『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』   作:パスカルDX

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第2話 四皇、皿を洗う

第2話 四皇、皿を洗う

 

 

 百獣のカイドウが空から降ってきた翌朝。

 

 フィオーレ王国の辺境にある魔導士ギルド《化猫の宿》では、いつもよりずっと静かな朝を迎えていた。

 

 正確には、静かというより、誰もが物音を立てないよう気をつけていた。

 

 廊下を歩く者は爪先立ちになり、扉を閉める者は取っ手を最後まで握ったまま、そっと音を殺す。

 

 普段なら朝食の支度をする音や、早起きした魔導士たちの会話が聞こえてくる時間だが、今日に限っては咳払いすら憚られるほどだった。

 

 理由は、言うまでもない。

 

 半壊したギルドの広間。

 

 屋根が吹き飛ばされ、壁の一部が崩れ、青空がよく見えるようになった場所の中央で、一人の大男が眠っていた。

 

 黒い長髪。

 

 頭から伸びる二本の角。

 

 傷だらけでありながら、一目で鍛え抜かれていると分かる巨大な肉体。

 

 昨日、青龍の姿で空から落ちてきた謎の男――カイドウである。

 

 彼はローバウルから借りた巨大な毛布を体へ巻きつけ、倒れた柱を枕にして眠っていた。

 

 普通の人間なら首を痛めそうな寝方だが、本人はまったく気にしていない。

 

 その寝息は深く、重い。

 

「ぐおおおおお……」

 

 カイドウのいびきが響くたび、床に散らばった小石がわずかに震えた。

 

 半壊した壁に立てかけられている板も、かたかたと音を立てる。

 

「ぐおおおおお……」

 

 また揺れた。

 

 天井から木屑が落ちる。

 

 広間の入り口で様子を窺っていたシャルルは、額に青筋を浮かべた。

 

「うるさいわね……」

 

 声を潜めて呟く。

 

 隣に立つウェンディは、両手で朝食の載った盆を抱えていた。

 

「でも、よく眠っていますね」

 

「そうね。宿の全員を眠らせない代わりに、自分だけはよく眠っているわ」

 

「怪我をしているから、疲れているんだと思う」

 

「怪我をしている人間のいびきで、建物が揺れるものかしら」

 

 シャルルは冷たい目でカイドウを見つめる。

 

 昨日、ウェンディの治癒魔法によって若返ったカイドウは、その後も酒蔵へ侵入しようとし、宿の扉を一枚破壊した。

 

 さらに、止めようとした魔導士たちを振り切ろうとして床を踏み抜き、寝床として用意された部屋では体が大きすぎて寝台を壊した。

 

 結果、比較的広いギルドの広間で眠らせることになったのだが、この有様である。

 

「起こした方がいいですよね」

 

 ウェンディが小声で言う。

 

「朝食が冷めてしまいますし、お薬も飲んでもらわないと」

 

「あなたが起こすの?」

 

「うん」

 

「やめておきなさい」

 

「どうして?」

 

「寝起きの悪い猛獣に近づくのは危険よ」

 

「でも、カイドウさんは猛獣じゃないよ」

 

「青龍の姿で空から落ちてきた男よ。猛獣より危険でしょう」

 

 シャルルはウェンディの腕を掴んだ。

 

「それに、昨日も酒を止めただけで、あの顔をしたのよ」

 

「あの顔?」

 

「人を百人くらい埋めたことがありそうな顔よ」

 

「顔で決めつけるのはよくないよ」

 

「顔だけの問題じゃないわ」

 

 シャルルは半壊した宿を見回した。

 

「存在そのものが問題よ」

 

 ウェンディは困ったように笑う。

 

 だが、朝食と薬を渡さないわけにはいかない。

 

 彼女は意を決すると、ゆっくりカイドウへ近づいた。

 

「カイドウさん」

 

 返事はない。

 

「朝ですよ」

 

「ぐおおおおお……」

 

「カイドウさん」

 

「ぐおおおおお……」

 

 ウェンディは、少しだけ声を大きくする。

 

「朝ご飯ができましたよ」

 

 いびきが止まった。

 

 次の瞬間。

 

 カイドウの目が開いた。

 

「肉か」

 

「きゃっ!」

 

 突然起き上がったカイドウに驚き、ウェンディが盆を落としかける。

 

 カイドウは片手を伸ばし、傾いた盆を受け止めた。

 

 その動きは、巨体からは想像できないほど速かった。

 

「危ねェな」

 

「あ、ありがとうございます」

 

「肉はどこだ」

 

 カイドウの視線が盆へ落ちる。

 

 そこに載っていたのは、焼いたパンと野菜のスープ、それから薬草を煎じた飲み物だった。

 

 カイドウの眉間に皺が寄る。

 

「肉がねェ」

 

「怪我をしているので、消化にいいものを用意しました」

 

「おれは怪我人じゃねェ」

 

「全身に包帯を巻いている人が言っても、説得力がありません」

 

 ウェンディの言葉に、カイドウは自分の体を見る。

 

 胸、肩、腹、腕。

 

 昨日のうちにウェンディが治療し、包帯を巻いた場所だ。

 

「こんなもん、唾をつけときゃ治る」

 

「治りません」

 

「おれなら治る」

 

「駄目です」

 

「何がだ」

 

「衛生的によくありません」

 

「えいせいてき?」

 

 カイドウが聞き慣れない言葉のように繰り返す。

 

 シャルルが呆れた顔をした。

 

「まさか、傷口に本当に唾をつけていたんじゃないでしょうね」

 

「昔からそうしてる」

 

「野蛮人!」

 

「うるせェ白狸だな」

 

「誰が白狸よ!」

 

 朝から口論が始まる。

 

 ウェンディは慣れないながらも、二人の間へ入った。

 

「とにかく、朝ご飯を食べてください。その後に薬です」

 

「酒は」

 

「ありません」

 

「朝だぞ」

 

「朝だからありません」

 

「朝酒は体にいい」

 

「初めて聞きました」

 

「今、おれが言った」

 

「カイドウさんが考えたことですよね!?」

 

「なら、今日からそういうことにしろ」

 

「しません!」

 

 カイドウは不満そうに鼻を鳴らした。

 

 だが、空腹には勝てないらしい。

 

 毛布を腰に巻いたまま、床へ胡坐をかく。

 

 ウェンディが朝食の盆を差し出すと、カイドウはまずパンを手に取った。

 

 それを一口で口へ入れる。

 

 パンは消えた。

 

「……」

 

 カイドウは無言でウェンディを見る。

 

「どうしました?」

 

「今のは試食か」

 

「朝ご飯です」

 

「少なすぎる」

 

「普通の人なら十分な量ですよ」

 

「おれを普通の人間と一緒にするな」

 

「それは、確かにそうね」

 

 シャルルが即座に同意した。

 

「よく考えれば、あの巨体にこの量は少なかったかもしれないわ」

 

「だよね。もう少し持ってくるね」

 

 ウェンディが立ち上がろうとする。

 

「待て」

 

 カイドウが呼び止めた。

 

「何ですか?」

 

「鍋ごと持ってこい」

 

「鍋ごと?」

 

「その方が早ェ」

 

「だ、駄目です。みんなの分がなくなっちゃいます」

 

「また作ればいい」

 

「誰が作るのよ」

 

 シャルルの問いに、カイドウは当然のように答えた。

 

「お前らだ」

 

「客だからって偉そうにしないで!」

 

「おれは客だろうが」

 

「宿代も払っていない居候よ!」

 

「屋根を直せばいいんだろ」

 

「あなたが壊したのよ!」

 

 カイドウは鼻で笑い、野菜のスープが入った器を持ち上げた。

 

 器は彼の手の中では、まるで湯呑みほどの大きさしかない。

 

 そのまま一息に飲み干す。

 

「味が薄い」

 

「怪我人用ですから」

 

「肉を入れろ」

 

「胃に優しいものを食べてください」

 

「酒を入れろ」

 

「何でスープに酒を入れるんですか!」

 

「うまくなる」

 

「なりません!」

 

「やったことがあるのか」

 

「ありませんけど……」

 

「なら、分からんだろうが」

 

 妙な理屈だった。

 

 ウェンディが言葉に詰まる。

 

 シャルルは片目を細めた。

 

「言い負かされないで、ウェンディ。ただの酔っ払いの屁理屈よ」

 

「まだ飲んでねェ」

 

「昨日からずっと酒の話しかしていないでしょう!」

 

 カイドウは最後に、薬草の煎じ汁が入った杯を手に取った。

 

 匂いを嗅いだだけで、露骨に顔をしかめる。

 

「何だ、こりゃ」

 

「薬です」

 

「毒みてェな匂いだ」

 

「体にいいんです」

 

「体にいい物は、もっといい匂いがするはずだ」

 

「そうとも限りません」

 

「酒の方が体にいい」

 

「それは絶対に違います!」

 

 ウェンディが念を押す。

 

 カイドウは杯を睨みつけた。

 

 まるで、これまで戦ってきた敵の誰よりも厄介な存在を見るような目だった。

 

「飲まないと駄目か」

 

「駄目です」

 

「半分なら」

 

「全部です」

 

「酒で割る」

 

「駄目です」

 

「水で割る」

 

「そのまま飲んでください」

 

「面倒だな」

 

「薬を飲むだけですよ!」

 

 カイドウは大きく溜息を吐く。

 

 そして覚悟を決めたように、杯の中身を一気に飲み干した。

 

 直後。

 

 カイドウの顔が歪んだ。

 

「まずい!」

 

 怒号が宿中へ響いた。

 

 残っていた窓が、びりびりと震える。

 

「声が大きいです!」

 

「何だ、この苦さは!」

 

「薬なんだから当たり前でしょう!」

 

「お前、おれを殺すつもりか!」

 

「昨日から何度も言っていますけど、薬では死にません!」

 

「酒を寄越せ! 口直しだ!」

 

「駄目です!」

 

「水!」

 

「はい!」

 

 ウェンディが慌てて水差しを渡す。

 

 カイドウは水を一気に飲み干した。

 

 だが、まだ口の中に苦みが残っているのか、眉間の皺は消えない。

 

「……次から蜂蜜を入れろ」

 

「子供みたいなことを言わないで」

 

 シャルルの一言に、カイドウが睨みつける。

 

「誰が子供だ」

 

「薬が苦いって騒いでいる人よ」

 

「白狸、表に出ろ」

 

「病人の相手をするほど暇じゃないわ」

 

「逃げるのか」

 

「挑発に乗るほど子供でもないの」

 

 カイドウのこめかみに青筋が浮かぶ。

 

 ウェンディは、慌てて話題を変えた。

 

「あの、今日は服を用意しました!」

 

「服?」

 

「はい。ずっと毛布のままでは困りますから」

 

 ウェンディが声をかけると、ギルドの男性魔導士二人が、畳んだ服を抱えて入ってきた。

 

 彼らはカイドウと目が合うと、明らかに怯えた。

 

 昨日、カイドウが寝返りを打っただけで壁を一枚倒したのを見ているからだ。

 

「こ、こちらです」

 

「一番大きい服を用意しました」

 

 二人は服を置くと、逃げるように広間から出ていった。

 

 カイドウは服を広げる。

 

 黒い上着と、ゆったりしたズボン。

 

 一般的な男性用としてはかなり大きい。

 

 しかし、カイドウの体には小さすぎた。

 

「入らねェぞ」

 

「着てみないと分からないでしょう」

 

「見りゃ分かる」

 

「いいから着てみなさい」

 

 シャルルが言う。

 

 カイドウは面倒そうに立ち上がり、毛布の端へ手をかけた。

 

「きゃあっ!」

 

 ウェンディが顔を覆う。

 

「ここで脱ごうとしないで!」

 

「服を着ろと言ったのはお前らだろうが」

 

「着替える場所へ行ってください!」

 

「昨日、おれが壊した部屋しか空いてねェぞ」

 

「壊した本人が言わないで!」

 

 仕方なく、壊れていない物置の一角を着替え場所として使うことになった。

 

 しばらくして、カイドウが出てくる。

 

 予想通り、服はきつかった。

 

 上着は胸元が閉まらず、袖は肘の少し下までしかない。ズボンも丈が足りず、脛が半分以上出ている。

 

 その姿を見たウェンディは、何と言えばいいか分からず、困った笑顔を浮かべた。

 

「に、似合っています」

 

「どこがだ」

 

「少なくとも、毛布よりはましよ」

 

 シャルルが言う。

 

「動きにくい」

 

 カイドウが腕を動かす。

 

 筋肉が盛り上がり、上着がみしみしと音を立てた。

 

「動かない方がいいわね」

 

「何でだ」

 

「破れるからよ」

 

「こんな服、破れたところで――」

 

 ばりっ。

 

 乾いた音が響いた。

 

 カイドウが腕を組もうとしただけで、上着の背中が裂けた。

 

 ウェンディが目を丸くする。

 

 シャルルは額を押さえた。

 

「言ったそばから……」

 

「脆い服だな」

 

「あなたの体がおかしいのよ!」

 

 結局、上着は前を開け、背中の裂け目を布で応急処置することになった。

 

 ズボンはどうにか履けているため、毛布一枚よりはましである。

 

 カイドウは服の肩を引っ張りながら、不満そうに言った。

 

「もっと丈夫な物を用意しろ」

 

「特注品が必要ね」

 

「金がかかるのう」

 

 いつの間にか広間へ来ていたローバウルが、穏やかに言った。

 

「その分も働いて返してもらわねばならんな」

 

「昨日から借金が増えてねェか、ジジイ」

 

「屋根、壁、床、扉、寝台、服。まだ数えておらん物も多いぞ」

 

「細けェことを気にするな」

 

「宿を経営する者として、金のことは細かくせねばならん」

 

 ローバウルはにこにこと笑っている。

 

 しかし、その笑顔に逃げ道はなかった。

 

 カイドウは片眉を上げる。

 

「それで、おれに何をさせる気だ」

 

「まずは宿の仕事を手伝ってもらおうかのう」

 

「宿の仕事だと?」

 

「そうじゃ。客室の掃除、料理の手伝い、薪割り、水汲み。それから皿洗いじゃな」

 

「おれに皿を洗えと言うのか」

 

「壊した物を弁償するには、働くしかないじゃろう」

 

「おれは海賊だぞ」

 

「この世界では無職じゃ」

 

 ローバウルの言葉が、カイドウの胸へ深く突き刺さった。

 

 無職。

 

 百獣海賊団総督でもなく、四皇でもなく、ワノ国の支配者でもない。

 

 この世界におけるカイドウは、確かに何の仕事も持たない男だった。

 

「……」

 

 カイドウの顔が険しくなる。

 

 ウェンディは、少し心配そうに彼を見上げた。

 

「嫌なら、無理をしなくても……」

 

「いや」

 

 カイドウは立ち上がった。

 

「いいだろう」

 

「本当ですか?」

 

「このおれにできねェ仕事があるとは思えん」

 

 自信に満ちた声だった。

 

「皿洗いだろうが何だろうが、すぐに終わらせてやる」

 

「その言葉、覚えておくわ」

 

 シャルルが嫌な予感を覚えながら言った。

 

          ◇◇◇

 

 最初に任された仕事は、薪割りだった。

 

 昨日の墜落によって壊れた建物の修理にも木材が必要であり、厨房で火を起こすための薪も不足していた。

 

 カイドウの体力を考えれば、最も向いている仕事のはずだった。

 

 宿の裏手にある広場には、切り出された丸太が積まれている。

 

 カイドウは、その前に立っていた。

 

 手には大きな斧。

 

 一般的な人間が両手で使う物だが、カイドウが持つと玩具のように見える。

 

「これを割ればいいのか」

 

「はい」

 

 ウェンディが頷く。

 

「斧を振り下ろして、適当な大きさにしてください」

 

「何本だ」

 

「この辺りにある分をお願いします」

 

「全部か」

 

「できるところまでで大丈夫です」

 

「できるところまで?」

 

 カイドウが鼻で笑う。

 

「おれを誰だと思ってやがる」

 

「宿に居候している無職」

 

 シャルルが答えた。

 

「白狸、後で覚えてろ」

 

「私は事実を言っただけよ」

 

 カイドウは斧を肩へ担ぐ。

 

 目の前に置かれた丸太へ向け、軽く振り下ろした。

 

 どん、と重い音が響く。

 

 丸太は綺麗に二つへ割れた。

 

「すごいです!」

 

 ウェンディが目を輝かせる。

 

「力加減もちゃんとできていますね」

 

「当たり前だ」

 

 カイドウは得意げに言う。

 

「こんなもん、百本あろうが同じだ」

 

 次の丸太を置く。

 

 斧を振り下ろす。

 

 また綺麗に割れた。

 

 三本目。

 

 四本目。

 

 カイドウは次々に薪を作っていく。

 

 速い。

 

 しかも、同じ大きさに揃っている。

 

「意外ね」

 

 シャルルが呟いた。

 

「もっと雑にやると思っていたわ」

 

「おれを何だと思ってやがる」

 

「空から落ちて宿を壊し、酒蔵へ侵入しようとした野蛮人」

 

「後で表に出ろ」

 

「今、外にいるでしょう」

 

「なら、そこで待ってろ」

 

 カイドウは斧を握り直した。

 

 シャルルの言葉が気に障ったらしい。

 

「こんなもん、一振りで終わらせてやる」

 

「え?」

 

 ウェンディが顔を上げる。

 

「カイドウさん、今まで通りでいいですよ」

 

「面倒だ」

 

「待ちなさい」

 

 シャルルが嫌な予感を覚える。

 

「一振りで何をするつもり?」

 

「全部割る」

 

「どうやって――」

 

 カイドウは斧を高く振り上げた。

 

 腕に力が込められる。

 

 空気が震える。

 

「ちょっと待ってください!」

 

 ウェンディが止めるより早く、カイドウは斧を地面へ叩きつけた。

 

 轟音。

 

 衝撃が地面を走り、積み上げられていた丸太が一斉に空へ舞い上がる。

 

 丸太は空中で粉々に砕け、細かな木片となって広場へ降り注いだ。

 

 同時に、地面には長い亀裂が走る。

 

 亀裂は薪置き場を越え、宿の裏庭を横切り、森の手前でようやく止まった。

 

 静寂。

 

 木屑が、ぱらぱらと降ってくる。

 

 ウェンディは呆然と広場を見つめていた。

 

 シャルルの片目が引きつる。

 

「……薪が」

 

 ウェンディが小さく呟く。

 

 丸太は、確かに割れていた。

 

 ただし、薪として使える大きさではない。

 

 ほとんど木屑である。

 

「終わったぞ」

 

 カイドウは満足そうに斧を肩へ担いだ。

 

「終わったじゃないわよ!」

 

 シャルルの怒声が響く。

 

「粉々じゃない!」

 

「割れと言っただろうが」

 

「限度というものがあるでしょう!」

 

「全部割ったぞ」

 

「使い物にならないのよ!」

 

 ウェンディは木屑を一つ拾う。

 

 指先ほどの大きさしかない。

 

「これじゃ、すぐに燃え尽きちゃいます……」

 

「なら、丸太ごと燃やせばいい」

 

「その丸太を全部粉々にしたのは誰よ!」

 

「おれだ」

 

「堂々と言わないで!」

 

 騒ぎを聞きつけたローバウルが、ゆっくり歩いてくる。

 

 地面の亀裂と木屑の山を見て、しばらく黙っていた。

 

「ふむ」

 

「何か言ってください、マスター!」

 

 シャルルが叫ぶ。

 

「薪代と庭の修理代を追加じゃな」

 

「また借金か」

 

「当然じゃ」

 

 カイドウは不満そうに顔をしかめた。

 

「仕事をしたら借金が増えたぞ」

 

「壊すからよ!」

 

          ◇◇◇

 

 薪割りの才能がないと判断されたカイドウは、次に水汲みを命じられた。

 

 宿の近くを流れる川から、水を桶に入れて運ぶだけの仕事である。

 

 今度こそ壊す物はない。

 

 ウェンディはそう考えていた。

 

「この桶に水を入れて、厨房まで運んでください」

 

 ウェンディが大きな桶を二つ渡す。

 

 カイドウは片手で一つずつ持った。

 

「少ない」

 

「何度か往復してください」

 

「面倒だ」

 

「またその言葉……」

 

 シャルルが呆れる。

 

 カイドウは川を見る。

 

 次に、宿を見る。

 

 そして、何かを思いついたように目を細めた。

 

「川を宿まで持ってくりゃいい」

 

「何を言っているの?」

 

「川の流れを変える」

 

「絶対にやめて!」

 

 シャルルが即座に叫んだ。

 

「この辺りを殴れば、水が宿の方へ流れる」

 

「村ごと水浸しになるわ!」

 

「便利だろうが」

 

「災害よ!」

 

 ウェンディはカイドウの前へ立った。

 

「普通に桶で運んでください」

 

「何往復だ」

 

「十回くらいです」

 

「一回で済ませる」

 

「川を動かす以外の方法でお願いします」

 

 念を押され、カイドウは舌打ちした。

 

 しばらく考えた後、二つの桶を川へ沈め、水を汲む。

 

 そして、近くにあった大きな樽を見つけた。

 

 樽の中身は空だ。

 

 カイドウは桶の水を樽へ入れると、樽そのものを川へ沈めた。

 

 大量の水が入る。

 

「これでいい」

 

「それを一人で運ぶつもり?」

 

「軽い」

 

 カイドウは水の詰まった巨大な樽を片手で持ち上げた。

 

 ウェンディが驚きの声を上げる。

 

 樽だけでもかなりの重さがある。

 

 水を含めれば、普通の人間が運べる量ではない。

 

「すごい……」

 

「このくらいで驚くな」

 

 カイドウは樽を肩へ担ぎ、宿へ向かって歩き出した。

 

 今度は問題なく終わる。

 

 そう思われた。

 

 だが、宿の入り口まで来たところで、カイドウの角が梁へ引っかかった。

 

「ん?」

 

 カイドウは前へ進もうとする。

 

 梁がみしりと鳴る。

 

「止まってください!」

 

 ウェンディが叫ぶ。

 

「角が引っかかっています!」

 

「邪魔だな」

 

「少し屈めば通れます!」

 

「面倒だ」

 

「まさか――」

 

 カイドウは、そのまま前へ進んだ。

 

 梁が折れた。

 

 ばきばきと音を立て、入り口の上部が崩れ落ちる。

 

 カイドウは何事もなかったように、厨房まで樽を運んだ。

 

「水だ」

 

 厨房にいた魔導士たちが、呆然とする。

 

 後ろから、シャルルの怒声が聞こえた。

 

「入り口を壊してどうするのよ!」

 

「角が引っかかった」

 

「屈みなさい!」

 

「屈むのは嫌いだ」

 

「その無駄な誇りを捨てなさい!」

 

 ローバウルが壊れた梁を確認し、帳面へ何かを書き込む。

 

「入り口の修理代も追加じゃ」

 

「またか」

 

「またよ!」

 

          ◇◇◇

 

 午前中だけで、カイドウの借金はさらに増えた。

 

 薪代。

 

 庭の修理代。

 

 入り口の梁。

 

 水桶を一つ踏み潰したため、その代金も追加されている。

 

「妙だな」

 

 昼食の席で、カイドウは腕を組んでいた。

 

「働けば働くほど、借金が増えていく」

 

「あなたが壊すからでしょう」

 

 シャルルは冷たく答える。

 

「普通に働けば減ります」

 

 ウェンディも言った。

 

「おれは普通に働いている」

 

「どの口が言うのよ」

 

 昼食は、朝よりも量を増やしてあった。

 

 大皿に山盛りのパン。

 

 大鍋いっぱいの野菜と肉の煮込み。

 

 焼いた肉も用意されている。

 

 カイドウは肉を見ると、わずかに機嫌を直した。

 

「最初からこれを出せ」

 

「怪我人なのに、こんなに食べられる方がおかしいのよ」

 

 シャルルが言う。

 

 カイドウは大きな骨付き肉を掴み、一口で半分ほど食べる。

 

「肉を食わねェと傷は治らん」

 

「昨日は唾で治ると言っていなかった?」

 

「肉を食って、酒を飲んで、唾をつけりゃ治る」

 

「どんな治療法よ」

 

 ウェンディは、カイドウの横へ薬を置いた。

 

「食事の後に、これを飲んでください」

 

 カイドウの手が止まる。

 

 朝と同じ薬草の煎じ汁だった。

 

「蜂蜜は」

 

「少し入れました」

 

「酒は」

 

「入れていません」

 

「使えねェな」

 

「薬に酒を入れないだけで、そこまで言われる筋合いはありません!」

 

 ウェンディも少しずつ、カイドウへの遠慮がなくなってきている。

 

 最初こそ、その眼光や巨大な体に怯えていた。

 

 だが、酒を欲しがり、薬を嫌がり、服を破り、何をやっても建物を壊す姿を見ているうちに、恐怖より呆れが勝ち始めていた。

 

 食事を終えたカイドウは、蜂蜜入りの薬を飲んだ。

 

 朝ほどではないが、やはり顔をしかめる。

 

「まだ苦い」

 

「薬ですから」

 

「蜂蜜を増やせ」

 

「子供じゃないんだから我慢してください」

 

「おれは苦い物が嫌いなんじゃねェ」

 

「なら黙って飲んでください」

 

「ただ、まずい物が嫌いなだけだ」

 

「同じよ」

 

 シャルルが溜息を吐く。

 

 その時、食堂の奥から、山積みの汚れた皿を載せた台車が運ばれてきた。

 

 ローバウルが笑顔で言う。

 

「午後は皿洗いを頼もうかのう」

 

 カイドウの視線が、皿の山へ向く。

 

「これを洗うのか」

 

「そうじゃ」

 

「全部か」

 

「全部じゃ」

 

「壊す物が目の前にある仕事を、この男に任せるの?」

 

 シャルルが不安そうに言う。

 

「本人が何でもできると言ったからのう」

 

「できる」

 

 カイドウは即答した。

 

「皿くらい、おれでも洗える」

 

「本当に?」

 

「なめるな」

 

 カイドウは立ち上がり、皿の山を見下ろした。

 

「薪割りや水汲みより簡単だ」

 

「その二つで被害を出したのは、あなたでしょう」

 

 シャルルの言葉を無視し、カイドウは厨房へ向かった。

 

          ◇◇◇

 

 皿洗い場は、カイドウにはあまりにも狭かった。

 

 天井は低く、普通に立つと角が当たる。

 

 流し台も小さく、カイドウが屈まなければ手が届かない。

 

「狭ェ」

 

「普通の人には十分な広さです」

 

 ウェンディが横で説明する。

 

「まず、布に洗剤をつけて、優しく汚れを落としてください」

 

「優しく?」

 

「はい。優しくです」

 

 ウェンディは念を押した。

 

 午前中の失敗を踏まえてのことである。

 

「それから水ですすいで、こちらに置いてください」

 

「面倒だな」

 

「皿洗いはそういう仕事です」

 

「まとめて洗えばいい」

 

「一枚ずつお願いします」

 

「効率が悪い」

 

「壊さないためです」

 

 カイドウは大きく溜息を吐き、皿を一枚手に取った。

 

 彼の手の中では、皿が小さく見える。

 

 布を持ち、皿をこすり始める。

 

 最初は、意外にも丁寧だった。

 

 汚れが落ちる。

 

 水ですすぐ。

 

 横へ置く。

 

「できたぞ」

 

「はい。上手です」

 

 ウェンディが微笑む。

 

 カイドウは二枚目を洗う。

 

 三枚目。

 

 四枚目。

 

 少しずつ速度が上がっていく。

 

「簡単だな」

 

「その調子です」

 

 ウェンディが安心する。

 

 シャルルも、離れた場所から様子を見ていた。

 

「ようやく、壊さずにできる仕事が見つかったかしら」

 

 カイドウは五枚目の皿を洗い終えた。

 

 そして、皿の山を見る。

 

 まだ百枚以上残っている。

 

「……多いな」

 

「お昼は大勢で食べましたから」

 

「一枚ずつやるのか」

 

「はい」

 

「面倒だ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、シャルルの耳がぴくりと動いた。

 

「ウェンディ」

 

「何?」

 

「少し離れた方がいいわ」

 

「どうして?」

 

「今、あの男が面倒だと言ったからよ」

 

 これまで、カイドウが「面倒だ」と言った後には必ず何かが壊れている。

 

 ウェンディも気づいた。

 

「カイドウさん」

 

「あ?」

 

「変なことを考えていませんよね」

 

「考えてねェ」

 

「本当ですか?」

 

「まとめて洗うだけだ」

 

「それが変なことです!」

 

 カイドウは皿を十枚ほど重ね、両手で挟んだ。

 

「こうすりゃ一度に――」

 

「駄目です!」

 

 ウェンディが止める。

 

「一枚ずつ洗ってください!」

 

「時間がかかる」

 

「急がなくていいですから!」

 

「なら、お前がやれ」

 

「カイドウさんの仕事です!」

 

「おれは客だ」

 

「借金を返すために働いているんでしょう!」

 

「細けェな」

 

「細かくありません!」

 

 カイドウは渋々、一枚ずつ洗い始めた。

 

 だが、退屈だった。

 

 戦場で強敵と殴り合うことを好む男にとって、皿を洗うという行為はあまりにも刺激がない。

 

 一枚。

 

 二枚。

 

 三枚。

 

 皿は減らない。

 

 カイドウの表情が険しくなっていく。

 

「カイドウさん、力を入れ過ぎています」

 

「入れてねェ」

 

「皿が少し曲がっています」

 

「曲がる皿が悪い」

 

「普通は曲がりません!」

 

 次の皿を握る。

 

 みしり。

 

 不穏な音がした。

 

「優しくです!」

 

「分かってる」

 

 みしみし。

 

「もっと優しく!」

 

「これ以上弱く握ったら、落とす」

 

「落としても、割れないように受け止めれば――」

 

 ぱきん。

 

 皿が真っ二つに割れた。

 

 沈黙。

 

 カイドウは、左右の手に分かれた皿を見た。

 

「……元から割れてた」

 

「今、音がしたでしょう!」

 

 ウェンディが叫ぶ。

 

「元から割れてたのが、今になって離れた」

 

「苦しい言い訳をしないでください!」

 

 シャルルが飛んでくる。

 

「力を入れ過ぎなのよ!」

 

「優しくやった」

 

「あなたの優しいは、普通の人間の全力なの!」

 

「面倒だな」

 

「その言葉は禁止よ!」

 

 カイドウは割れた皿を横へ置く。

 

 次の皿を手に取る。

 

 今度は指先だけで持とうとした。

 

 だが、持ち方が不安定になり、皿が滑る。

 

「おっと」

 

 落下する皿を掴もうとして、さらに強く握った。

 

 ぱりん。

 

 二枚目が割れた。

 

「……」

 

「……」

 

「今のは滑った皿が悪い」

 

「皿のせいにしないで!」

 

 そこからは、惨劇だった。

 

 力を抜けば皿を落とし、受け止めようとして割る。

 

 力を入れれば、そのまま握り潰す。

 

 洗った皿を重ねれば、下の皿が重みに耐え切れず割れる。

 

 一枚を拭こうと布で挟めば、力加減を誤ってひびが入る。

 

「おかしい」

 

 カイドウは本気で困惑していた。

 

「敵の頭なら簡単に砕けるのに、何で皿はうまく扱えねェ」

 

「敵の頭と同じ扱いをするからよ!」

 

 シャルルの突っ込みが響く。

 

「皿は敵じゃありません!」

 

 ウェンディも続ける。

 

「もっと優しく、大切に扱ってください!」

 

「皿をか」

 

「はい!」

 

「敵より面倒だな」

 

「敵と比べないでください!」

 

 その後、ウェンディがカイドウの手を取り、力の抜き方を教えることになった。

 

「親指と人差し指で、こうです」

 

「こうか」

 

「もう少し弱く」

 

「こうか」

 

「まだ強いです」

 

「これ以上は無理だ」

 

「できます。ゆっくりで大丈夫ですから」

 

 ウェンディは小さな手で、カイドウの巨大な指を動かす。

 

 カイドウは、神妙な顔で皿を持っていた。

 

 その姿は、敵軍を滅ぼす作戦でも考えているかのように真剣だった。

 

 シャルルは腕を組み、呆れながら眺めている。

 

「皿一枚持つだけで、どうしてそんな顔になるのよ」

 

「黙れ。集中してる」

 

「戦闘より真剣じゃない」

 

「敵は殴れば終わる」

 

「皿は殴ったら終わりよ」

 

「同じだろ」

 

「正反対よ!」

 

 それでも、ウェンディの指導のおかげで、カイドウは少しずつ皿を割らずに洗えるようになっていった。

 

 一枚。

 

 二枚。

 

 三枚。

 

 十枚。

 

 二十枚。

 

 最初に比べれば、明らかに上達している。

 

「できました!」

 

 ウェンディが嬉しそうに言う。

 

「皿を二十枚も割らずに洗えましたよ!」

 

「最初からできてた」

 

「その前に十五枚割っています」

 

「数えるな」

 

「修理代に関係しますから」

 

 カイドウは不満そうだったが、どこか得意げでもあった。

 

 戦い以外のことで褒められる機会など、これまでほとんどなかったからだ。

 

「この調子で、残りもお願いします」

 

 ウェンディが、まだ山のように残っている皿を指差す。

 

 カイドウの得意げな顔が消えた。

 

「まだあるのか」

 

「はい」

 

「面倒だ」

 

「だから、その言葉は禁止です!」

 

          ◇◇◇

 

 皿洗いが終わった頃には、太陽が西へ傾き始めていた。

 

 正確には、すべての皿を洗い終えたわけではない。

 

 途中でカイドウが飽き、外へ逃げようとしたため、ウェンディとシャルルが入り口を塞いだ。

 

 その後、皿洗いを続ける代わりに、夕食に肉を増やすという条件で交渉が成立したのである。

 

 結果として、割れた皿は二十三枚。

 

 洗い終えた皿は百二十七枚。

 

 初日にしては上出来だと、ローバウルは判断した。

 

「何で皿を洗っただけで、こんなに疲れる」

 

 カイドウは広間の床へ座り込み、壁にもたれていた。

 

 ただし、体重をかけ過ぎると壁が壊れるため、ウェンディから「優しくもたれてください」と念を押されている。

 

「力加減に慣れていないからです」

 

 ウェンディが新しい包帯を持ってくる。

 

「それより、傷を見せてください」

 

「もう治った」

 

「まだです」

 

「治った」

 

「包帯に血が滲んでいます」

 

「これは古い血だ」

 

「さっきより増えています」

 

「細けェな」

 

「大事なことです!」

 

 ウェンディはカイドウの前へ座り、腕の包帯を解き始めた。

 

 皿洗いで体を動かしたせいか、傷口が少し開いている。

 

「ほら。やっぱり無理をしています」

 

「この程度で騒ぐな」

 

「治療する側の言うことを聞いてください」

 

 ウェンディの手から、青白い光が溢れる。

 

 優しい風がカイドウの腕を包み、痛みを和らげていく。

 

 カイドウは黙って、その光を見つめていた。

 

 ワノ国にも医者はいた。

 

 百獣海賊団にも、傷を治療する者はいた。

 

 だが、この少女の魔法は、それらとはまったく違う。

 

 温かな風。

 

 傷だけではなく、戦いで疲れ切った体の奥まで癒やしていくような感覚。

 

「妙な力だな」

 

「天空魔法です」

 

「魔法……」

 

「カイドウさんが使っていた炎や雷も、魔法じゃないんですか?」

 

「違う」

 

「では、何なんです?」

 

「悪魔の実の力だ」

 

「悪魔の実?」

 

 ウェンディが首を傾げる。

 

 シャルルも近くで聞いていた。

 

「食べると、龍に変身できるようになるの?」

 

「そうだ」

 

「その代わり、何か危険はないの?」

 

「海に嫌われる」

 

「海に?」

 

「泳げなくなる」

 

 ウェンディは目を見開いた。

 

「カイドウさん、泳げないんですか?」

 

「……」

 

 カイドウは黙った。

 

「龍なのに?」

 

 シャルルが追い打ちをかける。

 

「空は飛べるのに、泳げないの?」

 

「……」

 

「最強生物なのに?」

 

「黙れ」

 

「意外な弱点ね」

 

「白狸、殺されてェか」

 

「怪我人に負けるほど弱くないわ」

 

「なら今すぐ――」

 

「動かないでください!」

 

 ウェンディがカイドウの腕を押さえた。

 

「治療中です!」

 

「……」

 

 カイドウは、また座り直した。

 

 シャルルが驚く。

 

 あれほど気性の荒い男が、ウェンディに言われただけで素直に従ったからだ。

 

「本当に、ウェンディの言うことだけは聞くのね」

 

「命を拾った借りがある」

 

「それだけ?」

 

「それだけだ」

 

 カイドウはそっぽを向く。

 

 ウェンディは微笑んだ。

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言うことじゃねェ」

 

「でも、ちゃんと治療を受けてくれるのは嬉しいです」

 

「終わったら酒を寄越せ」

 

「それとこれとは別です」

 

「なぜだ」

 

「まだ傷が治っていませんから」

 

 カイドウの顔が険しくなる。

 

「今日一日、働いたぞ」

 

「働きましたね」

 

「皿も洗った」

 

「二十三枚割りましたけど」

 

「水も運んだ」

 

「入り口を壊しましたけど」

 

「薪も割った」

 

「木屑にしましたけど」

 

「なら、褒美に酒を出せ」

 

「借金が増えただけよ」

 

 シャルルが言った。

 

 カイドウは不満そうに唸る。

 

 その時、ローバウルが小さな徳利と杯を持ってきた。

 

「一杯だけなら、よいのではないかのう」

 

「マスター!」

 

 ウェンディが驚く。

 

「傷に障らない程度じゃ。今日一日、働いた褒美ということにしよう」

 

「ジジイ、話が分かるな」

 

 カイドウの機嫌が一瞬で良くなった。

 

「ただし」

 

 ローバウルは徳利を持ったまま、続ける。

 

「ウェンディの許可が出れば、じゃ」

 

「なぜ小娘の許可がいる」

 

「治療を担当しておるからのう」

 

 カイドウの視線がウェンディへ向く。

 

 ウェンディは困った顔をした。

 

 完全に治ってはいない。

 

 しかし、今日一日、カイドウが彼なりに働いたのも事実である。

 

 失敗ばかりではあったが、途中で投げ出さず、最後まで皿洗いをやり遂げた。

 

「……本当に、一杯だけですよ」

 

「二杯」

 

「一杯です」

 

「大きい杯で」

 

「普通の大きさです」

 

「樽の蓋を杯にする」

 

「それは杯じゃありません!」

 

「なら、この徳利ごと」

 

「一杯です!」

 

「細けェな」

 

「守らないなら、なしです」

 

「……分かった」

 

 カイドウは渋々頷いた。

 

 ウェンディは小さな杯に酒を注ぐ。

 

 カイドウの手の中では、杯が豆粒のように見えた。

 

「少なすぎる」

 

「一杯です」

 

「舌を濡らすこともできねェぞ」

 

「約束です」

 

 カイドウは杯を睨み、それから一気に口へ入れた。

 

 ほんの一瞬で消える。

 

「……」

 

「どうですか?」

 

「分からん」

 

「何がです?」

 

「少なすぎて、味が分からん」

 

「ちゃんと味わって飲まないからでしょう!」

 

「もう一杯だ」

 

「駄目です」

 

「今のは試飲だ」

 

「朝のパンでも同じことを言っていました!」

 

 ウェンディが徳利を抱える。

 

 カイドウは手を伸ばす。

 

「寄越せ」

 

「駄目です!」

 

「一口だけだ」

 

「もう飲みました!」

 

「口に入れただけで、飲んだ覚えはねェ」

 

「飲みました!」

 

「証拠はあるのか」

 

「目の前で見ていました!」

 

 カイドウが立ち上がる。

 

 ウェンディは徳利を持って逃げる。

 

 シャルルがウェンディを抱え、翼を出して飛び上がった。

 

「酒は没収よ!」

 

「待て、白狸!」

 

「エクシードよ!」

 

「降りてこい!」

 

「嫌よ!」

 

 カイドウが手を伸ばす。

 

 シャルルは天井近くまで飛ぶ。

 

 だが、その天井は昨日の墜落で半分なくなっている。

 

 シャルルはそのまま屋根のない部分から外へ飛び出した。

 

「逃がすか!」

 

 カイドウが追いかける。

 

「カイドウさん、まだ走っちゃ駄目です!」

 

 ウェンディの声が夜空へ響く。

 

 カイドウは外へ出ようとした。

 

 しかし、今度は角が入り口へ引っかからないよう、きちんと体を屈めた。

 

 少し離れた場所で、ローバウルが微笑む。

 

「少しは学んだようじゃのう」

 

 その直後。

 

 カイドウは急いでいたため、屈んだまま足元の水桶に気づかず、踏み抜いた。

 

 ばきん、と音がする。

 

 ローバウルは帳面を開いた。

 

「水桶代、追加じゃな」

 

          ◇◇◇

 

 夜。

 

 酒を巡る追いかけっこが終わり、化猫の宿にようやく静けさが戻った。

 

 カイドウは広間の床に横たわっていた。

 

 今日も寝台はない。

 

 新しい物を用意しても、壊される可能性が高いからである。

 

 毛布を掛けられたカイドウの横には、水差しが置かれている。

 

 酒ではない。

 

 ウェンディが用意した、ただの水だ。

 

「酒……」

 

 カイドウが低く呟く。

 

「聞こえていますよ」

 

 少し離れた場所から、ウェンディの声が返ってくる。

 

 彼女は椅子へ座り、薬草を仕分けていた。

 

「もう寝てください」

 

「酒を飲めば眠れる」

 

「水を飲んでください」

 

「水じゃ眠れん」

 

「昼間、いびきをかいて寝ていました」

 

「あれは気絶だ」

 

「普通に寝ていましたよ」

 

「お前に何が分かる」

 

「呼んだら朝ご飯で起きました」

 

「……」

 

 カイドウは反論できなかった。

 

 シャルルはウェンディの近くに座り、小さな声で言う。

 

「放っておきなさい。どうせすぐ寝るわ」

 

「でも、眠れないなら可哀想だよ」

 

「酒を飲みたいだけよ」

 

「聞こえてるぞ、白狸」

 

「聞こえるように言ったのよ」

 

 カイドウは体を起こし、壁にもたれる。

 

「おい、小娘」

 

「ウェンディです」

 

「この世界には、強い奴がいるのか」

 

 それまでのふざけた調子とは違う声だった。

 

 ウェンディは手を止める。

 

「強い魔導士なら、たくさんいると思います」

 

「魔導士か」

 

「はい。魔法を使って依頼を受けたり、人を助けたりする人たちです」

 

「戦争は」

 

「戦争?」

 

「国同士の大きな戦いだ」

 

 ウェンディは少し考える。

 

「私は、詳しくありません。でも、今は大きな戦争は起きていないと思います」

 

「つまらんな」

 

「戦争なんて、起きない方がいいです」

 

 ウェンディは真っ直ぐに言った。

 

「たくさんの人が怪我をして、悲しむから」

 

 カイドウは少女を見る。

 

 戦争を知らない者の言葉。

 

 だが、ただ何も知らないわけではない。

 

 傷ついた者を治療し、苦しむ人々を見てきた者の言葉だ。

 

「強さは、戦うためだけにあるんじゃないと思います」

 

「なら、何のためにある」

 

「大切な人を守るためです」

 

 ウェンディは迷わず答えた。

 

 カイドウは鼻で笑う。

 

「甘ェな」

 

「そうかもしれません」

 

「そんな考えじゃ、いつか奪われるぞ」

 

「それでも、私は誰かを傷つけるためだけに強くなりたくありません」

 

 静かな風が、壊れた屋根から入り込む。

 

 カイドウは何も言わず、夜空を見上げた。

 

 元の世界とは、星の並びが違う。

 

 海も、空も、大地も。

 

 ここは本当に、カイドウの知らない世界だった。

 

「お前は、何でおれを助けた」

 

「え?」

 

「おれが何者かも知らなかっただろう」

 

「怪我をしていたからです」

 

「それだけか」

 

「はい」

 

「起きたら、お前らを殺すかもしれなかったぞ」

 

 シャルルが険しい顔になる。

 

 ウェンディは少し怖そうにしながらも、答えた。

 

「でも、あのまま放っておいたら、きっと後悔したと思います」

 

「馬鹿だな」

 

「よく言われます」

 

「誰にだ」

 

「シャルルに」

 

「そんなこと言っていないわ!」

 

 シャルルが声を上げる。

 

「無茶をするとは言っているけれど、馬鹿とは言っていないでしょう!」

 

「似たようなものだ」

 

「全然違うわよ!」

 

 カイドウの口元が、わずかに上がった。

 

「ウォロロロ」

 

「何がおかしいのよ」

 

「いや」

 

 カイドウは再び床へ横になる。

 

「妙な宿だと思っただけだ」

 

「空から落ちてきたあなたほど妙ではないわ」

 

「違いねェ」

 

 カイドウは目を閉じた。

 

「明日も働くんですか?」

 

 ウェンディが尋ねる。

 

「借金があるんだろ」

 

「あります」

 

「なら、働く」

 

「何をします?」

 

「皿洗い以外だ」

 

「どうしてですか?」

 

「あれは敵より厄介だ」

 

「皿を敵扱いしないでください」

 

「次は料理をやる」

 

 ウェンディとシャルルの動きが止まった。

 

「料理?」

 

「肉を焼くだけならできる」

 

「どうやって焼くの?」

 

 シャルルが慎重に尋ねる。

 

 カイドウは目を閉じたまま、当然のように答えた。

 

「炎を吐く」

 

 沈黙。

 

 ウェンディとシャルルは、顔を見合わせた。

 

「駄目です」

 

「やめなさい」

 

 二人の声が重なった。

 

「なぜだ」

 

「厨房がなくなります!」

 

「肉も炭になるわ!」

 

「加減する」

 

「今日一日の結果を見て、その言葉を信じられると思うの!?」

 

 カイドウは不満そうに寝返りを打った。

 

 その肩が床の板へ当たり、みしりと音がした。

 

「カイドウさん」

 

「何だ」

 

「寝返りも優しくお願いします」

 

「面倒だな」

 

「その言葉は禁止です!」

 

 静かだったはずの化猫の宿に、再びウェンディの声が響く。

 

 だが、不思議なことに。

 

 宿にいた者たちの多くは、その騒がしさを嫌だとは思っていなかった。

 

 確かに、建物は壊れた。

 

 確かに、借金は増えた。

 

 確かに、昨日までいなかった恐ろしい大男が広間を占領している。

 

 それでも。

 

 どこか寂しさを抱えているように見えるその男が、少しずつ宿の日常へ混ざっていく様子を、皆は遠巻きに見守っていた。

 

 百獣のカイドウ。

 

 かつて海の皇帝と呼ばれた男は、この日、生まれて初めて百枚を超える皿を洗った。

 

 二十三枚を割り。

 

 入り口を壊し。

 

 薪を木屑にし。

 

 借金を増やした。

 

 それでも、彼にとっては大きな一歩だったのかもしれない。

 

 もっとも。

 

「おい、小娘」

 

「何ですか?」

 

「一杯くらい隠してるだろ」

 

「ありません」

 

「白狸」

 

「ないわよ」

 

「ジジイ」

 

「もう寝たぞい」

 

「起きてるじゃねェか!」

 

 酒を諦めるまでには、まだ相当な時間が必要そうだった。




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