『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』   作:パスカルDX

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第13話 最強生物、遠ざかる気配に違和感を覚える

第13話 最強生物、遠ざかる気配に違和感を覚える

 

 

 青い天馬の別荘を囲む森の奥で、重い爆発音が響いた。

 

 大地の底を叩くような振動が木々の根を伝い、枝に止まっていた鳥たちが一斉に空へ飛び立っていく。

 

 それは、平穏な森には似つかわしくない音だった。

 

 続いて、風が騒いだ。

 

 いくつもの魔力が交錯し、遠く離れた場所にまで空気の乱れが伝わってくる。火、氷、大地、光。それぞれ性質の異なる力が膨れ上がり、衝突し、また離れていく。

 

 連合軍の拠点で何かが起きた。

 

 それだけは、誰の目にも明らかだった。

 

「……」

 

 化猫の宿へ戻る道を歩いていたカイドウは、森の中央で足を止めていた。

 

 巨大な背中。

 

 腰に下げた金棒。

 

 二本の角。

 

 腰帯には、青い布で作られた小さなお守りが揺れている。

 

 ウェンディが渡したものだった。

 

『私が呼ぶまで、待っていてください』

 

 別れる直前の声が、耳の奥に残っている。

 

 信じる。

 

 待つ。

 

 手を離す。

 

 そのためのお守り。

 

 カイドウは、太い指で青い袋へ触れた。

 

「まだ呼ばれてねェ」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 低い声は、木々の間へ溶けていった。

 

 別荘の方角からは、今も魔力の揺らぎが届いている。

 

 ウェンディのものもあった。

 

 柔らかく、澄んだ風の魔力。

 

 普段より強く。

 

 明らかに戦闘を意識して練り上げられている。

 

 だが。

 

 まだ消えてはいない。

 

 乱れてもいない。

 

 近くにはサクラ。

 

 ジュラ。

 

 エルザ。

 

 ナツ。

 

 ほかにも、多くの魔導士の気配がある。

 

 敵の数は多い。

 

 しかし、ウェンディが一人で戦っているわけではない。

 

「……」

 

 カイドウは再び歩き出した。

 

 宿の方角へ。

 

 一歩。

 

 もう一歩。

 

 重い足が地面へ沈む。

 

 だが。

 

 歩みは、いつものように速くなかった。

 

 普段のカイドウなら、森の道など一息で駆け抜ける。

 

 木々を避ける必要さえない。

 

 それでも今日は。

 

 何度も立ち止まる。

 

 何度も振り返る。

 

 別荘は、すでに木々の向こうへ隠れて見えなくなっている。

 

 見えないからこそ。

 

 気配だけが、余計に鮮明だった。

 

 カイドウは戦場の空気を知っている。

 

 大軍がぶつかり合う音。

 

 殺意。

 

 恐怖。

 

 死を覚悟した者の気配。

 

 退路を失った者が放つ焦り。

 

 弱者の絶望。

 

 強者の余裕。

 

 何十年と、そうしたものの中で生きてきた。

 

 だからこそ。

 

 今、別荘の方角から漂ってくるものに。

 

 説明しにくい違和感を覚えていた。

 

「妙だな」

 

 カイドウは足を止める。

 

 敵の魔力は多い。

 

 数だけを見れば、別荘を包囲するほどだった。

 

 だが。

 

 その多くは、六魔将軍ほど強くない。

 

 配下の闇ギルド。

 

 先遣隊。

 

 捨て駒。

 

 その程度の者たちだろう。

 

 連合軍には聖十大魔導が二人いる。

 

 妖精の尻尾の精鋭もいる。

 

 普通に考えれば。

 

 苦戦する相手ではない。

 

 にもかかわらず。

 

 敵の気配には、焦りがなかった。

 

 勝つために襲っている者の気配ではない。

 

 倒すためでも。

 

 奪うためでもない。

 

 何かを待っている。

 

 時間を稼いでいる。

 

 カイドウの目が細くなる。

 

「こいつら」

 

 別荘の周囲へ集まった敵は。

 

 連合軍を壊滅させるために来たのではない。

 

 目を向けさせるために来た。

 

 拠点へ全員を集め。

 

 注意を一点へ集中させる。

 

 その間に。

 

 別の何かが動く。

 

「囮か」

 

 カイドウの声が低くなる。

 

 戦場ではよくある策だ。

 

 正面から派手に攻め。

 

 本命を隠す。

 

 敵の目を奪い。

 

 側面。

 

 背後。

 

 あるいは。

 

 狙った一人だけを、密かに引き離す。

 

 カイドウの頭へ。

 

 ウェンディの姿が浮かんだ。

 

 小さな体。

 

 水色の髪。

 

 治癒魔導士。

 

 天空の滅竜魔導士。

 

 連合軍の中でも、非常に特殊な力を持っている。

 

 敵が彼女の力を知っているなら。

 

 優先して狙う価値がある。

 

「……」

 

 カイドウは腰のお守りを握った。

 

『私が呼ぶまで、待っていてください』

 

 約束。

 

 ウェンディは自分で戦うことを選んだ。

 

 カイドウも認めた。

 

 危険を理由に。

 

 すべてを取り上げないと決めた。

 

 だが。

 

 戦いへ送り出すことと。

 

 罠へ放り込むことは違う。

 

「白狸がいる」

 

 シャルルがいる。

 

 サクラがいる。

 

 強い魔導士たちもいる。

 

 ウェンディが一人になるとは思えない。

 

 それでも。

 

 胸の奥に引っかかる違和感は、消えなかった。

 

 むしろ。

 

 歩けば歩くほど。

 

 別荘から離れれば離れるほど。

 

 大きくなっている。

 

          ◇◇◇

 

 青い天馬の別荘。

 

 周囲では、連合軍の魔導士たちが慌ただしく動いていた。

 

 窓から見える森の中。

 

 木々の隙間を、いくつもの人影が移動している。

 

 直接姿を見せる者もいれば。

 

 森の奥から魔法だけを放ち、すぐに身を隠す者もいる。

 

 連合軍を囲むように。

 

 しかし。

 

 決して深く踏み込まず。

 

 一定の距離を保っていた。

 

 会議室では、ヒビキが魔法通信装置を操作している。

 

「敵の数、増加!」

 

 光で作られた画面へ、いくつもの反応が浮かび上がる。

 

「北側に十五! 東側に二十以上! 南西にも反応!」

 

「西側は?」

 

 サクラが尋ねる。

 

「少ない! 五人程度です!」

 

 サクラは壁の地図を見る。

 

 桜色の髪が、窓から吹き込む風に揺れた。

 

「包囲としては不自然ですね」

 

 ジュラが静かに言う。

 

「同感です」

 

 サクラは頷いた。

 

「敵は別荘へ突入しようとしていない」

 

「オレたちを怖がってんだろ!」

 

 ナツは窓の外を睨みながら拳へ炎を灯している。

 

「なら、こっちから行く!」

 

「待て」

 

 エルザが腕を伸ばして止めた。

 

「敵の目的が分からないまま森へ入るのは危険だ」

 

「でも、このままじゃ何も始まらねェぞ!」

 

「始めないことが、敵の目的かもしれない」

 

 グレイが言った。

 

「俺たちをここへ足止めしているんじゃねェか?」

 

「足止め?」

 

 ルーシィが周囲を見回す。

 

「でも、何のために?」

 

 その問いへ。

 

 すぐ答えられる者はいなかった。

 

 ウェンディは、会議室の端に立っていた。

 

 窓から入り込む風。

 

 魔力。

 

 森の気配。

 

 それらを感じ取ろうと、意識を集中している。

 

「ウェンディ」

 

 シャルルが隣へ飛んでくる。

 

「大丈夫?」

 

「うん」

 

「無理をしないで」

 

「まだ何もしてないよ」

 

「顔が硬いわ」

 

「少し緊張してるだけ」

 

 ウェンディは小さく息を吐く。

 

「敵の匂いが、たくさんある」

 

「六魔将軍もいる?」

 

「分からない」

 

 森から流れてくる、いくつもの匂い。

 

 土。

 

 木。

 

 煙。

 

 魔力。

 

 人間。

 

 だが。

 

 その中に、際立って強い匂いはない。

 

「六魔将軍本人たちは、まだ来ていないと思う」

 

「では、配下の闇ギルドね」

 

「たぶん」

 

 ウェンディは窓へ近づく。

 

「でも」

 

「何?」

 

「変なの」

 

 シャルルの耳が動く。

 

「何が?」

 

「敵の人たち」

 

 ウェンディは目を閉じる。

 

 風へ耳を澄ませるように。

 

「怖がってる人が多い」

 

「連合軍を?」

 

「ううん」

 

 ウェンディは首を横へ振る。

 

「私たちじゃない」

 

「では、何を?」

 

「分からない」

 

 敵として現れた者たち。

 

 その中にある恐怖。

 

 戦う相手を恐れているのではない。

 

 背後にいる誰か。

 

 命令した誰か。

 

 失敗した時に、自分たちを処分する存在。

 

 その恐怖だった。

 

「無理やり戦わされている者もいるのでしょうか」

 

 サクラが近づいてきた。

 

「サクラさん」

 

「闇ギルドにも、すべての者が自分の意志で所属しているとは限りません」

 

「じゃあ」

 

「ですが、今は敵です」

 

 サクラの声は厳しい。

 

「油断はしないでください」

 

「はい」

 

「あなたは別荘内で待機を」

 

「でも、怪我をした人がいたら」

 

「負傷者が運ばれてきた場合に、治療をお願いします」

 

「分かりました」

 

 ウェンディは頷いた。

 

 前へ出て戦いたいわけではない。

 

 だが。

 

 役に立ちたい。

 

 それでも今は。

 

 指揮官の指示へ従う。

 

 サクラはウェンディの肩へ、優しく手を置いた。

 

「焦らなくても、あなたの力が必要になる時は来ます」

 

「はい」

 

「その時まで、魔力を温存してください」

 

「分かりました」

 

 シャルルは、サクラを見上げた。

 

 冷静。

 

 敵の数。

 

 味方の配置。

 

 ウェンディの状態。

 

 すべてへ気を配っている。

 

 カイドウは心配していたが。

 

 サクラは信頼できる指揮官だった。

 

 少なくとも。

 

 今は。

 

「サクラ」

 

 ジュラが呼ぶ。

 

「西側の反応が消えました」

 

 サクラが地図へ顔を向ける。

 

「消えた?」

 

「撤退したようです」

 

「なぜ、西だけ」

 

 ヒビキの画面。

 

 別荘を囲む敵の反応。

 

 北。

 

 東。

 

 南。

 

 そこには、まだ多くの敵が残っている。

 

 だが西側だけ。

 

 道を開けるように。

 

 魔力反応が消えていた。

 

「逃げ道を作った?」

 

 ルーシィが言う。

 

「誘っているのかもしれん」

 

 エルザが答える。

 

「西へ進めば、罠がある可能性が高い」

 

「あるいは」

 

 ヒビキが画面を操作する。

 

「西側から何かを入れるために、道を空けた」

 

 会議室の空気が変わった。

 

 サクラの桜色の瞳が鋭くなる。

 

「全員、外ではなく内側を警戒してください」

 

「内側?」

 

 ナツが聞き返す。

 

「敵が別荘へ侵入している可能性があります」

 

「でも、魔力反応は」

 

「反応を消す魔法があるかもしれません」

 

 サクラは翼を広げた。

 

 白い羽根が会議室へ舞う。

 

「ヒビキ。別荘内部の情報を再確認」

 

「了解!」

 

「エルザとグレイは一階」

 

「分かった」

 

「ああ」

 

「ジュラは地下と基礎部分を」

 

「承知しました」

 

「一夜たちは通信と防御」

 

「メェーン!」

 

「ナツ、ルーシィ、ハッピーは二階を」

 

「任せろ!」

 

「あい!」

 

「ウェンディとシャルルは、ここから動かないでください」

 

「はい」

 

 全員が動き始める。

 

 足音。

 

 扉の開閉。

 

 魔法通信の音。

 

 会議室に残されたのは、ウェンディ、シャルル、サクラ、ヒビキ、そして青い天馬の数名。

 

 ウェンディは胸元へ手を当てた。

 

 違和感。

 

 先ほどから。

 

 風が妙だった。

 

 窓は開いている。

 

 森から風が吹き込んでいる。

 

 なのに。

 

 部屋の隅。

 

 誰もいないはずの場所だけ。

 

 風が避けている。

 

「サクラさん」

 

「何ですか?」

 

「そこ」

 

 ウェンディが部屋の隅を指差す。

 

「風が通っていません」

 

 サクラの表情が変わった。

 

「全員、下がってください」

 

 白い翼が大きく広がる。

 

 光の羽根が、部屋の隅へ向かって放たれた。

 

 だが。

 

 何かへ触れる直前。

 

 光は歪み。

 

 霧のように消えた。

 

「魔力が吸収された?」

 

 ヒビキが驚く。

 

「姿を現しなさい」

 

 サクラが低く命じる。

 

 返事はない。

 

 ただ。

 

 誰もいない空間から。

 

 小さな笑い声が聞こえた。

 

          ◇◇◇

 

 その頃。

 

 カイドウは森の中を歩き続けていた。

 

 別荘からは、かなり離れた。

 

 普通の人間なら。

 

 もう魔力の気配を正確には感じられない距離。

 

 だが。

 

 カイドウの感覚は、人間のものとは違う。

 

 別荘で魔力が膨れ上がるたび。

 

 遠くの空気が震える。

 

 地面へ伝わる振動。

 

 風の流れ。

 

 見聞色。

 

 それらが、戦場の様子を断片的に伝えてくる。

 

「まだか」

 

 敵の気配は消えない。

 

 むしろ。

 

 周囲を取り囲み。

 

 一定の距離を保ち続けている。

 

 連合軍が外へ出れば離れ。

 

 戻れば近づく。

 

 完全に。

 

 足止めだった。

 

 では。

 

 本命は何だ。

 

 ニルヴァーナの探索。

 

 別の場所へ向かった六魔将軍。

 

 連合軍の情報を盗む。

 

 あるいは。

 

「……一人」

 

 カイドウの目が細くなる。

 

 連合軍の中から。

 

 誰か一人を狙っている。

 

 指揮官のサクラ。

 

 聖十大魔導のジュラ。

 

 情報魔法を使うヒビキ。

 

 星霊魔導士のルーシィ。

 

 滅竜魔導士のナツ。

 

 そして。

 

 天空の滅竜魔導士。

 

「ウェンディ」

 

 口にした瞬間。

 

 腰のお守りが、僅かに震えた。

 

 風ではない。

 

 魔力。

 

 中に入れられた薬草。

 

 白い花びら。

 

 それらが。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 淡い光を放った。

 

「……」

 

 カイドウは立ち止まる。

 

 お守りを手に取る。

 

 青い布。

 

 見た目には変わっていない。

 

 だが。

 

 ウェンディの魔力が、微かに残っている。

 

 作る時に込められたものだろう。

 

 その魔力が。

 

 何かへ反応した。

 

「呼んだのか」

 

 返事はない。

 

 当然だ。

 

 遠く離れたウェンディの声が、普通に届くはずはない。

 

 だが。

 

 カイドウには。

 

 嫌な予感がした。

 

 ただの心配。

 

 親バカ。

 

 いつもの過保護。

 

 そう片づけられない。

 

 戦場で何度も生き残ってきた感覚が。

 

 今すぐ戻れと告げている。

 

「約束は」

 

 カイドウは拳を握る。

 

「呼ばれるまで待つ」

 

 まだ呼ばれていない。

 

 ウェンディの気配も消えていない。

 

 大きく乱れてもいない。

 

 むしろ。

 

 静かすぎる。

 

「……静か?」

 

 カイドウは気づいた。

 

 先ほどまで感じていたウェンディの魔力。

 

 風のように。

 

 周囲へ柔らかく広がっていた。

 

 それが。

 

 急に小さくなっている。

 

 消えたわけではない。

 

 押さえ込まれている。

 

 何かに囲まれ。

 

 外へ漏れないよう閉じ込められたような。

 

 不自然な静けさ。

 

 カイドウの顔から、感情が消えた。

 

「そういうことか」

 

 敵は。

 

 ウェンディの気配を消そうとしている。

 

 外から分からないように。

 

 助けを呼べないように。

 

 隔離する。

 

 もし。

 

 魔力を閉じ込める結界。

 

 あるいは、音を消す魔法が使われているなら。

 

 ウェンディは呼びたくても呼べない。

 

『私が呼ぶまで、待っていてください』

 

 約束。

 

 だが。

 

 呼べない状態まで待てとは言われていない。

 

「屁理屈だな」

 

 カイドウは自分で呟いた。

 

 ウェンディなら。

 

 そう言うだろう。

 

 約束を破るための理由を探している。

 

 心配しすぎ。

 

 まだ何も起きていない。

 

「……」

 

 それでも。

 

 カイドウは森の道へ背を向けた。

 

 別荘の方角を見る。

 

 目に見えるものはない。

 

 木々。

 

 空。

 

 遠くの煙。

 

 だが。

 

 確かに。

 

 違和感がある。

 

「一度だけだ」

 

 カイドウは腰のお守りへ触れる。

 

「様子を見るだけだ」

 

 自分へ言い聞かせる。

 

「戦わねェ」

 

 木々の葉が。

 

 風もないのに揺れ始めた。

 

「暴れねェ」

 

 カイドウの背中へ。

 

 青い鱗が浮かぶ。

 

「連れ帰らねェ」

 

 角が伸び。

 

 体から雲が生まれる。

 

「無事なら、すぐ帰る」

 

 巨大な体が。

 

 青い龍へ変わっていく。

 

 木々の上へ頭が伸び。

 

 胴体が空へ昇る。

 

 黒い雲が集まり。

 

 森全体が暗くなる。

 

「だから」

 

 龍の瞳が。

 

 別荘の方角を睨んだ。

 

「約束は破ってねェ」

 

 完全に。

 

 破ろうとしている者の言葉だった。

 

          ◇◇◇

 

 会議室。

 

 誰もいないはずの空間から、笑い声が続いていた。

 

 サクラはウェンディの前へ立っている。

 

 白い翼を広げ。

 

 何が現れても守れるように。

 

「姿を見せなさい」

 

 返事はない。

 

 ただ。

 

 部屋の隅の景色が。

 

 水面のように揺れた。

 

 壁。

 

 床。

 

 窓。

 

 そこにあるはずのものが歪み。

 

 一人分の影が浮かび上がる。

 

 だが。

 

 輪郭だけ。

 

 顔も。

 

 服も。

 

 性別さえ分からない。

 

「幻影魔法」

 

 ヒビキが魔法装置を操作する。

 

「いや、違う。情報そのものが読めない!」

 

「魔力を消しているのですか?」

 

 ウェンディが尋ねる。

 

「消しているんじゃない」

 

 ヒビキの額へ汗が浮かぶ。

 

「こちらが認識できないように、意識を逸らしている!」

 

 部屋にいる。

 

 見えている。

 

 それでも。

 

 見ようとすると。

 

 視線がずれる。

 

 存在そのものを、脳が拒絶する。

 

「下がってください!」

 

 サクラが光の剣を作り出す。

 

 白い剣身。

 

 聖なる魔力。

 

 影へ向けて構える。

 

 だが。

 

 影は攻撃しない。

 

 逃げようともしない。

 

 ただ。

 

 ウェンディの方を向いていた。

 

「私?」

 

 ウェンディは息を呑む。

 

 シャルルが彼女の前へ飛び出す。

 

「近づかせないわ!」

 

 影から。

 

 声が響いた。

 

「風の娘」

 

 男とも女とも取れない。

 

 何重にも重ねられた、不自然な声。

 

「あなたの風は、ニルヴァーナの鍵となる」

 

「鍵?」

 

 ウェンディが聞き返す。

 

 サクラの目が鋭くなる。

 

「何を知っているのですか」

 

「聖なる者よ」

 

 影はサクラへ顔を向ける。

 

「あなたの光では、あれを止められない」

 

「ニルヴァーナの場所を知っているのですね」

 

「場所?」

 

 影が笑う。

 

「それは場所ではない」

 

「どういう意味ですか?」

 

「ニルヴァーナは、すでに目覚め始めている」

 

 会議室の床。

 

 僅かに。

 

 黒い線が走った。

 

 サクラはすぐに気づく。

 

「全員、床から離れてください!」

 

 白い翼が羽ばたく。

 

 ウェンディとシャルルの体が、光に包まれて浮き上がる。

 

 ヒビキたちも後方へ跳ぶ。

 

 次の瞬間。

 

 床へ広がった黒い線が。

 

 巨大な魔法陣を描いた。

 

「いつの間に!」

 

「外の敵は、この魔法陣を完成させるために魔力を流していたのか!」

 

 ヒビキが叫ぶ。

 

 別荘を囲む敵。

 

 直接攻めない。

 

 一定の場所から魔法を放ち続ける。

 

 その本当の目的は。

 

 建物の下へ魔力を集めることだった。

 

「ウェンディさん!」

 

 サクラが手を伸ばす。

 

 だが。

 

 魔法陣の中心から。

 

 黒い風が吹き上がった。

 

 ウェンディの周囲だけを囲む。

 

「きゃっ!」

 

「ウェンディ!」

 

 シャルルが手を伸ばす。

 

 黒い風へ触れた瞬間。

 

 弾き飛ばされた。

 

「シャルル!」

 

「私は平気!」

 

 シャルルは空中で体勢を整える。

 

 サクラの光の剣が、黒い風へ振り下ろされる。

 

 だが。

 

 剣は風の表面で止まった。

 

「硬い……?」

 

 風でありながら。

 

 結界のように硬い。

 

 さらに。

 

 サクラの魔力が触れるたび。

 

 黒い風は、光を吸収して強くなっていく。

 

「天使魔法を吸収している」

 

 サクラはすぐに剣を引く。

 

「ウェンディさん! 中から出られますか!」

 

「やってみます!」

 

 ウェンディは両手を胸の前へ構える。

 

「天竜の――」

 

 息を吸い込む。

 

 だが。

 

 空気がない。

 

 黒い風の内側だけ。

 

 天空の魔力が遮断されている。

 

「風が……」

 

 ウェンディの顔が青ざめる。

 

「魔力を集められない!」

 

「ウェンディ!」

 

 シャルルが結界の周囲を飛ぶ。

 

「待っていて! 必ず出すわ!」

 

 影は。

 

 黒い風の向こうで笑っている。

 

「天空の巫女」

 

「誰ですか、あなたは!」

 

「あなたは、まだ自分の役目を知らない」

 

「役目?」

 

「風は、光と闇の間を巡る」

 

 影の輪郭が薄くなる。

 

「ニルヴァーナは、あなたを待っている」

 

「待って!」

 

 ウェンディが手を伸ばす。

 

 影は。

 

 完全に消えた。

 

 残ったのは。

 

 ウェンディを閉じ込める黒い風。

 

 床の巨大な魔法陣。

 

 そして。

 

 別荘全体を覆い始める、異様な魔力。

 

「ヒビキ!」

 

 サクラが叫ぶ。

 

「魔法陣を解析してください!」

 

「やってる!」

 

 ヒビキの前へ、複数の光の画面が展開される。

 

「情報が多すぎる! 古代文字、呪術式、転送魔法が混ざってる!」

 

「転送?」

 

 シャルルの顔色が変わる。

 

「ウェンディを、どこかへ運ぶつもりなの?」

 

「可能性が高い!」

 

「させません!」

 

 サクラの背後。

 

 光輪が大きく広がる。

 

 その中から。

 

 白い甲冑を纏った天使の影が現れる。

 

「天使魔法――ラファエル!」

 

 治癒と浄化を司る天使。

 

 巨大な両手が、黒い風を包む。

 

 光と闇。

 

 二つの魔力がぶつかり。

 

 会議室全体が激しく揺れる。

 

 だが。

 

 魔法陣は消えない。

 

「サクラさん!」

 

 ウェンディが結界の中から叫ぶ。

 

「無理をしないでください!」

 

「あなたを閉じ込めたまま、止めるわけにはいきません!」

 

「でも、魔力を吸収しています!」

 

「ならば、吸収できないほどの力を流します!」

 

 サクラの桜色の髪が舞い上がる。

 

 白い翼から。

 

 数え切れないほどの羽根が飛び散る。

 

 聖十大魔導の魔力。

 

 圧倒的な光。

 

 それでも。

 

 黒い風は。

 

 ウェンディを離さない。

 

 むしろ。

 

 魔法陣の光が強くなっていく。

 

「転送術式が起動する!」

 

 ヒビキが叫ぶ。

 

「残り三十秒!」

 

「解除方法は!」

 

「今、探してる!」

 

「遅いわ!」

 

 シャルルが黒い風へ突っ込む。

 

「シャルル!」

 

 再び弾かれる。

 

 白い体が壁へぶつかりそうになる。

 

 ハッピーが会議室へ飛び込み、受け止めた。

 

「あい! 危ない!」

 

「離して!」

 

「でも!」

 

「ウェンディが!」

 

 シャルルは必死に翼を動かす。

 

「ウェンディを連れていかせない!」

 

「私も手伝う!」

 

 ハッピーとシャルル。

 

 二人で結界へ近づく。

 

 だが。

 

 黒い風は。

 

 触れることすら許さない。

 

「残り二十秒!」

 

 ヒビキの声。

 

 ウェンディは、結界の中で両手を握った。

 

 風がない。

 

 魔力を集められない。

 

 助けを呼ぶ声も。

 

 黒い結界の外へ届いているか分からない。

 

「カイドウさん」

 

 小さな呟き。

 

 約束。

 

『本当に危なくなったら、カイドウさんを呼びます』

 

 今。

 

 本当に危ない。

 

 だが。

 

 呼んでも届かない。

 

 遠く。

 

 すでに森を離れた場所。

 

 化猫の宿へ帰っているはず。

 

「カイドウさん!」

 

 ウェンディは叫んだ。

 

「助けて!」

 

 黒い風が。

 

 声を飲み込む。

 

 会議室の外へは、届かない。

 

 だが。

 

 ウェンディが作った青いお守り。

 

 そこに残った魔力が。

 

 少女の声へ反応した。

 

          ◇◇◇

 

 森の上空。

 

 青い龍となったカイドウが。

 

 別荘へ向かって飛んでいた。

 

 まだ遠い。

 

 だが。

 

 腰に結びつけたお守りが。

 

 強く光った。

 

『カイドウさん!』

 

 声が聞こえた。

 

 耳ではない。

 

 頭の中。

 

 魔力を通して。

 

 僅かに。

 

 途切れながら。

 

『助けて!』

 

 カイドウの瞳が見開かれる。

 

 次の瞬間。

 

 空が割れた。

 

 龍の全身から。

 

 黒い稲妻が迸る。

 

 雲が弾け。

 

 森の木々が、一斉に地面へ倒れそうなほど揺れる。

 

「呼んだな」

 

 低い声。

 

 龍の牙が。

 

 大きく開く。

 

「呼んだな、ウェンディ」

 

 違和感。

 

 嫌な予感。

 

 すべて。

 

 間違いではなかった。

 

 敵は。

 

 連合軍を倒すつもりなどなかった。

 

 狙いは。

 

 最初から。

 

 ウェンディだった。

 

「ウォロロロ……」

 

 笑っている。

 

 だが。

 

 そこに楽しさはない。

 

 怒り。

 

 それだけだった。

 

 空を覆う雲が。

 

 カイドウを中心に渦を巻く。

 

「約束は守ったぞ」

 

 ウェンディが呼ぶまで。

 

 待った。

 

 だから。

 

 今からは。

 

 誰にも止められない。

 

「おれを呼んだ」

 

 龍の体が。

 

 雷光を纏う。

 

「なら」

 

 別荘の方角。

 

 黒い魔力の柱が、森の中から立ち上がっている。

 

 カイドウは。

 

 そこだけを見ていた。

 

「迎えに行く」

 

 巨大な龍は。

 

 雷鳴と共に。

 

 空を駆けた。

 

 六魔将軍。

 

 連合軍。

 

 ニルヴァーナ。

 

 誰が何を企んでいようと。

 

 今のカイドウには関係がない。

 

 ウェンディが呼んだ。

 

 それだけで。

 

 世界を敵に回す理由としては、十分だった。




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