『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』 作:パスカルDX
第18話 記憶なき男、ニルヴァーナへの道を指し示す
森を抜ける風が、先ほどまでとは違っていた。
柔らかい。
けれど。
どこか落ち着かない。
枝葉の隙間を抜けていくたび、ざわざわと木々が囁く。
まるで。
森そのものが。
これから何か起こることを知っているようだった。
調査班は、青い天馬の別荘へ向かって歩いていた。
先頭はジュラ。
その後ろにサクラ。
銀髪の少女。
エルザに支えられるジェラール。
ウェンディとシャルル。
最後尾には、カイドウ。
ほんの数時間前。
六魔将軍による罠。
謎の少女。
ジェラールの発見。
さらに。
ウェンディが昔助けてもらった《ミストガン》という男が、ジェラールとまったく同じ顔をしているという事実。
次から次へと。
新しい謎が増えている。
そして。
一番大きな問題は。
「ニルヴァーナ」
ジェラールが、小さく呟いた。
エルザがすぐに顔を向ける。
「また、何か思い出したのか?」
「いや」
ジェラールは首を横へ振った。
青い髪。
右目の周囲に刻まれた赤い紋様。
顔色は、ウェンディの治療によって少し戻っている。
だが。
足取りはまだ弱い。
「何も見えない」
「そうか」
「でも」
ジェラールは胸へ手を置いた。
「この名前を聞くと、胸が痛む」
「ニルヴァーナが?」
「ああ」
「頭ではなく?」
「頭も痛む」
ジェラールは苦笑する。
「何というか」
歩きながら。
言葉を探す。
「忘れているというより」
「……」
「忘れさせられている気がする」
サクラが振り返った。
「記憶封印の魔法ですか」
「分からない」
「ジェラールさん」
ウェンディが近づく。
「無理に思い出そうとしないでください」
「でも」
「さっきも頭が痛くなったでしょう?」
「ああ」
「魔力の流れが、まだ不安定です」
ウェンディはジェラールの額へ視線を向ける。
赤い紋様。
そこから。
微かに。
知らない魔力が絡みついている。
「無理に記憶を引っ張り出したら」
「どうなる?」
「頭の中の魔力経路を傷つけるかもしれません」
「それは危険なのか」
「はい」
ウェンディは頷いた。
「だから、今は自然に思い出すのを待った方がいいと思います」
「……そうか」
ジェラールは。
少し残念そうに目を伏せる。
自分が誰なのか。
何をしたのか。
なぜ六魔将軍に捕らえられていたのか。
何も分からない。
目の前には。
自分を知っていると言う女性。
エルザ。
同じ顔をした別人。
ミストガン。
古代魔法ニルヴァーナ。
そして。
名前すら分からない銀髪の少女。
分からないことばかりだった。
「焦るな」
最後尾から。
カイドウの低い声が飛んできた。
ジェラールは振り返る。
「あなたは」
「何だ」
「記憶を失ったことはあるのか?」
「ねェ」
「なら」
「だが」
カイドウは歩みを止めない。
「忘れたいことなら、いくらでもある」
その言葉に。
ウェンディの足が少し止まった。
ヤマト。
鬼ヶ島。
和の国。
過去。
カイドウにも。
思い出したくないことはある。
だが。
忘れたわけではない。
「忘れたところで」
カイドウが続ける。
「やったことは消えねェ」
ジェラールの目が揺れる。
「なら」
「思い出した時に考えろ」
「……」
「今から勝手に罪人の顔をするな」
「罪人かもしれない」
「かもしれねェだけだ」
「でもエルザは」
「赤髪が、お前を殺そうとしてねェ」
カイドウの言葉。
ジェラールがエルザを見る。
エルザは。
驚いたようにカイドウを見る。
「なら」
カイドウは鼻を鳴らす。
「今は、それで十分だろ」
「カイドウさん」
ウェンディが嬉しそうに振り返った。
「何だ」
「またいいことを言いました」
「普通だ」
「最近、本当にいいことを言いますね」
「褒めるな」
「昔より丸くなったの?」
シャルルが尋ねる。
「丸くなってねェ」
「ウェンディと暮らしてからでしょうね」
「違ェ」
「ヤマトさんにも」
「その話は後だ」
カイドウの声が少しだけ低くなる。
ウェンディは。
それ以上は言わなかった。
まだ。
ヤマトの話は。
カイドウにとって簡単に触れられるものではない。
それでも。
少しずつ。
変わっている。
ウェンディには。
そう思えた。
◇◇◇
森を進むこと。
およそ三十分。
途中。
何度か休憩を挟んだ。
主に。
ジェラールと銀髪の少女のためである。
そして。
三度目の休憩。
小さな川沿い。
ジュラが岩場を整え。
サクラが簡易的な防護結界を張った。
銀髪の少女は。
木陰へ座っている。
ウェンディが渡した水を。
両手で大切そうに持っていた。
「ゆっくり飲んでください」
「うん」
「一気に飲むと、お腹が痛くなるかもしれません」
「分かった」
少女は。
少しずつ水を口へ運ぶ。
「おいしい」
「水ですよ?」
「それでも」
少女は微笑む。
「ずっと、変な薬しか飲まされてなかったから」
ウェンディの顔が曇る。
「六魔将軍に?」
「たぶん」
「覚えているんですか?」
「少しだけ」
少女は目を閉じた。
「暗い部屋」
「……」
「誰かが、私の腕へ魔法を入れた」
「さっきの黒い魔法?」
「うん」
「誰だったか、分かります?」
少女は。
眉を寄せた。
「白い髪」
「白い髪?」
「女の人だったと思う」
サクラが反応する。
「六魔将軍の一人、《エンジェル》かもしれません」
「エンジェル?」
ウェンディが聞き返す。
「星霊魔法に近い魔法を使うとされている女魔導士です」
「白い髪……」
少女は頭を押さえる。
「無理に思い出さなくていいです」
ウェンディがすぐに手を添える。
「痛い?」
「少し」
「治療します」
ウェンディの手から。
柔らかな風。
少女の苦しそうな表情が少し和らいだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「あなたは」
「はい?」
「怖くないの?」
少女が尋ねる。
「私が」
「どうしてですか?」
「私は」
両腕を見る。
黒い紋様は消えた。
だが。
まだ。
自分の体を信じられない。
「また、あの魔法が出たら」
「その時は助けます」
「でも」
「一人ではありません」
ウェンディは。
周囲を見る。
シャルル。
サクラ。
エルザ。
ジュラ。
ジェラール。
そして。
「カイドウさんもいます」
大木の下。
カイドウは。
なぜか肉を焼いていた。
正確には。
焼こうとしていた。
「カイドウさん!」
ウェンディが叫ぶ。
「はい?」
少女が驚く。
カイドウは。
小さな焚き火の前。
串へ刺した肉を持っている。
「何をしているんですか!」
「飯だ」
「火を大きくしないでください!」
「まだ小さい」
「カイドウさんの小さいは信用できません!」
「今回は火を吐いてねェ」
「それだけで安心できません!」
肉の下。
焚き火。
炎は普通。
周囲も燃えていない。
「……」
ウェンディは目を丸くする。
「普通に焼いていますね」
「おれを何だと思ってる」
「池を沸騰させた人です」
「魚は焼けた」
「また、それですか!」
少女が。
くすりと笑った。
「怖くないかも」
「何がだ」
カイドウが聞く。
「あなた」
「おれが?」
「最初は、すごく怖かった」
「ああ」
「でも」
少女は。
ウェンディとカイドウを交互に見る。
「怒られてばっかり」
「誰が怒られてる」
「カイドウさんです」
ウェンディが即答する。
「違ェ」
「毎日です」
「白狸も怒られてる」
「私はエクシードよ!」
「ほら」
少女は。
今度は少し大きく笑った。
カイドウは。
その笑顔を見て。
それ以上何も言わなかった。
「名前」
カイドウが言う。
「え?」
「お前の名前は、まだ分からねェのか」
少女の笑顔が消える。
「うん」
「呼びにくいな」
「カイドウさん」
ウェンディが困った顔をする。
「無理に思い出させないでください」
「名前がねェと困る」
「仮の名前を決めれば?」
シャルルが提案する。
「勝手につけるの?」
少女が尋ねる。
「思い出すまでの間だけよ」
「それなら」
少女は。
少し嬉しそうだった。
「名前……」
ウェンディは考える。
銀髪。
淡い紫色の瞳。
黒い魔法に苦しめられていた。
けれど。
本来の魔力は。
優しい。
「ルナ」
ウェンディが呟いた。
「ルナ?」
「はい」
「どうして?」
「髪が、お月さまみたいに綺麗だから」
少女の目が大きくなる。
「私が?」
「はい」
「綺麗?」
「とても」
少女の頬が。
少しだけ赤くなる。
「ルナ……」
自分で。
その名前を確かめる。
「嫌ですか?」
「ううん」
少女――ルナは。
首を横へ振る。
「好き」
「では」
ウェンディは笑う。
「名前を思い出すまで、ルナさんです」
「さんはいらない」
「え?」
「ルナでいい」
「では、ルナ」
「うん」
ルナは。
嬉しそうに笑った。
「いい名前ね」
シャルルも頷く。
「仮の名にしては」
カイドウが肉を見ながら言う。
「悪くねェ」
「カイドウさんも褒めました!」
「褒めてねェ」
「今のは褒めています」
「感想だ」
「同じです!」
ルナは。
また笑った。
ほんの数時間前まで。
名前も。
自由も。
自分の意思さえ奪われていた少女。
今。
仮の名前を手に入れた。
それだけでも。
少しだけ。
自分自身へ戻れた気がしていた。
◇◇◇
少し離れた場所。
エルザとジェラールは。
二人並んで座っていた。
エルザは。
ジェラールの隣から離れない。
いつものエルザなら。
仲間の警戒。
周囲の確認。
戦況。
すべてへ視線を向ける。
今も。
警戒を怠っているわけではない。
だが。
視線が。
自然とジェラールへ戻ってしまう。
「エルザ」
「何だ」
「俺の顔を、ずっと見ている」
エルザの肩が僅かに揺れる。
「状態を確認しているだけだ」
「ウェンディは、さっき治療を終えた」
「また悪くなるかもしれない」
「そうか」
「ああ」
「なら」
ジェラールは。
エルザの方へ顔を向ける。
「俺も君を見てもいいか?」
「なぜだ」
「君を見ると」
一度。
胸へ手を当てる。
「何かを思い出しそうになる」
エルザの表情が変わった。
「無理はするな」
「分かっている」
「頭が痛んだら、すぐに止めろ」
「ああ」
ジェラールは。
エルザの顔を見る。
赤い髪。
真っ直ぐな瞳。
鎧。
傷。
そして。
自分へ向けられる。
強い心配。
「昔」
ジェラールが言う。
「俺は、君を何と呼んでいた?」
「エルザだ」
「それだけ?」
エルザは。
少し考える。
「昔は」
楽園の塔。
子供だった頃。
「エルザと呼んでいた」
「そうか」
「お前は?」
「何だ?」
「私に、何と呼ばれていたか覚えていないか」
ジェラールは目を閉じる。
「……」
記憶の奥。
暗闇。
声。
笑い声。
泣き声。
赤い髪。
『ジェラール』
誰かが。
呼んでいる。
「ジェラール」
ジェラール自身が呟く。
「それが」
「お前の名前だ」
「俺の名前」
「ああ」
「エルザが、つけたのか?」
「違う」
「そうか」
ジェラールは。
少し笑った。
「残念だ」
「なぜだ」
「君がつけた名前なら」
エルザを見る。
「もっと大切に思えた気がする」
エルザの顔が。
一気に赤くなった。
「ジェラール」
「何だ?」
「記憶がなくなってから」
「うん」
「お前は、少し喋りすぎだ」
「昔は違った?」
「もっと」
エルザは言葉を探す。
もっと。
優しく。
もっと。
笑って。
それから。
変わった。
冷たく。
残酷に。
「昔のお前は」
エルザは。
青い髪の少年を思い出す。
「人を励ますのが上手かった」
「俺が?」
「ああ」
「君も?」
「……」
「俺は、君を励ました?」
「何度も」
「なら」
ジェラールは。
今度は本当に優しく笑った。
「今もできるかな」
「何をだ」
「君が心配そうだから」
エルザの瞳が僅かに揺れる。
「大丈夫だ」
「何が?」
「俺は」
ジェラールは。
自分の手を見る。
「今、何も分からない」
「……」
「でも」
エルザの手へ。
ゆっくり。
自分の手を重ねる。
「君がいる」
エルザの呼吸が止まる。
「だから」
ジェラールは言う。
「少しだけ、怖くない」
エルザの瞳に。
薄く涙が浮かぶ。
「……そうか」
「ああ」
手を離さない。
ジェラールも。
エルザも。
そのまま。
数秒。
静かに座っていた。
「赤髪」
低い声が飛んできた。
エルザの額に青筋が浮かぶ。
「何だ、カイドウ」
「そいつ」
「ジェラールだ」
「手を握ってるぞ」
「見れば分かる!」
「いいのか」
「何がだ!」
「男だぞ」
「知っている!」
「気をつけろ」
「私は子供ではない!」
カイドウは肉を焼きながら真剣に言う。
「男は油断できん」
「お前も男だろう!」
「おれはいい」
「何がいいんだ!」
「カイドウさん!」
ウェンディが走ってくる。
「エルザさんの邪魔をしないでください!」
「邪魔してねェ」
「二人で大切なお話をしていたんです!」
「男と?」
「だから何ですか!」
「男は」
「もう、その話は禁止です!」
「なぜだ!」
「しつこいからです!」
エルザは。
顔を真っ赤にしながらも。
ジェラールの手を離さなかった。
ジェラールは。
状況がよく分からないまま。
「俺は、カイドウに嫌われているのか?」
「安心しろ」
エルザが答える。
「男は全員嫌われる」
「ウェンディに近づく男だけだ」
カイドウが訂正する。
「では、俺は関係ない」
「赤髪へ近づいてる」
「なぜエルザまで?」
「知らん」
「知らんのか」
「何となくだ」
「余計なお世話だ!」
エルザの怒声が。
森へ響いた。
◇◇◇
肉が焼けた。
驚くことに。
焦げていない。
森も燃えていない。
串も折れていない。
カイドウは。
それを見て。
僅かに満足そうだった。
「できた」
「わあ」
ウェンディが覗き込む。
「ちゃんと焼けています!」
「当たり前だ」
「すごいです!」
「褒めるな」
「中まで火が通っています!」
「そこまで驚くな」
「前は表面が真っ黒で、中が生でした!」
「食えた」
「食べられません!」
カイドウは。
一番小さく切った肉をウェンディへ差し出す。
「食え」
「私ですか?」
「ああ」
「ルナの方が」
「ルナには、柔らかい方だ」
カイドウは。
別の肉を。
さらに小さく裂く。
「食えるか」
ルナへ差し出す。
ルナは。
驚いたようにカイドウを見る。
「私に?」
「他に誰がいる」
「でも」
「食わねェと治らん」
ウェンディの目が。
僅かに大きくなる。
カイドウは。
ルナの体調も見ていた。
名前すら分からなかった少女。
数時間前まで敵の罠だった少女。
それでも。
今は。
仲間の近くにいる。
「ありがとう」
ルナは肉を受け取った。
一口。
ゆっくり食べる。
「おいしい」
「そうか」
「カイドウさん!」
ウェンディが嬉しそうに笑う。
「何だ」
「おいしいって言われました!」
「聞こえてる」
「料理が成功しましたね!」
「肉を焼いただけだ」
「でも成功です!」
「褒めるな」
「カイドウさんも食べてください」
「ああ」
次の瞬間。
カイドウは。
残っていた肉の半分を一口で食べた。
「食べすぎです!」
「おれのだ」
「ルナとジェラールさんの分もあります!」
「残してる」
見る。
確かに。
きちんと残してある。
「……」
ウェンディは。
少し感心した。
「何だ」
「成長したなって」
「またか」
「昔なら全部食べていたでしょう?」
「ナツじゃねェ」
「ナツさんなら食べそうですね」
ウェンディは苦笑する。
その時。
ジェラールが、肉の匂いに顔を上げた。
「いい匂いだ」
エルザが聞く。
「食べられそうか?」
「ああ」
「なら」
エルザが立ち上がる。
カイドウの前へ来る。
「ジェラールの分をもらえるか」
「そこにある」
「ありがとう」
「待て」
エルザが止まる。
「何だ」
「そいつに食わせるのか」
「自分で食べられる」
「手が震えてる」
ジェラールを見る。
確かに。
まだ力が戻っていない。
「私が食べさせる」
エルザが言った。
カイドウの眉が動く。
「赤髪」
「何だ」
「やりすぎだ」
「病人だ!」
「過保護だぞ」
周囲が。
一斉にカイドウを見た。
「何だ」
「カイドウさん」
ウェンディが言う。
「それを、カイドウさんが言いますか?」
「おれは過保護じゃねェ」
「親バカです」
「違ェ!」
「では、エルザさんも違います」
「こいつは違う」
「何が違うんですか!」
「顔が」
「理由になっていません!」
ジェラールは。
エルザから肉を受け取りながら。
小さく笑った。
「エルザ」
「何だ?」
「俺は、自分で食べる」
「大丈夫か?」
「ああ」
「無理なら言え」
「分かった」
ジェラールは。
ゆっくり肉を食べる。
「……おいしい」
カイドウの眉が僅かに上がる。
「そうか」
「あなたが焼いたのか?」
「ああ」
「意外だ」
「何がだ」
「料理をしなさそうだから」
「喧嘩を売ってんのか」
「感じたことを言っただけだ」
「ジェラールさん!」
ウェンディが慌てる。
「今はカイドウさんを刺激しないでください!」
「俺は褒めたつもりだった」
「こいつ」
カイドウが立ち上がる。
エルザも立つ。
「カイドウ」
「何だ」
「ジェラールは病人だ」
「分かってる」
「殴るな」
「殴らん」
「本当か」
「ウェンディに怒られる」
「そこなのか」
サクラは。
少し離れた場所で。
思わず額へ手を当てた。
「聖十大魔導になってから」
小さく呟く。
「これほど疲れる護衛任務は初めてです」
「サクラさん」
ウェンディが振り返る。
「お薬いりますか?」
「苦いですか?」
「少し」
「やめておきます」
「正解だ」
カイドウが言う。
「あなたは毎朝飲んでください」
「なぜだ」
「必要だからです」
◇◇◇
休憩を終え。
再び。
別荘へ向かう。
今度は。
ジェラールの足取りも少し良くなっていた。
まだ。
エルザの支えは必要だ。
それでも。
最初のように。
全体重を預けてはいない。
「ウェンディの治療はすごいな」
ジェラールが言う。
「ありがとうございます」
「俺の魔力も少し戻ってきている」
「無理に使わないでくださいね」
「ああ」
「星崩しとか撃つなよ」
カイドウが後ろから言った。
「星崩し?」
ジェラールが振り返る。
「何だ、それは」
「知らねェ」
「なら、なぜ言った」
「星の魔法を使いそうな匂いがする」
「カイドウさん」
ウェンディが呆れる。
「適当なことを言わないでください」
「だが」
カイドウの表情が少し変わる。
「こいつの魔力は」
「はい?」
「空に近い」
ジェラールの足が止まる。
サクラも振り返る。
「空?」
「ああ」
「天空魔法と同じ?」
ウェンディが尋ねる。
「違う」
カイドウは。
ジェラールを見た。
「お前のは」
指を上へ向ける。
「もっと遠い」
「遠い?」
「空の向こうだ」
ウェンディの目が大きくなる。
「星?」
「たぶんな」
ジェラールの胸が。
どくん。
強く鳴った。
「星」
口にする。
その瞬間。
視界。
何かが。
閃いた。
夜空。
無数の星。
魔法陣。
光。
誰かの声。
『天体魔法――』
「っ!」
ジェラールが頭を押さえた。
「ジェラール!」
エルザが支える。
「どうした!」
「何か」
呼吸が荒い。
「見えた」
「何が?」
「星」
「星?」
「俺は」
額の紋様が。
淡く光る。
「星の魔法を」
ウェンディが近づく。
「思い出しそうですか?」
「少し」
「無理しないで!」
「分かってる」
ジェラールは。
深く息を吸う。
「天体魔法」
その言葉だけ。
自然に。
口から出た。
「天体魔法」
エルザが繰り返す。
知っている。
ジェラールの魔法。
楽園の塔。
高速移動。
隕石。
強大な魔力。
「そうだ」
エルザの声が震える。
「お前の魔法だ」
「俺の?」
「ああ」
「天体魔法」
ジェラールは。
自分の両手を見る。
「俺は」
少しだけ。
自分を取り戻した。
「魔導士だったんだな」
「強い魔導士だ」
エルザが答える。
「どのくらい?」
「……」
エルザは。
少しだけ迷った。
敵だった頃。
圧倒的だった。
強い。
非常に。
「とても強い」
「君より?」
「今、試す必要はない」
「それは」
ジェラールが微笑む。
「俺の方が強かったのか?」
「なぜ、そうなる!」
エルザの顔が少し赤くなる。
カイドウの耳が動く。
「強いのか」
「カイドウさん」
ウェンディが嫌な予感を覚える。
「何だ」
「戦おうとしていますね?」
「まだ弱ってる」
「治ったら?」
「考える」
「駄目です!」
「記憶を取り戻したら、力も戻るかもしれん」
「だから何ですか!」
「強い奴なら」
「戦いません!」
ジェラールは。
カイドウを見る。
「俺と戦いたいのか?」
「ああ」
「どうして?」
「強いからだ」
「単純だな」
「お前に言われたくねェ」
「記憶がない俺でも分かる」
「言うようになったな」
「カイドウさん!」
ウェンディが間に入る。
「ジェラールさんは病人です!」
「治ったらだ」
「治っても駄目です!」
「六魔将軍を倒した後なら?」
「駄目です!」
「全部終わったら?」
「考えます!」
カイドウの目が光る。
「今、考えると言ったな」
「しまった!」
ウェンディが口を押さえる。
カイドウは楽しそうに笑う。
「ウォロロロ!」
「笑わないでください!」
ジェラールも。
僅かに笑った。
エルザは。
その横顔を見て。
胸の奥が少し温かくなるのを感じていた。
昔。
こんなふうに。
笑っていた。
優しかった頃。
仲間だった頃。
あのジェラールが。
少しだけ。
戻ってきたように見えた。
◇◇◇
やがて。
森の木々の隙間から。
青い天馬の別荘が見え始めた。
「着きました!」
ウェンディの顔が明るくなる。
だが。
すぐに。
異変へ気づく。
「……あれ?」
別荘。
正確には。
屋根を失った別荘。
その周囲。
地面が。
大きく陥没している。
巨大な穴。
土。
壊れた庭。
倒れた木。
「何だ、あれ」
カイドウが眉を寄せる。
「あなたがやったのではありませんよ」
サクラが先に言う。
「まだ何も言ってねェ」
「顔が、責任を疑われる前の顔をしていました」
「どんな顔だ」
「普段と同じです」
「分からねェだろ」
別荘の前。
ナツたちが。
穴の周りに集まっている。
「ウェンディ!」
ハッピーが飛んでくる。
「あい!」
「ハッピー!」
「無事だった!」
「どうしたんですか、この穴!?」
「地下から敵が出た!」
「敵?」
「闇ギルドの奴ら!」
ナツが駆けてくる。
服には土。
顔には少し傷。
だが。
元気そうだ。
「お前らの方は?」
「二人、助けました!」
ウェンディが答える。
「二人?」
ナツの視線。
銀髪のルナ。
そして。
エルザに支えられる青髪の男。
「誰だ?」
グレイも近づいてくる。
そして。
ジェラールを見た瞬間。
足が止まった。
「……ジェラール?」
ルーシィも。
顔色を変える。
「嘘」
「本人だ」
エルザが答えた。
「生きていた」
「でも」
グレイの目が鋭くなる。
「何でそいつがここにいる」
「記憶を失っている」
「記憶喪失?」
「六魔将軍に捕らえられていた」
エルザの声。
グレイは。
すぐには納得しない。
警戒。
当然だった。
楽園の塔。
ジェラールのしたこと。
全部を知っている。
「本当に?」
ルーシィが尋ねる。
「俺は」
ジェラールが口を開く。
「君たちを知らない」
ナツが。
じっと見る。
「オレも?」
「ああ」
「エルザも?」
「今、名前を教えてもらった」
「本当に何も覚えてねェのか」
「ああ」
ナツは。
少し考える。
そして。
「腹減ってるか?」
全員がナツを見る。
「ナツ?」
ルーシィが聞き返す。
「何だよ」
「最初に聞くこと、それ!?」
「腹減ってたら力出ねェだろ」
「そういう問題!?」
ジェラールは。
少し驚いた顔をする。
「少し食べた」
「肉か?」
「ああ」
「カイドウが焼いた」
ウェンディが答える。
ナツの目が輝く。
「まだあるか!?」
「お前の分はねェ」
カイドウが即答する。
「何でだよ!」
「全部食う」
「食わねェ!」
「妖精の尻尾で酒樽を抱えたお前が言うな」
「お前も酒樽を抱えてただろ!」
「おれは別だ」
「何が違うんだよ!」
「二人とも!」
ウェンディの声。
ナツとカイドウ。
同時に黙る。
「……」
ルーシィが。
カイドウを見る。
ナツを見る。
「本当に似てるわね」
「似てねェ!」
「似てない!」
また重なる。
「ほら」
グレイが呆れた。
◇◇◇
別荘の庭。
連合軍全員が。
改めて集まった。
まず。
拠点防衛班から報告。
調査班が離れた後。
別荘の地下。
以前から存在していた排水路を利用し。
闇ギルドの魔導士たちが侵入。
目的は。
残された黒い魔法陣の資料。
おそらく。
連合軍に解析される前に。
証拠を消すため。
ナツ。
グレイ。
リオンたちが対応。
敵は。
資料の一部を破壊した後。
撤退した。
「すまない」
ヒビキが言う。
「術式の一部は失った」
「必要な情報は?」
サクラが尋ねる。
「全部ではない」
ヒビキは。
光の画面を出す。
「ウェンディの魔力へ反応した部分は保存できた」
「よかった」
「それから」
ヒビキの目が。
ジェラールへ向く。
「この男に関係する記号もある」
空中。
古代文字。
その中。
星を思わせる紋様。
ジェラールの額にあるものと似た形。
「俺?」
「六魔将軍が」
ヒビキは続ける。
「ウェンディとジェラール。二人を、ニルヴァーナの起動に必要な存在として扱っていた可能性がある」
エルザの表情が険しくなる。
「ジェラールまで」
「俺は」
ジェラールが。
魔法画面へ近づく。
「これを知っている」
「思い出したのか?」
エルザがすぐ横へ立つ。
「文字は読めない」
「では?」
「この形」
星の紋様。
その中心。
六つの点。
「見たことがある」
「どこで?」
「分からない」
「頭は?」
ウェンディが心配する。
「少し痛い」
「無理をしないでください!」
「でも」
ジェラールは。
画面から目を逸らさない。
「思い出さなければならない」
「ジェラール」
エルザが肩を掴む。
「無理をするな」
「エルザ」
「何だ」
「ニルヴァーナが起動したら」
ジェラールの顔色が。
さらに悪くなる。
「多くの人が」
「……」
「互いを憎み始める」
全員が静かになる。
「思い出した?」
サクラが尋ねる。
「欠片だけ」
ジェラールは。
目を閉じる。
「光」
「……」
「闇」
「……」
「心」
「……」
「反転」
胸へ手を当てる。
「善が悪へ」
もう片方の手で。
額を押さえる。
「悪が善へ」
「伝承と同じです」
サクラが言う。
「でも」
ジェラールは。
苦しそうに首を横へ振った。
「それだけじゃない」
「何がある」
「ニルヴァーナは」
言葉。
記憶。
何かが。
喉元まで出かかっている。
「動く」
「動く?」
ルーシィが聞き返す。
ジェラールの目が開く。
「巨大な都市」
その言葉。
全員の表情が変わった。
「都市?」
ジュラが尋ねる。
「ニルヴァーナは」
ジェラールは。
確信に近い声で言う。
「巨大な歩く魔法都市だ」
沈黙。
誰も。
すぐには声を出せない。
「歩く?」
ウェンディが聞き返す。
「ああ」
「街が?」
「そうだ」
「どうやって?」
「脚」
「脚!?」
ルーシィの声が裏返る。
「都市に脚があるの!?」
「たぶん」
「たぶんって!」
ジェラールは。
まだ記憶が完全ではない。
「でも」
ジェラールは。
森の北西。
遠く。
何かを見ている。
「地下に眠っている」
「この森の?」
「ああ」
「そして」
サクラが続ける。
「起動したら、目的地へ移動する」
「どこへだ」
カイドウが尋ねる。
ジェラールは。
すぐには答えない。
記憶。
欠片。
声。
地図。
ある場所。
そこに。
古い印。
「化猫の宿」
ジェラールが呟いた。
ウェンディの顔が。
固まる。
「……え?」
「何て言った」
カイドウの声が。
一瞬で低くなる。
「俺は」
ジェラール自身も。
驚いた顔をしている。
「なぜ知っているか、分からない」
「今」
ウェンディの声が震える。
「化猫の宿って」
「ああ」
ジェラールは。
ウェンディを見る。
「ニルヴァーナは」
喉が。
僅かに震える。
「化猫の宿を目指している」
空気が。
完全に止まった。
◇◇◇
「嘘……」
ウェンディの手から。
持っていた水筒が落ちた。
ころん。
乾いた音。
誰も。
すぐに拾えない。
「化猫の宿が」
ウェンディの顔から。
血の気が引いている。
「狙われている?」
「まだ確定ではありません」
サクラが即座に言う。
「ジェラールの記憶は不完全です」
「でも」
「落ち着いてください」
「マスターが」
ウェンディが呟く。
「みんなが」
「ウェンディ」
シャルルが肩へ飛び乗る。
「まだ何も起きていないわ」
「でも!」
「まず確認よ!」
シャルルも。
不安は同じ。
化猫の宿。
自分たちの家。
ローバウル。
仲間たち。
六魔将軍の狙いが。
ウェンディだけではなく。
化猫の宿そのものだとしたら。
「通信だ」
サクラがヒビキへ言う。
「すぐに化猫の宿へ連絡してください」
「やってる!」
ヒビキは。
魔法通信を起動。
光の画面。
通信魔法。
「化猫の宿応答願います!」
反応。
ない。
「もう一度!」
「化猫の宿! こちら六魔将軍討伐連合軍!」
沈黙。
ウェンディの呼吸が。
少し速くなる。
「マスター」
「ウェンディ」
カイドウが呼ぶ。
だが。
ウェンディは。
ヒビキの通信装置だけを見ている。
「お願い」
「……」
「出てください」
応答。
ない。
「もう一度!」
ヒビキが魔力を強める。
「化猫の宿! 応答してください!」
そして。
ようやく。
『……こちら……化猫の……』
「つながった!」
ウェンディの顔が上がる。
「マスター!」
だが。
声は。
ローバウルではない。
化猫の宿の魔導士。
若い男性の声だった。
『ウェンディ?』
「はい!」
『無事なのか!』
「私は大丈夫です! そっちは!?」
『大丈夫だ』
ウェンディの全身から。
僅かに力が抜けた。
「よかった……」
『どうした?』
「マスターは?」
通信の向こう。
一瞬。
沈黙。
カイドウの目が細くなる。
「答えろ」
『カイドウもいるのか』
「ああ」
『マスターは』
声が。
少し迷う。
『さっきから姿が見えない』
「……」
ウェンディの顔が。
再び固まる。
「どういうことですか?」
『朝はいた』
「はい」
『でも』
「でも?」
『森の奥へ行くって、一人で出た』
カイドウの目が。
鋭くなる。
「ジジイが」
『何かを確認してくるって』
「いつだ」
『二時間くらい前だ』
「戻ってねェのか」
『ああ』
ウェンディは。
胸へ手を当てる。
「マスターが」
嫌な予感。
第十二話。
出発前。
カイドウがローバウルへ言った。
『ウェンディが帰ってくるまで、勝手に消えるな』
ローバウルは。
笑って答えた。
『待っておるよ』
それなのに。
いない。
「マスター……」
「ウェンディ」
カイドウの声。
「おれが行く」
ウェンディが振り返る。
「カイドウさん?」
「化猫の宿へ戻る」
「でも」
「ジジイを探す」
サクラが口を開く。
「待ってください」
「待たん」
「単独行動は禁止です」
「化猫の宿が狙われてる」
「だからこそ」
「おれのギルドだ」
サクラの言葉が止まる。
カイドウ自身。
言ってから。
僅かに目を見開いた。
おれのギルド。
客だと言っていた。
借金を返すまでいるだけ。
居心地が悪くないだけ。
嫌いなら出ている。
そんな言葉ばかり。
化猫の宿を。
自分の居場所だとは。
認めていなかった。
「カイドウさん」
ウェンディが。
少しだけ。
驚いた顔で見る。
「何だ」
「今」
「聞き間違いだ」
「私、何も言っていません!」
「顔に書いてある」
「カイドウさん」
ウェンディは。
少しだけ笑った。
不安な状況。
それでも。
嬉しかった。
「化猫の宿は、カイドウさんのギルドです」
「……」
「仲間です」
「ああ」
今度は。
否定しなかった。
「だから」
ウェンディは。
カイドウの手を掴む。
「一緒に帰りましょう」
「お前も行く気か」
「当然です!」
「狙われてるんだぞ」
「私のギルドです!」
「危険だ」
「カイドウさんも、今言いましたよね」
「何をだ」
「おれのギルドだって」
「……」
「なら」
ウェンディは。
力強く言う。
「私のギルドでもあります」
「……」
「マスターも、みんなも」
「……」
「助けに行きます」
カイドウは。
ウェンディを見る。
止めたい。
当然。
危険だ。
敵の目的に。
ウェンディ自身が関わっている。
化猫の宿へ戻れば。
罠かもしれない。
だが。
ウェンディを。
ここへ置いていけるか。
それも違う。
「一人で行くな」
カイドウが言った。
「はい」
「おれから離れるな」
「はい」
「今度は」
カイドウの声が。
さらに低くなる。
「五歩じゃねェ」
「何歩ですか?」
「一歩だ」
「近すぎます!」
「なら抱える」
「歩きます!」
ウェンディは。
こんな時なのに。
少しだけ笑った。
◇◇◇
「全員で化猫の宿へ行くわけにはいきません」
サクラが。
すぐに作戦を整理する。
「六魔将軍が、私たちの注意を化猫の宿へ向けることまで想定している可能性があります」
「では」
エルザが尋ねる。
「分けるか」
「はい」
「私も化猫の宿へ行く」
ウェンディが言う。
「カイドウもですね」
「ああ」
「私も同行します」
サクラが続ける。
「指揮官が?」
一夜が驚く。
「化猫の宿がニルヴァーナの目的地なら、最重要地点です」
「ジュラは?」
「ここへ残ってください」
「承知した」
「エルザ」
サクラが見る。
エルザは。
ジェラールを支えている。
「私は」
迷う。
ジェラール。
まだ。
記憶は不安定。
しかも。
彼自身。
ニルヴァーナと何らかの繋がりがある。
「ジェラールを」
「俺も行く」
ジェラールが言った。
エルザがすぐに見る。
「無理だ」
「化猫の宿」
「お前はまだ歩くのも」
「俺は」
ジェラールが。
額を押さえる。
「そこへ行かなければならない気がする」
「また記憶か?」
「ああ」
断片。
化猫の宿。
ニルヴァーナ。
何か。
呼んでいる。
「ジェラール」
「俺は」
エルザを見る。
「行く」
「……」
「君が止めても」
「倒れたら?」
「支えてくれるか?」
エルザの顔が。
少し赤くなる。
「そういう問題では」
「一人では行かない」
ジェラールは。
静かに言った。
「君と行く」
エルザは。
何も言えなくなる。
カイドウの眉が動く。
「おい」
「カイドウさん」
ウェンディが先に止める。
「今は黙ってください」
「まだ何も言ってねェ」
「顔が言っています」
「何をだ」
「男は信用できないって」
「正解だ」
「だから黙ってください!」
サクラは。
小さく息を吐く。
「では」
指を地図へ置く。
「化猫の宿へ向かうのは、私、ウェンディさん、シャルル、カイドウ、エルザ、ジェラール」
「ルナは?」
ウェンディが尋ねる。
銀髪の少女。
ルナは。
少し離れた場所で話を聞いていた。
「私も」
立ち上がろうとする。
足が。
まだ震える。
「無理です」
ウェンディがすぐに支える。
「でも」
「ルナは休んでください」
「私も、六魔将軍のことを知ってるかもしれない」
「そうですが」
「ウェンディ」
ルナは。
真っ直ぐ見る。
「一人にしないって言った」
「……」
「私も」
震える声。
「行きたい」
「でも」
「化猫の宿が」
ルナは。
胸元へ手を当てる。
「何か」
その言葉。
「知っている気がする」
サクラの表情が変わる。
「ルナさんも?」
「うん」
「何を?」
「名前を聞いたら」
ルナの顔が。
少し苦しそうに歪む。
「懐かしい」
「……」
「行ったことがあるかもしれない」
ウェンディの目が大きくなる。
「化猫の宿に?」
「分からない」
「ルナ」
ウェンディが。
手を握る。
「無理しないで」
「でも」
「大丈夫です」
ウェンディは。
今度は笑う。
「一緒に行きましょう」
「いいの?」
「はい」
カイドウが眉を寄せる。
「歩けねェだろ」
「カイドウさん」
「おれが運ぶ」
「え?」
ルナの目が丸くなる。
「お前は軽い」
「でも」
「ウェンディより少し重い程度だ」
「どうして私と比較するんですか!」
「分かりやすい」
「私の体重を基準にしないでください!」
「カイドウさんが運んでくれるなら」
サクラが言う。
「移動も可能ですね」
「勝手に決めるな」
「自分から言ったでしょう」
「……」
「では決まりです」
カイドウは。
不満そうに鼻を鳴らした。
「ただし」
ウェンディが言う。
「優しく運んでくださいね」
「分かってる」
「ジェラールさんみたいに肩へ担がないで」
「女は抱える」
「何ですか、その基準!」
エルザが呆れる。
ジェラールも。
カイドウを見る。
「俺への扱いだけ雑では?」
「男だからな」
「理不尽だ」
「覚えとけ」
「記憶喪失の人へ覚えろって言わないでください!」
ウェンディの声が響く。
緊迫した作戦会議のはずなのに。
なぜか。
いつも通りだった。
◇◇◇
出発まで。
準備時間は十分。
ヒビキが。
化猫の宿までの最短経路を魔法で割り出す。
「徒歩なら数時間」
「遅ェ」
カイドウが言う。
「龍で行く」
「全員乗れるか?」
エルザが尋ねる。
「余裕だ」
「でも」
ウェンディの顔が少し不安になる。
「カイドウさん、速すぎます」
「落とさねェ」
「それ以前に、風が!」
「雲へ乗せる」
「できますか?」
「ああ」
「本当に?」
「お前は、何度おれの龍を見た」
「見ましたけど!」
「焔雲だ」
カイドウは。
空へ手を伸ばす。
青白い雲。
焔雲。
物を浮かせ。
空を運ぶ力。
「これへ乗せる」
サクラが。
雲を調べる。
「魔力ではない」
「ああ」
「不思議な力ですね」
「悪魔の実だ」
「その説明を聞くと、さらに分からなくなります」
「細けェことは知らん」
「自分の能力でしょう!」
ウェンディが突っ込む。
「サクラさん」
「はい」
「安全ですか?」
「少なくとも」
サクラは焔雲へ触れる。
「魔法的な危険はありません」
「よかった」
「ただし、カイドウが速度を出しすぎなければ」
全員。
カイドウを見る。
「何だ」
「ゆっくりです」
ウェンディが言う。
「急ぐんだろ」
「でも落ちたら意味がありません!」
「落とさねェ」
「ジェラールさんは弱っています!」
「赤髪が押さえろ」
「私が?」
エルザが聞き返す。
「嫌なのか」
「そうではない!」
「なら問題ねェ」
ジェラールが。
エルザを見る。
「俺は、エルザのそばへいればいいのか」
「……ああ」
「分かった」
素直。
エルザの顔が。
少し赤くなる。
カイドウが。
じっと見る。
「おい」
「カイドウさん!」
「まだ何も言ってねェ!」
「分かっています!」
「何がだ!」
サクラは。
完全に慣れたように。
無視して準備を進めた。
◇◇◇
数分後。
空。
巨大な青龍が。
森の上へ浮かんでいた。
長大な胴体。
黒い雲。
二本の角。
黄金色の瞳。
百獣のカイドウ。
その周囲には。
焔雲。
大きな雲の足場。
そこへ。
ウェンディ。
シャルル。
サクラ。
エルザ。
ジェラール。
ルナ。
六人が乗っている。
「すごい……」
ルナが。
恐る恐る雲へ触れる。
「落ちない」
「大丈夫ですよ」
ウェンディが隣へ座る。
「カイドウさんが支えています」
「カイドウが?」
「はい」
「怖い顔なのに」
「顔は生まれつきです」
上空から。
カイドウの声。
「聞こえてるぞ」
「ご、ごめんなさい!」
ルナが慌てる。
「謝るな」
「でも」
「事実だ」
「認めたんですか!?」
ウェンディが驚く。
「お前が毎日言うからだ!」
カイドウの声が雷のように響く。
「大声を出さないでください!」
「飛んでるから問題ねェ!」
「耳が痛いです!」
「……悪かった」
ルナは。
小さく笑う。
「本当に、怒られてばかり」
「違ェ」
今度は。
声を抑えて否定した。
「では行きます」
サクラが言う。
「カイドウ」
「あ?」
「速度は、全員の状態を見て」
「分かってる」
「ジェラールが気を失ったら止まります」
「俺は大丈夫だ」
ジェラールが言う。
「大丈夫は禁止です!」
ウェンディが反射的に言った。
ジェラールが目を丸くする。
「俺も?」
「病人ですから!」
「そうか」
「はい」
「分かった」
カイドウが呟く。
「素直だな」
「カイドウさんも見習ってください!」
「嫌だ」
「そこです!」
焔雲が。
ゆっくり。
動き始める。
最初は。
本当にゆっくり。
ウェンディが。
下を見る。
森。
木々。
別荘。
仲間たち。
どんどん小さくなる。
「カイドウさん」
「何だ」
「このくらいなら大丈夫です」
「遅ェ」
「安全第一です!」
「急いでるんだろ」
「はい」
「なら」
少し。
速度が上がる。
「これくらいは?」
「大丈夫です!」
「なら」
さらに。
「待って!」
「まだ遅い」
「十分速いです!」
「龍はもっと速い」
「乗っている人間のことを考えてください!」
エルザは。
ジェラールの体を支えている。
「大丈夫か?」
「ああ」
「本当か?」
「風は強いが」
「寒くないか?」
「大丈夫だ」
「だから大丈夫は禁止です!」
ウェンディが遠くから叫ぶ。
ジェラールが。
少し笑う。
「厳しいな」
「治療する側として当然です!」
エルザも。
少し笑った。
「ウェンディは優しいからな」
「優しい?」
「ああ」
「カイドウにも?」
「特にカイドウには厳しい」
「なぜ?」
「心配しているからだろう」
ジェラールは。
前方。
巨大な龍を見る。
「親子ではないのか」
「本人たちは否定している」
「でも」
「私もそう見える」
カイドウの耳が動く。
「赤髪」
「聞こえているのか!」
「誰が親子だ!」
「空まで聞こえるとは!」
ウェンディも。
顔を赤くする。
「違います!」
「やはり」
ジェラールが呟く。
「似ている」
「違います!」
「違ェ!」
二人の声が。
空へ響いた。
◇◇◇
飛行を始めて。
しばらく。
化猫の宿へ近づくにつれ。
ウェンディの表情は。
少しずつ。
固くなっていった。
「匂い」
シャルルが尋ねる。
「分かる?」
「うん」
「宿のみんなは?」
「いる」
ウェンディは目を閉じる。
風。
森。
化猫の宿。
知っている匂い。
仲間。
「大丈夫」
「マスターは?」
「……」
返事がない。
ウェンディは。
さらに集中する。
「マスターの匂い」
「ある?」
「薄い」
「どこ?」
「宿じゃない」
ウェンディが。
別の方角を見る。
森。
化猫の宿から。
さらに北。
「向こう」
「行くか」
カイドウが即座に進路を変えようとする。
「待ってください!」
ウェンディが叫ぶ。
「まず宿へ!」
「ジジイが向こうだ」
「でも、みんなの無事を確認します!」
「通信では無事だった」
「自分の目で見たいです!」
カイドウは。
少し考える。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「宿へ一度降りる」
「はい」
サクラが頷く。
「それが安全です」
カイドウは。
焔雲を。
少しずつ降下させる。
森。
木々。
屋根。
化猫の宿。
だが。
「……」
カイドウの目が細くなる。
違和感。
宿。
見た目は。
いつも通り。
壊れていない。
火も出ていない。
敵も見えない。
なのに。
「静かだ」
カイドウが言う。
ウェンディも気づく。
「本当だ」
普段なら。
笑い声。
依頼の相談。
料理の音。
誰かがカイドウの壊した物について文句を言う声。
それらが。
ない。
宿の中に。
人はいる。
気配も。
匂いも。
ある。
なのに。
静かすぎる。
「全員」
サクラの声が変わる。
「警戒してください」
白い翼が。
背中へ広がる。
「敵の気配は?」
エルザが尋ねる。
「今のところ感じません」
ウェンディが答える。
「でも」
空気。
重い。
妙。
「みんなの匂いが」
「どうした?」
「変です」
「変?」
「同じ場所にいるのに」
ウェンディの表情が。
困惑へ変わる。
「近くにいる人同士の匂いが」
「……」
「まるで」
声が。
小さくなる。
「嫌い合ってるみたい」
サクラの顔から。
表情が消えた。
「まさか」
「何だ」
カイドウが聞く。
「ニルヴァーナ」
「まだ起動してねェだろ」
「完全には」
サクラの桜色の瞳が。
化猫の宿を見下ろす。
「ですが」
黒い魔力。
ほんの僅か。
宿の周囲。
森。
空気。
見えないほど薄く。
漂っている。
「影響だけが」
サクラの声が低くなる。
「すでに届き始めているのかもしれません」
「心を」
ジェラールが呟く。
「反転させる」
エルザが彼を見る。
「思い出したのか?」
「少しだけ」
ジェラールは。
化猫の宿を見下ろす。
「ニルヴァーナが完全に起動する前でも」
「……」
「近くにいる者の心へ」
苦しそうに。
言葉を絞る。
「揺らぎを作る」
ウェンディの顔が青ざめた。
「じゃあ」
「今の宿の人たちは」
サクラが答える。
「感情を乱されている可能性があります」
「降りるぞ」
カイドウが言う。
「待ってください」
「ウェンディの仲間がいる」
「分かっています」
「なら」
「あなたも影響を受ける可能性があります」
カイドウの目が鋭くなる。
「おれが?」
「心へ作用する魔法です」
「関係ねェ」
「力の強さでは、防げない可能性があります」
サクラは。
強く言う。
「カイドウ」
「何だ」
「もし」
一度。
言葉を選ぶ。
「あなたのウェンディさんへの感情が反転したら」
カイドウの動きが。
完全に止まった。
「……何?」
ウェンディも。
息を呑む。
守りたい。
心配。
大切。
その感情が。
反転する。
もし。
ニルヴァーナが。
それを。
憎しみへ変えたら。
最強生物の力が。
ウェンディへ向いたら。
「……」
誰も。
すぐに言葉を出せない。
カイドウは。
ゆっくり。
ウェンディを見る。
小さな少女。
水色の髪。
化猫の宿の紋章。
自分を叱り。
薬を飲ませ。
酒を一杯へ減らし。
笑って。
お守りを渡した。
「おれが」
低い声。
「ウェンディを?」
「可能性の話です」
「攻撃する?」
カイドウの声。
怒りではない。
何か。
信じられないものを聞いたような。
「絶対にねェ」
「ニルヴァーナは」
ジェラールが言う。
「本人の意思だけでは防げない」
カイドウの目が。
ジェラールへ向く。
「俺は」
ジェラールが胸を押さえる。
「それを知っている」
「どうすれば防げる」
「……」
「言え」
「強い心」
「それだけか」
「いや」
ジェラールの記憶。
また。
断片。
「自分が」
赤い紋様が。
淡く光る。
「何を信じるか」
エルザが尋ねる。
「信じる?」
「ああ」
「心が揺れた時」
ジェラールは。
言葉を続ける。
「一つだけ」
「……」
「絶対に手放したくないものを思い出す」
カイドウは。
ウェンディを見る。
ウェンディも。
カイドウを見る。
「……」
しばらく。
沈黙。
「なら問題ねェ」
カイドウが言った。
「カイドウさん?」
「おれは」
腰。
青いお守り。
そこへ。
手を触れる。
「忘れねェ」
ウェンディの目が。
僅かに潤む。
「これがある」
お守り。
ウェンディが。
自分を信じて渡したもの。
「もし」
カイドウが言う。
「おれがお前へ手を出しそうになったら」
「……」
「逃げろ」
ウェンディは。
首を横へ振った。
「嫌です」
「あ?」
「逃げません」
「何を言ってる」
「カイドウさんを戻します」
「無理だ」
「やってみないと分かりません!」
「おれだぞ」
「知っています!」
「お前より、ずっと強い」
「知っています!」
「なら」
「でも!」
ウェンディは。
カイドウへ。
両手を伸ばす。
龍の姿。
距離がある。
それでも。
見上げる。
「カイドウさんが変になったら」
力強く。
言う。
「いつものカイドウさんに戻るまで、私が怒ります!」
「……」
「お酒もなしです!」
「それは困る」
「薬も二倍です!」
「おい」
「苦い薬です!」
「それだけはやめろ」
「なら戻ってください!」
「まだ変になってねェ!」
ウェンディは。
少し笑った。
「はい」
カイドウも。
僅かに。
口元を緩める。
「ウォロロ」
「カイドウさん」
「何だ」
「絶対に大丈夫です」
「お前もな」
「はい」
サクラは。
その二人を見る。
ニルヴァーナ。
心を反転させる魔法。
だが。
もし。
この二人の間にあるものが。
魔法で簡単に裏返るほど。
弱いものではないなら。
「降ります」
サクラが言う。
「化猫の宿内部を確認します」
「私が先に」
ウェンディが言う。
「駄目だ」
カイドウ。
即答。
「カイドウさん!」
「今度は、おれが先だ」
「心の魔法ですよ!」
「だからだ」
「カイドウさんが影響されたら」
「お前に攻撃する前に」
カイドウが言う。
「自分で止める」
「どうやって?」
「金棒で自分を殴る」
「絶対に駄目です!」
ウェンディが叫ぶ。
「それでは気絶します!」
「戻るかもしれん」
「もっと普通の方法を考えてください!」
エルザが呆れたように言う。
「相変わらず極端だな」
「なら赤髪、お前はどうする」
「ジェラールを思い出す」
エルザは。
即答していた。
自分でも。
言ってから気づく。
「……」
ジェラールが。
エルザを見る。
「俺を?」
エルザの顔が。
一気に赤くなる。
「今のは!」
「嬉しい」
ジェラールが言った。
エルザの言葉が止まる。
「俺も」
ジェラールは。
静かに。
エルザを見る。
「君を思い出す」
エルザの耳まで。
真っ赤になる。
カイドウの目が細くなる。
「おい」
「カイドウさん!」
「まだ何も言ってねェ!」
「顔が言っています!」
ルナは。
焔雲の上で。
少し笑った。
「みんな」
「うん?」
ウェンディが見る。
「大丈夫そう」
「どうして?」
「だって」
ルナは。
優しく言った。
「守りたい人がいるから」
その言葉。
全員が。
少しだけ黙った。
ウェンディ。
カイドウ。
エルザ。
ジェラール。
サクラ。
シャルル。
それぞれ。
誰かの顔が浮かぶ。
「行きましょう」
ウェンディが言った。
「化猫の宿へ」
「ああ」
カイドウの龍の体が。
ゆっくり高度を下げる。
見慣れた宿。
だが。
今。
中にあるのは。
いつもの笑い声ではない。
ニルヴァーナの影響。
そして。
姿を消したローバウル。
さらに。
ジェラールの失われた記憶が示した。
一つの事実。
ニルヴァーナは。
化猫の宿を目指している。
なぜ。
この小さなギルドなのか。
なぜ。
ローバウルは。
一人で森へ向かったのか。
答えは。
もう。
それほど遠くない場所まで。
迫っていた。
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