『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』 作:パスカルDX
第14話 最強生物、呼ばれた父親は空から来る
青い天馬の別荘を覆う空が、黒く染まった。
それまで森の上には、薄い雲が穏やかに流れていた。
陽光は木々の葉へ降り注ぎ、風に揺れる枝の間から、細かな光の筋を地面へ落としていた。
だが今。
空に浮かぶ雲という雲が、一つの場所へ引き寄せられている。
渦を巻き。
重なり。
巨大な暗雲となり。
森の上空へ、不気味な影を落としていく。
ごろごろと。
遠くから雷鳴が響いた。
ただの天候の変化ではない。
自然の雲ではない。
圧倒的な力を持つ何者かが、怒りによって空そのものを支配している。
別荘の周囲へ散らばっていた闇ギルドの魔導士たちは、一人、また一人と空を見上げていた。
「な、何だ……?」
「急に雲が……」
「天候を操る魔法か?」
誰かが震える声で呟いた。
その直後。
暗雲の中を、巨大な影が横切った。
長大な胴体。
青い鱗。
鋭く伸びた角。
黒い雲を纏いながら空を泳ぐ、伝説上の生物。
龍。
いや。
それは、彼らが知る物語の中の龍ではない。
異世界より落ちてきた。
国を支配し。
数え切れない戦場を渡り歩き。
最強生物と呼ばれた男。
百獣のカイドウ。
「龍だ……!」
「青い龍!」
「聞いていないぞ!」
「連合軍に龍がいるなんて!」
「違う!」
闇ギルドの一人が、顔を真っ青にしながら叫んだ。
「こいつは連合軍じゃない! 報告にあった異世界人だ!」
「では、なぜここへ!」
答えられる者はいなかった。
ただ。
上空から落ちてくる殺気だけで。
全員が理解した。
この龍は。
自分たちの存在など見ていない。
別荘の一点。
そこだけを見ている。
「ウェンディ」
雷鳴の中。
低く、巨大な声が森へ響いた。
空気が震える。
窓ガラスが鳴る。
木々の葉が一斉に舞い上がる。
「どこだ」
その声には。
怒号とは異なるものがあった。
焦り。
恐れ。
そして。
守るべき者を奪われようとした男の、底なしの怒り。
◇◇◇
青い天馬の別荘。
会議室の中央。
床へ描かれた黒い魔法陣は、刻一刻と輝きを増していた。
黒い風の檻。
その中心へ閉じ込められたウェンディは、両腕で自分の体を抱いていた。
風がない。
彼女にとって、風は魔力の源である。
空気を喰らい。
天空の力へ変え。
治癒。
強化。
攻撃へと繋げる。
だが、この結界の中には。
彼女が扱える風が存在していなかった。
周囲で荒れ狂う黒い風は、ウェンディの魔力を拒絶している。
吸い込もうとしても。
呼びかけても。
濁った水のように、体へ入ることを拒む。
「残り十秒!」
ヒビキの叫びが響いた。
空中へ展開された複数の魔法画面。
そこには、床の魔法陣を構成する術式が高速で流れている。
古代文字。
転送術式。
拘束魔法。
魔力吸収。
一つ一つなら解析できる。
だが、それらが幾重にも重なり合い。
互いの欠点を補うように組み立てられていた。
「術式の中心が分からない!」
ヒビキの指が光の鍵盤を激しく叩く。
「解除箇所が意図的に隠されている!」
「ならば、術式ごと破壊します!」
サクラの背後。
光輪が大きく広がる。
白い外套が魔力の奔流で激しく揺れ。
長い桜色の髪が、空中へ舞い上がった。
「天使魔法――ウリエル!」
光輪の中から。
炎の剣を持つ巨大な天使が現れる。
純白の翼。
金色の鎧。
手にした剣から放たれる炎は、ただ物質を焼くものではない。
邪悪な魔法。
呪い。
負の魔力。
それらを浄化する、聖なる炎。
「魔法陣の外周を焼き切ります!」
天使ウリエルが剣を振り下ろした。
白い炎が床へ走る。
黒い魔法陣の外周へ触れ。
激しく火花を散らした。
会議室を揺らす轟音。
床が軋み。
壁へ亀裂が走る。
黒い線の一部が、炎に焼かれて薄くなる。
「効いている!」
ルーシィが声を上げた。
「サクラさん、そのまま!」
「分かっています!」
サクラはさらに魔力を込める。
だが。
黒い風の檻が、突然大きく膨れ上がった。
「きゃあっ!」
ウェンディの体が、内部で浮き上がる。
「ウェンディ!」
シャルルが叫ぶ。
黒い風が部屋の天井へ突き上がり。
結界全体が、巨大な柱へ変わっていく。
「転送まで五秒!」
ヒビキの叫び。
「間に合わない!」
「間に合わせます!」
サクラが歯を食いしばる。
聖十大魔導。
天使魔法の使い手。
その全魔力を、魔法陣の外周へ集中させる。
だが。
黒い術式は。
ウリエルの炎を受けながら、なお崩れない。
三秒。
二秒。
一秒。
魔法陣の中心から、黒い光が噴き上がった。
「ウェンディ!」
シャルルが、全力で結界へ飛び込んだ。
黒い風に弾かれ。
それでも翼を止めない。
ハッピーが後ろからシャルルの体を支える。
「あい! 一緒に押す!」
「離して! ウェンディが!」
「一人じゃ駄目だ!」
二匹のエクシードが、黒い風へ挑む。
翼が震え。
魔力が削られ。
それでも手を伸ばし続ける。
「シャルル!」
結界の中。
ウェンディも手を伸ばしていた。
触れられない。
ほんの数歩。
だが。
そこには、どれほど飛んでも越えられない壁がある。
「カイドウさん!」
ウェンディは、もう一度叫んだ。
声は黒い風に飲み込まれる。
誰にも届かない。
そう思われた。
その瞬間。
別荘の外から。
大地と空を同時に震わせる咆哮が響いた。
『ウェンディィィィィィィ!』
黒い風が。
僅かに揺らいだ。
◇◇◇
別荘の屋根を覆う暗雲。
その中心から。
巨大な青い龍の顔が現れた。
黄金色の瞳。
開かれた口。
鋭い牙。
カイドウは、黒い魔力が立ち上がる別荘を睨んでいた。
ウェンディの気配はある。
だが。
何かに囲まれ。
閉じ込められ。
今にも遠くへ引きずられようとしている。
「そこか」
カイドウの口元から。
青白い炎が漏れた。
口の奥へ。
熱が集まる。
森の木々が熱風に煽られ。
地面の落ち葉が舞い上がる。
「熱息を撃つ気だ!」
別荘の周囲にいた闇ギルドの魔導士が叫んだ。
「逃げろ!」
「森ごと消えるぞ!」
「別荘の中には連合軍がいる!」
「そんなことを考える男じゃない!」
敵も。
味方も。
カイドウの口に集まる光を見て、顔色を変えた。
別荘の外。
闇ギルドを警戒していたエルザたちも、空を見上げる。
「カイドウ!?」
エルザの目が大きくなる。
「戻ってきやがった!」
グレイが叫ぶ。
「何で龍になってんだ!」
「ウェンディの気配を感じたんだ!」
ナツは、すぐに別荘へ振り返る。
「中で何か起きてる!」
カイドウの口内。
青白い光が限界まで膨れ上がる。
「馬鹿!」
エルザが声を張り上げた。
「別荘ごと吹き飛ばすつもりか!」
カイドウには聞こえている。
だが。
止まらない。
「熱――」
炎が、口から溢れようとする。
その時。
腰の青いお守りが、強く光った。
ウェンディの顔。
笑顔。
声。
『周りを壊さないでください』
カイドウの瞳が揺れる。
「……」
口の中へ集めた熱。
そのまま放てば。
別荘。
敵。
森。
すべてを焼き払える。
ウェンディを閉じ込める結界も。
建物ごと消し飛ばせるかもしれない。
だが。
中にはウェンディがいる。
仲間たちもいる。
力任せでは駄目だ。
分かっている。
いつも。
ウェンディに言われてきた。
「ちっ」
カイドウは、集めた熱を飲み込んだ。
青白い炎が消える。
地上の魔導士たちが、安堵する。
「止めた……?」
ルーシィが驚く。
「カイドウが自分から?」
エルザは、上空の龍を見た。
ただ怒りに任せ。
周囲を破壊するだけの男ではない。
ウェンディがいるから。
彼女を傷つけないため。
最も得意とする攻撃を、自分で止めた。
「ウォロロロ……」
カイドウの低い笑い声が、空から降りてくる。
楽しそうではない。
「壊すなと言ってたな」
龍の体が。
空中で大きくうねる。
「分かってる」
カイドウは別荘の屋根へ向け。
巨大な前脚を伸ばした。
「なら」
鱗に包まれた爪が。
屋根へ触れる。
「壊さずに開ける」
「待て!」
グレイが叫ぶ。
だが。
遅かった。
カイドウは。
別荘の屋根を。
蓋を開けるように持ち上げた。
みしみしみし。
木材。
瓦。
梁。
それらが軋む。
だが。
粉砕はしない。
外壁も崩さない。
建物の上半分だけが。
巨大な手によって、ゆっくりと持ち上げられていく。
「……」
連合軍の魔導士たち。
闇ギルドの者たち。
全員が、呆然とその光景を見上げた。
「屋根を……」
ルーシィの口が開く。
「外した?」
「そんな家の開け方があるか!」
グレイが叫ぶ。
「壊していないと言い張るつもりだ!」
エルザの額に青筋が浮かぶ。
「建物としては、完全に破壊されている!」
「粉々にはしてねェ!」
カイドウが空から言い返す。
「カイドウさんの壊していないは、基準がおかしいです!」
ウェンディの声が。
黒い風の中から届いた。
カイドウの目が。
会議室へ向く。
屋根がなくなったことで。
上空から、部屋の中が見える。
床の魔法陣。
黒い風の柱。
その中心。
ウェンディ。
「見つけたぞ」
カイドウの声から。
僅かな安堵が滲んだ。
「カイドウさん!」
ウェンディが顔を上げる。
龍の姿。
空を覆う巨体。
恐ろしいはずなのに。
今は。
何よりも安心できる姿に見えた。
「どうして来たんですか!」
「呼んだだろ」
「呼びましたけど!」
「だから来た」
「早すぎます!」
「遅い方がよかったか」
「そういう意味じゃありません!」
ウェンディは怒っている。
だが。
目には涙が浮かんでいた。
「カイドウさん……」
「ああ」
「助けてください」
「最初から、そのつもりだ」
◇◇◇
「カイドウ!」
サクラが会議室から空へ向けて叫ぶ。
「結界へ直接攻撃しないでください!」
「あ?」
「魔力を吸収します!」
「関係ねェ」
「あなたの力まで吸収されれば、結界が強化されます!」
「なら」
カイドウは黒い風を観察する。
魔力を吸収する。
天使魔法。
浄化。
攻撃。
触れた力を取り込み。
転送魔法の燃料へ変えている。
カイドウが熱息を撃てば。
その膨大な力が、逆にウェンディを遠くへ飛ばすことになるかもしれない。
「面倒な魔法だな」
「だから、慎重に――」
「壊せねェなら」
カイドウの龍の体が、青い光へ包まれる。
巨大な胴体が縮み。
雲が散り。
人の形へ戻っていく。
屋根を持ち上げたまま。
カイドウは、人獣型へ変化した。
青い鱗。
太い尾。
鋭い牙。
人と龍が混ざった姿。
その巨体が。
屋根のなくなった会議室へ飛び降りる。
「カイドウ!」
サクラが身構える。
ずしん。
カイドウの足が床へ着く。
魔法陣の外側。
床へ亀裂が走る。
「壊れた!」
ヒビキが叫ぶ。
「少しだ!」
「床に穴が開いています!」
「結界よりはましだ!」
ウェンディは黒い風の中で、思わず笑いそうになった。
助けを求めた。
来てほしかった。
だが。
本当に来ると。
いつものように騒がしい。
「カイドウさん」
「何だ」
「落ち着いてください」
「落ち着いてる」
「顔が怖いです」
「元からだ」
「目が赤いです」
「怒ってる」
「落ち着いていません!」
カイドウは黒い風の檻へ近づく。
「触らないでください!」
サクラが腕を広げて止める。
「邪魔だ、桜頭」
「サクラです!」
「お前では壊せなかったんだろ」
「力だけでは無理です」
「なら、おれがやる」
「説明を聞いていましたか?」
「ああ」
「魔力を吸収します」
「知ってる」
「では」
「魔力を使わなければいい」
サクラの目が僅かに見開かれる。
カイドウは。
金棒を使わない。
熱息も吐かない。
覇気も纏わない。
ただ。
巨大な両手を、黒い風へ差し出した。
「待って!」
ウェンディが叫ぶ。
「危ないです!」
「お前を閉じ込めてるだけだろ」
「触ったら、弾かれます!」
「白狸が弾かれるのと、おれが弾かれるのは違う」
「私はエクシードよ!」
シャルルが怒鳴る。
カイドウの指先が。
黒い風へ触れた。
ばちん。
激しい衝撃。
雷のような音が会議室へ響く。
カイドウの腕が僅かに押し返された。
「カイドウさん!」
「問題ねェ」
鱗に覆われた手。
表面から血が滲む。
魔力ではない。
純粋な物理的接触。
それでも。
黒い風は、侵入者を拒絶する力を持っている。
「硬ェな」
カイドウの口元が上がる。
「だが」
両手の指が。
黒い風へ食い込んだ。
「おれより硬くはねェ」
ぐぐぐ。
結界が軋む。
魔法で作られた風。
本来。
掴めるものではない。
だが。
カイドウは掴んでいる。
圧倒的な肉体。
龍の力。
そして。
理屈を超えた腕力。
「そんな……」
ヒビキが目を見開く。
「術式を解析せず、結界そのものを掴んでいる?」
「魔法を何だと思ってるのよ!」
ルーシィが叫ぶ。
「邪魔な風だろ」
カイドウは答えた。
「なら、どかす」
「できるわけ――」
黒い風の檻が。
左右へ広がり始めた。
カイドウの腕力によって。
強引に。
扉を開くように。
「開いてる!?」
シャルルの目が見開かれる。
「ウェンディ!」
「はい!」
ウェンディは。
開いた隙間へ向かって走った。
だが。
床の魔法陣が激しく光る。
「転送術式が再起動!」
ヒビキが叫ぶ。
「カイドウの接触で、魔法陣へ別の力が流れ込んでいる!」
「魔力は使ってねェぞ!」
「生命力を吸収している!」
黒い風が。
カイドウの両腕へ絡みついた。
鱗の隙間から。
赤い血が流れる。
さらに。
腕から力を奪うように。
黒い線が広がり始める。
「離れてください!」
ウェンディが立ち止まる。
「カイドウさんまで危ないです!」
「止まるな!」
「でも!」
「走れ、ウェンディ!」
カイドウの怒声。
ウェンディの体が震える。
「おれは」
カイドウは歯を食いしばる。
黒い風を掴む手へ。
さらに力を込める。
「こんなもんじゃ死なねェ!」
結界の隙間が、大きく広がった。
「来い!」
ウェンディは。
走った。
黒い風。
魔法陣。
吸い込まれそうになる体。
足が重い。
呼吸が苦しい。
それでも。
前へ。
目の前には。
カイドウの巨大な手がある。
「カイドウさん!」
ウェンディが手を伸ばす。
カイドウも。
片手を結界から離した。
隙間が狭くなる。
それでも。
伸ばした手が。
ウェンディの腕を掴んだ。
「捕まえたぞ」
カイドウが低く言う。
「もう離さねェ」
「カイドウさん!」
カイドウは、ウェンディを一気に引き寄せた。
黒い風の隙間から。
小さな体が飛び出す。
カイドウの腕の中へ。
ウェンディは強く抱き止められた。
直後。
結界が閉じる。
黒い風の柱が大きく膨張した。
「全員、伏せてください!」
サクラの翼が広がる。
白い光の防壁が、会議室を包む。
魔法陣が爆発した。
◇◇◇
黒い衝撃が。
別荘の会議室から、外へ吹き抜けた。
壁。
窓。
家具。
机。
椅子。
すべてが宙へ舞う。
サクラの防壁が衝撃を受け止める。
白い翼が激しく震え。
光の羽根が散っていく。
「くっ……!」
サクラは両足で床を踏みしめる。
「全員を守ります!」
ジュラが会議室の下から大地の魔法を使い。
崩れかけた建物の基礎を支える。
エルザが巨大な盾へ換装し。
ルーシィたちを庇う。
黒い魔法陣は。
転送する対象を失い。
蓄積していた魔力を制御できず。
内側から崩壊した。
轟音。
光。
風。
そして。
しばらく後。
別荘へ。
静寂が戻った。
「……」
サクラは、ゆっくり翼を下ろした。
会議室。
屋根はない。
壁の一部も崩れている。
床には大きな穴。
家具は散乱。
だが。
魔導士たちは生きている。
「ウェンディ!」
シャルルが飛ぶ。
会議室の中央。
カイドウが膝をついていた。
その腕の中。
ウェンディがいる。
「ウェンディ!」
「シャルル……」
ウェンディが顔を上げる。
多少、顔色は悪い。
だが。
目立った怪我はない。
シャルルは、ウェンディの胸へ飛び込んだ。
「馬鹿!」
「ご、ごめんね」
「謝らないで!」
シャルルの目から涙が溢れる。
「本当に……心配したんだから!」
「うん」
ウェンディも。
シャルルを抱きしめた。
「ありがとう、シャルル」
「私は何もできなかった」
「ずっと、声が聞こえてたよ」
「でも」
「一人じゃなかった」
シャルルは何も言えなくなり。
ただウェンディへ顔を押しつけた。
その横。
カイドウは。
まだウェンディを片腕で支えている。
ウェンディが動くたび。
腕の力が僅かに強くなる。
「カイドウさん」
「何だ」
「苦しいです」
カイドウの動きが止まる。
「どこがだ」
「腕が……」
カイドウは慌てて力を緩めた。
「悪かった」
自分から出た謝罪。
ウェンディは目を丸くする。
「今」
「何だ」
「謝りました?」
「聞き間違いだ」
「聞きました!」
「今はいいでしょう!」
シャルルが涙を拭きながら叫ぶ。
「ウェンディの状態を確認するわ!」
「おれが見る」
「あなたは医者じゃないでしょう!」
「怪我はねェ」
「どうして分かるのよ」
「匂いだ」
「怖い言い方をしないで!」
ウェンディはカイドウの腕から降りようとする。
だが。
カイドウが離さない。
「カイドウさん?」
「まだだ」
「もう結界は消えました」
「駄目だ」
「歩けます」
「駄目だ」
「どうしてですか?」
カイドウは。
ウェンディの顔を見た。
目。
頬。
首。
腕。
手。
足。
本当に。
傷がないか。
自分の目で確認している。
「怖かったですか?」
ウェンディが尋ねた。
カイドウの目が僅かに揺れた。
「誰がだ」
「私がいなくなると思って」
「思ってねェ」
「本当ですか?」
「……」
「カイドウさん」
「うるせェ」
カイドウは。
ウェンディの頭へ。
巨大な手を載せた。
乱暴ではない。
押さえつけるでもない。
ただ。
そこにいることを確かめるように。
「呼ぶのが遅ェ」
低い声。
「ごめんなさい」
「呼べねェなら、先に言え」
「閉じ込められるって、知らなかったんです」
「次からは」
「次があってほしくありません!」
ウェンディが困ったように笑う。
カイドウは笑わない。
「次はねェ」
「え?」
「もう、こんな目には遭わせねェ」
その声。
目。
腕。
ウェンディは。
嫌な予感を覚えた。
「カイドウさん」
「何だ」
「まさか」
カイドウは立ち上がる。
ウェンディを抱えたまま。
「帰るぞ」
「どこへですか?」
「化猫の宿だ」
「私は連合軍に――」
「終わりだ」
「終わっていません!」
ウェンディの声が響く。
カイドウは歩き始める。
「六魔将軍が、お前を狙ってる」
「だからこそ、止めないといけません!」
「ほかの奴らにやらせろ」
「駄目です!」
「お前は帰る」
「嫌です!」
ウェンディはカイドウの腕の中でもがく。
「下ろしてください!」
「断る」
「約束しましたよね!」
「呼ばれたら助ける」
「その後は連合軍へ戻ります!」
「危険すぎる」
「最初から危険だと分かっていました!」
「罠の中身が違う」
「それでも!」
「駄目だ!」
カイドウの怒声。
ウェンディの肩が跳ねる。
会議室にいた者たちも、二人を見る。
親バカ。
過保護。
いつもの喧嘩。
だが。
今は違う。
カイドウは、本気でウェンディを連れ帰ろうとしている。
ウェンディも。
本気で残ろうとしている。
「カイドウ」
サクラが前へ出た。
「ウェンディさんを下ろしてください」
「断る」
「彼女は連合軍の一員です」
「今ので終わった」
「あなたが決めることではありません」
「お前は守れなかった」
サクラの顔が固まる。
「……」
「全員で帰ると言ったな」
「はい」
「ウェンディは、あと少しで連れ去られてた」
「その通りです」
サクラは否定しなかった。
「私の判断が遅れました」
「なら、こいつは預けられねェ」
「ですが」
「黙れ」
カイドウの声が。
会議室を重く満たす。
「おれが来なかったら、どうなってた」
「……」
「答えろ、桜頭」
サクラは。
しばらく沈黙した。
やがて。
「ウェンディさんは、転送されていた可能性が高いです」
「どこへだ」
「不明です」
「敵の本拠地か」
「その可能性もあります」
「戻せたか」
「分かりません」
カイドウの目が鋭くなる。
「なら終わりだ」
「カイドウさん」
ウェンディが呼ぶ。
「私は残ります」
「話を聞いてたのか」
「聞いていました」
「お前が狙われてる」
「はい」
「次は、もっと危険な罠が来る」
「はい」
「死ぬかもしれん」
「はい」
「なら帰るぞ」
「嫌です」
「なぜだ!」
カイドウの声に。
窓の残骸が震える。
ウェンディは。
カイドウの目を見た。
「私が狙われているからです」
「あ?」
「ニルヴァーナは、私を待っているって言われました」
「それがどうした」
「私にしか分からないことがあるかもしれません」
「関係ねェ」
「あります!」
ウェンディはカイドウの胸へ手を置く。
「私が逃げたら、六魔将軍は次の人を狙います」
「お前じゃなければいい」
「よくありません!」
「おれにはいい!」
「カイドウさん!」
ウェンディの目に。
涙が浮かんだ。
「私だけ助かれば、それでいいんですか?」
「ああ」
「ほかの人が傷ついても?」
「おれの仲間じゃねェ」
「私は仲間だと思っています!」
「昨日会った奴らだぞ」
「一緒に戦うって決めた人たちです!」
「死ぬかもしれんぞ!」
「だから助けたいんです!」
二人の声が。
正面からぶつかる。
「私は、カイドウさんに守られるためだけに魔導士になったんじゃありません!」
「お前は、まだガキだ!」
「子供でも魔導士です!」
「弱い!」
「知っています!」
ウェンディは叫んだ。
「カイドウさんより弱いです!」
涙が頬を流れる。
それでも。
言葉を止めない。
「サクラさんよりも、エルザさんよりも、ジュラさんよりも弱いです!」
「なら」
「でも!」
ウェンディは、カイドウの上着を強く掴んだ。
「弱いからって、何もできないわけじゃありません!」
「……」
「治療できます!」
「……」
「みんなを強くできます!」
「……」
「風の匂いを感じられます!」
「……」
「私だから、できることがあります!」
カイドウは。
何も言えなかった。
「ヤマトさんも」
「……その名を出すな」
「自分の道を歩きたかったんですよね」
「これは違う」
「違いません!」
「お前は死にかけた!」
「ヤマトさんだって、危険な海へ出たかったんでしょう!」
「……」
「危険だから閉じ込めたんですよね!」
「黙れ」
「守るためだと思って!」
「黙れ!」
「でも!」
ウェンディは。
泣きながら。
それでも。
カイドウから目を逸らさなかった。
「私は、閉じ込められたくありません!」
その一言が。
カイドウの胸へ。
深く突き刺さった。
鬼ヶ島。
鎖。
手枷。
洞窟。
幼いヤマト。
『ボクは海へ出る!』
守る。
危険から遠ざける。
自分の手元に置く。
それが正しいと思っていた。
今も。
同じことをしようとしている。
ウェンディを抱き。
連合軍から遠ざけ。
化猫の宿へ連れ帰る。
安全な場所へ。
自分の目が届く場所へ。
だが。
ウェンディが望んでいるのは。
安全な檻ではない。
「……」
カイドウの腕から。
少しずつ力が抜けた。
ウェンディの足が。
床へ触れる。
「カイドウさん?」
カイドウは。
ウェンディを下ろした。
完全には離さない。
肩へ手を置いたまま。
「一つだけだ」
低い声。
「はい」
「二度と、一人になるな」
「はい」
「どこへ行くにも、誰かと行け」
「はい」
「危険を感じたら、すぐ逃げろ」
「はい」
「魔力を使い切るな」
「はい」
「おれを呼べ」
「はい」
「呼べなくても」
カイドウの目が、サクラへ向く。
「誰かが呼べ」
サクラは頷いた。
「必ず」
「今度、遅れたら」
「遅れません」
「遅れたら」
カイドウの周囲へ。
黒い稲妻が僅かに走る。
「連合軍ごと連れ帰る」
「それは困ります」
サクラは苦笑した。
「ですが、覚えておきます」
カイドウはウェンディへ目を戻す。
「行くのか」
「はい」
「本当に」
「はい」
「頑固だな」
「カイドウさんに言われたくありません」
ウェンディは涙を拭き。
少しだけ笑った。
カイドウは。
その頭へ手を載せる。
「行け」
また。
手を離した。
今度は。
一度目よりも。
遥かに難しい決断だった。
◇◇◇
黒い魔法陣が消えた後。
ヒビキは床へ残された術式を解析していた。
「分かったことがあります」
連合軍の魔導士たちが集まる。
カイドウも。
帰らず、部屋の隅に立っていた。
「なぜ、まだいるのですか?」
サクラが尋ねる。
「作戦を聞く」
「その後は?」
「考える」
「帰る約束です」
「ウェンディが、また呼ぶかもしれん」
「近くにいなくても聞こえたでしょう」
「次は聞こえねェかもしれん」
サクラは言い返そうとした。
だが。
先ほどの罠。
ウェンディが連れ去られかけた事実。
簡単に帰れとは言えなかった。
「戦闘へは参加させません」
「ああ」
「私の指示に従ってください」
「嫌だ」
「帰ってください」
「分かった」
カイドウは、即座に背を向ける。
「待ってください」
「何だ」
「どちらかを選んでください」
「近くにいる」
「指示に従うのですか?」
「ウェンディに関する命令だけだ」
「それでは指揮系統が乱れます」
「なら帰る」
「本当に帰るのですか?」
「お前が帰れと言った」
サクラの額に、僅かに青筋が浮かぶ。
「面倒な男ですね」
「その言葉は禁止です!」
ウェンディが反射的に言った。
会議室に。
一瞬、静寂が落ちる。
そして。
ルーシィが吹き出した。
グレイ。
ナツ。
ハッピー。
青い天馬の者たち。
蛇姫の鱗の者たち。
全員から笑い声が上がる。
「何がおかしい!」
カイドウが怒鳴る。
「カイドウさん!」
「……悪かった」
すぐに声を抑える。
さらに笑いが大きくなった。
ウェンディも。
泣いた直後の顔で。
少しだけ笑った。
重かった空気が。
ほんの僅かに和らいだ。
「結論を言います」
ヒビキが咳払いする。
「この術式は、ウェンディを転送するだけのものではありません」
「どういうこと?」
ルーシィが尋ねる。
「ウェンディの魔力を利用して、別の場所にある何かを起動させようとしていました」
「ニルヴァーナか」
ジュラが静かに言う。
「おそらく」
ヒビキは、解析した古代文字を画面へ表示する。
「天空の魔力。光と闇の中間を巡る風。術式には、そう記されています」
「私の魔力が」
ウェンディは両手を見る。
「ニルヴァーナを動かす鍵?」
「可能性が高い」
「なら」
サクラの表情が険しくなる。
「六魔将軍は、必ず再びウェンディさんを狙います」
カイドウの顔から。
再び表情が消えた。
「どこにいる」
「何がですか?」
「六魔将軍だ」
「まだ場所は分かっていません」
「探せ」
「今から捜索します」
「おれが先に見つける」
「参加しない約束です」
「狙われる前に潰す」
「カイドウさん」
ウェンディが呼ぶ。
カイドウは黙る。
「一人で行かないでください」
「お前も、一人になるなと言っただろ」
「カイドウさんもです」
「おれは一人でいい」
「駄目です」
「なぜだ」
「約束です」
ウェンディは小指を出した。
カイドウは、その指を見る。
「また、それか」
「はい」
「お前とおれでは違う」
「違いません」
「おれは最強だ」
「でも、乗り物に酔います」
「関係ねェ」
「薬も嫌がります」
「関係ねェ」
「皿も割ります」
「最近は割ってねェ」
「昨日、ひびが入りました」
「元からだ」
「見ていました!」
カイドウは言葉を失う。
ウェンディは、さらに小指を差し出した。
「一人で六魔将軍を探しに行かない」
「……」
「約束してください」
「敵が目の前にいたら?」
「サクラさんに伝えます」
「逃げたら?」
「追うかどうか相談します」
「面倒だ」
「その言葉は禁止です」
「……分かった」
カイドウは。
巨大な小指を差し出した。
ウェンディの小指が、そこへ絡む。
「約束です」
「ああ」
サクラは。
その光景を見ながら。
小さく息を吐いた。
六魔将軍。
ニルヴァーナ。
謎の術式。
敵に狙われる天空の滅竜魔導士。
さらに。
連合軍の規則へ従う気がほとんどない異世界の龍。
「サクラ」
エルザが近づいてくる。
「どうする?」
「何をですか?」
「カイドウを」
サクラは、ウェンディと指切りをするカイドウを見る。
「帰せると思いますか?」
「無理だろう」
ジュラが穏やかに答えた。
「私も、そう思います」
サクラは額へ手を当てた。
「六魔将軍より先に、こちらの指揮で頭が痛くなりそうです」
「薬があります!」
ウェンディが言う。
カイドウの顔が険しくなる。
「桜頭へ飲ませろ」
「サクラです」
「苦いぞ」
「あなたが毎朝嫌がる薬です」
「なら飲ませろ」
「人へ勧める前に、自分が飲んでください!」
戦いは。
まだ始まったばかりだった。
六魔将軍は姿を見せず。
連合軍へ、最初の罠だけを残した。
ウェンディは。
ニルヴァーナの鍵として狙われている。
そして。
一度は彼女の手を離したカイドウは。
今度こそ。
完全に帰る理由を失っていた。
「おれも残る」
「指示に従いますか?」
サクラが尋ねる。
「ウェンディを守る命令ならな」
「ほかの人も守ってください」
「余裕があれば」
「全員です」
「面倒だ」
「その言葉は禁止です!」
ウェンディの声が。
屋根を失った別荘から。
森へ高く響いた。
感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!