のように、ウェンディを挟んだ反対側へ座った。
「カイドウさん」
「何だ」
「近いです」
「普通だ」
「椅子が私の方へ寄っています」
「机が狭い」
「動かしたのはカイドウさんです!」
カイドウの椅子は、ウェンディの椅子へほとんど接触している。
反対側。
サクラとの距離は大きく空いていた。
「なぜ、そこまで私を警戒するのですか?」
サクラが尋ねる。
「お前はウェンディを戦場へ連れていく」
「連合軍へ参加すると決めたのは、ウェンディさん自身です」
「指揮官はお前だ」
「はい」
「怪我をさせるな」
「努力します」
「疲れさせるな」
「戦闘なので、疲労は避けられません」
「腹を空かせるな」
「食事は用意します」
「男を近づけるな」
「それは保証できません」
「一番重要だぞ」
「重要ではありません!」
ウェンディが叫ぶ。
「連合軍には男性の魔導士もいるんです!」
「ナツ、グレイ、ヒビキ、レン、イヴ、一夜、リオン、ジュラ」
サクラが参加者を数える。
カイドウの顔が、名前を聞くたびに険しくなる。
「多すぎる」
「何がです?」
「男だ」
「そこですか?」
「ウェンディさんは治癒魔導士です」
サクラは説明する。
「怪我人がいれば、男性でも治療します」
「駄目だ」
「駄目ではありません!」
「触るのか」
「治療です!」
「どこを」
「怪我をした場所です!」
「胸か」
「怪我の場所によっては!」
「腹か」
「必要なら!」
「背中か」
「カイドウさん!」
ウェンディの顔は真っ赤だった。
湯気が出そうなほど、耳まで赤くなっている。
「治療の話です!」
「男は勘違いする」
「しません!」
「する」
「何をですか!」
「お前は知らなくていい」
「また、それですか!」
サクラは真剣な顔でカイドウを見る。
「治療へ不要な接触をする者がいれば、私が止めます」
「本当だな」
「はい」
「青い天馬の男が口説いたら?」
「状況によります」
「潰す」
「カイドウさん!」
「連合軍の規律を乱す場合は、私が処分します」
サクラが答える。
カイドウは少し考えた。
「お前、意外と話が分かるな」
「指揮官ですから」
「何の話で意気投合しているんですか!」
ウェンディが机を軽く叩く。
「私を勝手に守る相談をしないでください!」
「必要だ」
「必要です」
カイドウとサクラの声が重なる。
「サクラさんまで!?」
「あなたは連合軍で最年少です」
「でも、魔導士です!」
「それは理解しています」
「なら」
「魔導士として扱いながら、年少者として配慮します」
サクラは真っ直ぐ言った。
「それが指揮官として当然です」
ウェンディは一瞬、言葉を失う。
子供扱いされるのは嫌だ。
だが。
完全に大人と同じ扱いを求めることが正しいわけでもない。
自分の力。
経験。
年齢。
それらを理解した上で、役割を果たす。
「分かりました」
ウェンディは頷く。
「でも、できることは自分でやらせてください」
「もちろんです」
「無理をしていたら止めてください」
「約束します」
「困った時は、助けてください」
「必ず」
サクラは手を差し出す。
今度こそ。
ウェンディは、その手を握った。
「よろしくお願いします、サクラさん」
「こちらこそ、ウェンディさん」
穏やかな握手。
カイドウの手が動く。
だが。
ウェンディが先に睨んだ。
「カイドウさん」
「何もしてねェ」
「今、離そうとしましたよね?」
「握手が長い」
「まだ三秒です!」
「二秒で十分だ」
「細かすぎます!」
サクラは握手を終え、カイドウを見る。
「心配はいりません」
「あ?」
「ウェンディさんは、私が守ります」
カイドウの目が細くなる。
「その言葉」
「はい」
「忘れるなよ」
「あなたこそ」
サクラは静かに返した。
「ウェンディさんを信じるという約束を、忘れないでください」
「……」
カイドウは答えない。
だが。
否定もしなかった。
◇◇◇
昼食後。
サクラは、ウェンディの魔法を確認したいと申し出た。
戦闘前に、各参加者の能力を把握するためである。
化猫の宿の裏手。
木々に囲まれた訓練場。
ウェンディ。
シャルル。
サクラ。
ローバウル。
そしてカイドウが集まった。
「まず、強化魔法を見せてください」
「はい」
ウェンディは両手へ風を集める。
「アームズ!」
柔らかな風が、サクラの両腕を包む。
身体能力を強化する付加術。
サクラは拳を握る。
「なるほど。力の上昇だけではなく、魔力の流れまで整えていますね」
「はい」
「非常に優れた付加術です」
「ありがとうございます」
「次に、速度強化を」
「バーニア!」
今度は足へ風が集まる。
サクラの長い桜色の髪が揺れ。
彼女の姿が一瞬で消えた。
次の瞬間。
数十メートル離れた場所へ移動している。
「速い」
シャルルが驚く。
「ウェンディさん自身の魔力だけで、これほどの強化を」
サクラも感心している。
ウェンディは嬉しそうに笑った。
カイドウは腕を組んだまま。
「まだ弱い」
「カイドウさん!」
「敵を倒すには足りねェ」
「これは仲間を強くする魔法です!」
「おれに使え」
「え?」
「どのくらい強くなるか試す」
「駄目です」
サクラが先に止めた。
「なぜだ」
「あなたを強化した場合、訓練場が消えます」
「加減する」
「信用できません」
「初対面の女にまで言われたぞ」
シャルルが笑う。
「白狸が悪い」
「私は何も教えていないわ」
「カイドウさんの行動を見れば分かります」
ウェンディも言う。
次は治癒魔法。
サクラが、自分の指先へ小さな傷を作ろうとする。
その瞬間。
カイドウが腕を掴んだ。
「何をしてる」
「治癒魔法を確認するためです」
「勝手に怪我をするな」
「私自身の指です」
「ウェンディに治させるんだろ」
「はい」
「魔力を無駄に使わせるな」
サクラは、カイドウの手を見る。
「離してください」
「傷を作らねェならな」
「治癒能力の確認は必要です」
「おれが怪我をする」
「カイドウさんは怪我が治ったばかりです!」
ウェンディが止める。
「指一本だ」
「カイドウさんの指は、普通の刃では傷つきません!」
「覇気を使う」
「自分で傷つけないでください!」
「なら、白狸」
「なぜ私なのよ!」
「毛を一本抜く」
「それは怪我ではないわ!」
サクラは、困ったように微笑んだ。
「ウェンディさん」
「はい?」
「普段から、こうなのですか?」
「はい」
「毎日よ」
シャルルも答える。
「大変ですね」
「最近は少し慣れました」
「慣れるな」
カイドウが言う。
「カイドウさんのせいです!」
最終的に。
訓練用の魔法人形へ小さな傷をつけ。
人間と同じ魔力経路を再現することで、治癒魔法の確認を行うことになった。
ウェンディは人形へ両手を向ける。
暖かな風。
傷ついた部分が、少しずつ修復されていく。
「見事です」
サクラは感心したように頷く。
「これなら、連合軍の要となれます」
「要?」
「はい」
サクラはウェンディを見る。
「戦場で最も重要なのは、一番強い攻撃を持つ者とは限りません」
負傷者を治し。
毒を消し。
仲間を強化する。
戦い続ける力を与える者。
「あなたの存在が、連合軍全体の生存率を大きく上げます」
ウェンディの表情が引き締まる。
「頑張ります」
「ただし」
サクラの声が少し厳しくなる。
「自分の魔力を使い切らないでください」
「はい」
「仲間を助けるために自分が倒れれば、その後に助けられる者まで失います」
「分かりました」
「自分を守ることも、仲間を守ることです」
ウェンディは、強く頷いた。
「はい!」
カイドウは。
サクラの言葉を聞きながら、僅かに目を細めていた。
敵意はない。
ウェンディの力を正確に評価し。
無理をさせないよう、指示を出している。
指揮官として。
サクラは信用できる。
少なくとも、今のところは。
「おい、桜頭」
カイドウが呼ぶ。
サクラの眉が僅かに動いた。
「私の名前はサクラです」
「似たようなもんだ」
「似ていません」
「ウェンディへ無理をさせねェと言ったな」
「はい」
「忘れたら潰す」
「あなたが連合軍の邪魔をしたら、天使魔法で拘束します」
「できると思ってんのか」
「試しますか?」
「おう」
「やめてください!」
ウェンディの叫びが訓練場へ響いた。
「どうして、すぐに戦おうとするんですか!」
「向こうが言った」
「カイドウさんが先に潰すって言いました!」
「約束の確認だ」
「拳で確認しないでください!」
サクラは小さく笑った。
「本当に、マカロフ様の手紙通りですね」
「何と書いてあった」
「強く、面倒で、酒臭く、ウェンディさんへ非常に弱い」
「最後が違ェ」
「全部合っているわ」
シャルルが言う。
「白狸」
「エクシードよ」
◇◇◇
夕方。
サクラは、化猫の宿を出発する時間を迎えた。
「集合は、明後日の正午です」
宿の入り口。
彼女はローバウルとウェンディへ、最後の確認を行う。
「場所は、青い天馬所有の別荘。森の南側から入れば、街道沿いに案内があります」
「はい」
ウェンディが頷く。
「遅れないように出発します」
「何か問題が起きた場合は、魔法通信で連絡してください」
「分かりました」
サクラはシャルルを見る。
「移動中、ウェンディさんの様子を見ていてください」
「もちろんよ」
「疲労や体調不良があれば、すぐに休ませるように」
「任せて」
「食事も、きちんと取らせてください」
「カイドウが聞いたら喜びそうね」
「聞こえてるぞ」
背後。
カイドウは巨大な荷物袋を抱えていた。
その中には。
ウェンディ用の保存食。
毛布。
水。
薬草。
予備の服。
さらに、サクラが必要ないと判断した大量の肉。
「その袋は何ですか?」
サクラが尋ねる。
「ウェンディの荷物だ」
「多すぎます」
「三日分だ」
「連合軍の拠点にも食料はあります」
「信用できん」
「青い天馬が用意します」
「男のギルドだろ」
「女性もいます」
「飯へ何か入れるかもしれん」
「正規ギルドですよ!」
ウェンディが叫ぶ。
「持っていくのは、この鞄一つです!」
「少ねェ」
「十分です!」
「毛布は三枚いる」
「一枚です!」
「夜は冷える」
「別荘の中で寝ます!」
「屋根が壊れるかもしれん」
「カイドウさんが来なければ壊れません!」
サクラは、巨大な荷物袋を見る。
中から、酒瓶の首が一本だけ覗いていた。
「酒も入っていますね」
ウェンディの目が鋭くなる。
カイドウは袋を背中へ隠した。
「入ってねェ」
「見えています」
「薬だ」
「酒瓶ですよね?」
ウェンディが袋へ近づく。
「カイドウさん」
「何だ」
「見せてください」
「嫌だ」
「見せてください」
「おれの荷物だ」
「ウェンディさん用と言ったばかりでしょう」
サクラが指摘する。
カイドウは黙る。
シャルルが袋の中へ飛び込み。
酒瓶を一本取り出した。
「やっぱり入っているわ」
「白狸!」
「エクシードよ」
「これは何ですか?」
ウェンディが尋ねる。
「消毒用だ」
「果実酒と書いてあります!」
「果実で消毒する」
「できません!」
「戦勝祝いだ」
「まだ戦っていません!」
「帰ってきた時に飲む」
「宿で待っていればいいでしょう!」
ウェンディは酒瓶を没収し、ローバウルへ渡した。
ローバウルは帳面を開く。
「勝手に持ち出した分は、借金へ」
「戻しただろ!」
「持ち出そうとした」
「まだ宿の前だ!」
「前回も同じことを言っておったのう」
「ジジイ!」
「今夜のお酒」
ウェンディの一言。
カイドウは口を閉じた。
サクラはその様子を見て、肩を僅かに揺らした。
「笑うな」
「失礼しました」
「笑ってただろ」
「聖十大魔導も笑います」
「おれを笑った奴は」
「カイドウさん」
ウェンディが先に止める。
「潰しません」
「……分かってる」
カイドウは不満そうに鼻を鳴らした。
◇◇◇
出発の直前。
サクラは、ウェンディの前へしゃがんだ。
視線の高さを合わせる。
「ウェンディさん」
「はい」
「不安ですか?」
突然の問い。
ウェンディは、すぐには答えなかった。
六魔将軍。
ニルヴァーナ。
知らないギルドの魔導士たち。
連合軍の要として期待される自分。
「少しだけ」
正直に答える。
サクラは微笑んだ。
「不安でいいのです」
「え?」
「不安があるから、慎重になれます」
恐怖がある。
迷いがある。
それは弱さではない。
「本当に危険なのは、自分は絶対に負けないと思い込むことです」
背後。
カイドウの眉が動く。
「おい」
「特定の誰かを言ったわけではありません」
「おれを見てただろ」
「偶然です」
「性格が悪いな」
「光栄です」
サクラは再びウェンディへ向き直る。
「怖い時は、一人で抱え込まないでください」
「はい」
「妖精の尻尾も、青い天馬も、蛇姫の鱗もいます」
「はい」
「そして」
サクラは、カイドウを見上げた。
「ここで帰りを待つ、非常に騒がしい保護者もいます」
「誰が保護者だ」
「カイドウさんです」
ウェンディが答えた。
「お前まで言うな」
「でも、帰りを待ってくれるんですよね?」
ウェンディが見上げる。
カイドウは腕を組んだまま。
「お前が帰ってくるまでな」
「お酒を飲みすぎずに?」
「……」
「そこは黙らないでください!」
「一日一杯だ」
「本当ですね?」
「ああ」
「勝手に追いかけてきませんか?」
「呼ばれるまで待つ」
「絶対ですよ」
「約束しただろ」
ウェンディは笑う。
「はい」
サクラは、その二人を静かに見ていた。
マカロフの手紙に書かれていた異世界の龍。
世界を壊す災厄となるか。
少女を守る者となるか。
今のカイドウは。
まだ危うい。
ウェンディのためなら、連合軍すら敵に回すだろう。
だが同時に。
ウェンディの言葉を聞き。
彼女の意思を尊重しようともしている。
「カイドウさん」
サクラが立ち上がる。
「何だ」
「ウェンディさんは、必ず連れて帰ります」
「口だけじゃねェだろうな」
「聖十大魔導の名に懸けて」
サクラの背中に、純白の翼が広がる。
夕日を受け。
桜色の髪と白い翼が、鮮やかに輝いた。
「そして、連合軍全員を帰還させます」
カイドウは、彼女を見つめる。
「できなかったら」
「生きて責任を取ります」
「ああ」
「あなたも、勝手に戦場へ来た場合は責任を取ってください」
「行かねェ」
「本当ですか?」
「ウェンディが呼ぶまではな」
「その言葉、覚えておきます」
「好きにしろ」
サクラは空へ浮かび上がる。
「では、明後日。集合地点でお待ちしています」
「はい!」
ウェンディが手を振る。
「よろしくお願いします!」
「こちらこそ」
サクラは微笑む。
白い翼が大きく羽ばたく。
光の羽根を残しながら。
彼女の姿は、夕暮れの空へ上昇していった。
やがて。
桜色の光は、森の向こうへ消える。
◇◇◇
サクラが去った後。
化猫の宿の入り口には、しばらく静寂が残った。
「すごい人でしたね」
ウェンディが空を見上げる。
「聖十大魔導で、天使魔法を使えて、連合軍のリーダーで……」
「気が強すぎるわ」
シャルルが言う。
「カイドウへ正面から帰れと言える人なんて、そうはいないもの」
「気に入らん」
カイドウが低く言う。
「でも、強いでしょう?」
「ああ」
「信用できそうですか?」
「まだ分からん」
「またですか」
「ただ」
カイドウは、サクラが消えた空を見る。
「あの女は、嘘を言ってねェ」
「全員を連れて帰るという言葉ですか?」
「ああ」
命を懸ける。
守る。
生きて責任を取る。
それらの言葉に、迷いはなかった。
「では、安心ですね」
「安心はしてねェ」
「どうしてですか?」
「聖十大魔導でも、負ける時はある」
「……」
「だから、お前は自分で生き残れ」
ウェンディは、カイドウを見る。
「はい」
「誰かが守ると思うな」
「はい」
「危なくなったら逃げろ」
「はい」
「戦う必要がねェなら戦うな」
「はい」
「男が近づいたら」
「それは自分で判断します」
「最後まで聞け」
「同じ話でしょう?」
「青い天馬の男は特に」
「もう!」
ウェンディが頬を膨らませる。
「サクラさんが守ってくれます!」
「信用するな」
「さっき、嘘は言っていないって」
「それと男は別だ」
「何が別なんですか!」
シャルルが頭を抱えた。
「せっかく少し格好いいことを言ったのに、全部台無しね」
「白狸」
「エクシードよ」
ローバウルは笑っていた。
だが。
サクラが来たことで。
いよいよ連合軍の出発が迫ったことを、実感していた。
「ウェンディ」
「はい、マスター」
「明日は、ゆっくり休むとよい」
「でも、まだ準備が」
「準備は十分じゃ」
「薬草の確認が残っています」
「カイドウが七回も確認したのでしょう?」
「六回だ」
「七回です!」
ウェンディが即座に訂正する。
ローバウルは目を細める。
「なら、問題なかろう」
「でも」
「出発前に大切なのは、体を休めることじゃ」
「……分かりました」
「カイドウ」
「あ?」
「明日は、ウェンディを疲れさせぬように」
「おれは何もしてねェ」
「朝から靴紐を三回結び直したでしょう」
シャルルが言う。
「二回だ」
「三回です!」
ウェンディがまた訂正する。
「さらに食事を増やし、鞄を確認し、森へついていこうとしたわ」
「心配だからだ」
「認めたわね」
カイドウの顔が固まる。
「親バカね」
「違ェ!」
怒声が森へ響いた。
飛び立った鳥たちが、一斉に空へ舞い上がる。
「大声を出さないでください!」
「誰が親バカだ!」
「カイドウさんです!」
「違ェ!」
「サクラさんも言っていました!」
「あの桜頭の言うことは信用するな!」
「名前で呼んでください!」
六魔将軍討伐連合軍。
その指揮官。
妖精の尻尾所属、天使魔法の使い手。
聖十大魔導、サクラ・ヴィンセント。
彼女の訪問により。
戦いの始まりは、より現実的なものとなった。
四つの正規ギルドが集まり。
闇ギルド六魔将軍へ挑む。
ウェンディは、自分の力で仲間を守るために戦場へ向かう。
サクラは、全員を生きて帰すために連合軍を率いる。
そして。
カイドウは。
「やはり、こっそりついていく」
「聞こえています!」
「気配を消す」
「消せません!」
「龍になって雲へ」
「目立ちます!」
「海の中から」
「泳いだら力が抜けるんですよね!?」
「……忘れてた」
「絶対に宿で待っていてください!」
六魔将軍よりも先に。
己の親バカと戦わなければならなかった。
出発まで。
あと二日。
カイドウが本当に約束を守れるのか。
それを信じている者は。
化猫の宿には、一人もいなかった。
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