『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』 作:パスカルDX
第12話 最強生物、娘を見送れない
六魔将軍討伐連合軍の出発当日。
まだ太陽すら顔を出していない早朝から、化猫の宿には地鳴りのような音が響いていた。
ずしん。
ずしん。
ずしん。
二階の廊下を、大きな何かが往復している。
窓ガラスは足音に合わせて細かく震え、天井からは昨日掃除したばかりの埃が、はらはらと舞い落ちていた。
「……うるさいわね」
シャルルは寝台の上で片目を開けると、隣で眠っているウェンディを見た。
水色の髪を枕へ広げた少女は、毛布に包まりながら穏やかな寝息を立てている。
昨夜は緊張でなかなか眠れなかった。
ようやく眠りについたのは、日付が変わってからだったはずだ。
それを起こすわけにはいかない。
シャルルは小さく息を吐き、寝台から飛び降りた。
翼を出し、扉の前まで飛ぶ。
扉を開けると。
廊下には、巨大な荷物袋を両肩に担いだカイドウがいた。
「……何をしているの?」
「準備だ」
カイドウは、当然のように答えた。
右肩の袋には食料。
左肩の袋には薬草。
背中には毛布と予備の衣類。
腰には巨大な金棒。
さらに、首からいくつもの水筒がぶら下がっていた。
どう見ても、短期間の討伐任務へ向かう装備ではない。
戦争へ行く大部隊の補給係。
あるいは、これから無人島へ移住する者の荷物である。
「ウェンディの荷物は、昨日まとめたでしょう」
「あれじゃ足りねェ」
「何が?」
「全部だ」
「答えになっていないわ」
シャルルは腕を組む。
「それに、あなたは集合地点までしか来ない約束でしょう?」
「ああ」
「どうして一か月分はありそうな食料を持っているのよ」
「何があるか分からん」
「討伐は一か月も続かないわ」
「続くかもしれん」
「その場合でも、連合軍が食料を用意するわよ」
「青い天馬の飯は信用できん」
「まだ食べてもいないでしょう」
「見た目ばかり気にして、量が少なそうだ」
「ただの偏見よ」
カイドウは荷物を床へ置いた。
ずん、と廊下が揺れる。
「静かにして!」
シャルルが小声で怒鳴った。
「ウェンディが眠っているのよ!」
カイドウの動きが止まる。
すぐに扉の奥へ視線を向けた。
「起きたか」
「今のところは寝ているわ」
「そうか」
先ほどまでの荒い動きが嘘のように、カイドウは静かになった。
巨大な荷物袋を、音を立てないようゆっくり持ち上げる。
だが。
右肩へ担ごうとした袋の口から、大きな鍋が落ちかけた。
カイドウは素早く掴む。
鍋は床へ落ちなかった。
「……」
「……」
シャルルとカイドウは、無言で扉を見る。
ウェンディが起きた気配はない。
カイドウは静かに息を吐いた。
「危なかった」
「誰のせいよ」
「鍋が勝手に落ちた」
「詰め込んだあなたのせいでしょう」
「必要な物だ」
「巨大な鍋が?」
「飯を作る」
「誰が?」
「おれだ」
シャルルは目を細める。
「料理をしたことがあるの?」
「肉を焼ける」
「炎で?」
「ああ」
「池ごと沸騰させた話を忘れたの?」
「魚は焼けた」
「浮いてきただけよ!」
シャルルは荷物袋の中を覗いた。
大鍋。
肉。
干し肉。
パン。
毛布。
水筒。
予備の靴。
解毒薬。
虫よけ。
なぜか大きな傘。
さらに奥には、果実酒の瓶が三本入っていた。
「カイドウ」
「あ?」
「これは?」
シャルルが酒瓶を一本取り出す。
「薬だ」
「果実酒と書いてあるわ」
「心の薬だ」
「没収ね」
「待て」
カイドウが酒瓶へ手を伸ばす。
シャルルは飛び上がってかわした。
「ウェンディに渡すわ」
「起こすな」
「では、私が預かる」
「白狸に酒の管理ができるか」
「あなたよりはできるわ。私はエクシードよ」
「一瓶だけ返せ」
「駄目」
「旅には必要だ」
「集合場所まで半日もかからないわ」
「別れの酒だ」
「縁起でもないことを言わないで」
カイドウは口を閉じた。
別れ。
その言葉に。
自分自身が、一番強く反応したのだろう。
今日。
ウェンディは化猫の宿を出て、六魔将軍討伐連合軍へ参加する。
集合地点までカイドウも同行する。
だが、そこから先は別々になる。
カイドウは宿へ戻り。
ウェンディは仲間たちと危険な戦場へ向かう。
何日で帰ってくるかは分からない。
必ず無事に戻れるという保証もない。
「……本当に帰るつもり?」
シャルルが尋ねた。
カイドウは答えなかった。
沈黙。
それだけで、十分だった。
「約束したでしょう」
「ああ」
「ウェンディが呼ぶまで、戦場へ入らない」
「ああ」
「守れるの?」
「おれを誰だと思ってる」
「約束を守るのが苦手な親バカ」
「誰が親バカだ」
「声を抑えなさい」
カイドウは再び扉を見る。
そして、今度は本当に小さな声で言った。
「……違ェ」
「否定まで小さくできるようになったのね」
「うるせェ」
シャルルは酒瓶を抱えたまま、カイドウを見つめた。
「ウェンディを信じて」
「信じてる」
「なら、手を離しなさい」
「信じることと、危険へ放り出すことは違う」
「放り出すわけではないわ。自分で選んだ道を歩かせるのよ」
「同じだ」
「違う」
シャルルの声は静かだった。
「ヤマトにも、そうしてあげられなかったのでしょう?」
カイドウの目が細くなる。
怒りではない。
痛み。
シャルルは、もうそれを見間違えなかった。
「あいつは、自由にさせれば何をするか分からなかった」
「ウェンディも同じよ」
「あ?」
「自分のことより、ほかの人を助けようとする。危険でも前へ出る。無理をするなと言っても、目の前で誰かが傷つけば放っておけない」
「だから行かせたくねェ」
「でも、それがウェンディなの」
カイドウは黙った。
ウェンディの優しさ。
それは美点であり。
同時に、危うさでもある。
カイドウがどれほど止めても、彼女は傷ついた者を見れば治療する。
敵が襲えば、仲間を庇う。
自分の魔力を削り。
自分の身を危険へさらす。
「守るだけでは駄目なのよ」
シャルルは言った。
「ウェンディが、自分で戻ってくることを信じないと」
「簡単に言うな」
「簡単ではないわ」
シャルルもまた。
ウェンディを一人で行かせたくはない。
できることなら、危険な戦いから遠ざけたい。
ずっと安全な場所で笑っていてほしい。
だが。
ウェンディは魔導士だ。
助けられる力を持っている。
その力を使わず、誰かが傷つくことを見ているだけなどできない。
「私も怖いのよ」
シャルルの声が僅かに弱くなる。
「未来が見える時がある。けれど、いつも都合よく見えるわけではない。今回、何が起こるかは分からない」
「……」
「それでも、私は一緒に行く」
「ああ」
「ウェンディの隣にいる」
「ああ」
「必ず連れて帰るわ」
カイドウは、シャルルを見た。
いつも白狸と呼んでいる小さなエクシード。
口が悪く。
自分へ一歩も引かず。
ウェンディのことになると、誰よりも真剣になる。
「白狸」
「シャルルよ」
「ウェンディを頼む」
シャルルの目が見開かれた。
カイドウが。
誰かへウェンディを託した。
不器用で。
傲慢で。
自分一人ですべてを守ろうとする男が。
「……ええ」
シャルルは静かに頷く。
「任せて」
「怪我をさせるな」
「努力するわ」
「男を近づけるな」
「それは自分で管理しなさい」
「何?」
「私はウェンディの友達であって、恋愛を監視する保護者ではないわ」
「恋愛だと?」
カイドウの顔が一気に険しくなる。
「誰だ」
「だから、まだ誰もいないわよ」
「青い天馬か」
「違う」
「ナツか」
「会ったばかりよ」
「グレイか」
「なぜ候補を増やすの?」
「リオンという奴もいる」
「全員、連合軍の仲間よ!」
「ジュラは年上すぎる」
「最初から候補ではないわ!」
シャルルは頭を抱えた。
先ほどまで、少しだけ感動していた自分が馬鹿らしくなる。
「全部潰す」
「何もしていない人を潰さないで!」
「小声で何を話しているんですか?」
背後から、眠たそうな声がした。
カイドウとシャルルが固まる。
ウェンディが扉の隙間から顔を出していた。
水色の髪は寝癖で跳ね。
まだ半分ほど目が閉じている。
「おはようございます……」
「起きたのか」
「足音がずっと聞こえていました」
ウェンディは廊下に置かれた大量の荷物を見る。
「……何ですか、これは?」
「旅支度だ」
「誰の?」
「お前のだ」
「私の鞄は、部屋の中にあります」
「少ねェ」
「十分です!」
ウェンディの眠気が一瞬で消えた。
「大鍋まで何に使うんですか!」
「飯だ」
「別荘で用意されます!」
「毛布が五枚」
「一枚で十分です!」
「水筒が八本」
「重いです!」
「肉が三十人分」
「誰が食べるんですか!」
「お前とナツだ」
「ナツさんを何だと思っているんですか!?」
「酒が三本」
シャルルが瓶を見せる。
ウェンディの目が細くなる。
「これは誰のですか?」
「白狸のだ」
「あなたのよ!」
シャルルが叫ぶ。
「私に押しつけないで!」
「カイドウさん」
「何だ」
「集合地点へ着くまで、お酒は禁止です」
「なぜだ」
「荷物へ隠した罰です」
「飲んでねェ」
「持っていこうとしました」
「消毒だ」
「心の薬だと言っていたわ」
シャルルが告げ口する。
「白狸!」
「私はエクシードよ!」
ウェンディは両手を腰へ当てた。
「お酒は宿へ置いていきます!」
「一瓶だけ」
「駄目です」
「半分」
「瓶は割れません!」
「一口」
「朝から飲みません!」
「出発祝いだ」
「帰ってきてからです!」
カイドウの動きが止まる。
「帰ってきたら?」
「はい」
「何杯だ」
「一杯です」
「少ねェ」
「では、二杯」
カイドウの目が輝く。
「本当だな」
「その代わり」
ウェンディは人差し指を立てた。
「約束を守ってください」
「集合地点で帰る」
「はい」
「助けを呼ぶまで待つ」
「はい」
「青い天馬の男を殴らない」
「……」
「カイドウさん?」
「怪しかったら?」
「殴りません」
「口説いたら?」
「私が自分で断ります」
「触ったら?」
「治療や握手なら問題ありません」
「問題ある」
「ありません!」
「抱きついたら」
「そんなことはありません!」
「万が一だ」
「その時はサクラさんやシャルルが止めてくれます!」
「おれが止める」
「宿にいるでしょう!」
「飛んでいく」
「駄目です!」
朝日が昇る前から。
化猫の宿には、いつもの言い争いが響いていた。
◇◇◇
朝食を終えた頃。
東の空は淡い橙色に染まっていた。
出発の時刻まで、あと一時間。
ウェンディは自室へ戻り、身支度を整えていた。
白と青を基調とした服。
カイドウが買った丈夫な靴。
腰には小さな水筒。
背中には治療道具と薬草を入れた鞄。
鏡の前で髪を整える。
「変じゃない?」
ウェンディが尋ねる。
「大丈夫よ」
シャルルは窓辺に座り、答えた。
「いつも通り可愛いわ」
「ありがとう」
ウェンディは笑う。
だが。
笑顔の奥に、僅かな緊張がある。
シャルルには分かった。
「まだ怖い?」
「少し」
「そう」
「でも、昨日よりは平気だよ」
「サクラと会ったから?」
「うん」
聖十大魔導。
連合軍の指揮官。
天使魔法の使い手。
サクラは強く、冷静で。
ウェンディを一人の魔導士として認めながら、年少者として守るとも言ってくれた。
「サクラさんなら、きっとみんなをまとめてくれる」
「カイドウとも正面から言い合っていたものね」
「あれは少し心配だけど……」
「相性が悪いわ」
「似ているからかな?」
「本人たちへ言ったら、二人とも否定するでしょうね」
ウェンディは小さく笑う。
そして。
机の上に置いた、一枚の布を手に取った。
青い布で作った、小さなお守り。
中には乾燥させた薬草。
さらに、町への買い物の途中で拾った白い花びらが入っている。
「それは?」
「お守り」
「あなたが持つの?」
ウェンディは首を横に振った。
「カイドウさんに渡すの」
「カイドウへ?」
「私がいない間、また無茶をするかもしれないから」
「無茶を止める効果はないと思うわ」
「でも」
ウェンディは、お守りを両手で包む。
「少しでも安心してもらえたら」
シャルルは何も言わなかった。
カイドウは、ウェンディがいなくなることを恐れている。
その恐怖を。
本人は決して認めない。
だが、ウェンディは気づいている。
「あなたも親バカね」
「私が?」
「カイドウの心配ばかりしているじゃない」
「だって、放っておいたらお酒を飲みすぎるし、依頼で山を壊すかもしれないし……」
「娘が父親の世話を焼いているみたい」
「親子じゃないよ!」
ウェンディは顔を赤くする。
「ギルドの仲間です!」
「はいはい」
「シャルルまで!」
その時。
扉が叩かれた。
非常に小さな音。
カイドウが力加減をしているのだろう。
「入るぞ」
「どうぞ」
扉が開く。
カイドウが、深く体を屈めながら部屋へ入った。
角が天井へ当たらないように。
両手には、巨大な外套。
「何ですか、それは?」
「持っていけ」
「カイドウさんの外套ですよね?」
「ああ」
「大きすぎます!」
「夜は冷える」
「毛布があります」
「連合軍の奴らが、ちゃんとした物を用意するか分からん」
「青い天馬の別荘ですよ?」
「男のギルドだ」
「関係ありません!」
カイドウは外套をウェンディへ被せた。
「きゃっ!」
頭から足元まで、黒い布に覆われる。
ウェンディは外套の中でもがいた。
「前が見えません!」
「暖かい」
「歩けません!」
「おれが運ぶ」
「戦場まで運ぶつもりですか!?」
シャルルが外套を引っ張り、ウェンディの顔を出した。
「本当に過保護ね」
「風邪を引く」
「治せます!」
「自分へ治癒魔法は使いにくいだろ」
ウェンディの動きが止まる。
カイドウは。
意外なほど、ウェンディの魔法を理解していた。
いつも治療するな、魔力を使うなと騒いでいるだけではない。
彼女が何をできて。
何を苦手としているか。
よく見ていた。
「……ありがとうございます」
ウェンディは外套の中から笑った。
「でも、これは持っていけません」
「なぜだ」
「大きいからです」
「切るか」
「カイドウさんが着られなくなります!」
「また作ればいい」
「誰が作るんですか?」
「宿の奴らだ」
「迷惑です!」
ウェンディは外套を丁寧に畳み、カイドウへ返した。
「代わりに」
小さなお守りを差し出す。
「これを持っていてください」
カイドウは指先で摘まむ。
「何だ」
「お守りです」
「敵を倒せるのか」
「倒せません」
「酒が出るのか」
「出ません」
「使えねェな」
「返してください!」
ウェンディが手を伸ばす。
カイドウは腕を上げた。
「返さん」
「使えないって言ったでしょう!」
「もう、おれのだ」
「……大切にしてくださいね」
「ああ」
カイドウは、お守りを見た。
青い布。
不器用だが丁寧に縫われた、小さな袋。
「中は何だ」
「薬草です」
「薬か」
「飲む物ではありません」
「ならいい」
「それから、町で拾った花びらが入っています」
カイドウは、あの日の花畑を思い出した。
自然に飛んできた白い花びら。
ウェンディが大切そうに持ち帰ったもの。
「なぜ、これをおれに渡す」
「無事に待っていてほしいからです」
「待つだけだぞ」
「カイドウさんにとっては、一番難しいでしょう?」
ウェンディは笑う。
「だから、お守りです」
「……」
「勝手に追いかけたくなったら、これを見てください」
「敵の気配がしてもか」
「私が呼ぶまでです」
「お前が呼べない状態なら」
「サクラさんやシャルルが呼びます」
「信用できん」
「信じてください」
ウェンディは、カイドウを真っ直ぐ見た。
「私も、カイドウさんが約束を守ってくれるって信じます」
信じる。
また、その言葉だった。
カイドウは、お守りを自分の腰帯へ結びつけた。
金棒の近く。
酒の瓢箪を下げていた場所。
「落とさないでくださいね」
「落とさん」
「濡らさないでください」
「ああ」
「お酒に漬けないでください」
「なぜ、そんなことをする」
「カイドウさんだからです」
「お前、おれを何だと思ってる」
「酒好きの親バカです」
「誰が親バカだ!」
カイドウの怒声。
天井が揺れる。
ウェンディとシャルルが、同時に彼を睨んだ。
「……悪かった」
カイドウはすぐに小声で謝った。
シャルルの目が見開かれる。
「今、自分から謝ったわね」
「気のせいだ」
「聞きました!」
ウェンディの顔が明るくなる。
「カイドウさん、成長しましたね!」
「子供扱いするな」
「帰ってきたら、もう一度言ってください」
「嫌だ」
「練習です」
「何のだ」
「ヤマトさんに謝るための」
カイドウの動きが止まった。
ウェンディは穏やかに微笑んでいる。
「いつか会えた時のために」
「……」
「今度は、ちゃんと伝えてくださいね」
「お前は、簡単に言う」
「難しく考えすぎです」
ウェンディは鞄を背負った。
「行きましょう」
カイドウは、腰に結ばれた小さなお守りへ一度だけ触れた。
「ああ」
◇◇◇
化猫の宿の前には、ギルドの魔導士たちが集まっていた。
依頼で外出していた者も、ウェンディを見送るために朝早く戻ってきている。
ローバウルは、宿の入り口に立っていた。
いつもの杖。
いつもの穏やかな笑み。
「準備はできたかのう」
「はい、マスター」
ウェンディは前へ出る。
「薬草も、包帯も、食料も確認しました」
「確認したのは、おれだ」
カイドウが後ろから言う。
「カイドウさんが勝手に増やした物は、ほとんど置いてきました」
「肉は必要だ」
「ナツさんたちの分まで持たなくていいです!」
「ナツなら食う」
「否定はできないけれど」
シャルルが呟く。
ローバウルは三人を見た。
ウェンディ。
シャルル。
カイドウ。
空から落ちてきた異世界の龍。
最初は。
ただの災厄だと思った。
圧倒的な力。
乱暴な言葉。
世界そのものを信じていないような目。
だが。
今のカイドウは。
ウェンディの鞄を気にし。
靴紐を確認し。
男の参加者を警戒し。
小さなお守りを腰へ結びつけている。
「カイドウ」
「何だ」
「ウェンディとシャルルを頼む」
「ああ」
「集合地点までじゃぞ」
「分かってる」
「本当に?」
宿の魔導士の一人が尋ねる。
「森の中へ隠れてついていきそうだ」
「隠れられる体ではないけどな」
「龍になって雲の中へ行くんじゃないか?」
「考えた」
カイドウが答える。
「考えたんですか!?」
ウェンディが振り返る。
「やりませんよね?」
「お守りがある」
「それを見て、待っていてください」
「ああ」
ローバウルは、ウェンディへ視線を戻した。
「ウェンディ」
「はい」
「この戦いで、多くのものを見るじゃろう」
正規ギルド。
闇ギルド。
強い魔導士。
恐ろしい魔法。
仲間たちの絆。
そして。
化猫の宿の真実。
「迷うこともある」
「はい」
「苦しむこともある」
「はい」
「それでも、自分の心を信じるのじゃ」
ウェンディは、力強く頷いた。
「分かりました」
「お前は優しい」
ローバウルは微笑む。
「その優しさは、弱さではない」
「マスター……」
「じゃが、自分まで傷つけてはならん」
「はい」
「必ず帰ってくるのじゃぞ」
「もちろんです!」
ウェンディは明るく答えた。
その笑顔へ。
ローバウルも笑みを返す。
だが。
どこか寂しい。
カイドウは、それを見逃さなかった。
「ジジイ」
「何じゃ」
「お前も待ってろ」
ローバウルの目が僅かに見開かれる。
「ウェンディが帰ってくるまで、勝手に消えるな」
空気が止まる。
ウェンディが首を傾げた。
「カイドウさん?」
「何でもねェ」
カイドウはローバウルから目を逸らさない。
ローバウルは、しばらく沈黙していた。
そして。
「ああ」
静かに答えた。
「待っておるよ」
その言葉が。
どこまで真実だったのか。
今のウェンディには、まだ分からなかった。
◇◇◇
化猫の宿から連合軍の集合場所までは、徒歩で数時間。
途中までは森の中の道を進み。
その後、青い天馬が用意した案内標識に従い、別荘へ向かうことになっていた。
朝の森。
木々の間から差し込む光。
鳥の声。
草葉についた朝露。
ウェンディは、いつもより少しだけ速い足取りで歩いていた。
緊張。
期待。
不安。
さまざまな感情が、胸の中で混ざり合っている。
「速い」
背後からカイドウが言った。
「普通です」
「転ぶぞ」
「新しい靴ですから大丈夫です」
「靴を信用しすぎるな」
「カイドウさんが選んだんですよ?」
「店主が選んだ」
「最後に納得したでしょう」
「靴底は丈夫だった」
「なら安心してください」
「道が濡れてる」
「朝露です」
「滑る」
「気をつけます」
ウェンディが小さな石を跨ぐ。
カイドウの手が動きかける。
だが。
途中で止まった。
ウェンディは自分の足で石を越えた。
振り返る。
「今、抱き上げようとしました?」
「してねェ」
「手が動きました」
「虫を払った」
「虫はいません」
「小さすぎて見えなかっただけだ」
「カイドウさんには見えていたんですか?」
「……ああ」
「嘘ですね」
「面倒な小娘だ」
「ウェンディです!」
シャルルは二人の横を飛びながら、呆れたように息を吐いた。
「集合地点へ着くまでに、何回同じやり取りをするつもり?」
「カイドウさんが心配しすぎるからです」
「お前が無防備すぎる」
「普通に歩いているだけです!」
「枝が落ちる」
「落ちません!」
その瞬間。
頭上で、小さな枝が折れた。
ウェンディの上へ落ちる。
カイドウの手が伸びた。
枝を指先で掴む。
「落ちたぞ」
「……偶然です」
「危なかった」
「小さな枝です!」
「目に入るかもしれん」
「その時は治療します!」
「だから言ってる」
カイドウは枝を握り潰した。
木屑が風に舞う。
「枝に罪はありません!」
「お前を狙った」
「木の枝に意思はありません!」
「闇ギルドの魔法かもしれん」
「森中の枝を疑わないでください!」
歩き始めて一時間。
道は次第に広くなった。
青い天馬が設置したらしい案内板も見えてくる。
白い板。
青い翼の紋章。
優美な文字で、別荘までの道が書かれていた。
『連合軍集合会場はこちら。美しき魔導士たちを歓迎いたします』
カイドウは案内板を見る。
「気に入らん」
「何がですか?」
「美しき魔導士だと」
「青い天馬らしいですね」
「ウェンディを勘定に入れてる」
「連合軍全員への挨拶でしょう!」
「男どもが書いたのか」
「たぶん」
カイドウは案内板へ手を伸ばす。
ウェンディが腕へしがみついた。
「壊さないでください!」
「曲がってる」
「真っ直ぐです!」
「文字を直す」
「どこをですか!?」
「美しき、を消す」
「意味が分かりません!」
シャルルが案内板の裏を確認する。
「次の分かれ道を右ね」
「行きましょう」
ウェンディはカイドウの腕を引く。
カイドウは名残惜しそうに案内板を睨んだが、壊さなかった。
腰のお守りへ、僅かに目を落とす。
「約束を守れましたね」
ウェンディが言う。
「板一つで褒めるな」
「壊す気だったでしょう」
「触るだけだ」
「触ったら壊れます!」
さらに進む。
やがて、森の向こうから馬車の音が聞こえてきた。
「誰か来ます」
ウェンディが道の端へ寄る。
白い車体。
青い翼の装飾。
青い天馬の紋章が入った豪華な馬車だった。
御者台には、若い男性魔導士が座っている。
馬車は三人の横で止まった。
「化猫の宿の皆様でしょうか?」
「はい」
ウェンディが答える。
「ウェンディ・マーベルです」
「お迎えに参りました」
御者は笑顔で頭を下げる。
「別荘までは、まだ距離があります。どうぞお乗りください」
「ありがとうございます」
ウェンディが馬車へ近づこうとする。
カイドウが前へ出た。
「必要ねェ」
「カイドウさん?」
「歩く」
「でも、迎えに来てくださったんですよ」
「馬車は危険だ」
「どこがですか?」
「揺れる」
「カイドウさんが乗り物に弱いだけでしょう!」
御者の青年がカイドウを見上げる。
「こちらの方も、ご乗車に?」
「集合地点まで同行してくれるカイドウさんです」
「乗らん」
「別荘までは、馬車なら三十分ほどです」
「歩けば?」
「一時間半ほどでしょうか」
「歩く」
「遅刻します!」
ウェンディはカイドウを見上げる。
「サクラさんから、正午に集合と言われています」
「走る」
「私たちがついていけません!」
「肩に乗れ」
「シャルルは?」
「飛べる」
「御者さんは?」
「帰れ」
「迎えに来てくださった人を無駄にしないでください!」
カイドウは馬車を睨む。
以前の列車。
動き出した直後から顔色を悪くし。
薬を嫌がり。
ウェンディの膝へ手を載せて耐えた。
馬車でも同じことが起こる可能性は高い。
「薬があります」
ウェンディが言う。
「嫌だ」
「蜂蜜を多くします」
「嫌だ」
「無事に乗れたら、集合地点でお肉を一枚あげます」
「おれの肉だろ」
「私の分からです」
カイドウの眉が動く。
「お前の肉は食わん」
「どうしてですか?」
「食え」
「それなら、カイドウさんも馬車へ乗ってください!」
「話が違う」
「違いません!」
シャルルが馬車の扉を開ける。
「諦めなさい。遅刻したら、サクラに叱られるわよ」
「あの桜頭にか」
「連合軍の指揮官よ」
「歩いた方が速い」
「ウェンディを運ぶつもりでしょう?」
「ああ」
「勝手に抱えないでください!」
結局。
カイドウは馬車へ乗ることになった。
ただし。
体が大きすぎて、普通には入れない。
「扉が狭い」
「屈んでください」
「角が引っかかる」
「横を向いてください」
「肩が入らん」
「息を吐いてください」
「意味があるのか」
「少しは小さくなります!」
カイドウは、体を横へ向ける。
深く屈む。
肩をすぼめる。
どうにか馬車の中へ入った。
その瞬間。
車体が大きく沈む。
馬たちが驚いて振り返った。
「大丈夫ですか?」
ウェンディが馬へ尋ねる。
馬は、どこか不安そうに鼻を鳴らした。
「お客様」
御者の青年が冷や汗を流す。
「なるべく動かないよう、お願いいたします」
「誰に言ってる」
「カイドウさんです!」
ウェンディが代わりに答える。
「絶対に暴れないでください!」
「狭い」
「少しの我慢です」
「天井が低い」
「カイドウさんが大きいんです」
「窓も小さい」
「顔を出さないでくださいね」
「なぜだ」
「角が引っかかります!」
ウェンディとシャルルも乗り込む。
馬車が動き出した。
がたん。
カイドウの顔が、即座に険しくなる。
「……」
「まだ出発したばかりですよ」
ウェンディが言う。
「揺れる」
「馬車ですから」
「この箱も気に入らん」
「目を閉じてください」
「敵が来たらどうする」
「私たちが気づきます」
「信用できん」
「では、遠くを見てください」
「窓が小さい」
「文句ばかりですね!」
馬車が小石を踏む。
がたん。
「……うっ」
「もうですか!?」
「酔ってねェ」
「顔が青いです!」
「元からだ」
「目つきが悪いのは元からです!」
前と同じやり取り。
シャルルは呆れた。
「列車の時から進歩していないわね」
「列車より悪い」
「速度は遅いでしょう?」
「揺れが多い」
ウェンディは鞄から乗り物酔いの薬を取り出した。
カイドウの顔がさらに険しくなる。
「飲まん」
「まだ何も言っていません」
「薬だろ」
「はい」
「嫌だ」
「飲んでください」
「まずい」
「吐くよりましです!」
「吐かん」
馬車が曲がる。
車体が傾く。
「……うっ」
「吐きそうですよね?」
「腹が減った」
「朝ご飯をたくさん食べました!」
「消化した」
「では、お肉を食べますか?」
ウェンディが包みを出す。
カイドウは匂いを嗅いだだけで顔を背けた。
「いらん」
「重症です!」
「騒ぐな」
ウェンディは薬を水へ溶かす。
カイドウは窓の外へ顔を向ける。
「口を開けてください」
「嫌だ」
「カイドウさん」
「断る」
「約束を守るんでしょう?」
「薬とは関係ねェ」
「集合地点へ無事に送り届けるまでが護衛です」
「おれは無事だ」
「顔色が無事ではありません!」
ウェンディは杯を差し出した。
カイドウは顔を背ける。
反対側へ。
そこにはシャルルがいる。
「大人しく飲みなさい」
「白狸」
「エクシードよ」
「押すな」
「押していないわ」
「翼で顔を扇ぐな」
「気分がよくなるようにしているのよ」
ウェンディは、カイドウの口元へ杯を近づける。
「飲んでください」
「蜂蜜は」
「多くしました」
「酒は」
「入れていません」
「使えねェな」
「毎回失礼です!」
カイドウは、渋々口を開けた。
一気に薬を飲む。
顔が歪む。
「まずい」
「静かに言えましたね」
「褒めるな」
「手を出してください」
「なぜだ」
「前と同じように、風を流します」
カイドウは、巨大な手を差し出した。
ウェンディの膝へ載せる。
両手では包めない。
それでも、指の一部へ触れ。
柔らかな風を流す。
「どうですか?」
「少しはましだ」
「よかったです」
「この馬車は壊す」
「駄目です!」
「帰りは乗らん」
「帰りは私たちだけです」
その言葉に。
カイドウの表情が、一瞬だけ止まった。
帰り。
自分は。
ウェンディと一緒ではない。
集合地点で別れ。
一人で化猫の宿へ戻る。
「……そうだったな」
低い声。
ウェンディも。
その意味に気づいた。
馬車の中に、短い沈黙が落ちる。
「カイドウさん」
「何だ」
「帰り道、迷わないでくださいね」
「迷わん」
「お酒屋さんへ寄らないでください」
「森に酒屋はねェ」
「町を通るかもしれません」
「……」
「黙らないでください!」
「一杯だけだ」
「約束を守ってください!」
「お前がいねェと、一杯を確認する奴がいねェ」
「マスターと宿のみんながいます!」
「面倒だな」
「その言葉は禁止です」
「帰ってくるまで飲まん」
ウェンディの目が大きくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
「一日一杯も?」
「……」
「そこは?」
「一日一杯だけだ」
「ですよね」
「二杯の日もある」
「ありません!」
ウェンディは笑った。
カイドウも、僅かに口元を緩める。
だが。
膝の上に置かれた大きな手は。
いつもより少しだけ、重く感じられた。
◇◇◇
三十分後。
馬車が止まった。
「到着いたしました」
御者の声が聞こえる。
ウェンディは窓の外を見る。
「わあ……」
森の中。
広く開けた土地に、巨大な別荘が建っていた。
白い壁。
青い屋根。
大きな窓。
庭には噴水と花壇。
別荘というより、小さな宮殿に近い。
入り口には、青い天馬の旗。
周囲には複数の馬車が停まり。
すでに何人もの魔導士が集まっていた。
「ここが集合地点……」
ウェンディの声へ、緊張が混ざる。
シャルルが肩へ手を置く。
「行きましょう」
「うん」
カイドウは、馬車の扉を開けようとする。
「待ってください」
「外へ出る」
「普通に開けてくださいね」
「分かってる」
「力を入れすぎないで」
「分かってる」
「角をぶつけないで」
「しつこい」
カイドウは慎重に扉を開く。
壊れない。
深く屈み。
横向きになり。
外へ出る。
地面へ足をついた瞬間。
大きく息を吐いた。
「二度と乗らん」
「帰りは歩いてください」
「龍になる」
「森を壊さないでくださいね」
「飛ぶだけだ」
ウェンディとシャルルも外へ出る。
その時。
「ウェンディ!」
聞き覚えのある声が響いた。
別荘の入り口から、ナツが駆けてくる。
ピンク色の髪。
白いマフラー。
その後ろには、ハッピー。
「あい! 来た!」
「ナツさん!」
ウェンディの表情が明るくなる。
ナツは勢いよく近づいてくる。
「遅かったな!」
「馬車で来ました」
「馬車……」
ナツの顔が一瞬で青くなる。
「よく乗れたな……」
「カイドウさんは酔いました」
「言うな」
「仲間だな!」
ナツがカイドウの腕を叩く。
カイドウの眉が動く。
「勝手に触るな」
「いいじゃねェか!」
「次は殴る」
「勝負か!?」
「違います!」
ウェンディが二人の間へ入る。
「集合早々、戦わないでください!」
ハッピーがカイドウの腰を見る。
「あれ、何?」
「あ?」
「青い袋」
ウェンディが作ったお守り。
カイドウは、反射的に手で隠した。
「何でもねェ」
「ウェンディが作ったの?」
「あい!」
「どうして分かるんですか?」
ウェンディが尋ねる。
「カイドウが隠したから」
「なるほど」
シャルルが頷く。
「違ェ」
「お守りです」
ウェンディが正直に言う。
「私が帰るまで、カイドウさんが大人しく待てるように」
「子供みてェ!」
ナツが大笑いする。
カイドウの額に青筋が浮かぶ。
「お前」
「何だよ!」
「ここで死ぬか」
「やるか!」
「二人とも!」
ウェンディの声。
二人の動きが止まる。
「ナツさんは、連合軍の仲間です!」
「おう!」
「カイドウさんは、ここで帰ります!」
「帰らん」
「帰ります!」
「まだ挨拶がある」
「挨拶が終わったらです!」
別荘の中から、ルーシィとグレイが出てくる。
「ナツ! 急に走っていくから何かと思ったら……」
ルーシィはカイドウを見て、顔を引きつらせた。
「本当に来たのね」
「ウェンディを送ってきた」
「送ったら帰るんでしょう?」
「ああ」
ウェンディが驚く。
「カイドウさん?」
「何だ」
「今、素直に帰るって」
「お前が言ったんだろ」
「はい!」
「嬉しそうにするな」
「だって、約束を守ってくれるんですよね?」
「……ああ」
ウェンディの顔が明るくなる。
カイドウは、少しだけ目を逸らした。
「何か怪しいわね」
ルーシィが小声で言う。
「森へ隠れるつもりじゃない?」
グレイが答える。
「聞こえてるぞ」
カイドウが睨む。
グレイは一歩下がった。
「地獄耳かよ」
「グレイさん」
ウェンディが声をかける。
「服を着てください」
「え?」
グレイは自分の体を見る。
上半身裸だった。
「いつ脱いだ!?」
「カイドウさん」
ウェンディが振り返る。
「グレイさんを睨まないでください」
「まだ何もしてねェ」
「顔が怖いです」
「生まれつきだ」
「こいつは露出狂だぞ」
「誰が露出狂だ!」
「服を着ろ」
「お前も胸元を閉めろ!」
グレイが言い返す。
カイドウは自分の服を見る。
大きく開いた胸元。
「おれは着てる」
「着てるうちに入らねェ!」
「カイドウさん」
ウェンディが上着へ手を伸ばす。
「少し閉めてください」
「破れる」
「力を入れなければ大丈夫です」
カイドウは渋々、前を閉じようとした。
みしみし。
布が悲鳴を上げる。
「待て」
グレイが止める。
「それ以上やったら破れるぞ」
「お前が閉めろと言った」
「限度があるだろ!」
「面倒だ」
「その言葉は禁止です」
ウェンディの注意。
カイドウは手を離した。
別荘の前。
すでに妖精の尻尾だけで騒ぎが始まっている。
そして。
「メェーン!」
突然。
庭へ、濃厚な香水の匂いが漂った。
ウェンディたちが振り返る。
薔薇を手にした大柄な男。
整えられた髪。
奇妙な化粧。
全身から自信を漂わせる、青い天馬の魔導士。
「美しき連合軍の皆様! ようこそ、我ら青い天馬の別荘へ!」
男は片膝をつき。
ウェンディへ薔薇を差し出した。
「そして、愛らしき天空の少女よ。あなたとの出会いに、運命の香りを感じる!」
カイドウの顔から。
表情が消えた。
◇◇◇
「受け取ってください、可憐なる天使よ!」
青い天馬の魔導士、一夜は。
満面の笑みを浮かべながら、ウェンディへ薔薇を差し出していた。
ウェンディは完全に固まっている。
「え、ええと……」
「私は一夜=ヴァンダレイ=寿! 青い天馬が誇る美の魔導士!」
「は、初めまして」
「なんと澄んだ声! まるで朝露に濡れた花が奏でる――」
「おい」
低い声。
一夜の言葉が止まる。
巨大な影が、彼を覆っていた。
一夜は、ゆっくり上を見る。
カイドウが立っている。
目が笑っていない。
「お前」
「メ、メェーン?」
「何をしてる」
「美しき仲間へ、歓迎の花を」
「必要ねェ」
「カイドウさん!」
ウェンディが慌てて止める。
「一夜さんは、青い天馬の代表です!」
「こいつが?」
「メェーン!」
一夜は胸を張る。
カイドウは、頭の先から足元まで一夜を見る。
長い沈黙。
「信用できん」
「どうしてですか!」
「全部だ」
「具体的に言ってください!」
「顔」
「いきなり失礼です!」
「匂い」
「香水です!」
「喋り方」
「一夜さんの個性です!」
「薔薇」
「歓迎です!」
「ウェンディへ近い」
「最後が本音ね」
シャルルが言った。
カイドウは一夜の襟首を掴もうとする。
ウェンディが腕へしがみついた。
「駄目です!」
「五歩離れろ」
「必要な挨拶です!」
「もう終わった」
「まだ自己紹介の途中です!」
一夜は、カイドウの威圧を受けながらも。
小刻みに震えつつ、笑顔を保っていた。
「お父上も、どうぞよろしく」
「誰がお父上だ!」
カイドウの怒声が庭へ響く。
鳥たちが一斉に飛び立つ。
一夜の髪が風圧で揺れた。
「カイドウさん!」
「父親じゃねェ!」
「一夜さんが驚いています!」
「メ、メェーン……強烈な香り……」
「覇気を香りで表現しないでください!」
別荘の中から。
さらに三人の若い男性魔導士が出てきた。
ヒビキ。
レン。
イヴ。
「一夜さん、何をして――」
ヒビキは、巨大なカイドウを見て足を止めた。
「……この方は?」
「百獣のカイドウです」
ウェンディが答える。
「私を集合地点まで送ってくれました」
「あなたが、ラクサスと戦ったという」
ヒビキの目が僅かに鋭くなる。
「情報では、異世界から来た龍だと」
「お前」
カイドウがヒビキを見る。
「ウェンディの情報を調べたのか」
「連合軍の参加者について、必要な情報は確認しています」
「どこまでだ」
「魔法、戦闘能力、過去の依頼などです」
「年齢は」
「当然、記録されています」
「趣味は」
「そこまでは」
「好きな食べ物は」
「え?」
「住所は」
「化猫の宿でしょう?」
「何で知ってる」
「参加ギルドですから!」
ヒビキが困惑する。
「カイドウさん」
ウェンディが上着を引く。
「普通の情報確認です!」
「こいつは何でも知ってそうな顔をしてる」
「魔法で情報を扱う人です!」
「お前の秘密を知ってるかもしれん」
「秘密なんてありません!」
「本当に?」
シャルルが少し意地悪そうに聞く。
ウェンディの頬が僅かに赤くなる。
「ありません!」
「今、赤くなったぞ」
カイドウの目が鋭くなる。
「何を隠してる」
「何も隠していません!」
「男か」
「違います!」
「ヒビキか」
「今日初めて会いました!」
「では、レン」
「まだ挨拶もしていません!」
「イヴ」
「名前を聞いたばかりです!」
青い天馬の三人は。
自分たちが何もしていないのに、いつの間にか恋人候補として警戒されていることへ気づき、揃って顔を引きつらせた。
「ウェンディ」
シャルルが小声で言う。
「早くカイドウを帰した方がいいわ」
「そうだね」
「聞こえてるぞ」
カイドウが振り返る。
「まだ挨拶が終わってねェ」
「誰と挨拶するんですか?」
「男ども全員だ」
「尋問するつもりですよね!?」
「確認だ」
「何の確認ですか!」
「敵かどうか」
「味方です!」
その時。
地面が微かに震えた。
土の匂いを含む、重厚な魔力。
別荘へ続く道から、三人の魔導士が歩いてくる。
先頭にいるのは、僧兵のような服装をした大柄な男性。
穏やかな顔。
だが、その身から漂う魔力は岩山のように重い。
蛇姫の鱗所属。
聖十大魔導。
ジュラ・ネェキス。
その後ろには。
白銀の髪をしたリオン。
桃色の髪をしたシェリー。
「蛇姫の鱗の皆さんですね!」
ウェンディが言う。
カイドウの目は。
ジュラへ釘付けになっていた。
「強いな」
低い声。
ジュラも、カイドウへ視線を向ける。
「あなたが、噂の百獣のカイドウ殿ですか」
「ああ」
「連合軍へ参加されると?」
「参加する」
「しません!」
ウェンディが即座に否定した。
「集合地点までの護衛です!」
「なるほど」
ジュラは穏やかに頷く。
「お噂は聞いております。ラクサス殿と互角に戦われたとか」
「おれが少し上だ」
「まだ決着していません!」
ウェンディの訂正。
ジュラは小さく笑った。
「いつか、手合わせを願いたいものです」
カイドウの口元が上がる。
「ウォロロロ。話が分かるな」
「ジュラさんまで!」
「ただし、今は六魔将軍討伐が優先です」
「終わったらだ」
「ええ」
「約束だ」
「カイドウさん!」
ウェンディの声が庭へ響く。
「勝手に戦う約束を増やさないでください!」
「連合軍が終わった後だ」
「終わったらいいわけではありません!」
リオンはウェンディを見る。
「君が、天空の滅竜魔導士か」
「はい。ウェンディ・マーベルです」
「俺はリオン・バスティアだ」
リオンは礼儀正しく名乗る。
「君の治癒魔法には期待している」
「精いっぱい頑張ります」
ウェンディが笑顔を向ける。
カイドウの眉が動く。
「お前」
「何だ?」
リオンがカイドウを見る。
「ウェンディへ期待するな」
「なぜだ」
「無理をする」
「治癒魔導士として参加するのだろう?」
「だからって、何でも治させるな」
「当然だ。彼女一人へ負担を集中させるつもりはない」
リオンは真剣に答えた。
カイドウは、しばらく彼を見る。
「……ならいい」
ウェンディの目が大きくなる。
「カイドウさんが、男の人を認めた?」
「認めてねェ」
「今、ならいいって」
「一時保留だ」
「何の審査ですか!」
シェリーが両手を頬へ当てた。
「まあ! なんて深い親子愛でしょう!」
「親子じゃありません!」
ウェンディが否定する。
「違ェ!」
カイドウも怒鳴る。
「でも」
シェリーは目を輝かせる。
「愛よ! これは間違いなく愛!」
「勝手に話を進めないでください!」
「父の愛! 娘の愛! 別れを前にした二人の絆!」
「ギルドの仲間です!」
「おれは護衛だ!」
「同じタイミングで否定するところまで、親子そのもの!」
シェリーの言葉に。
青い天馬の者たちも頷き始める。
「確かに」
「お父上にしか見えない」
「娘を心配して、集合場所まで来たのか」
「誰がお父さんだ!」
カイドウの怒声。
庭の噴水が震える。
ウェンディは耳を押さえた。
「大声を出さないでください!」
「こいつらが勝手に――」
「カイドウ」
凛とした声が響く。
別荘の二階。
開いた大窓から。
白い翼を広げたサクラ・ヴィンセントが降りてくる。
桜色の髪。
白と金の外套。
聖十大魔導の圧倒的な魔力。
「集合地点で暴れないという約束だったはずです」
「暴れてねェ」
「噴水が揺れています」
「声を出しただけだ」
「それを暴れていると言います」
サクラは地面へ降り立つ。
周囲を見回した。
「妖精の尻尾。青い天馬。蛇姫の鱗。そして化猫の宿」
全員が揃った。
四つの正規ギルド。
六魔将軍へ挑む連合軍。
「予定より早く集まっていただき、感謝します」
サクラはウェンディを見る。
「無事に来られましたね」
「はい!」
ウェンディは元気よく答えた。
「カイドウさんが護衛してくれました」
「馬車で酔いましたけど」
シャルルが付け加える。
「余計なことを言うな」
サクラは僅かに笑う。
「ご苦労さまでした、カイドウ」
「ああ」
「では」
サクラの笑顔は、そのまま。
だが声に、有無を言わせぬ力が宿る。
「お帰りください」
「早ェな」
「護衛は終わったのでしょう?」
「まだ挨拶が」
「全員へ十分な威圧と尋問を行ったようですが」
「挨拶だ」
「相手は全員怯えています」
「ジュラは怯えてねェ」
「ほかの方々は?」
一夜たちは、カイドウと目が合うと一斉に視線を逸らした。
「問題ねェ」
「あります」
サクラはカイドウの前へ立つ。
「約束を守ってください」
カイドウの目が細くなる。
「ウェンディ」
サクラは少女を呼ぶ。
「はい」
「こちらへ」
ウェンディは、一歩進む。
カイドウから離れ。
サクラの隣へ立つ。
その距離。
ほんの数歩。
だが。
カイドウにとっては。
海よりも。
空よりも。
遥かに遠いように見えた。
◇◇◇
「カイドウさん」
ウェンディが振り返った。
「ここまで、ありがとうございました」
「ああ」
「荷物も持ってくれて」
「ああ」
「馬車にも乗ってくれて」
「あれは二度と乗らん」
「帰りは歩いてくださいね」
「ああ」
「森を壊さないで」
「分かってる」
「宿へ着いたら、マスターに報告してください」
「ああ」
「ご飯も食べてください」
「お前に言われなくても食う」
「お酒は一日一杯です」
「二杯」
「一杯です」
「帰ってくるまでだろ」
「帰ったら二杯です」
「約束だな」
「はい」
ウェンディは笑う。
カイドウは。
笑わなかった。
言葉が続かない。
ウェンディも。
何か言わなければと思うのに。
何を言えばいいのか分からない。
さよならではない。
数日。
あるいは少し長い間、離れるだけ。
必ず帰ってくる。
そう約束した。
それなのに。
胸の奥が、締めつけられるように痛む。
「ウェンディ」
カイドウが呼ぶ。
「はい」
「無理をするな」
「はい」
「魔力を使い切るな」
「はい」
「腹が減る前に食え」
「はい」
「男に近づくな」
「それは自分で判断します」
「最後まで聞け」
「同じ話でしょう?」
「五歩だ」
「戦いの時は無理です」
「三歩」
「近くなっています!」
「一夜には十歩だ」
一夜が驚く。
「なぜ私だけ!?」
「全部が怪しい」
「メェーン!」
「カイドウさん」
ウェンディは、少し笑った。
「大丈夫です」
「何がだ」
「みんな、いい人たちです」
「まだ分からん」
「私が見ます」
「ああ」
「危険かどうか、自分で考えます」
「ああ」
「困ったら、サクラさんやシャルルに相談します」
「ああ」
「本当に危なくなったら」
ウェンディは、カイドウの腰に結ばれたお守りを見る。
「カイドウさんを呼びます」
カイドウの指が、お守りへ触れた。
「ああ」
「だから」
ウェンディは一歩進み。
カイドウの大きな手を取った。
「待っていてください」
小さな両手。
巨大な手。
以前。
町ではぐれないために繋いだ。
帰り道では。
疲れたウェンディを抱き上げた。
列車では。
乗り物酔いしたカイドウの手を、ウェンディが膝へ載せた。
「必ず帰ります」
「……ああ」
「約束です」
「ああ」
「帰ったら、また一緒に買い物へ行きましょう」
「酒屋か」
「薬草屋さんです」
「なら行かん」
「お酒屋さんにも寄ります」
「行く」
「一杯だけです」
「話が違う」
「まだ約束していません!」
ウェンディが笑う。
カイドウの口元も。
僅かに緩んだ。
「ウォロロ」
「やっと笑いましたね」
「笑ってねェ」
「笑いました」
「気のせいだ」
ウェンディは、手を離す。
一歩。
カイドウから離れる。
もう一歩。
サクラたちの方へ。
カイドウの手が動く。
呼び止めようと。
抱き上げようと。
化猫の宿へ連れ帰ろうと。
だが。
腰のお守りが揺れた。
青い布。
白い花びら。
ウェンディが自分を信じて渡したもの。
カイドウは、手を下ろした。
「行ってきます」
ウェンディが言う。
カイドウは。
少しだけ黙り。
「行ってこい」
そう答えた。
ウェンディの目が大きくなる。
そして。
満面の笑顔になった。
「はい!」
その返事は。
森の遠くまで届くほど。
明るく。
力強かった。
◇◇◇
サクラが連合軍の者たちを別荘へ案内する。
作戦会議。
役割分担。
六魔将軍についての情報共有。
これから話し合うことは多い。
ウェンディは、別荘の入り口で振り返った。
カイドウは、まだ同じ場所に立っている。
「カイドウさん!」
ウェンディが手を振る。
カイドウは腕を組んだまま。
僅かに顎を上げた。
手は振らない。
だが。
その目は、ウェンディだけを見ている。
「帰ってくださいね!」
「分かってる!」
「森へ隠れないで!」
「隠れねェ!」
「雲の中にも!」
「しつこい!」
「お酒は一杯です!」
「二杯だ!」
「一杯です!」
最後まで。
いつもの言い争い。
連合軍の者たちから笑い声が上がる。
「本当に親子ね」
ルーシィが言う。
「違います!」
ウェンディが反射的に否定する。
遠くから。
「誰が親子だ!」
カイドウの怒声が響いた。
「聞こえていたの!?」
ルーシィが驚く。
「カイドウさんは耳がいいんです!」
「否定だけは絶対に聞き逃さないのね……」
別荘の扉が閉じる。
ウェンディの姿が見えなくなった。
森に。
静寂が戻る。
カイドウは。
一人。
その場に立ち続けていた。
一分。
二分。
三分。
「……」
動かない。
帰ろうとしない。
別荘の壁を見つめたまま。
腕を組んでいる。
やがて。
別荘の二階の窓が開いた。
サクラが顔を出す。
「カイドウ」
「あ?」
「なぜ、まだいるのですか?」
「休んでる」
「先ほどまで馬車へ乗っていただけでしょう」
「酔った」
「薬を飲んだと聞きました」
「まだ効いてねェ」
「顔色は戻っています」
「元からだ」
「帰ってください」
「少し待て」
「何を?」
「ウェンディが忘れ物をするかもしれん」
「荷物は確認しました」
「七回か」
「私が一度確認しました」
「足りん」
「十分です」
「腹が減るかもしれん」
「昼食は用意しています」
「量は」
「全員分あります」
「男どもが食い尽くす」
「ナツ以外は節度があります」
「ナツがいるだろ」
「彼にはエルザがいます」
「……」
カイドウは考える。
エルザなら、ナツを止められる。
「なら、男が近づく」
「私が止めます」
「信用できん」
「昨日、少しは信用できると判断したのでしょう?」
「言ってねェ」
「顔に出ていました」
「出てねェ」
サクラは深く息を吐いた。
「ウェンディさんを信じてください」
「信じてる」
「では、帰ってください」
「……」
「約束を破れば」
サクラは微笑む。
「ウェンディさんへ報告します」
カイドウの顔が険しくなる。
「卑怯だぞ」
「指揮官ですから」
「関係ねェ」
「帰りますか?」
カイドウは別荘を見る。
ウェンディの姿はない。
だが。
中から、ナツの声が聞こえる。
「うおおお! 肉だ!」
「ナツ! 全員分を食べるな!」
「この肉、うめェ!」
カイドウの眉が動く。
「あの小僧」
「食事の問題は、エルザが解決します」
「ウェンディの分を食ったら潰す」
「食べさせません」
「本当だな」
「はい」
「夜は」
「女性用の部屋を用意しています」
「男は入れねェな」
「入りません」
「鍵は」
「内側からかけられます」
「窓は」
「二階です」
「飛べる奴がいる」
「ハッピーとシャルルだけです」
「サクラも飛ぶ」
「私は自室があります」
「一夜は」
「飛びません」
「何をするか分からん」
「私が見張ります」
サクラは、すべてに答えた。
カイドウは。
もう言い訳を探せなくなった。
「……帰る」
「賢明です」
「上から言うな」
「連合軍の指揮官です」
「気に入らん」
「光栄です」
カイドウは背を向けた。
一歩。
森へ向かう。
そして止まる。
「桜頭」
「サクラです」
「ウェンディを頼む」
サクラは。
先ほどまでの軽いやり取りをやめた。
真剣な顔になる。
「必ず」
「絶対とは言わねェんだな」
「戦場ですから」
「ああ」
「ですが」
サクラは胸へ手を当てた。
「私の命と、聖十大魔導の名に懸けて。全力で守ります」
「命は懸けるな」
「……」
「死んだら責任を取れねェ」
昨日。
サクラへ言った言葉。
「生きて帰れ」
「はい」
「全員でだ」
「約束します」
カイドウは、もう振り返らなかった。
森の道を歩き始める。
別荘から離れる。
一歩ごとに。
ウェンディの気配が遠くなる。
それでも。
止まらない。
腰のお守りへ触れながら。
自分の足で。
帰る道を進む。
◇◇◇
五分後。
森の奥。
カイドウは足を止めた。
「……」
振り返る。
木々の向こう。
別荘は、まだ少し見える。
「少し休むだけだ」
誰へともなく言った。
近くの大木の陰へ移動する。
巨体を隠そうとする。
だが。
肩が出る。
角も出る。
腰の金棒も見える。
「……木が細い」
別の木へ移動する。
さらに太い大木。
今度は半分ほど隠れる。
「ここなら見えねェ」
直後。
頭上から声がした。
「全部見えているわよ」
カイドウが顔を上げる。
シャルルが、木の枝へ座っていた。
「白狸」
「エクシードよ」
「なぜ、お前がここにいる」
「あなたが本当に帰るか確認しに来たの」
「ウェンディは」
「サクラと一緒にいるわ」
「なら戻れ」
「あなたが帰ったらね」
「帰ってる途中だ」
「木の陰へ隠れているでしょう」
「休憩だ」
「別荘を見ながら?」
「方向が同じだけだ」
「反対方向よ」
カイドウは黙った。
シャルルは枝から飛び降り、彼の顔の前へ浮かぶ。
「約束を破るの?」
「破ってねェ」
「森から出ていないわ」
「宿へ向かってる」
「さっきより別荘に近づいているわよ」
「道を間違えた」
「あなた、迷わないと言っていたでしょう」
「森は似た木が多い」
「見聞色で分かるでしょう!」
カイドウの言い訳は、すべて潰された。
「ウェンディは、あなたを信じている」
「分かってる」
「なら帰りなさい」
「……」
「お守りを見て」
カイドウは腰を見る。
青い袋。
風に揺れている。
「待っていてほしいって、ウェンディが作ったのよ」
「ああ」
「ここで覗いていたら、待つことにはならない」
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
カイドウは。
もう一度、別荘の方向を見た。
気配は感じる。
ウェンディ。
ナツ。
エルザ。
サクラ。
ジュラ。
ほかの魔導士たち。
まだ。
危険な気配はない。
「一つだけだ」
カイドウが言った。
「何?」
「ウェンディの気配が消えたら」
「……」
「その時は、約束を破る」
シャルルは、否定しなかった。
もし。
ウェンディの気配が本当に消えたら。
自分も。
カイドウを止められないだろう。
「その時は」
シャルルが言う。
「私も呼ぶわ」
「ああ」
「だから、今は帰って」
「ああ」
カイドウは、今度こそ別荘へ背を向けた。
「白狸」
「シャルルよ」
「戻れ」
「言われなくても」
「ウェンディを一人にするな」
「もちろんよ」
「飯を食わせろ」
「分かっているわ」
「男どもを――」
「そこから先は聞かない」
「五歩だ」
「無理」
「三歩」
「近くなっているわよ」
「一夜だけ十歩」
「本人へ言いなさい」
カイドウは歩き出す。
シャルルは、別荘へ向かって飛び始めた。
「カイドウ」
「あ?」
「ウェンディは、ちゃんと帰るわ」
「……ああ」
「あなたも、ちゃんと宿へ帰って」
「ああ」
二人は。
反対方向へ進む。
カイドウは化猫の宿へ。
シャルルはウェンディのもとへ。
それぞれが。
同じ少女の帰る場所を守るために。
◇◇◇
一方。
青い天馬の別荘。
広い会議室には、連合軍の魔導士たちが集まっていた。
中央の長机。
壁には森の地図。
その前に、サクラが立っている。
妖精の尻尾。
ナツ。
ルーシィ。
グレイ。
エルザ。
ハッピー。
青い天馬。
一夜。
ヒビキ。
レン。
イヴ。
蛇姫の鱗。
ジュラ。
リオン。
シェリー。
そして。
化猫の宿。
ウェンディ。
まだシャルルは戻っていない。
ウェンディは、窓の外を見ていた。
「心配ですか?」
サクラが尋ねる。
「え?」
「カイドウが、きちんと帰ったか」
「少しだけ」
ウェンディは苦笑する。
「シャルルが確認してくれています」
「賢明ですね」
「森へ隠れようとしていると思います」
「私も、そう思います」
「カイドウさん、約束を守ろうとはしているんです」
「分かっています」
サクラは窓の外を見る。
「だから、強く追い返しませんでした」
「ありがとうございます」
「彼は危険です」
「はい」
「ですが」
サクラの桜色の瞳が、少し柔らかくなる。
「あなたを思う気持ちに、嘘はありません」
「……はい」
「それを力ではなく、信頼へ変えられるかは」
サクラはウェンディを見る。
「あなたたち次第です」
ウェンディは胸元で手を握った。
「カイドウさんなら、変われます」
「そう信じているのですね」
「はい」
かつて。
実の娘ヤマトの自由を奪った男。
守ることと支配することの違いを知らなかった男。
今。
ウェンディの手を離した。
危険な戦いへ向かうことを認めた。
ほんの少し。
だが。
確かな変化だった。
「シャルルが戻ったぞ!」
ハッピーが窓を指差す。
「あい!」
白い翼を広げ、シャルルが飛んでくる。
窓から会議室へ入った。
「お帰り、シャルル」
「ただいま、ウェンディ」
「カイドウさんは?」
「帰ったわ」
ウェンディの顔が明るくなる。
「本当に?」
「途中で木の陰へ隠れようとしていたけど」
「やっぱり!」
「全部見えていたわ」
「カイドウさんらしいね……」
「最後は、ちゃんと宿の方へ歩いていった」
「よかった」
ウェンディは胸へ手を当てる。
安心。
そして。
少しだけ寂しさ。
シャルルは、その表情へ気づいた。
「寂しい?」
「少しだけ」
「私がいるわ」
「うん」
「妖精の尻尾の皆さんも」
「うん」
「ほかのギルドの仲間もいる」
ウェンディは会議室を見回した。
知っている顔。
初めて会う者。
強い魔導士たち。
これから共に戦う仲間。
「はい!」
ウェンディは、力強く頷いた。
サクラが会議室の中央へ立つ。
「それでは」
全員の視線が集まる。
「六魔将軍討伐連合軍の作戦会議を始めます」
室内の空気が変わった。
笑い。
喧嘩。
親バカを巡る騒動。
それらが静まり。
魔導士たちの顔が引き締まる。
「今回の敵は、バラム同盟の一角――六魔将軍」
サクラは地図を指差す。
「目的は二つ。六魔将軍の壊滅。そして、古代魔法ニルヴァーナの確保、または破壊です」
「六人しかいねェんだろ?」
ナツが拳を握る。
「なら、オレが全部ぶっ飛ばす!」
「力任せに動くな」
エルザが注意する。
「相手の魔法は未知数だ」
「カイドウさんと同じことを言っています」
ウェンディが呟く。
「誰が?」
ナツが尋ねる。
「カイドウさんも、六人なら六発で終わるって」
「気が合うな!」
「喜ばないでください!」
グレイが腕を組む。
「そのカイドウって奴、本当に帰ったんだろうな?」
「帰りました」
シャルルが答える。
「たぶん」
「たぶん?」
ルーシィの顔が引きつる。
「森の中へ戻ってきそうね」
「大丈夫です」
ウェンディは窓の外を見る。
「約束してくれましたから」
サクラは。
その言葉を聞き、僅かに目を細めた。
「では、作戦の説明を続けます」
サクラが地図へ向き直る。
だが。
その瞬間。
ヒビキが持っていた魔法通信装置から。
鋭い警告音が響いた。
「何だ?」
ヒビキの表情が変わる。
装置の画面へ、赤い光が点滅している。
「別荘の周囲に、複数の魔力反応!」
「六魔将軍か!」
ナツが立ち上がる。
「違う!」
ヒビキは情報を読み取る。
「数が多い! 森の三方向から接近している!」
サクラの目が鋭くなる。
「全員、戦闘準備!」
命令が響く。
エルザが換装し。
グレイの両手へ氷が集まり。
ナツの拳へ炎が灯る。
ジュラが大地へ手を触れ。
青い天馬の者たちも立ち上がる。
ウェンディの心臓が大きく鳴った。
もう。
戦いは始まっている。
「シャルル」
「ええ」
シャルルが隣へ並ぶ。
ウェンディは深く息を吸う。
空気。
魔力。
仲間たちの匂い。
恐怖はある。
だが。
逃げない。
「天空の巫女として」
ウェンディの周囲に、風が集まる。
「私も戦います!」
会議室の窓の外。
森の木々が大きく揺れた。
闇ギルドの魔導士たちが。
連合軍の拠点を包囲しようとしている。
そして。
化猫の宿へ帰る道を歩いていたカイドウも。
遥か後方で。
その魔力を感じ取っていた。
「……」
足が止まる。
振り返る。
別荘の方向。
複数の敵意。
戦いの気配。
そして。
ウェンディの魔力。
腰の青いお守りが、風に揺れる。
『私が呼ぶまで、待っていてください』
カイドウは拳を握った。
「まだ呼ばれてねェ」
自分へ言い聞かせる。
一歩。
宿の方向へ進む。
だが。
別荘の方角から。
爆発音が響いた。
森の鳥たちが、一斉に飛び立つ。
カイドウの足が、再び止まる。
「……」
信じる。
待つ。
手を離す。
敵を殴り倒すよりも難しい戦いが。
百獣のカイドウの中で。
今。
本当の意味で始まろうとしていた。
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